アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
クラウス・ガンバー神父(Klaus Gamber, レーゲンスブルグの典礼研究所の創立者所長、ローマの教皇庁立典礼アカデミーの名誉会員)の言葉を聞いてください。
ガンバー師の「ローマ典礼の改革」のフランス語版に対して、ベネディクト十六世(ラッツィンガー枢機卿)は「序言」を書いて、彼の功績を讃えてこう言っています。
「第二バチカン公会議後に起こったことは、全く違うことだった。発展の実りとしての典礼の場所に、捏造された典礼が来た。私たちは、数世紀にわたる成長と発展のオーガニックな生きている過程を捨て去り、その代わりに、丁度制作過程で起こるかのように、作り上げられたものを、平凡でその場しのぎの産物を置いた。ガンバーは、真の預言者の警戒と真の証人の勇気とを持って、この捏造に反対した。そして、彼の信じられないほど豊かな知識をもって、疲れを知らずに私たちに真の典礼の生きる充満性について教えてくれた。」
ガンバー神父は「ローマ典礼の改革」の中でこう断言しています。
「パウロ六世がそうするまで、教皇たちは固有の意味におけるミサ式次第(Ordo Missae)には一切変化を加えたことがない、ただし、特にトリエント公会議以後は、教皇たちは新しい祝日のために新しい固有文を導入しただけだ。」
「教会諸改革を導入することは聖座の機能ではないということは最も確実なことである。教皇の第一の義務は教会の諸々の伝統 - その教義、道徳、典礼の諸々の伝統 - を見守るために、第一位の司教として行動することである。」
新しい典礼改革は「伝統的なミサの、一千年以上もの歴史をもった伝統的なローマ式典礼の真の破壊」であった。(p. 102.)
「混乱は大きい! この暗闇のなかでまだ明らかに見ることができる人が誰かまだいるのだろうか? 私たちに正しい道を示すことのできる指導者が私たちの教会のどこにいるのだろうか? 自己増殖をし続け最も聖なる神秘のまっただ中でさえも汚染し続けている近代主義神学の癌のような増殖を、この癌が広がってより大きな損害を及ぼす前に切り取り捨てるだけの勇気のある司教たちはいったいどこにいるのか? 私たちにとって現代必要とされているのは新しいアタナシウスであり、新しいバジリオであり、四世紀にキリスト教世界がほとんど全てアリウスの異端に陥ってしまっていた時にこれに対して立ち上がって闘ったような司教たちである。今日、私たちには、信仰の残っている人々を一致団結させてくれるような聖人が必要である。それは私たちが誤謬に対して戦い、弱い者とフラフラしている者たちをその無力感から立ち上がらせることができるためである。」(p. 113.)
「(聖伝のミサは)もう一度、私たちの信仰の規範となり、全世界においてカトリックの一致のシンボル、大変動と終わることのない変化の時代における安定の巌とならなければならない。」
「現代の教会は、新しいミサの必要が全くない。教会に必要なのは霊的生活を充足させることだ。これこそが信仰の危機を乗り越えうる。この危機は権威の危機でもある。少なくとも部分的には、権威の危機の責任は、ローマに起因されなければならない。」 (p. 68)
聖伝の「ローマ典礼様式」と「現代典礼様式」と二つの典礼様式が存在する。
「パウロ六世の典礼形式は事実上新しい典礼様式を作り上げた。」(p. 39)
「今日、私たちは、教会の聖伝ほぼ二〇〇〇年の廃墟を前にして立っている。私たちはこう思わざるを得ない。多くの改革は教会の聖伝に損害を与え、それはそれを元に戻すのが難しいほどだ。今日、かくも酷い破壊の後に、聖伝の秩序を再建築するのが可能なのかと疑問にさえ思う。しかし、私たちは希望を諦めてはならない。」(p. 95)
「私たちは東方教会にも、西方教会にも、会衆と対面する儀式などというものは存在していなかったことと言うことができるし充分に証明することもできる。むしろ存在していたのは、祈る時に東方を向くということだけであった。」 (p. 77)
「初代教会において、そして中世において、祭壇の位置を決定したのは東方を向くと言うことである。聖アウグスティヌスを引用すると、『私たちが立って祈る時、天が始まる東を向く。天主が東におられるからという理由で(あたかも天主が東から西に移動されるかのように)そうするのではない。そうではなく、私たちの心を高い秩序に、つまり天主へと向けることを思い出させてくれるためである』」
「典礼の歴史においても神学においても社会学的にもいかなる根拠もないが故に、会衆と対面したミサの儀式というのは徐々に姿を消すべきである。」 (p. 92)
「『司牧者』誌において、第二バチカン公会議のすぐ後に発表された『荘厳ミサ』という著名な本の著者であるユングマンを引用したいと思う。ユングマンはこう書いている。『初代教会の祭壇が、常に会衆と対面して儀式をするように作られていたと、しばしば繰り返し主張されるが、それはおとぎ話以外の何ものでもないことが分かった』と。」
「焦点は常に天主に向かっていなければならない。人間にではない。このことは、司祭が会衆の方に顔を向けるのではなく、祈る時に皆が天主に向かっていなければならないということを常に意味した。従って、対面式の儀式は、事実上、間違っていると結論付けなければならない。結局、対面式の儀式は、天主から離れさせ、人間に向かわせるものである。」
愛する兄弟姉妹の皆様、
クラウス・ガンバー神父(Klaus Gamber, レーゲンスブルグの典礼研究所の創立者所長、ローマの教皇庁立典礼アカデミーの名誉会員)の言葉を聞いてください。
ガンバー師の「ローマ典礼の改革」のフランス語版に対して、ベネディクト十六世(ラッツィンガー枢機卿)は「序言」を書いて、彼の功績を讃えてこう言っています。
「第二バチカン公会議後に起こったことは、全く違うことだった。発展の実りとしての典礼の場所に、捏造された典礼が来た。私たちは、数世紀にわたる成長と発展のオーガニックな生きている過程を捨て去り、その代わりに、丁度制作過程で起こるかのように、作り上げられたものを、平凡でその場しのぎの産物を置いた。ガンバーは、真の預言者の警戒と真の証人の勇気とを持って、この捏造に反対した。そして、彼の信じられないほど豊かな知識をもって、疲れを知らずに私たちに真の典礼の生きる充満性について教えてくれた。」
ガンバー神父は「ローマ典礼の改革」の中でこう断言しています。
「パウロ六世がそうするまで、教皇たちは固有の意味におけるミサ式次第(Ordo Missae)には一切変化を加えたことがない、ただし、特にトリエント公会議以後は、教皇たちは新しい祝日のために新しい固有文を導入しただけだ。」
「教会諸改革を導入することは聖座の機能ではないということは最も確実なことである。教皇の第一の義務は教会の諸々の伝統 - その教義、道徳、典礼の諸々の伝統 - を見守るために、第一位の司教として行動することである。」
新しい典礼改革は「伝統的なミサの、一千年以上もの歴史をもった伝統的なローマ式典礼の真の破壊」であった。(p. 102.)
「混乱は大きい! この暗闇のなかでまだ明らかに見ることができる人が誰かまだいるのだろうか? 私たちに正しい道を示すことのできる指導者が私たちの教会のどこにいるのだろうか? 自己増殖をし続け最も聖なる神秘のまっただ中でさえも汚染し続けている近代主義神学の癌のような増殖を、この癌が広がってより大きな損害を及ぼす前に切り取り捨てるだけの勇気のある司教たちはいったいどこにいるのか? 私たちにとって現代必要とされているのは新しいアタナシウスであり、新しいバジリオであり、四世紀にキリスト教世界がほとんど全てアリウスの異端に陥ってしまっていた時にこれに対して立ち上がって闘ったような司教たちである。今日、私たちには、信仰の残っている人々を一致団結させてくれるような聖人が必要である。それは私たちが誤謬に対して戦い、弱い者とフラフラしている者たちをその無力感から立ち上がらせることができるためである。」(p. 113.)
「(聖伝のミサは)もう一度、私たちの信仰の規範となり、全世界においてカトリックの一致のシンボル、大変動と終わることのない変化の時代における安定の巌とならなければならない。」
「現代の教会は、新しいミサの必要が全くない。教会に必要なのは霊的生活を充足させることだ。これこそが信仰の危機を乗り越えうる。この危機は権威の危機でもある。少なくとも部分的には、権威の危機の責任は、ローマに起因されなければならない。」 (p. 68)
聖伝の「ローマ典礼様式」と「現代典礼様式」と二つの典礼様式が存在する。
「パウロ六世の典礼形式は事実上新しい典礼様式を作り上げた。」(p. 39)
「今日、私たちは、教会の聖伝ほぼ二〇〇〇年の廃墟を前にして立っている。私たちはこう思わざるを得ない。多くの改革は教会の聖伝に損害を与え、それはそれを元に戻すのが難しいほどだ。今日、かくも酷い破壊の後に、聖伝の秩序を再建築するのが可能なのかと疑問にさえ思う。しかし、私たちは希望を諦めてはならない。」(p. 95)
「私たちは東方教会にも、西方教会にも、会衆と対面する儀式などというものは存在していなかったことと言うことができるし充分に証明することもできる。むしろ存在していたのは、祈る時に東方を向くということだけであった。」 (p. 77)
「初代教会において、そして中世において、祭壇の位置を決定したのは東方を向くと言うことである。聖アウグスティヌスを引用すると、『私たちが立って祈る時、天が始まる東を向く。天主が東におられるからという理由で(あたかも天主が東から西に移動されるかのように)そうするのではない。そうではなく、私たちの心を高い秩序に、つまり天主へと向けることを思い出させてくれるためである』」
「典礼の歴史においても神学においても社会学的にもいかなる根拠もないが故に、会衆と対面したミサの儀式というのは徐々に姿を消すべきである。」 (p. 92)
「『司牧者』誌において、第二バチカン公会議のすぐ後に発表された『荘厳ミサ』という著名な本の著者であるユングマンを引用したいと思う。ユングマンはこう書いている。『初代教会の祭壇が、常に会衆と対面して儀式をするように作られていたと、しばしば繰り返し主張されるが、それはおとぎ話以外の何ものでもないことが分かった』と。」
「焦点は常に天主に向かっていなければならない。人間にではない。このことは、司祭が会衆の方に顔を向けるのではなく、祈る時に皆が天主に向かっていなければならないということを常に意味した。従って、対面式の儀式は、事実上、間違っていると結論付けなければならない。結局、対面式の儀式は、天主から離れさせ、人間に向かわせるものである。」