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Channel: Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた
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自己否定とは、本質的に言えば、天主への愛の行為。イエズスに「私はあなたを愛しています」と告白すること。

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幼きイエズスの聖テレジアによる自己否定についての説教

ドモルネ神父 2024年2月18日

はじめに

先週の水曜日から四旬節が始まりました。この40日間は償いの期間であり、聖週間と復活祭に備える期間でもあります。四旬節の間、常に行われてきた償いは大斎と小斎です。1983年以来、教会法はカトリック信者に、灰の水曜日と聖金曜日のみ大斎と小斎を義務づけています。私たちの霊魂の霊的な善のために、主日と義務のある聖日を除く四旬節の毎日大斎をするという教会の賢明な習慣に従うことを強くお勧めします。健康や仕事の関係で毎日大斎をすることが不可能な場合は、四旬節の間小斎をし、時々、例えば毎週金曜日や土曜日に大斎をするように努力しましょう。

これらの四旬節の償い、そして一般的に言えば、キリスト教生活の一部であるあらゆる自己否定に対する、間違った見方があります。すなわち、償いを、苦痛を伴い、疲れ、悲しくなるような拘束や苦行として見ることです。これらの自己否定に対する正しい見方は、幼きイエズスの聖テレジアによって示されています。今日、四旬節の始まりにあたって、私がお話しするのはこのことについてです。

1.自己否定の必要性

私たちの人生の目的は、天国の幸福に到達することです。しかし、私たちを天国に導く道は、私たちの主イエズス・キリストです。主は、「私は、道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14章6節)と言われました。ですから、天国に行くためには、私たちは私たちの主に従わなくてはなりません。しかし、イエズスはこうも言われました。「私のあとに従おうと思うなら、自分を否定し、自分の十字架をになって、私に従え」(マテオ16章24節)。

「自分を否定する」とはどういう意味でしょうか。大聖グレゴリオは、自分を否定するとは、原罪が私たちのうちに引き起こした悪い傾きに従わないこと、自分の行いを改めること、そして自分の高慢をすべて取り除くことを意味する、と説明しています。アダムとエワの罪は高慢の罪であり、不従順の罪であり、それゆえに創造主である天主から独立するという罪でした。この罪は全人類に影響を及ぼし、そのため、私たちの意志には、「自己意志」と呼ばれる悪い傾きがあります。自己意志とは、天主のご意志と対立する私たちの意志、天主に背くことを選ぶ私たちの意志を意味し、それゆえに、私たちのすべての罪の根源なのです。自己を否定するとは、天主のご意志に従うために、進んで自己意志を犠牲にすることです。したがって、自己否定とは、本質的に言えば、天主への愛の行為です。それは私たちの天主への愛から生まれ、私たちの天主への愛の表現なのです。福音の中で、私たちの主イエズスはまず、「私のあとに従おうと思うなら」、つまり「私を愛そうと思うなら」と言われ、その後に、「自分を否定せよ」と付け加えられます。自分を否定するとは、自分の注意を自分自身からそらし、その注意を、愛をもって天主に向けることです。イエズスを愛するために自己否定をすること、あるいは自己否定を受け入れることは、イエズスに、「私はあなたを愛しています」と告白することと同じなのです。

2.幼きイエズスの聖テレジアと自己否定

幼きイエズスの聖テレジアは、このことを完璧に理解していました。彼女は、私たちの主イエズスを絶対的に愛することを選んだのですから、自分の愛を証明するために、いつも、どこでも、すべてにおいて自分を否定することを選びました。自己否定には2種類あります。私たちがイエズスに捧げる自己否定と、イエズスが私たちの生きる状況を通して私たちに負わせるために与えられる自己否定です。

第一の種類の自己否定について、聖テレジアは、それが、私たちが私たちの主に捧げる愛の証しであるとします。彼女はこう言います。「私がそれに値しないにもかかわらず、イエズスは、おやさしくも私を小さな花嫁として迎えてくださいました。今、私は、主に対する私の愛の証しを捧げなければなりません」(手紙121)。聖テレジアは、毎日訪れるあらゆる自己否定の機会をすべて、イエズスに、「私はあなたを愛しており、あなたにそれを示します」と告げる好機と受け止めていました。聖テレジアは、このような自己否定の実践において寛大さを奨励し、素朴で光り輝くように、こう言いました。「私たちの人生には、イエズスを愛するための時間はほんの少ししかありません。悪魔はそれをよく知っているため、私たちに自分の人生を無益な行いに費やさせるように努力するのです」(手紙92)。「私はどんな小さな犠牲の機会であっても見過ごしたくありません」(自叙伝:ある霊魂の物語11)。彼女はまた、イエズスは、私たちの犠牲に対する報いとして、天国での大きな幸福を私たちに与えたいと望んでおられるが、しかし、私たちが主のために何もしなかったとしたら、どうして主は私たちに報いをくださるだろうか、とも言いました。聖テレジアの日々の自己否定は、例えば、節度を欠いた望みや好奇心、あるいは嫌悪感を抑えたり、何も言いたくなかったり退屈そうに見える時にほほ笑んで親切な言葉をかけたり、誰かを助けようと思わなかった時に、助けてあげたりすることなどでした。

第二の種類の自己否定は、私たちの人生の状況や私たちの長上を通して、イエズスが私たちに与えられる自己否定であり、私たちがそれを選ぶのではないため、通常、もっと難しいものです。しかし、それは私たちの聖化にとって、最も効果のあるものです。これらの自己否定が、私たちへのイエズスの愛の証しであることを理解することが不可欠です。受け入れるべき自己否定を私たちに提示することによって、イエズスが私たちへの愛を示されるということが、どうしてあり得るのでしょうか。なぜなら、イエズスはこのようにして私たちを聖化し、霊魂の救いのみわざに私たちをあずからせてくださるからです。聖テレジアはこう書いています。「イエズスは私たちを苦しみで満たすことで苦しまれますが、それが、イエズスが御自身を知っておられるように私たちがイエズスを知って、私たち自身が神々となるように準備させるための唯一の方法であることを知っておられるのです」(手紙57)。彼女はこうも書いています。「イエズスは、霊魂の救いが私たちの犠牲と愛に依存することを望んでおられます。イエズスは霊魂たちのために、私たちに乞い求めておられるのです」(手紙96)。イエズスが私たちに負わせるために与えられる自己否定は、私たちへのイエズスの愛の証しですから、聖テレジアは、私たちがそれを受け入れるように、素朴かつ見事に、私たちを励ましています。聖テレジアはこう書いています。「受けるよりも与える方がずっと甘美だと言われますが、それは本当です。ですから、イエズスが、私たちに与えるという甘美さをご自分のものにすることを望まれるとき、それを遠慮することは、見苦しいことです…」(手紙142)。彼女はこうも言っています。「私たちは、イエズスが望まれるすべてのこと、例えそれが霊的な悲しみ、荒廃、苦悩、表面的には冷淡な態度であっても、イエズスのために耐え忍べるほど強く、イエズスを愛しましょう…イエズスへの愛の甘美さを感じることなくイエズスを愛することは、間違いなく偉大な愛です」(手紙94)。

3.自己否定と愛

キリスト教の自己否定は、絶え間ない自己吟味や、私たちの体と霊魂のすべての動きを制御するための激しく頻繁に繰り返される努力から成っているのではありません。キリスト教の自己否定は、普通の生き方に反して押し付けられる冷酷な自制ではありません。キリスト教の自己否定は、人間の本性に反するものではありません。キリスト教の自己否定は、イエズスと私たちの間の愛の交換なのです。聖テレジアはこう書いています。「イエズスという私の指導司祭は、自分の行動を数えることは教えられません。主が私に教えてくださるのは、すべてのことを主への愛から行うこと、主に対して何も拒まないこと、私が主を愛していることを証しする機会を主が与えてくださるたびに喜ぶことで、これらのことすべては、平安と自己放棄において行うのです」(手紙142)。

テレジアの姉は、人生の終わりのころ、テレジアにこう言いました。「確かに、これほど完璧に自己を否定するのに、あなたはずいぶん苦労したことでしょう」。姉は、テレジアにとって自己否定の実践はおそらく、激しく、苦しく、骨の折れる、悲しみに満ちたものだっただろうという意味で言ったのです。しかし、テレジアは深遠な表情でこう答えました。「いいえ、そんなことはありません…」。彼女が言いたかったのは、こういうことでした。「激しい自制の問題ではありません。私は愛して、たくさん愛しました! それだけです」。愛は、どんな苦難であろうとも、すべてのものを簡単で甘美なものにするのです。

結論

聖テレジアに学びましょう。この四旬節の間、教会が求めている大斎と小斎を行い、イエズスへの愛の証しとして、すべての個人的な自己否定を捧げましょう。また、イエズスが私たちに与えてくださるすべての自己否定を受け入れましょう。そうすることによって、私たちは実りある四旬節を過ごす、つまり天主への愛において本当に進歩することになるのです。

今日が私の最後の説教です。そこで、皆さん全員に、最後の推薦をさせてください。それは、幼きイエズスの聖テレジアの著作、特に彼女の自叙伝と手紙を読むことです。これらは日本語で読むことができます。そこには、誰にとっても理解しやすく、実践しやすい、非常にしっかりした教理が書かれています。皆さんはこれらの著作から、福音、イエズスの聖心、マリアの汚れなき御心についての理解を深められることでしょう。皆さんはその著作の中に、確実で素朴な聖性への道を見つけられることでしょう。


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