貞潔に反する罪:淫行、全ての穢れ、強欲、これらのことは口にさえもするな。…淫行の者、汚れた者、強欲の者は…、キリストと天主との国において遺産を嗣がない。
2024年3月3日 四旬節第三主日 大宮での10時半のミサ
トマス小野田神父
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、
今日は2024年3月3日、四旬節第三主日です。
主日のお知らせがあります。来たる復活の徹夜祭では、東京では二人の男性が、大阪では一人の女性が、洗礼を受ける予定です。どうぞこの洗礼志願者三人の方々のためにお祈りください。
さて、四旬節もますます深く入ってまいりました。今日の福音では、私たちの主は悪魔つまり「汚れた霊」のはたらきについて警告されています。「汚れた霊は、人から出ると、休みを求めて荒れ地をさまようが、それを見つけないので、"私が出てきた元の家に帰ろう"といって、帰ってくる。」汚れた霊が帰ってくる。今日、聖パウロも書簡のなかで不潔の罪、汚れの罪について警告しています。
ファチマの聖ヤシンタは、多くの霊魂たちが地獄の火に落ちているのを見て、どんな罪を犯すと地獄に行ってしまうのか、どうしたら落ちないようにすることができるのか、多くの人を助けることができるのか、知りたがりました。そこで、マリア様にお祈りの中で聞くと、聖母はこう答えました。「最も多くの霊魂たちを地獄に引き落とすのは、肉の罪です。」(第三手記)
まだインターネットもYouTubeも携帯もなかった1917年、今から百年以上の前の話でした。現代では、残念なことに、特にインターネットなどのせいで、多くの人びとが不潔の罪のその奴隷になってしまっています。なかには、依存症とか中毒という程度にまで、侵されている人々もいます。
ですから、今日は、聖なる公教会の精神に従って、四旬節の決心を新たにするために、貞潔に反する罪について一緒に黙想いたしましょう。そして四旬節の決心を新たにいたしましょう。
【不潔を避ける】
聖パウロはエフェゾ人たちに「古い人を脱ぎすてて、霊的な思いによって自分を新たにして、正義とまことの聖徳において、新しい人を着なければならない」と言っています。そして今日の書簡で、肉の罪の不潔を避ける、そしてその肉の罪による結果について話しています。今日は聖パウロの書簡に従ってこの二点について、黙想いたしましょう。
聖パウロが挙げている主要な不潔の罪というのは、淫行、全ての穢れ、強欲です。
(1)「淫行」というは姦淫のことで、結婚の枠の外で犯される不潔の罪です。子供の出産という自然なことを必ずしも妨害するものではないかも知れません。が、しかし合法的な結婚の外で犯される不潔の罪です。これに対して、旧約の義人のヨブは乙女のことをあまり考えないように自分の目と契約を結んだといいます。そして、女性を不必要に見ないようにしたとあります。
(2)聖パウロが挙げる第二の罪は、「全ての穢れ」です。これは、子供の出産という目的以外のためになされるすべての不潔の罪です。聖パウロはべつのところでもこう言っています。「肉のおこないは明白である。すなわち、淫行、不潔、猥褻、云々」(ガラチア5:19)ガラチア人への手紙の中にあります。
(3)第三に挙げているのは強欲です。「強欲」というのは、物質的なものをみだりに望むことで、それの中に肉の罪をみだりに望むことも入っていますが、これは物質的な罪と、精神的な罪の中間に位置しています。罪の対象が物質的肉体的なので、ここでは肉の罪のなかに聖パウロは入れています。しかし満足は精神的です。
聖パウロが注意して言うのは、これらについては「口にさえもするな」と言うことです。何故かというと、霊的な戦いにおいては、まず肉の罪が征服されなければならないからです。聖人たちは、肉の罪に関する行動や考えや言葉をすべて控えなければならないからです。聖パウロはこうも言っています。「すべてにおいて私たちは、天主のしもべとしての自分を主張する」(コリント後6:4)。
これ等の三つの罪の次に聖パウロはさらにそれにかかわるそれに付属するものも続けています。「汚行、愚かな話、下品な冗談さえもいうな」。
「汚行」というのは、猥褻な行為のことで、不純な接触や不純に触れることあるいは抱擁すること、あるいは接吻などです。
「愚かな話」というのは、人を悪へと罪へと挑発するような会話のことです。
「下品な冗談」というのは、まさにその通りで、他人を笑わせようとする品のない言葉です。わたしたちの主はこう警告します。「私はいう。人が話したむだごとは、すべて審判の日にさばかれるであろう」(マテオ12:36)と。
これらの聖パウロの挙げた三つのものは、もしもそれが人々を大罪へと犯させるようなものであるならば、その限りにおいて、重大な罪となります。聖パウロは、そんなことではなくて、その反対をすすめています。その反対は何かというと、天主に対する感謝です。むしろ感謝せよ。
【天主の怒り】
では第二に聖パウロはこれらの肉の罪の結果、いったい何が待っているのかということを話します。どのような罰があるかを示しています。「淫行の者、汚れた者、強欲の者は・・・これは偶像崇拝と同じである・・・、キリストと天主との国において遺産を嗣がない。」天の国に入ることができない。そこから、排除される。何と恐ろしいことでしょうか。
ところで、強欲の人が偶像崇拝と同じだというのは、どういうことでしょうか。聖トマス・アクィナスはこのように説明しています。偶像崇拝というのは、天主だけにふさわしい崇敬を被造物にしてしまうことです。ところで、天主のみにふさわしい崇敬というのは、二つがあります。一つは天主を私たちの人生の究極の目的とすることです。第二はその究極の目的に達することができると信頼することです。しかしもしも天主の代わりに、なにか被造物を目的としたり、あるいは被造物に究極の目的に達することができると信頼したりするならば、それが偶像崇拝と呼ばれます。強欲な人というのは、物質的なものを望んで、それを自分の究極の目的としたり、あるいはこの物質的な被造物に全ての信頼をおいてしまいます。ですから、聖パウロは、強欲な人は偶像崇拝者と同じだと言っています。
これらの人々は、遺産を相続しません。何故かというと、父の遺産を相続するのは子供だからです。聖パウロはローマ人への手紙にこう書いています。「私たちが子であるのなら、世つぎでもある。」(ローマ8:17)ところが肉欲の人、血肉の人は、純粋な霊である御父の子とは言えなくなってしまうからです。聖パウロはこう言っています。「兄弟たちよ、私はこう宣言する。「血肉は天主の国を継ぐことができない。朽ちるものは朽ちないものを継げない」と。」(コリント前15:50)
【遷善の決心】
では最後に私たちは、選善の決心をたてましょう。四旬節の中に深く入ってください。主は、肉体において苦しめられました。それは私たちの肉の罪を償うためでもありました。私たちに天の遺産を与えるためでした。わたしたちが贖われた霊魂の価値がどれほど高価であったか、わたしたちの遺産はどれほど高価な値を支払って贖われたのかということを、黙想いたしましょう。肉の罪がそれをすべて失わせてしまう、この罪を忌み憎む恵みをこい求めましょう。罪を忌み憎むということは、罪を痛悔するということです。痛悔の恵みを請い求めましょう。
聖トマス・アクィナスはこうも言っています。"「痛悔をすると言いながら」、痛悔をしているはずのその罪を犯すなら、あるいは以前犯したことをもう一度行うつもりで痛悔すると言っているのならば、あるいは痛悔すると言いながらもその罪を犯しているのならば、これは痛快をしているというよりも、天主を馬鹿にしている、嘲っている、と同じだ"と。
汚れた霊は、もう一度帰ってくると言います。七つの他のもっと悪い霊を連れて戻ってくると言います。もしもわたしたちが罪を忌み憎み、罪を避けようとするならば、貞潔を守ろうとするならば、その目的にふさわしい手段をも取らなければなりません
天主の御助けをもって、罪の機会をあるいは「機械」を、電子機器やあるいは携帯やコンピューターをも、遠ざかるようにしなければなりません。
それと同時に、わたしたちの努力を払うと同時に、天主の聖寵をも信じてください。わたしたちの力だけではかなわない、しかし天主の聖寵があるならばわたしたちにはそれができる、と信じてください。誘惑が強すぎるとか、自分の聖寵の助けは十分ではないなどと絶望しないでください。あるいは自分はまったく無力だまったくみじめだと、だから罪を避けることができない、もう無駄だ、捨てられた、捨てられるべきだなどと、絶望しないでください。その誘惑に負けないでください。イエズスさまの御受難の功力、無限の功徳、十字架から来る聖寵の無限の助け、聖心の私たちへの愛、その憐れみの無限、それを信頼してください。
わたしたちは、四旬節の決心を新たにいたしましょう。携帯やインターネットの使用を制限いたしましょう。夜は早く寝て、早く起きるようにいたしましょう。規則的な祈りの生活、あるいは特別な信心業、十字架の道行きやロザリオの祈り、あるいは霊的読書に励むお恵みを請い求めましょう。
ファチマのマリア様、聖母の汚れなき御心に祈りましょう。特にこの時代において、私たちが身も心も清く守られますようにマリア様にお祈りしましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。