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Channel: Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた
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四旬節は、わたしたちの主の聖心の愛が、わたしたちにますます明らかになる季節

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2024年3月1日初金のミサ 説教

トマス小野田圭志神父

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

四旬節は、わたしたちの主の聖心の愛が、わたしたちにますます明らかになる季節です。

主が、なぜこれほどの苦しみを喜んで受けられたのか。なぜ罪がなかったにもかかわらず、ポンシオ・ピラトが「わたしはこれに罪を見いださない、何も見いださない」何度も言ったにもかかわらず、鞭打たれそして茨の冠を被せられ、さらには十字架の死刑を受けなければならなかったのか、無罪なのに…。

なぜイエズス・キリストがその重い十字架を喜んで担われたのか。なぜイエズス・キリストが、柔和にして寛仁にして、道にて会う人を自分の苦しみを忘れて慰めたのか。なぜ喜んで手足を延ばして釘付けにせられたのか。その釘はイエズス様の神経を撃って、どれほど激痛が走ったことか。体が倒れたとき、重い十字架が身体をどれほど打ち付けたか、茨の冠がどれほど痛かったことでしょうか。

なぜイエズス・キリストはこれらを受けたのでしょうか。

理由はたった一つしかありません。
それは愛する兄弟の皆さんと私を愛するためでした。わたしたちを地獄の火から救い出して、天国の歓びを与えるためというたったそれだけの理由で、そうすることで御父に栄光を帰するという理由のために、喜んで苦しみを受けられました。

聖トマス・アクィナスによると、御変容の時に御父は、「これこそ私の愛する子である、わたしの心に適うものである」と宣言しました。なぜ心に適うかというと、御父が与えたすべての愛・善をイエズス・キリストはそれをすべて最高に使って、それをもって御父に愛し返したからです。与えた善がすべて最高に使われたので、御父にとってイエズス・キリストは自分の心に適うものとなったわけです。

聖トマス・アクィナスによると、愛というのは、相互の交流だといいます。一方的ではなくて、愛し愛されるところに愛が成立する、イエズス・キリストはわたしたちに御血のすべてを流し尽くして愛を尽くされましたが、わたしたちはいったい何をお返ししたらよいのでしょうか。わたしたちがイエズス・キリストの心に適うものとなるためには、イエズス様に何をして差し上げたらよいのでしょうか。どうやったらイエズス様の愛に、愛を返すことができるのでしょうか。

それは皆さんが今日なさった十字架の御受難を黙想すること、ミサ聖祭に与ること、十字架の生け贄の再現に与ること、御聖体を拝領すること、そしてイエズス様の聖心が貫かれた聖心の愛を黙想することです。

今日皆さんがミサ聖祭に与り、十字架の道行きをされたことで、そして御聖体降福式に与ることで、主の聖心はどれほど喜びにあふれて、そして皆様にますますのお恵みをお返ししようとされることでしょうか。

よい四旬節を、残りの四旬節を、過ごすことができますように、マリア様の御取次をも請い願いましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


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