「シノドスの過程はパンドラの箱 : 100の質問と回答」
The Synodal Process Is a Pandora’s Box: 100 Questions & Answers
ホセ・アントニオ・ウレタとフリオ・ロレド・デ・イズクエ著
E 「包摂」
30.シノドスの推進者にとって「包摂」(inclusion)とは何でしょうか。
31.「包摂」提案の背後には何があるのでしょうか。
32.今度のシノドスを理解する鍵は「根本的な包摂」なのでしょうか。
33.この「根本的包摂」は教会の構造や教理を変えるのでしょうか。
34.「包摂」は解放神学の「貧しい人々の教会」を実践しているのでしょうか。
F 大陸ステージのための作業文書
35.教区の協議で集められた証言の結果はどんなものだったのですか。
36.それはイデオロギー的に偏った文書でしょうか。
G 信者は意見を述べたのでしょうか
37.理論的には、シノドスの過程は「天主の民」全体から意見を聞くべきとされています。それは行われたのですか。
38.この数字は意味するものは何でしょうか。
H シノドスの核心は「セクト」か
39.なぜカトリック信者は無関心なのですか。
40.グリッロは、入門者のサークルの「外部」のものとしてのカトリックの大衆に言及するとき、一つの隠された集団のことを暗示していませんか。
E―「包摂」
30.シノドスの推進者にとって「包摂」(inclusion)とは何でしょうか。
シノドスの過程が必須の「包摂」を重要視しているにもかかわらず、公式文書の中にはこの用語を定義したものはありません。シノダリティとは「共に旅すること」ですから、その旅には誰一人排除されずに全人類が参加しなければならないという前提があるように思えます(56)。
「包摂」の宗教用語としての定義がないため、シノドス文書の起草者たちは、世俗社会における現代的な意味で「包摂」を用いていると考えられます。つまり「そうでなければ排除されたり疎外されたりするかもしれない人々に、機会や資源への平等なアクセスを提供する実践や政策」(57)です。
この用語はしばしば統合・完全性(integration)の同義語として使われますが、重要な違いが一つあります。なぜなら、「統合は環境の特性に個人を適応させることを意味する」のに対して、包摂(inclusion)は「社会のすべての構成員を多様な方法で統合できるように、社会規範、政策、現実を適応させること、つまり、多様性のために集団のアイデンティティを犠牲にして、すべての人を『ありのまま』に受け入れること、に基づいている」(58)からです。
31.「包摂」提案の背後には何があるのでしょうか。
元英国国教会主教でエリザベス二世のチャプレンを務め、カトリックに改宗し、現在は有名なカトリック日刊紙「ヘラルド」の副編集長を務めるギャビン・アシェンデンは、シノドスの「大陸ステージのための作業文書」をトロイの木馬だと非難しました。この文書は、多様性、包摂、平等といった「お守りのような言葉(talismatic words)」(59)を使って人々の心を操作しようとしています。彼はこう書いています。「このトリックはとても単純です。一見とても魅力的に見えるものの、隠されたひねりを含んだ言葉を使うことで、結局は何か違う意味、おそらくは正反対の意味になるように仕向けるのです」。
素晴らしい洞察力で、アシェンデンはこう続けます。
その文書のタイトルは『あなたの天幕に場所を広く取りなさい』(イザヤ54章2節より)と呼ばれています。この文書が目指しているのは、「根本的な包摂」です。天幕は、誰一人排除されることのない根本的な包摂の場として提示されており、この考えは文書全体を解釈するための解釈学的な鍵となります。
この言葉のトリックは簡単に説明できます。排除されることとは、愛されないことです。つまり、愛である天主は、根本的な包摂を支持されるに違いありません。その結果、新約における地獄と裁きという言葉は、ある種の異常な誇張表現であり、真に受けてはならないのです。そして、この二つの概念は相互に矛盾しているため、どちらか一方が消えなければなりません。包含が残り、裁きと地獄は去るのです。これは別の言い方をすれば、「イエズスは去り、マルクスが残る」ということです。
そして、これは教会の教義的かつ倫理的な教えをすべて覆すために適用されるのです。
女性はもはや叙階から排除されることはなく、LGBTの関係も結婚として認められます。そして、進歩的野心の真の広がりが表に現れ、一夫多妻の信者に手を差し伸べ、「教会の天幕の中」に引き込むことが示唆されています。
進歩的リベラル派の考え方が、信仰の倫理を変えようとしていることに気づかないのは、重大な間違いです。そのため、「聖性と罪」というカテゴリーを「包摂と疎外」に置き換えているのです。この疎外という言葉の使い方のルーツは、もちろんマルクスにあります(60)。
32.今度のシノドスを理解する鍵は「根本的な包摂」なのでしょうか。
はい。「ハンドブック」は、「周縁にいる人々や、排除されていると感じている人々を確実に包摂するための真の努力がなされなければなりません」(13ページ)と断言しています。大陸ステージのための作業文書』によると、イザヤ書54章の冒頭にある「あなたの天幕の場所を広く取りなさい」という言葉は、教会の召命を、交わり、参加、宣教の開かれた空間として定義しており、その中で耳を傾けることは「歓迎のための開放性として」理解しなければなりません。「これは、根本的な包摂――誰一人排除されることのない――を望むところから始まります」(11-1番)。
実際、「イエズスの教えに従って、急進的な包摂のできる、共有された所属のできる、深いもてなしのできる教会というビジョンは、シノドスの過程の中心にあります」(31番)。なぜなら、それは「シノドスの教会への回心の道」へと至るからです。これは、時代のしるしに照らして、福音宣教の使命をいかにして更新し、すべての人が主人公として包摂されていると感じられるような在り方、生き方をいかにして人類に提供し続けるかを、耳を傾けることから学ぶ教会を意味するのです」(13番)。
この「包摂性」の必要性は非常に根本的であるため、「地方教会におけるシノドス開会を祝う典礼のための提案」という文書は、「他のキリスト教宗派や他の宗教の信者を含め、時には排除されるかもしれない人々をも包摂する努力がなされるべきです」と記しています(61)。
33.この「根本的包摂」は教会の構造や教理を変えるのでしょうか。
はい。シノドス推進者たちによれば、さらに大きな包摂への道は「耳を傾けることから始まり、態度や構造をさらに広く、さらに深く転換させることが必要です」(62)。作業文書はこう続けます。「この転換は、教会、その構造、そしてスタイルの継続的な改革につながります」(63)。シノドスの過程の主な目標の一つは、「私たちのメンタリティーと教会構造を更新すること」(64)であり、これは「当然、教会のさまざまなレベルにおける構造の更新を求めることになります」(65)。
米国の著名な教会法学者であり宗教分析家であるジェラルド・E・マレー神父は、これらの「疎外された少数派」を「包摂」することは、次のような直接的な結果をもたらすと正しく指摘しています。
以下の人々の信念や欲望に反対する教えを捨てることになってしまう:
―再「婚」という姦淫状態で生活している人々
―2人または3人以上の妻を持つ男性
―同性愛者や両性愛者
―自分は生まれつきの性ではないと信じている人々
―助祭や司祭に叙階されたい女性
―天主から司教や司祭らに与えられた権威を受けようと欲する平信者。
(そして、彼はこう締めくくります。)今日、教会では明らかに公然たる革命が進行しています。異端や不道徳を受け入れることは罪深いことではなく、むしろ、これまでその使命に忠実でなかった教会から疎外されていると感じている人々を通して語られる聖霊の声への応答なのだと私たちに信じ込ませようとしているのです(66)。
34.「包摂」は解放神学の「貧しい人々の教会」を実践しているのでしょうか。
はい。何十年もの間、いわゆる解放の神学者たちは、マルクス主義的な「貧しい人々」という概念、すなわち、物質的に奪われた人々という概念を、女性、先住民、黒人、同性愛者など、「抑圧されている」と感じているとされる、あらゆるカテゴリーにまで広げ始めています。
シノドスの旅を踏まえ、解放神学の強い影響を受けたラテンアメリカ・カリブ海地域シノドスの大陸ステージの統合は、「貧しい人々の教会」または「人民の教会」という古い考えを再び提案しています。
「『傷つけられ、打ち砕かれた人々(ある人は「抑圧された人々」と言うでしょう)のための避難所』である教会」について、ラテンアメリカ文書はこう断言しています。
シノドスの過程において、しばしば忘れ去られたり、脇に追いやられたりしている大きなテーマを私たちがあえて提起し、識別することは重要であり、また、私たちの教会においてさえも、人類家族の一員でありながら、しばしば疎外されている他者やすべての人々にあえて出会うことが重要です。いくつかのアピールが私たちに思い起こさせてくれるのは、イエズスの精神をもって、私たちが「貧しい人々、LGTBIQ+の共同体、第二の結合【再婚】のカップル、自分たちは新しい境遇にあるが教会に戻りたがっている司祭、恐れから中絶をする女性、囚人、病人を含めなければならない」(南回帰線以南の南米大陸)ことです。それは、「流浪者が自分の家にいるように感じられるように、あらゆる種類の流浪者に耳を傾けるシノドスの教会で共に歩むこと」に関することであり、その家とは「傷ついた者、砕かれた者の避難所」である教会です(67)。
F―大陸ステージのための作業文書
35.教区の協議で集められた証言の結果はどんなものだったのですか。
その結果は、預言者イザヤの書から引用された「あなたの天幕に場所を広く取りなさい」というタイトルの下に、シノドス事務局から送られた「大陸ステージのための作業文書」でした。この文書は「準備文書」とも呼ばれています。
この文書が発表されて以来、高い地位にある高位聖職者たちからも強い批判が寄せられています。例えば、故ジョージ・ペル枢機卿は、この文書を「ローマから送られた文書の中で最も支離滅裂な文書の一つ」と評しました。このオーストラリア人枢機卿はこうコメントしています。「それはカトリックの信仰や新約の教えを要約したものではありません。不完全であり、使徒継承の聖伝に重大な敵意があり、信仰と道徳に関するすべての教えの規範となる天主のみ言葉としての新約を認めているところはどこにもありません。旧約は無視され、教父は否定され、十戒を含むモーゼの法も認められていません」。
そして彼はこう結んでいます。「カトリック教会はこの『有毒な悪夢』から自らを解放しなければなりません」(68)。
著名な社会学者であるマーク・レグネラスは、皮肉にも「大陸ステージのための文書」を「貧しい人々から『若い人々』や文化的に疎外された人々へと優先的選択肢を変更させた、不満を抱えた改革主義者たちの願望リスト」と評しています。この論文を分析したレグネラス教授は、「社会科学者として、私はこのシノドスの大規模で扱いにくいデータ収集・分析事業を特徴づけている方法論の混乱について重大な懸念を抱いています」と結論づけています。彼によれば、この論文は客観的なデータに基づいてはいません。
さまざまな問い掛けの中には、明らかに執筆者たちの主観的な経験を狙ったものがいくつもあります。……感情的な用語が文書に溢れています(69)。
36.それはイデオロギー的に偏った文書でしょうか。
はい、「カトリック・ワールド・レポート」の編集者カール・オルソンは、準備文書について非常に興味深い見解をこう述べています。
(この文書は)…「位階階級」に3回しか言及しておらず、そのうちの2回は、「構造的な障害物の持続」の例として「独裁的な傾向を助長する位階階級の構造…」が挙げられているように、あからさまに否定的な意味合いが含まれています。
実際、与えられた印象は、教会が、絶え間なく進化し続ける水平的な社会――もちろん「天主の民」――であり、終わりのない対話、絶え間ない不平不満、多彩な被害者意識…によって動いているということです。
…「信者」が言及されるとき、それはほとんど常に不満のために使われています。信者は聖職者から受動的で距離があり(#19)、聖職者主義の犠牲者で(#58)、過重な負担があり(#66)、小教区でもっと多くのことをすることを許されず(#68、91)、もっと多くのことをする機会から遠ざけられています(#100)。
なぜ「経験」が60回以上もあって、文書で何度も繰り返されるテーマなのでしょうか。そして、なぜ「聖性」や「美徳」という言葉は合わせて0回【ゼロ】なのでしょうか。「旅」については37回言及されていますが、「天国」、「栄光」、「至福」という言葉はまさしく0回なのです。
「耳を傾ける」(listen)と「耳を傾けること」(listening)は50回以上出てくるのに、「悔い改めの」と「悔い改め」が一度も出てこないのは、何か理由があるのでしょうか。
…また、この文書では「悪」、「罪」、「咎」、あるいはそれに類するものに言及することはありません。なぜないのでしょうか。
おそらく、私は数字や言葉にとらわれすぎていて、過程や構造について十分に理解していないのでしょう。しかし、教会、教会性、信者、福音化、カトリック信者として生きることについて書かれた約15,000語の文書の中で、「礼拝」(0回)、「賛美」(0回)、「感謝」(0回)よりも「過程」(44回)や「対話」(31回)という用語がかなり多く登場するのが目立ちます(70)。
G―信者は意見を述べたのでしょうか。
37.理論的には、シノドスの過程は「天主の民」全体から意見を聞くべきとされています。それは行われたのですか。
いいえ。前の何ページかで説明したように、「シノダリティに関するシノドス」を正当化する教理によれば、「天主の民」は「信仰するにおいて」(in credendo)不可謬であるとして意見を聞かれるべきです。しかし実際には、シノドスの意見聴取の過程に介入することが許されているのは、ごく少ない少数派に限られています。偶然にせよ意図的にせよ、彼らはまさに、すでに教会改革に奮闘している進歩的少数派でした。
例えば、フランス司教協議会は、15万人が「2023年のシノドスに関する考察に貢献するために動員された」と報告しています(71)。これは、主日にミサにあずかる信者のわずか3.47%、フランスの全カトリック信者の0.35%でしかありません。
スペインのカトリック教会の全国シノドスの文書は、「215,000人以上が参加し、そのほとんどが信者でしたが、奉献された人々、修道者、司祭、司教も参加しました」(72)。これは、主日のミサにあずかる信者のわずか7.7%、カトリック信者の0.77%でしかありません。
これらの数字はあらゆる国でほとんど同じです。オーストリアではカトリック信者の1.04%、ベルギーでは0.54%、アイルランドでは1.13%、英国では0.79%、ラテンアメリカでは0.21%、カトリック国ポーランドでもわずか0.58%が参加したにすぎません(73)。
ドイツでは、いわゆる「Synodaler Weg」(ドイツのシノドスの道)を支持するオンライン・イニシアチブが、わずか1万2000人の署名を集めただけでした(74)。ドイツのカトリック信者は2千160万人です。
38.この数字は意味するものは何でしょうか。
前述のように世界的に一貫しているこれらの数字に基づけば、「シノダリティに関するシノドス」総会が信者の間でほとんど関心を呼んでいないことを断言できます。カトリック・ニュース・エージェンシーが「バチカン、シノドス調査に回答する若く幻滅したカトリック信者を集めるため、影響力を持つ人々を動員」と雄弁に見出しをつけたのは、このためでしょうか(75)。
いずれにせよ、シノドスのアンケートに対する信者の反応が薄いことは、シノドスを根底から無効にしかねない重大な問題を提起しています。私たちは、「天主の民」意見を聴取したと言うことができるのでしょうか。それとも、単にわずかな少数派だけからの意見の聴取だったということができるのでしょうか。その少数派とは誰なのでしょうか。彼らを動かしているのは誰なのでしょうか。
H―シノドスの核心は「セクト」か。
39.なぜカトリック信者は無関心なのですか。
シノドスの過程に対する信者の関心の低さを説明するには、多くの理由が考えられます。その一つは、教皇庁立聖アンセルムス大学の教授であり、シノドスの最も大胆なテーゼを無条件で支持する進歩的な戦いで知られるアンドレア・グリッロによって提示されています。それは「文学ジャンル」の問題です。
シノドスの過程全体にも通じる言葉で、グリッロはドイツの「Synodaler Weg」についてこう書いています。「シノドスの道によって生み出された膨大な(文書の)作成は、解釈上の問題を引き起こす可能性があります。…それは、外部の読者にはまったく透明性のない情報源や言語に言及しているからです」(76)。言い換えれば、シノドスの道の文書は、「外部」の読者には理解できず、限られた「内部関係者」またはイニシエーションを受けた入門者だけが理解できる判読不可能な言語を用いているのです。このローマのグリッロ教授は、本来の意味とは異なる新しい意味で言葉を理解するよう、信者に慣れさせることから始める必要があると言います。言い換えれば、グリッロは、入門していない人々を入門させることを提案しているのです。
40.グリッロは、入門者のサークルの「外部」のものとしてのカトリックの大衆に言及するとき、一つの隠された集団のことを暗示していませんか。
はい。これはまた、ドイツの「Synodaler Weg」に言及したときのゲルハルト・ミュラー枢機卿の発言の要点でもあるようです。「ドイツのシノドス・セクトの『存在的に異なる』カトリシズムにおいては、あらゆる科学的、哲学的、神学的人間学に反する同性愛とジェンダー・イデオロギーが、カトリック信仰の解釈学に取って代わっています」(77)。