聖霊降臨後第六の主日 ― 真のあわれみと偽りのあわれみ
ワリエ神父 2024年6月30日
「Misereor super turbam」――「私は群衆があわれでならぬ」【マルコ8章2節】。
あわれみを意味するラテン語の言葉は、「MISERI/CORDIA」、つまり、「みじめさ」と「心」という二つの単語に由来します。これは、他人のみじめさを心からあわれむことです。
私たちは天主のあわれみについてよく耳にします。「天主のあわれみ」という表現はどこにでもあります。
しかし、私たちはそれを正しく理解しているでしょうか。
エリヒ・プリープケは、有罪判決を受けた第二次世界大戦のナチス戦犯で、335人のイタリア民間人の死に責任があり、また自らが二人を射殺したことを認めていました。
しかし、彼はカトリックに改宗し、自分の罪を告白してそれを後悔し、牢獄でその罪を償いました。
2013年10月、彼は秘跡を受けた後に亡くなりました。
バチカンは、彼の葬儀を、いかなるカトリック教会でも執り行うことを禁ずるという前例のない措置を発表しました。
その数カ月前、教皇フランシスコは同性愛者について語り、こう宣言していました。「わたしが裁くことなど、できるでしょうか」。
それにもかかわらず、一人の悔い改めた戦犯はカトリックの葬儀を拒否されました。
聖ピオ十世会は、メディアからの攻撃にもかかわらず、彼の葬儀を挙行しました。
あわれみについてずいぶん多くのことを語る教皇と、あわれみのわざの一つである「死者を葬ること」を行った聖ピオ十世会とでは、どちらが真にあわれみ深かったのでしょうか。
教皇フランシスコは、常にあわれみについて語っています。しかし、教会はこれまであわれみを、そのように理解したことは決してありませんでした。そのことについて、私たちの総長は以下の一節で説明しています。」
「あわれみは、もはや、悔い改めた罪人を両手を広げて迎え入れ、その罪人を再生させ、成聖の恩寵の生活に戻すという、愛の天主の対応ではありません。あわれみは、今や、現代人の緊急の要請を満たすために必要となった、運命的なあわれみとなってしまったのです。それ以来、人は、自然法さえも尊重することができないと見なされ、そのため、このようなあわれみを受ける厳格な権利を持つこととされるのです。そのあわれみとは、もはや歴史を支配せず、自らを歴史に適応させるような天主からの、見下した恩赦のようなものになってしまっているのです。」
「(教会が)聖体拝領について、現代人が耐え難い不寛容とみなす、以前と同じ条件をもはや人に課すことができないとすれば、この論理に従うならば、唯一の現実的かつ真にキリスト教的な対処法は、この状況に適応して、聖体拝領の必要条件を再定義することになってしまうのです。カトリック信者は今、この世の道徳を採用するか、あるいは、少なくとも場合に応じて、離婚して「再婚した」カップル、そして同性カップルさえも含む現在の道徳に、道徳律を適応させることとされているのです。
このようにして、危機に瀕した霊魂は、自分の信仰の中で、励まされ、強められる代わりに、自らの罪深い状況の中で、安心させられ、慰められているのです。そうすることで、信仰の守護者は、自然の秩序さえ廃止してしまうのです。つまり、まったく何も残らないのです」(パリャラーニ神父)。
教皇フランシスコのインタビュー本「神の名はいつくしみ」(The Name of God is Mercy)を読むと、雄弁な沈黙がいくつかあるのが衝撃的です。以下のことには、一言も触れていないのです。
悔悛者には、罪の償いが必要であること。 聖年の贖宥で、有限の罰が赦されること。 罪の機会に近づくのを避けること。 死の時、天主の審判を受けること。悔悛の秘跡のあわれみについてこれほど頻繁に扱っている本ならば、悔悛者の義務について、特に行動を改めるという固い決心の必要性や、あるいはキリストのいくつかの厳しい発言を思い起こさせることによって、厳格さに欠ける解釈を排除するような境界線についての明確な説明があることを、読者は期待していたことでしょう。
(教皇がよく使う)ユダの例を見てみましょう。ユダはただ自分を恥じていただけで、天主に対して罪を犯したことを、超自然的に悔いていたわけではありません。
悔い改めた罪人であることが、天主のあわれみを得るための条件なのです。
教皇フランシスコのあわれみの概念は、行動を改める、あるいは痛悔するという固い決心とは関係なく、赦しを得るためには信仰のみが必要だとする、プロテスタントのあわれみの概念に似ています。したがって、このインタビューを読むと、自分が罪人であることを認める人のうち、いったい誰が地獄に落ち得るのか、私たちには分かりません。ちなみに、地獄については、明示的にも暗黙にも、まったく言及されていません。(フランソワ=マリー・ショタール神父)
「もう罪を犯すな」と、キリストは福音書の中で繰り返し言われました。
ですから、私たちは痛悔の祈りでこう唱えるのです。「われ、聖寵の助けをもって、わが罪を告白し、償いをなし、生活を改めんと決心し奉る」【公教会祈祷文では、「われ、聖寵の助けをもって今より心を改め、再び罪を犯して、御心に背くことあるまじと決心し奉る」】。
福音書中の崇高な場面(例えば、姦淫の女や放蕩息子など)での救い主の無限のあわれみを強調することは重要ですが、他のすべてのより厳格な箇所を体系的に無視することは、罪や贖い、したがってさらにはあわれみについての教理において、バランスを欠いたものになってしまいます。
童貞聖マリアは、「あわれみの御母」と呼ばれています。聖母のあわれみ深い厳しさを見てください!
・悔い改めの重要性について、ルルド、ポンマン、ファチマで聖母がしばしば繰り返された訴え。
・ファチマで子どもたちに示された地獄の幻視。
このすべては、「われらを地獄の火より守る」という天主のあわれみ深い計画の一部なのです。
ですから、親愛なる兄弟の皆さま、謙遜と熱意をもって、御血の連祷の次の祈りを繰り返しましょう。
われらの救霊の代価なるキリストの御血、われらを救い給え。
罪の赦しの条件なるキリストの御血、われらを救い給え。
悔い改むるものの希望なるキリストの御血、われらを救い給え。
世の罪を除き給う天主の小羊、主われらを赦し給え。
世の罪を除き給う天主の小羊、主われらの祈りを聴き容れ給え。
世の罪を除き給う天主の小羊、主われらをあわれみ給え。