御復活後第五主日 ― 舌による罪(東京および大阪2024年)
ワリエ神父 2024年5月5日
親愛なる兄弟の皆さま、
私たちは今日の書簡で、聖ヤコボが次のように語るのを聞きました。
「もし自分は宗教を行っていると考える人が、自分の舌を押さえず、自分の心を欺(あざむ)くなら、その宗教の行いはむなしい」(ヤコボ1章26節)。
さらにヤコボは、その2章あとで、舌による罪という同じテーマについて、次のような貴重な言葉を付け加えています。
「舌は私たちの肢体の中で、全身を毒するものとして、地獄から火をつけられ、一生の歩みに火をつけるのである。
獣、鳥、這うもの、海の生き物などすべての種類は、人間によって今も昔も制せられている。しかし人は、舌を制しきれない。舌は押さえきれない悪であって、死の毒に満ちている。
それによって私たちは、主なる父を賛美し、またそれによって、天主にかたどって創られた人間を呪う。同じ口から、賛美と呪いが出る」(ヤコボ3章6-10節)。
今日は、陰口について話しましょう。陰口とは、その重大さとは、償いの義務とはどんなものでしょうか。
1. 陰口
• 本質
聖トマス・アクィナスはこう言っています。「陰口とは、密かな言葉によって隣人の評判を汚すことである」(神学大全、第II-2部、第73問題、第1項)。
実際、人が言葉によって誰かを傷つけるには、二つの方法があります。公然と、面と向かって(つまり、侮辱することによって)傷つけることと、相手がいないときに、密かに、傷つけることです。後者が陰口です。
• さまざまな種類
人が隣人の陰口を言う方法はたくさんあります。
1.起こらなかったことを隣人になすりつけるとき、あるいは、嘘または軽蔑となるような想像上の事情を真実に付け加えるとき。
2.隠れた欠点、あるいは誰も知らない欠点を明るみに出すとき。その人が言うことは真実ですが、それを言うべきではないのです。その人は、真実でないことを言うことによってではなく、隣人の評判を傷つけることによって、陰口を言っているのです。それは悪意のある噂話です。
3.ある罪が本当であろうと偽りであろうと、その罪を誇張するとき。これは、他人の悪徳について語るとき、私たち自身が容易にさらされる危険です。
4.他人について、それが何ら悪いことでもないのに、あたかも隣人が邪悪な理由でそれをしたかのように話し、「ああ、あの人はあのような良い行いをしたが、全然敬虔な人ではない、人を喜ばせようとし、目立ちたがっている…」などと、さまざまな説明を付け加えるとき。陰口を言う人は、自らを天主と等しくすることで、人の心を調べて、人の最も秘密のこと、その意図さえも見分けるふりをします。
ファリザイ人を見てください。彼らは、イエズスが安息日に病人を癒やし、取税人たちと頻繁に交わり、不品行な人々のためにわざわざ出かけていくのを見て、つまずきました。
イエズスの最も聖なる行為が、陰口の対象にされたのです。
2.重大さ
• 陰口の罪
陰口は、その人にとって最も大切なもの、すなわちその人の評判を奪います。
そして、通常、人が自分に対して放たれている打撃にさえ気づかないとき、あるいは少なくともその打撃の主が誰であるかにさえ気づかないとき、陰口を言われた人はどうやって自分を守ることができるでしょうか? そのようにして、人は殺されても、そのことに気づきさえもしないのです。
このため、神学者たちは一致して、陰口は盗みよりも重罪だと言います。「良い評判は、大きな富にまさる」(箴言22章1節)。
• 聞く者の罪
「誰かが陰口を言っているのを聞きながら、その人の言うことに反対しない人は、その人の言うことを認めているように見え、その人の罪に加担している」(神学大全、第II-2部、第83問題、第2項)。
聖ベルナルドは私たちにこう警告しています。「蛇から逃げるように、陰口を言う者から逃げよ」(聖ベルナルド「De modo bene vivendi」説教17)。
• 他人が陰口を言っていたらどうすればいいでしょうか?
聖パウロはこう言っています。「兄弟と呼ばれている人々の中に、…讒言(ざんげん)する者…があれば、彼らと交わるな」(コリント前書5章11節)。つまり、私たちは陰口を言う人の恐るべき会話から離れなければならないという意味です。
時には、述べられていることに反対だと言うことが望ましいこともあります。しかし、常にそれが可能だとは限りません。
確かに、私たちは、黙ったままでいることで反対していることを示さなければなりません。
しかし、陰口に参加せず、陰口を助長しない最も簡単な方法は、会話のテーマを変えることです。実際、会話の話題があちらこちらに飛ぶのはよくあることです。
単純にこのように言いましょう。「ところで、こんなことを耳にしましたか?」とか、「こんなことに気づきましたか?」とかです。
3. 償い
聖アウグスティヌスの金銭に対する言葉は、陰口にも当てはまります。「償いなくして赦しなし」(聖アウグスティヌス、手紙65「マケドニア人への手紙」)。
ある日、一人の婦人が聖フィリッポ・ネリのもとを訪れ、人々の悪口を言ったことを告白しました。すると聖フィリッポ・ネリは夫人にこう言いました。「償いのために、次のようにしなさい。近くの市場に行って鶏を一羽買い、その鳥の羽をむしりながら歩きなさい。そして私のところに戻って来なさい」。婦人は大変驚きましたが、償いを忠実に果たし、告解室に戻りました。聖フィリッポ・ネリは彼女に言いました。「では、あなたの歩いた跡をたどり、あなたが散らばらせた羽を全部、一枚ずつ集めなさい」。「でも、神父様!」と、あわれな女性は叫びました。「それは不可能です。風が羽をあらゆる方向に運んでいったのに、どうやってそれを集めればいいのでしょうか?」。「いいですか、わが子よ」と聖人は答えました。「あなたの中傷の言葉は、風が撒(ま)き散らした羽のようなものです。その言葉はいろいろな方向に散ってしまいました。できるなら、今呼び戻してごらんなさい…」。
聖ヴィンチェンツィオ・フェレリオは次のように言っています。「でも、どうすれば誰かの名誉を回復できるのでしょうか? あなたはそう尋ねるでしょう。あなたが悪口を言ったときにその場にいたすべての人に、自分は悪意から話したのであって、自分の言ったことを信じないように、と言わなければなりません。もしあなたが中傷した人がそれについて知ったなら、あなたにはその人に赦しを請う義務があります。このような中傷の償いをしなかったために、大勢の者が地獄に落ちています」。
・結論
親愛なる兄弟の皆さま、次の聖書の警告に耳を傾けてください。
「偽りの誓いは、どんな報いを受けるだろうか、欺(あざむ)きの舌よ。それはつわものの鋭い矢、えにしだの燃え木」(詩篇119篇3-4節)。
「無駄なつぶやきを言わぬように心がけ、あなたたちの舌に悪い言葉を載せるな。密かな私語さえ、報いを受けないではすまぬ」(知恵1章11節)。
「命を追い求め、幸せを見ようとして年の長きを望むのは誰か。あなたの舌を悪から守れ」(詩篇33篇13-14節)。
ですから私たちは、特に他人のことについて、しゃべりすぎないように気をつけましょう。愛徳に満ちた話し方をしましょう。また、わたしたちの舌によるすべての罪を償いましょう。