Quantcast
Channel: Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた
Viewing all articles
Browse latest Browse all 4247

聖体行列とは、御聖体が本当にイエズス・キリストの御体であることについての論理的な結論

$
0
0

2024年6月2日 東京 10時30分のミサ 説教

トマス小野田神父

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、今日は聖体の荘厳祭を祝っています。
先週の木曜日は、御聖体の秘跡を祝う祝日でした。これは十三世紀に制定されて、この祝日のミサそのテキスト聖務日課のテキストは、聖トマス・アクィナスによってつくられました。特にさきほど歌われた続誦というのは内容が非常に深くとても美しいものです。そこではこう歌っていました。「おまえの出来るかぎり、それだけ大胆になれ。全ての賛美に優るお方であるがゆえに、単なる賞賛では足りない。」
そこで、聖体の秘跡を祝う祝日が制定されて、祝われてからすぐに御聖体の祝日には聖体行列を行うことが教会の古くからの聖なる習慣となっています。ですから今日は、一緒に聖体行列について黙想いたしましょう。

【典礼としての行列】
最初に典礼としての行列を垣間見ます。
旧約というのは、新約という本物を予告する影にすぎないものでした。旧約時代には、御聖体を予告するいろいろな前兆がありました。たとえばアブラハムが屠ろうとした自分の子どもイザク、あるいは大司祭メルキセデクの捧げたパンとブドウ酒、あるいは過ぎ越しの小羊、あるいは天からふったマンナ、などです。
行列についていえば、旧約時代から特にエルサレムの神殿では典礼による行列がありました。
イエズスさまが枝の主日にエルサレムに入城したときの行列も、典礼によって世界中に行われるようになりました。司祭がミサを始める時に入堂するときも、もともとは典礼による行列でした。
行列というのは、私たちが天の国を目指して歩む旅人であるということを示しています。これは旧約時代にモーゼが砂漠を聖なる土地…約束の土地まで歩いてさまよったことに前兆されています。
ですから聖トマス・アクィナスは今日の続誦ではこう歌っています。「見よ、天使達のパンを。旅人の糧となったパンを。これは正に子どもたちのパンであり、犬へ投げやってはならない。」

【聖体はイエズス・キリストの御体】
まさに天主の子どもたちの食するパン、なぜかといいますと、御聖体は三位一体の第二のペルソナ、天主の御一人子ご自身だからです。イエズスさまは、はっきりと予告されました。今日の福音にそう書いています。その予告がしるされています。「私の肉はまことの食物(たべもの)であり、私の血はまことの飲み物である。私の肉を食べ、私の血をのむ人は、私におり、私もまたその人のうちにいる。私を食べる人も、私によって生きる。天からくだったパン、これは、先祖が食べてなお死んだそのようなものではない。このパンを食べる人は永遠に生きる」と。

この御聖体の予告を聞いた時、人々の態度は二つに一つでした。光を拒否するかあるいはこれを信じるかです。光を拒否した人は、立ち去りました。主は、そのときに、「ああ、私が言ったのはたとえだ。だから、象徴だ。」とは言いませんでした。そうして人々を引き留めようとはしませんでした。言い換えると、人々が、イエズス様がどのようにしてご自分の血と肉を与えるのかということは正確に理解したわけではなかったのですが、たとえ人々が人食い人種の宴会でもやるんじゃないかと思ったかもしれませんが、イエズス様は、けっして取り消しはしませんでした。一歩も譲ろうとはしませんでした。
最後の晩餐のときには、つまり最初のミサ聖祭で、使徒たちは御聖体を制定するのを見て、イエズス様がかつて言われた命のパンの意味をはっきり理解しました。聖変化の言葉によって、パンがほんとうにキリストの体となって、ブドウ酒がキリストの御血となるのだ、と理解しました。

聖パウロははっきり言っています。「私たちが祝する祝聖の杯は、キリストのおん血にあずかることではないか。私たちが裂くパンは、キリストのおん体にあずかることではないか。」(コリント前10:16)
今日の書簡にもこうあります。「ふさわしい心を持たずに、主のパンを食べ、その杯を飲む者は、主のおん体とおん血とを犯す。」と。

一世紀から教会の初代から六世紀の間だけでも、数えても、少なくとも63人の教父たちが、御聖体はまさにイエズス・キリストのほんとうの体であると断言しています。63人の名前をすべて挙げるのは時間が足りないのですが、例をあげれば、一世紀にはアンティオキアの聖イグナチオ、二世紀には殉教者聖ユスティヌス、三世紀にはオリゲネス、四世紀にはエルサレムの聖チリロ、五世紀には聖アウグスチヌス、などなどがいます。

プロテスタントの聖書の自由解釈というものが生まれるまで1500年のあいだ、教会は明確に御聖体におけるイエズス・キリストの現存を現実の存在を、その通りに理解し続け信じ続けてきました。世界はそれに対する疑いさえも聞いたことはありません。

【なぜ御聖体が制定されたのか】
なぜ御聖体が制定されたのでしょうか。聖トマス・アクィナスはこの祝日の聖体の祝日に唱えられる聖務日課のなかでこう言っています。御托身の目的は、人間天主が、つまり、天主が人間となったことの目的は、私たち人間を天主のするようにすることだ、と。聖トマス・アクィナスの言葉を引用します。
「天主の御一人子は、私たちがご自分の天主の本性の参与者となることを望んで、私たちの人間の本性を受け給うた。それは天主が人となって、人々が天主となるためである。」
【Immensa divinae largitatis beneficia exhibita populo Christiano inaestimabilem ei conferunt dignitatem. Neque enim est aut fuit aliquando tam grandis natio quae habeat deos appropinquantes sibi sicut adest nobis Deus noster. Unigenitus siquidem Dei filius, suae divinitatis volens nos esse participes, nostram naturam assumpsit ut homines deos faceret factus homo. Et hoc insuper quod de nostro assumpsit, totum nobis contulit ad salutem. Corpus namque suum pro nostra reconciliatione in ara crucis hostiam obtulit Deo patri, sanguinem suum fudit in pretium simul et lavacrum, ut redempti a miserabili servitute a peccatis omnibus mundaremur.】

天主の命を受ける、私たちの想像を絶する至福の命を受ける…このためでした。そのためにイエズス様は、ご自分の体で私たちを養おうとすることを望まれたのです。「まことに、私はいう。人の子の肉を食べずに、その血をのまなければ、あなたたちの中に命がない。私の肉を食べ、私の血をのむ者は永遠の命を有し、終りの日にその人々を私は復活させる。…このパンを食べる人は永遠に生きる。」
これがイエズス様のご計画です。

【聖体行列】
聖体行列に話を戻すと、聖体行列というのは、御聖体が本当にイエズス・キリストの御体であることについての論理的な結論です。プロテスタントの人々が「ああ、それはむずかしい話だ、誰がそんな話に耳をかせようか」と、昔イエズス様の聖体の予告のことを聞いたユダヤ人たちと同じようなことを言いだしたとき、パンはイエズス様の体の象徴だ、譬えだ、パンというものの意味が変わるのだ、などと言い出したとき、カトリック教会はノーと言いました。違う。そうじゃない。イエズス・キリストの本当の体だ。トリエント公会議、第13総会で1551年10月11日に次のように宣言しました。
「聖なる公教会は、次のように宣言する。この崇高で尊敬すべき聖体の秘跡が毎年定められたた祝日においてつまり御聖体の祝日において、特別の崇敬をもって荘厳に祝われる習慣、つまり、御聖体がうやうやしくかつ名誉ある仕方で道や公けの場所を行列で奉持される習慣は、極めて敬虔で宗教的に天主の教会に導入されたのである。全てのキリスト者たちが特別の方法で、普通のやり方ではないやり方で、彼らの心が救い主であり贖い主に対して、主が死に勝利し凱旋したことが明らかに分かる、言葉で言い尽くせない天主の恵みについて感謝していることを、そしてそれに記憶していることを証しするために聖なる日としてこの記念日を設けることは極めて合理的である。…」

もしも聖体拝領でイエズス様は、王として、私たちの心にわたしたちを祝福されるためにいらっしゃるとしたら、御聖体行列とは、イエズス様が天主として、私たちの住んでいる街を共同体を、社会を、祝福して、恵みで満たされるために、歩まれる、行幸される、巡幸行列されるということなのです。たとえこの行列を見て何も分からない人がいたとしても、主は必ずお恵みをくださいます。

ルルドで病気の人が癒されるのも、非常に多くの間、聖体行列の間、聖体の祝福を受けたときです。

【日本と御聖体】
私たちの祖国では、キリシタンの時代から特に盛んな信心が二つありました。それは御聖体への信心とマリア様への信心でした。
日本で最古のカトリックの宗教画は、マリア様と御聖体への信仰を表す「ご聖体の連祷と黙想の図」というものです。これは今でも現存しています。そこには「至聖なる御聖体は賛美せられさせ給え」と言う言葉があります。それは、キリシタンたちの合言葉でもありました。
1627年に雲仙の拷問で熱湯の地獄に雲仙の地獄に突き落とされて殉教していった16人がいます。みな最後の言葉は「至聖なる御聖体は賛美せられさせ給え」でした。
国の重要文化財「天草四郎陣中旗」――これは十字軍の旗や、聖ジャンヌ・ダルクの旗とともに世界三大聖旗、聖なる旗と言われていますが――これは、「ご聖体の組」という御聖体の信心会の旗でした。ここにも同じ合言葉が書かれています。「至聖なる御聖体は賛美せられさせ給え!」

【遷善の決心】
では最後にわたしたちは遷善の決心を立てましょう。
残念ながら新しいミサによって、カトリックの教会がいつもやり続けてきた御聖体に対する信心、そして大和ごころが大切にしてきた御聖体に対する信心が、非常に軽視され、御聖体が粗末に扱われるようになってしまいました。特に手による立ったままの聖体拝領によって、人々の間には無関心冷淡が広がり、イエズス様の御聖体に対して愛の秘跡に対して忘恩と冒涜でお返ししているかのようです。今残念ながら、イエズス様は多くの場所で、無視と嘲り不信仰を受けています。ですから、すくなくとも私たちは、今日、イエズス様の愛に愛で応えて、御聖体を礼拝いたしましょう。

私たちの先祖がいつも口ずさんでいたように、「至聖なる御聖体は賛美せられさせ給え!」といつも口ずさむことができますように。

最後にマリア様にお祈りいたしましょう。マリア様こそイエズスさまを最初に御胎内に宿された方、わたしたちもマリア様のように、イエズス様を礼拝してそして賛美し続けることができますように。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


Viewing all articles
Browse latest Browse all 4247

Trending Articles