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Channel: Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた
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新年小黙想会二日目の黙想 その一 エジプトへの避難

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新年小黙想会二日目の黙想 その一 エジプトへの避難

真夜中、天主のお告げを伝えようとして、静かに眠っている聖ヨゼフのもとに天使がやってきます。

この世の楽しみや世間で大事だと考えられているものを、天主はどうお考えになるかを理解することができる恵みを求めましょう。
私たちがより親しく私たちの主を知り、よりよく天主への愛に燃え、御跡に従うために神秘の奥深くまで達するお恵みを願いましょう。
天主に近づこうとする人に、天主が何をお求めになるのでしょうか?
苦しみと謙遜の価値を私たちが理解することができるように祈りましょう。

【1:天使のお告げ】
「起きよ。御子とその母をつれてエジプトに逃れ、私たちが知らせるまでそこに留まれ。ヘロデが御子を探して殺そうとしている」(マテオ2:13)。

天使は、任された任務を正確に果たす忠実な使者です。天使は、天主の母となることを告げるために、聖母のところにつかわされました。おそらく同じ天使が、聖ヨゼフに聖母の子は聖霊によるものであることを保証しにもこられました。きっと同じ天使が、東の国の博士たちに、ヘロデを避けて違う道を取って帰るようにと警告したと思われます。今また、聖ヨゼフのもとに帰ってきした。

天使は誰に向かって告げているのでしょうか?私たちは、イエズスか聖母に告げてもよさそうにとも思います。何故ならお二人とも品位においても、重要さにおいても、能力においても、聖ヨゼフよりまさっておられるからです。しかし天主は、家長である聖ヨゼフのもとへ天使を遣わします。

これが天主の摂理です。天主が人間を導く普通のやり方です。天主は、私たちがその場合どんな重要な者であっても、私たちひとりひとりに個人的に告げるという方法はとりません。たとえ私たちの目上の人が、生来の能力とか私たちへの思いやりとかにどんなに欠けていたとしても、目上の人の命令を通して私たちにお伝えになるからです。

主キリストのいわれるように「律法学士とファリザイ人は、モイゼの座にすわってきたのだから、かれらの声を聞きなさい。かれらのいうことは、ことごとく守り、おこないなさい。しかしかれらの行為にならってはならない」(マテオ23:2~3)

この命令について考えると、これを実行するには、多くの困難が伴いました。幼子とその母をつれて、荒地を通って数百キロメートルの長い旅をすることを意味していたからです。エジプトへの道には盗賊が出没しました。私たちの主が後に、よきサマリア人のたとえ話の舞台になさったことによって推定できます。野獣もいました。ひつじ飼いたちがたえずひつじの番をしていたことは、狼などの凶暴な野獣がいたことを示しています。そのような危険な長旅のための食糧をもたずに、聖家族はすぐ出発しなならなかったのです。天使はただこう言うだけです。「起きよ。そして御子とその母をつれて・・・」

それまで助けてくれた人々に、別れをつげる間もありませんでした。聖母とヨゼフが行ってしまった後で、二人のことを何と思ったったでっしょうか?「二人は罪人だったのかね。」「とにかく礼儀も心得ていない人たちだね。」

この命令は、不合理な命令にも思えます。天使はなぜ朝まで待って、夜中ぐっすり眠った後で、気持よく出発させることができなかったのでしょうか。どうしてエジプトまで行かなければならなかったのでしょうか。どこかもっと近い家に、もっと容易に避難することことはできなかったのでしょうか。たとえば、エリザベトの家に行くこともできたかもしれません。そこには若い洗者聖ヨハネが無事で住んでいました。

主がメシア守ってくださるのではないでしょうか?詩篇にはこうあります。「天主はみ使いに命じて、すべての道であなたを守らせる。み使いたちは、あなたの足が石につまずかないように手であなたをささえるであるであろう。」(詩篇90:11~12) 

何年かののちにゲッセマニの園で、主キリストは聖ペトロにこう断言することがでことができました。「私が私の父に求めることができないと思っているのか。そうすれば父は、すぐに十二軍団の天使を私にくださるだろう」(マテオ26:53)。

ヨゼフはどのように従ったでしょうか?不平をいい、天使に交渉したでしょうか。それとも言われた通りにして、後でその命令が理にかなわないと不平を言ったのでしょうか。福音書にはただこうあります。「彼は起き、幼子とその母をつれて、夜、エジプトに立ち去った。」

聖ヨゼフの従順は敏速かつ無条件で、的確な実行でありました。聖ヨゼフは天使の命令を文字通りに実行したのです。

【2:外国での生活】
聖家族がエジプトで、多くの困難にたち向かわねばならなかったことは、容易に想像できます。聖家族は、外国でした。言葉の問題がありました。誰かが聖家族を待っていてて、その家にむかえてくれるような友人がいたなどと考えることができるでしょうか。

信心深いユダヤ人として身のまわりいたるところで見る異教徒の習慣に、聖家族はどう反応したでしょうか。エジプト人たちは、自分たちが軽蔑するユダヤの民族の聖家族にどういう反応を示したでしょうか。もしも私たちが外国でジャップ・ジャップと馬鹿にされたとしたら、私たちはどう思うでしょうか?

聖家族は一文なしでした。どうやって自活したのでしょうか。大いそぎで出発したので、たくさんのものを持って行くわけにはいきませんでした。天使は旅行の準備をしてくれませんでした。天使がエジプトへ行ってからのヨゼフの職の保証をしてくれたわけではありませんでした。

少なくともはじめの数年間は、聖家族はその日暮らしの生活をしなければならなかったと思われます。天主はなぜそれをお求めになったのでしょうか。

それは、キリストのそばにいるものは、キリストと共に苦しまねばならないからです。
それは天主の摂理についての教えを聖ヨゼフに授けるためでした。

イエズスは山上の説教の中で、こういわれます。「私はあなたがたに言う。生命のために何を食い身のために何を着ようかと思いわずらってはならない。これらは結局異邦人の求めるものであって、あなたがたの天の父は、これらのものがあなたがたに必要であることを、ご存じです。だから、まず天主の国とその義とを求めよ。そうすれば、これらのものは、みなあなたがたに加えられるであろう。」(マテオ6:31~33)

三人がエジプトで異境の生活を続けたのですから、天主は明らかに、ご計画に適う限り彼らに必要な他をお与えになったに違いありません。

聖家族は決して余分なものをもっていませんでしたが、いつも充分なものをもっていました。これは、聖母とヨゼフをいつも天主のおそば近くにいさせるための手段でもありました。何故なら、暇や金をもち過ぎるとしばしば種々の誘惑が起こるからです。

「殉教者の血は教会の種子なり。」
聖家族のたえしのんだ苦離は実を結びます。何世紀もたたないうちに、エジプトの隠者によって実行された英雄的徳行もそうです。さらにキリスト教がエジプト全体にわたって、ほとんど奇跡的にひろまりました。

【3:幼児の大虐殺】

「ヘロデは博士たちにあざむかれたのを知って大いに怒り、博士たちから聞いていた時から考えて、ベトレヘム及びその四方の地の二才以下の男子をことごとく殺させた」(マテオ2:26)

キリストとその教えに対して、この世と肉と悪魔が示す反抗の最初の徴候が見えます。
この反抗は、キリストが公生活をおはじめになったとき、キリストのまわりに結晶し、キリストの十字架の死において、最高点に適します。

キリストは当然の遺産として、教会がいつもこれと同じ世間の反抗に対していくことをお望みになっています。「弟子はその師にまさってはいないし、しもべはその主人にまさってはいない。人々が家父をベエルゼブブと名づけたのなら、その家族はそれ以上の何であろう」(マテオ10:24~25)。

日本でも、地方の仏教の強力なところでは、今日でも教会は公然と反対されています。仏教の力の比較的弱い大都会では、日本人はキリストの外面的裝飾だけを取り入れて、その精神はしりぞける傾向があります。日本では、教会の影響が増しはじめるときまって種々の反抗が合体します。

教会だけがキリストの迫害の遺産の受けているのではありません。
キリストは、信徒ひとりひとりも、同じようにそれをうけることをお望みになっています。
聖人は、何の苦もなく迫害を天主の聖寵としてうけ取ることができました。聖イグナチオ・ロヨラはかれが創設したイエズス会が迫害からまったく解放されることのないようにと現に祈りました。

不幸にも、追害が私たち自身に加えられると、私たちは、どんなに強い敵がたくらむすべての陰謀であっても、天主がそれをお許しにならなければ起こらないということを、忘れてしまいがちです。

私たちは障害に出合うと、第一原因である天主のことを考えるかわりに、あまりにたやすく二次的原因である人間のほうを考えてしまうのです。私たちはまた、迫害は、それをうける人にとって、祝福となるものであることを忘れがちです。

私たちの主は山上の説教の中で、こうおっしゃっています。
「私のために人々があなたがたをのろい、迫害し、またあなたがたについてあらゆる悪口を放つとき、あなたがたは幸いである。よろこべ。あなたがたは、天において、大いなる報いをうけるであろう」(マテオ5:11~12)。

幼児たちの殉教の結果は、彼らの永遠の栄光となり、そしてその母たちの永遠の栄光ともなったでしょう。
もしこの幼子たちがもっと長く生きていたら、天国へいけたでしょうか。これは、キリストと同じときに生まれた少年たちへのキリストの誕生祝いのおくりものだっと言えます。

信心の品を祝別するとき、司祭はその上に十字を切ります。主は十字架とともに祝福をあたえられるからです。全ての悲しみ・苦しみは、私たちの愛する主の御手によるものです。主を愛する者ためのものです。「主は愛する者を苦しめる」といわれています。

その逆に、もし私たちにいつも苦悩がなかったとしたら、私たちのキリストへの奉仕に何か誤りがあると疑って良いとさえ言われています。


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