2024年1月21日御公現後第三主日のミサ(8時30分) 大宮 説教
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、今日は御公現後第三主日のミサをしています。
【1:今日の福音】
教会は、御公現後の主日のいろいろな福音を通してイエズス様がまことの天主であることを私たちに明らかにしようとしています。
今日の福音は、主が天主であるということを証明するために行われた二つの奇跡があります。ひとつはらい病の患者を癒すもので、もう一つは百夫長のしもべに対するものです。
一つはユダヤ人に対するもの、もうひとつは異邦人に対するものでした。両方とも、イエズス様は権威をもって癒しました。たとえ不在の者であっても、すぐに、治しました。この治癒が起こったときに、そのどちらの場合でも、イエズス様の神性を深く信じていました。
「主よ、あなたがおのぞみなら、私をお治しくださることができます。」
「あなたが一言おっしゃれば、私のしもべはなおります。」
彼らの非常に深い信仰は、私たちに多くのことを教えています。また百夫長の愛徳もすばらしいと思います。自分のためではなく、わざわざイエズス様のところにやって来て、しもべのために懇願しました。ですから教会は御聖体拝領の前には、百夫長に倣って、ほぼ同じ言葉でイエズス様に祈らせます。「ドミネ・ノン・スム … イエズス様、私はあなたを、私の屋根の下におむかえするには値しない者です。ただ一言おっしゃれば、わたしの霊魂は癒されます」と。
ところで、今日私たちは、同じ態度で、私たちの霊魂を癒してくださるように、そして私たちの愛する人々を癒してくださるように、イエズス様に近づきましょう。
もしかしたら私たちは気づいていないかもしれませんが、しかし多くの人は病にかかっています。スマホ、あるいは携帯というものを何度も使うことによって、多くの人がそれの中毒になっています。そして社会からますます孤立しています。今日は、私たちの霊魂の状態を振り返って、癒しを求めてイエズス・キリストに近づきましょう。
【2:いろいろな段階を経た】
このような状況になるには、いろいろな段階が踏まれました。まずテレビが入りました。第二に、コンピューターが家の中に来ました。ケータイがポケットに入りました。次には「キャプトロジー」というテクノロジーが、私たちを中毒化される技術が編み出されました。努力をせずにほんのちょっとでも「見たい」という欲求を起させて、ついにはそれにずるずると引きずられてスクリーンの上に留まるようにさせる技術です。何時間もスクロールしているという状況を生み出す技術がもたらされました。
それを、何度も何度も繰り返させることで、私たちがそれを習慣にしてしまっています。さらに、ランキングが高くなる、メンバーがフォロワーが多くなる、そして評判が高くなる、そうするとますますそこにのめりこんでしまっています。
将来的には、現実の世界ではなくて、バーチャル・リアリティと呼ばれる三次元の世界に呼び込もうとしています。
【3:コンピューター・スクリーンの弊害:中毒、孤立化】
私たちは、携帯のためにいったいどんな弊害が起こっているのか、この病を振り返ります。特に中毒、それから孤立化という非常に危険な弊害を見ましょう。それを知ったのちにイエズス様に近づいて、「癒してください」と近づきましょう。
第一の弊害は依存症・中毒です。中毒というのは、ユーザーをつまり私たちを、依存症にするように、中毒にするように、わざわざ設計されているからです。これはフェイスブックやあるいはその他の作った人々がそのように言っているから、それは本当です。
依存症とか中毒というのは何かというと、快楽が生み出される活動を止めることができない、そして止めたくてもそれなしにはどうしてもいられない、という、それに依存してしまうという現象です。特に、今若い人たちは青少年は、この携帯がなくては空白を埋めることができない、どうしても不安になってしまう、というほど中毒になっています。
第二の弊害は孤立化です。どういうことかというと、あたかもスクリーンを通してわたしたちは他の人とつながっている、コミュニケーションができているというというように思えるんです。でも、本当の友達というのは どこにいるのでしょうか? 家に帰っても学校でもどこでも、確かにここに体はいるけれども、半分不在、心は上の空、という人々があまりにも多くいます。携帯の世界に没頭してしまっているのです。ですから、わたしたちは、友人でも家族でも、そうやって半分不在の偽(にせ)の存在に慣れっこになってしまっています。本当の家族生活、夫婦生活、親子生活が犠牲になっています。特に今の若い人たちはあまりにも孤立化が進んでしまって、現実の生活は退屈だ、もっと仮想の世界に入りたい、戻りたいと願っています。あるいは学校や仕事から帰るや否や、この仮想世界の中に入りたい、ゲームに没頭したい、インターネットの誰かとチャットがしたいと、思っています。
本物の世界・現実世界にいるというよりは、睡眠術にかけられているかのような、個人がただ隣にいるという状態がいま目の前に現れています。
もしも、私たちが孤立化してしまうと、本当の社会生活をおくることができなくなるといったいどうなってしまうのでしょうか。そうすると、私はアイデンティティ、わたしがいったい何かということが失われてしまいます。どういうことかというと、私たちが一個となって、ただの砂の一粒になってしまうのです。たとえば、どこかの教会を作る一つの部分ではなくて、粉々に砕かれたただの砂の一粒になってしまうのです。自分が、いったい何なのか、わからなくなってしまう。
たとえば、私はカトリック教会に属して、聖ピオ十世会に属して、小野田家の一員で、それで日本人で、などとということがだんだん明らかになります。でも、孤立化してしまうと、ひとりぼっちになってしまうと、それがありません。
でも人は、自分が何かであることを確立しなければ、安心できません。ではどうするかというと、ソーシャルネットワークを通じて、「いいね」がたくさん押されたとか、フォロワーの数が多くなったとか、ランキングが上に上がったとか、それが人生で最も大切であるかのように錯覚してしまって、それを現実だと混同してしまって、それを中心に人生を設計してしまいます。つまり、自分の虚栄とか自己愛のイメージを他の人に見せて、それが自分だと思い込んでしまうのです。
そうすると、ますます自分が孤独になることを恐怖します。ますます、ネットでつながっていたいと思います。そうすると、IoT(アイオーテイ)と言われている、インターネットがモノとモノとをつなげてコントロールする、人間もそれの一つのモノとなってしまいます。つまり、天主の子供という最も高い尊厳が、ただのインターネットでつながっているモノ、に成り下がるということです。
私たちはその高貴な身分を失って、無になってしまい、錯覚に陥る危険があります。仮想の世界を現実だと錯覚してしまう恐れがあります。アイデンティティが喪失する、本当の自分が何かということがわからなくなってしまう、という危険です。
そうなると、私たちはいま世界で見ているように、うつが広まります。不安とうつ病が、非常にいま広まっています。
もう携帯というのは、コミュニケーションの道具とかおしゃべりするための道具ではありません。「すべての中心にある」のです。学校の先生のレポートによると、生徒たちは携帯を失うと虚無感に苛まされているという。静かにひとりで考えるということができなくなっています。
【4:道徳・霊的生活における悪影響】
スマホによって孤立化すると、社会の生活は崩壊し、知性は失われ、意志も無気力になってしまいます。さらにこれについてはもっと深いたくさんのお話がありますが、さらには、道徳的なあるいは霊的生活の2つの分野において、非常に悪い影響を与えます。
少しだけ垣間見ると、まず、道徳の崩壊があります。世界的な統計によると、大人も子供も閲覧の30%、あるいはダウンロードの50%がわいせつなものに関するものだという報告があります。子供さえもそれを免れることができません。特に幼い子供たちは、耐えられる限度を超えた見るに耐えられない画像の洪水によって攻撃を受けているといわれています。特に若い子どもが受けるショックは、非常に大きい、心理的なショックは計り知れないほど大きいと言われています。
道徳的な崩壊のみならず、さらには霊的生活においても大きな悪い影響を与えます。先ほども申しましたようにスマホは、若い人も老人も男も女も人々を催眠術にかけさせたように中毒にさせてます、依存させています。いつでもだれでも携帯を手に取って、いつでも使うことができるように準備して歩いています。帰宅の途中でも、電車のなかでも、家に帰っても、すぐさま、携帯です。
そうするとどうなるかというと、沈黙ということが失われてしまいます。私たちが考えなければならない人生にとっての重大な問題について、考えることができなくなってしまいます。祈ることも、祈ろうとすることさえも、興奮してしまってできません。精神がもしも機能しなくなってしまうと、霊魂は天主に耳を傾けようと、天主に向かおうとすることも、しなくなってしまいます。雑音、あるいは興奮に囲まれて落ち着いてどうやって心を静めることができるでしょうか。
瞬時に全てのことを知りたい、インターネットのコミュニケーションにつながりたい、現実の世界から逃げたい、逃避したい、今の仕事よりも、イイネのクリックを押すのほうが簡単、ということが、霊的生活のかわりに取って代わっています。
では私たちはどうしたらよいのでしょうか。ちょうど私たちの乗っている飛行機の隣で火が燃えているかのようです。すぐさま私たちは脱出しなければなりません。あたかも大地震があって、津波がわたしたちの霊魂を飲み込もうとしているかのようです。私たちの家族を飲み込もうとしています。ですから、百夫長のように、イエズス様のところに行きましょう。
百夫長は自分の家を離れて、イエズス様のところまで行きました。私たちもそのような環境を離れて、イエズス様のほうに近寄る努力をしましょう。イエズス様は私たちの協力を求めています。私たちが聖寵を得るには、私たちがそれを受けようとする努力と、準備が必要です。そして主に言いましょう。「私はふさわしくありません。」「ただ一言おっしゃってください。」
私は携帯をほんとうに実用的な目的のためだけに使っているのでしょうか?それとももう、それがなくてはならない「私の心の中心」になって、そのとりこになってしまっているのでしょうか。
私たちの愛する子どもたちはどうでしょうか。自分の子供たちはスマートフォンを持っているのでしょうか。もしも持っているとしたらいったいどんな何のサイトを閲覧しているのでしょうか。私たちはそれを知っているのでしょうか。ああ、たとえ子供がまだ幼くて、純粋だ、まじめだと見えたとしても、私たちは気をつけなければなりません。統計によると、多くの子どもたちがすでに汚染されています。ですからわたしたちはそのようなチェックを頻繁に行う必要があります。もしも子どもたちのスマホの内容を知るという権利を親が持っているということを放棄してしまうならば、私たちは重大な責任を放棄してしまったことになります。天主は私たちにそのことをその責任を問われることでしょう。
【遷善の決心】
ですから、私たちは遷善の決心をたてましょう。この世の精神と戦わなければなりません。私たちの真のアイデンティティーは、カトリック信者であって、天主の子どもであって、愛された永遠の命のために生きているこの地上にいる者です。
キリスト教の精神は、私たちに「レコンキスタ」ということを、つまり、領土を回復させるということを教えてくれます。スペインはそのことを成功しました。キリスト教信仰によってそれを成功しました。ですから、私たちもたとえそのような悪習があったとしても、霊魂を取り戻すことができます。「レコンキスタ」ができます。そのために確固とした信仰生活を送ろうという決心をたてましょう。私たちの世俗の欲望あるいは愛着を取り除くことができるのは、カトリックの教え、この信仰しかありません。
「心の貧しい人は幸いである」。と主は言われました。この地上のものをあたかも使っていないかのように、使うように、聖パウロは言います。私たちが天主へと心を開いて、霊魂の偉大さを取り戻すことができますように、主に近づきましょう。
そのために主は、私たちに手段を与えてくれました。秘跡を与えてくださいました。告解の秘跡、御聖体の秘跡です。そうすることによって、私たちは守られることができます。
聖パウロはこう警告しています。「悪の者は不義の惑わしを世の終わりに行うだろう。そのために惑わしを彼らのなかに働かせる。こうして彼らは誤りを信じるようになる。それは 真理を信ぜず、不義を好んだものが裁かれるためである。」(2テサ2:10-11)。と警告しています。また聖パウロは、「立っているとおもう人は、倒れないように注意せよ」(コリント前10:12)とも警告しています。
マリア様の子どもとして、毎日マリア様にお祈りしましょう。今日マリア様の御取り次ぎで、私たちの病が癒されるようにお祈りしましょう。聖母が私たちにとっての百夫長になってくださいますように、お祈りいたしましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。