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この世の普通の生活で独身を貫く召命はあるのか?

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独身の召命についての説教

ドモルネ神父 2024年2月4日

はじめに

天主が人を召される身分はさまざまです。天主は人類の増加のために結婚を定められました。したがって、結婚への召命があるのです。つまり、天主は、一部の男女をこの身分に召されるのです。天主は、ご自身の恩寵を人類に伝えるために、イエズス・キリストにおける司祭職を打ち立てられました。ですから、司祭職への召命があり、天主はそれに一部の男性を召されるのです。天主は私たちの創造主であり、人が完全に天主に奉仕し、完全に天主を賛美することを期待する権利をお持ちです。ですから、天主は、清貧、貞潔、従順の三つの誓願を通して自らを完全にご自分に奉献するよう、一部の男女を召されるのです。

私が前回フランスに行ったとき、ある若い女性から、この世の普通の生活で独身を貫く召命はあるかどうか聞かれました。これは興味深い質問で、私たちの時代において、より重要な意味を持つようになりました。そこで今日、私はそれに答えたいと思います。

1.独身への召命の存在

天主が私たちを創造されたのは、天主の永遠の命と無限の幸福を私たちに分け与えてくださるという目的のためです。私たちは、私たち自身の人間の力ではこの目標に到達できませんから、天主ご自身が私たち一人一人のために、この目標を達成するための計画を立ててくださいます。天主は、私たち一人一人を、私たちに最も適した方法によって、天主への完全な愛、天主における私たち自身と隣人への愛へと導いてくださるのです。私たち一人一人に対する天主の計画は、愛の計画です。この重要な真理を、特に苦しみの時に、決して忘れないことが大切です。天主は私たち一人一人に、永遠の命への道をさまざまな方法で明らかにしてくださいます。その方法とは、教会の教え、内的霊感、長上が命令すること、そしてもっとも多くの場合、人生の状況を通してです。

結婚にも、司祭職や修道生活にも魅力を感じない人もいます。このような人は、利己的でもなく、結婚の義務を恐れているわけでもありません。結婚したくても、そう望むにもかかわらず、適当な相手が見つからなかったり、生活の事情で独身を貫かざるを得なかったりする人もいます。そのような人たちの生活の状況によって、彼らを、天主は独身という道に導かれます。天主は、彼らが聖性を獲得するためには、このような身分で生きることによってであるように計画されたのです。教皇ピオ十二世は1945年にこう述べています。「自分の望みにもかかわらず未婚のままでいるものの、父なる天主の御摂理を固く信じている若いキリスト教徒の女性は、(…)人生で誠実な伴侶を望んだり、家庭を築きたいという望みを犠牲にするようになります。そして、結婚が不可能であることに直面して、自分の召命を垣間見るようになるのです。その後、いささか失意のうちに、しかし、天主のご意志に従順に、多くの愛徳のわざに完全に専念します」(女性へのメッセージ、1945年10月21日)。

ですから、修道生活における奉献された独身という召命とは異なる、この世における独身という召命が存在するのです。

2.独身の召命と母性の召命

特に女性の独身という召命に関する疑問があります。天主が女性を男性とは異なる存在として創造されたのは、女性には母性という特別な使命を与えられたからです。肉体的にも霊的にも、女性は母性のために造られています。では、女性の独身への召命を語ることとは矛盾しないのでしょうか。いいえ、なぜなら、肉体的な母性と、霊的な母性が存在するからです。

霊的な母性とは、霊魂たちが天主の子となり、天主の子として霊的に成長するように世話をすることにあります。自分の使命に忠実なカトリックの母親においては、肉体的な母性と霊的な母性が一体となっています。子どもに肉体的な命を与え、子どもが肉体的に必要とするものを提供するだけでなく、洗礼と健全なカトリック教育を通して、子どもたちが天主の子となるように気を配るのです。しかし、霊的な母性は、肉体的な母性と必ずしも一緒にあるわけではありません。それ以上に、天主がそのような犠牲をお求めになるならば、肉体的な母性を進んで犠牲にすることによって、霊的な母性はもっと広がるのです。天主が私たちに肉体的な豊穣さを犠牲にするようお求めになるとき、それは私たちを不妊にとどめるためではなく、天主の霊的な豊穣さに私たちをより密接に結びつけるためなのです。天主は本質的に豊穣です。実際、聖三位一体における天主の親密な生活は、三つのペルソナの間の友情の完全な愛の生活です。しかし、友情の愛は、他人に善を行うよう促します。ですから、天主は本質的に豊饒なお方であり、ご自身の天主の命を私たちに伝えたいと願っておられるのです。私たちが進んで天主のご意志を受け入れて天主に一致するとき、私たちは必然的に天主の霊的豊穣の協力者となります。あるドミニコ会の神父は、かつてこう言いました。「天主のご意志を受け入れることは、常に偉大な豊饒の法である」(カレ神父)。

今申し上げたことは、男性と、霊的な父性にも当てはまります。

ですから、この世における独身という召命は、女性の母性への召命や男性の父性への召命と矛盾するものではありません。

3.この世における独身への召命の目的

次の疑問は、この世での独身への召命の目的は何か、ということです。聖パウロはコリント人への書簡の中で、この問いに答えています。「妻のない者は、どうして主を喜ばせようかと主に属するもののことを気遣う。しかし、妻がいる者は、どうして妻を喜ばせようかと、この世のことを気遣い、心が二つに分かれる。結婚していない女と処女は、体と心を聖とするために、主のことを考える。しかし、結婚している者は、どうして夫を喜ばせるようかと世のことを考える」(コリント前書7章32-34節)。独身でいる理由は、天主のことをもっと思うためです。言い換えれば、肉体的な豊穣を放棄するということは、一部の人々が天主の求めておられる完徳を達成するために、天主が設けられた手段なのです。

天主が誰かに独身の道を歩ませられるとき、それは、天主がその人をご自分とさらに親密になるように召されることを意味します。天主はその人の愛の能力をご自分のために確保されます。ですから、その人は自分の人生において天主を中心に据えるべきなのです。天主なき独身は無意味です。それでは真っ当に生きることはできませんし、それに耐えることさえできません。天主なしでは、孤独は耐え難い重荷となります。ですから、自分の人生で天主を中心に据えない独身者は、自分のための天主のご計画にそぐわず、必然的に何らかの感情的、心理的不安定さに陥ることになります。この世の独身者は、修道者ではありません。天主は、独身者が聖務日課を唱え、修道者のすべての霊性修練を毎日行うことを期待なさってはいません。しかし、祈り、福音の黙想、霊的読書、秘跡を受けることをしなければなりません。それらは独身者のすべての活動の霊的な源であり、独身者の平静を保証するものだからです。

天主が誰かに独身の道を歩ませられるとき、それはまた、天主がその人に、他人に対する特別な霊的豊穣をお求めになることを意味します。申し上げたように、天主は豊穣です。私たちが天主と一致すればするほど、私たちは天主の霊的豊穣にあずかることになります。天主のご意志に従って家庭を築くという犠牲を自発的に受け入れることは、内向性や利己主義につながるものではありません。それどころか、それによって独身者は、自分の家族よりも多くの人々に関心と愛徳を向けることができるようになるのです。独身への召命においては、その人の本性、気質、知性、情緒というすべての資源が霊的豊穣のために動員されます。天主は独身者に、自分の愛の能力を最大限に発揮して、他者において天主を愛するよう求めておられるのです。ですから、私たちの主の次のみ言葉は、司祭や修道者だけでなく、この世に生きる独身者にも、あてはまるのです。「私の名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、妻、子、土地を捨てた者はみな、その百倍のものを受け、永遠の命を得る」(マテオ19章29節)。

結論

親愛なる信者の皆さん、この世で独身であることは、一部の人々が考えているのとは逆に、自分の召命を逃したとか、人生に失敗したということを意味しません。この世における独身という召命は、天主のご計画に従って存在するのです。教皇ピオ十二世は、私たちの時代において、天主はより多くの人々をこの召命に召しておられる、と言うことをためらいませんでした。実際、教会は、世界の脱キリスト教化と闘い、霊魂の救いのために働くために、これまで以上にこのような召命を必要としているのです。


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