アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
2024年1月1日、主の御降誕後のミサの説教をご紹介いたします。その日の書簡は使徒聖パウロのティトへの書簡(2:11-15)からです。
「いと愛する者よ、すべての人々に、私たちの救い主、天主の恩寵があらわれた。それは、不敬虔と世俗の欲望をすてて、この世において、思慮と正義と敬虔とをもって生きるために、幸福な希望と、偉大な天主であり救い主であるイエズス・キリストの光栄のあらわれを待ちつつあれと私たちに教える。イエズスは、私たちのためにご自分をお与えになった。それは私たちを全ての邪悪からあがない、善業に熱心に従い、受け入れられる民としてご自身のためにきよめるためであった。このことを、私たちの主イエズス・キリストにおいて、話し、勧めよ。」
愛する兄弟姉妹の皆様、
今日、私たちの主は割礼を受け、イエズスという聖なる名前をつけられました。イエズスとは、ヤーウェは救うという意味です。
イエズス・キリストのおかげで、多くの聖人たち義人たちは、この世の命の後に、至福の王国で不死の命を生きることができるようになりました。シメオンは言います。「この子は、イスラエルの多くの人が、あるいはたおれ、あるいは立ちあがるために、さからいのしるしとして立つ人です。」イエズス・キリストのおかげて、立ち上がる義人・聖人たちがでました。
しかし、この世の儚いあっという間に終わってしまう哀れな快楽に目を奪われて、刹那的に自分のやりたいことを追求して罪を犯す人々は、残念にも、不幸なことにも、永遠の滅びを受けることになってしまいます。
何故なら、「すべての人々に、私たちの救い主、天主の恩寵があらわれた」にもかかわらず、それを無視したからです。聖人たちの生活を見て、彼らの清貧や謙遜を見て、自分にそんなことはできない、それは愚か者のすることだと考えたからです。
すべての人々にあらわれた天主の恩寵、イエズス・キリストの恩寵とは何でしょうか?イエズス・キリストの教えとは何でしょうか?本当の愚か者とは、どのような人でしょうか?
今日は、聖パウロの書簡を読みながら一緒に黙想しましょう。
【1:イエズス・キリストの聖寵】
聖寵とは、天主から私たちに憐れみによって与えられる聖なる寵愛です。なぜ憐れみによって与えられるかというと無償に与えられるからです。
キリストの来臨以前には、どれほど聖なる義人であれ、天国に行くことはできませんでした。しかし天主の御子が人間となり、天主の聖寵である私たちの救い主が私たちに現れました。これが聖パウロのいう偉大な「敬虔の奥義」です。「キリストは肉体にあらわれ、霊において義とされ、天使たちに見られ、異邦人に伝えられ、この世に信じられ、光栄にあげられた」(ティモテ3:16)。
寵愛は、それを与える人が偉大であれば偉大であるほど、人はそれを受けることを欲します。ですから天主が私たちに与える寵愛こそ、もっとも願わしいもの、望まれるべきものです。イエズス・キリストこそ天主の聖寵、人々が最高度に欲すべきものです。イエズス・キリストは私たちの救いのために与えられました。イザヤの預言によれば「地の果ては全て私たちの天主の救いを見るだろう」(イザヤ52:10)の通りです。「天主は、すべての人が救われて、真理を深く知ることをのぞまれる。・・・ かれは、すべての人をあがなうために、ご自身を与えられた。」(ティモテオ前2:4)
キリストのご誕生によって、この聖寵が二つの仕方で現れました。キリストは、聖寵と真理とに満ちて(ヨハネ1:14)いたからです。
まず、聖寵・恵みとして、天主からの最大の贈り物として私たちに与えらました。
次に、キリストは真理として、人類に教えるために現れました。キリストの来られるの世は無知と誤謬と異端に苦しんでいました。しかし闇を歩く人々は偉大な光を見ました。(イザヤ9:2)キリストは真理を教えつつ、良い業を行うこと、また、正しい意向を持つことを教えてくれました。
【2:イエズス・キリストの教え】
良いわざについて、聖パウロは「不敬虔と世俗の欲望をすて」ることを教えています。
何故なら、良いわざを行うためにまず罪を捨てなければならないからです。罪とは、あるいは、天主に直接反することです。つまり、敬虔さに反していることです。ですから聖パウロは不敬虔をすてるようにと言います。
罪とは、あるいは、この世のものごとを乱用することです。そのような罪は世俗の欲望と言われています。全ての罪は、私たちの隣人に反対して、あるい、世俗のあるべき秩序に反対して犯されます。ですから続いて世俗の欲望もすてるようにと言います。
罪のわざをすてたのち、私たちがなすべき善に関することを言います。「思慮と正義と敬虔とをもって生きる」と。
思慮:これは私たち自身・自分自身に関すること。あるべき限度を守って、思慮が命じる限度にしたがって物事を使ったり情念をコントロールして生活することです。自己克己と賢明、正義と勇気による生活です。
正義:これは隣人との関係についてです。
敬虔:これは天主との関係についてです。
「幸福な希望」を待つように書いて、目的について教えてます。死の直後の霊魂の栄光、またキリストの再臨の時の肉体の栄光です。
「墓にいる人々がみな、そのみ声の呼びかけをきいて、墓を出る時が来る。善をおこなった人は命のために、悪をおこなった人は永遠の罰のために、よみがえる。」(ヨハネ5:28)
人間の目的は「幸福な希望」です。この世で徳のある生活をすることではたりません。たとえ「思慮と正義と敬虔とをもって生き」たとしても、何か別のものを待ち望んでいます。真の幸福を希望するから、または、私たちが真に幸福となることを待ち望んでいるからです。
「偉大な天主であり救い主であるイエズス・キリストの光栄のあらわれ」を待てと聖パウロは言います。【友を愛するものは、この友を待ち望みますが、自分のためだけでなく、彼の現れを愛する全ての人々のために望みます。】
「偉大な天主」何故なら、イエズス・キリストは「キリストは万物の上にあって、世々に賛美せられる天主である」(ローマ9:5)からです。「私たちはそのみ子イエズス・キリストによって、真実のお方のうちにいるのである。それは真実の天主であって、永遠の命である。」(1ヨハネ5:20)
「救い主」何故なら、イエズス・キリストは救い主だからです。「それはよいことであり、救い主なる天主のみまえによろこばれることである。天主は、すべての人が救われて、真理を深く知ることをのぞまれる。」(1ティモテオ2:3)天使はヨゼフにこう言います。「かれは、み民をその罪から救うお方だからである」(マテオ1:21)
「光栄のあらわれ」何故なら、イエズス・キリストは最初は謙遜のうちに来られました。「死ぬまで、十字架上に死ぬまで、自分を卑しくして従われた。」(フィリッピ2:8)「私は、心の柔和な、謙遜な者である」(マテオ11:29)しかし、キリストの再臨においては天主の本性が誰にも認識されるからです。「そのとき人々は、人の子が勢力と大いなる栄光とをおびて、雲にのってくだるのを見るだろう。」(ルカ21:27)
キリストは救い主ですが、どのようにして救い主となったのでしょうか?それは「イエズスは、私たちのためにご自分をお与えになった」からです。「私たちを愛し、私たちのために、香ばしいかおりの生贄として天主にご自分をわたされたキリストの模範に従って、愛のうちに歩め。」(エフェゾ5:2)御自分をお与えになって、つまり、御受難によってです。
御受難の実り、その効果は、私たちが邪悪から解放されることです。「それは私たちを全ての邪悪からあがない」、私たちは罪の奴隷状態から解放されました。
「受け入れられる民としてご自身のためにきよめる」とは、民を聖化して、御自分の民、ご自分のために聖別された民とするということです。天主の民は、善業に熱心に従わなければなりません。「善をおこなえ。そうすれば、かれから賞せられる。」(ローマ13:3)「善をおこないつづけて倦んではならない。」(ガラチア6:9)
【3:罪人のおろかさ】
栄光をもって再臨される「偉大な天主であり救い主であるイエズス・キリスト」の友人となる力をもちながら、主の敵となることを欲するほど、おろかなことがあるでしょうか?
「不敬虔と世俗の欲望」にまみれて、罪の中を生きること、天主の敵として生きることは、この世では不幸となり、あの世では永遠にみじめになることです。
聖アウグスチヌスによると、ローマ皇帝の宮廷に仕えていた二人の臣下が隠遁生活をするために修道生活に入ったそうです。その内の一人は聖アントニオの伝記を読み、この世の虚しさをますます理解して、もう一人にこう語ったそうです。「皇帝の友人になることは、私たちが希望することができる最高のことだ。しかし、皇帝の友となるためにはどれほど多くの危険や戦いがあることだろうか!たとえ皇帝の友となっても、それがどれほど長く続くというのだろうか?たとえ多くの危険を乗り越えて皇帝の友となっても、私たちが永遠の滅びの危険に身をさらすなら、何の利益があるだろうか?しかし、もしもそう望むなら、私はあっという間に、天主の友となることができる。聖寵という天主からの無限の宝を受け取ることができる。
キリスト教を信じない人々は、被造物である人間が天主の友となることができるとは不可能だと思うでしょう。何故なら、友情とは、友を等しくさせるからです。しかしイエズス・キリストは言われました。「私の命じることをまもれば、あなたたちは私の友人である。」(ヨハネ15:4)
私たちが創造された目的を忘れて、刹那的にこの世のことだけしか考えないのは、おろかなことです。思慮のないことです。この世の全てを儲けても、究極の目的を失ったら、それが一体なんのためになるでしょうか?私たちの本当の最終目的だけが、私たちを本当に幸せにすることができます。「心要なことは少ない。いやむしろただ一つである。」(ルカ10:42)それは、永遠の命です。「幸福な希望と、偉大な天主であり救い主であるイエズス・キリストの光栄のあらわれ」です。
それを見失ってしまっては、目的地を知らないで船を運行させる船長のようです。遭難するか、座礁するか、難船するか、です。船長がたとえ船の操縦の仕方を最高度に知っていたとしても、どのような豪華船であっても、どれほど大きなスピードで移動することができても、どの港にどうやって行くのかを死ならなければ、それが何の役に立つでしょうか?
この世の知恵者も、富と名誉を持つ人々も、愉快な生活とあらゆる娯楽を楽しんでいたとしても、霊魂を救うためにどうすればよいかを死ならなければ、何のためにこの世に生まれてきたのかを知らないならば、死後には地獄が待つだけだからです。この世の物事は、全てうずたかくかき集めても、人の心を満足させることはできません。何故なら、私たちは天主を愛するために作られているからです。天主以外のものでは、本当の平和も幸せも見出すことができないからです。
【4:遷善の決心】
新しい2024年の始めに、遷善の決心をたてましょう。
イエズス・キリストの恩寵を受けて、イエズス・キリストの教えをうけいれましょう。
私たちの人生の究極の目的は、イエズス・キリストによって与えられる永遠の命です。
聖母に御取次を祈りましょう。私たちが聖母にならい、「この世において、思慮と正義と敬虔とをもって生きるために、幸福な希望と、偉大な天主であり救い主であるイエズス・キリストの光栄のあらわれを待ちつつ」生活することができますように。
「そのとき、幼児が割礼をうける八日目になったので、胎内にやどる前に天使によって呼ばれたように、その子の名をイエズスと名づけた。」