2024年6月30日大阪ミサ説教
トマス小野田圭志神父
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、
今日は聖霊降臨後の第六主日です。
ところで昨日は使徒聖ペトロと聖パウロの祝日でした。キリストは、聖ペトロの上にご自分の唯一の教会をおたてになりました。
キリストの教会というのは、聖ペトロとその後継者を目に見える頭(かしら)としてたてられた教会で、使徒信経にもあるように、四つのしるしを持っています。つまり、一、聖、公、使徒継承の教会です。これは、愛する兄弟の皆様と私が属している教会、カトリック教会のことです。
カトリック教会は、私たちが永遠の栄光にたどり着くために必要な真理を、明確に、そして確実に、疑いもなく、誤りなく教え、そして必要な聖寵お恵みを私たちに与えることができるためにつくられた教会です。
まことのキリストの教会は、信仰と秘跡と統治における一致を保ち、そして、真理を誤りなく教え続けることができます。
いったい何故そのようなことが可能なのでしょうか? 何故ならば、まず第一に、全教会を統治し教導し教え導く至上の権限を、つまり首位権を聖ペトロに与えた、聖ペトロの上に立てたからです。天主の定めによって、このペトロの首位権を――単に、名誉上の首位権だけではなく――統治の権能を持つ首位権を、頭の上(ペトロの上)に与え、ご自分の教会を立てたからです。天主の定めによってペトロの首位権は、連綿不断の後継者――すなわち歴代のローマ教皇――を持ちます。
第二にこのペトロの後継者は、不可謬の権利を行使することができると主は定めました。
今日は、特に第一の点、キリストはペトロの上に「首位権」を与えたということについて黙想いたしましょう。
【1:キリストは約束をする:あなたはペトロである。私はこの岩(いわお)の上に、私の教会をたてよう。】
まず第一に、イエズス様は約束されます。「あなたはペトロである。私はこの岩(いわお)の上に、私の教会をたてよう。」
マテオによる福音にはイエズス様が聖ペトロの上に自分の教会をたてようとする約束が記されています。イエズス様はこうおっしゃいます。「おまえはペトロ、岩(いわお)である。」そして言葉を続けてこう言います。「私はこの岩(いわお)の上に、私の教会をたてよう。地獄の門もこれに勝てないだろう。」
イエズス様はご自分の教会を堅固な岩(いわお)の上にたてられた家にたとえています。永遠の智恵であるイエズス様は、岩(いわお)の上にご自分の家をたてます。なぜかというと、「雨が降り、流れができ、風が吹いて打ち当るけれども、その家は倒れない。岩(いわお)の上に土台をおいてあるからである。」(マテオ7:25)
イエズス様が創立する教会は、ペトロという岩(いわお)の上にたって、地獄の門もこれにうち勝つことはありえません。地獄の門が勝てないということは、つまり、いかなる誤謬も嘘も異端も悪意の攻撃も、キリストの教会を征服することはないということです。たしかに攻撃は受けるでしょう、この世の憎しみの対象となるでしょう、しかし、キリストの教会は主のたてた構造を保ちながら、たとえ数は少なくなったとしても、必ず健康で生き生きとした部分が存在し続ける、世の終わりまで存在し続け、そして勝ち残る、という約束を受けています。
聖ペトロにはこうも約束します。
「私は天国の国の鍵をあなたに与えよう。」
人間の社会においては、団体の組織を固くし秩序を保つために必要なものは、その指導者です。指導者がどのように素晴らしいかにかかっています。教会という団体においてもまさにペトロの位置はこれにあたります。鍵というのは、所有権やあるいは主権を象徴しています。鍵を持っている人が、その家の主人であり支配者であるからです。ペトロは、そしてペトロとその後継者は、地上において目に見える全教会の最高の支配者、最高の権威者として、その鍵を委ねられました。
ペトロの役割というのは何かというと、イエズス・キリストの代理者として、教会における真の教師としてキリストの教えを授けて、教会を異端と離教の禍(わざわい)から守ることです。ペトロは、異端と離教を排斥して、信仰と、そしてペトロの聖座への忠誠における一致を保持しなければなりません。そして、キリストからゆだねられた群(むれ)を牧する使命があります。
しかもイエズス様は、さらにこうも約束します。
「あなたが地上でつなぐものはみな天でもつながれ、あなたが地上でとくものは、天でもとかれるだろう。」
これは法を制定して、解釈して、判決して、断罪し、そして赦す権利が約束されたということです。たしかに、この権能は他の使徒たちにも授与されています。マテオの18章18節に書かれています。しかし、教会の礎石(きそ)として最高の支配権が鍵の保持者である、鍵を持っているペトロに約束されているので、その他の使徒たちはすべてペトロを通じてその権能を行使しなければならなくなっています。
【2:キリストは約束を果たす:「私の小羊を牧せよ!」】
イエズス様は、確かに復活する前に御受難の前にペトロにこう約束されましたが、その約束を復活後に果たします。それは、ペトロがイエズス様に対する愛を三度宣言した時でした。その時、主はペトロに三度言われます。
「私の小羊を牧せよ!」「私の小羊を牧せよ!」「私の羊を牧せよ」――これはヨハネの福音の 21章(15-17)に書かれています。こうして、司牧の全権限を聖ペトロに委ねました。
イエズス様はかつて自分のことをよき牧者であると言われたことがありますが、イエズス様の小羊というのは、主を信じている全ての信者たちのことです。ではイエズスがわたしの羊を牧せよと言ったその羊とは誰のことでしょうか、それは使徒たち、つまり、司教たちのことです。つまりイエズス様は、ご自分の代理者としてペトロを、すべての羊と子羔(こひつじ)の牧者として任ぜられたのです。つまり信者のみならず使徒の後継者である全世界の司教たちをも指導せよ、ペトロの教導と支配を仰ぐべきものとして定めました。
このようなペトロの首位権は、使徒たちによってすべて受け入れられました。ペトロは最初に召命をうけた最初に弟子となった者ではありませんでしたが、使徒たちの名前が列挙されるときには常にペトロの名前が第一番目に挙げられています。
これは名誉だけの首位権ではありません。聖書を見ると、ペトロに教導の教え導く首位権があったということがわかります。いくつか例をあげます。これはすべてではありません。
たとえば、ユダが7:28主を裏切ったとき、ユダに代わる者を選ぶことを提案したのはペトロでした。(使徒行録1:22)
聖霊降臨の日に最初に皆の前に立って説教をしたのはペトロでした。(使徒行録2:14)
イエズスの名前によって使徒として最初の奇跡を行ったのもペトロでした。(使徒行録3:6-8)
アナニアとサフィラが使徒たちを欺いた事件がありましたが、そのとき裁判官の役割をしたのはペトロでした。(使徒行録5:3-4)
異邦人を最初に教会にうけ入れたのもペトロでした。(使徒行録11:4-17)
ペトロは、エルザレムの公会議を指導して、そして救いは全ての人類に及ぶと宣言して、論争に決着をつけ、その後異論をゆるしませんでした。(使徒行録15:5-11)
【3:ペトロの首位権は世の終末まで続く】
ではこのペトロの首位権はペトロで終わったのでしょうか、いえペトロの首位権は世の終りまで続きます。なぜかというと、キリストを信じる者たち、つまりキリストの羊と小羔(こひつじ)にとって、自分たちを狼から異端から誤謬から守り、そして豊かな牧場、一つの牧舎(まきや)に導いてくれる牧者が常に必ず必要であるからです。ですからペトロは、正当な後継者を通じて世の終りまで信徒を導き、そして教会の土台として世の終わりまでその後継者を持ち続けなければなりません。このペトロの後継者としての教皇の首位権は、教会の全歴史を通じて認められてきました。
現代にいたるまで使徒の時代から認められ続けられてきました。その例はたくさんあります。が、今回はいくつか挙げるのをゆるしてください。
たとえば、一世紀のローマ、聖ペトロが殉教しました。昨日その祝日を祝いました。その後継者は、聖リノでした。聖リノも殉教しました。その次の後継者は、聖クレトでした。聖クレトも殉教しました。その次は聖クレメンテでした。聖クレメンテ(91-100年)は第四代教皇です。その当時、エフェゾではまだキリストの最愛の弟子だった使徒聖ヨハネが生きていて、まだ存命していました。ところでちょうどまだ聖ヨハネが生きていた時代に、エフェゾのすぐ近くの町コリントで大きな信仰に関する軋轢が起こりました。大論争が起こりました。そのときにコリントの人々は、この問題を解決しなければなりませんでしたが、エフェゾのすぐ近くにいたエフェゾの聖ヨハネではなくて、ローマにいた教皇聖クレメンテの元に、問題解決を願ったのでした。
考えても見てください。聖ヨハネは、キリストと三年間生活をともにした最初に選ばれた弟子です。最後の晩餐の時にはイエズス様の胸に頭をおいてイエズス様から特別に愛された愛弟子(まなでし)です。十字架の足元に一人残った弟子です。聖ペトロはイエズス様を否んだ弟子です。聖ヨハネはマリア様を御自分の家に受け取ったその弟子です。ところが、この問題が起こったときにはコリントの人々は、聖ヨハネではなくて聖ペトロの後継者に、教皇クレメンテに、問題の解決を願ったのです。すると教皇が、聖クレメンテが、コリントの教会に書簡を送って、教会の平和を乱す者を懲らしめて、そして、不従順を戒めたのでした。何故でしょうか。なぜかというと、ローマにいるペトロの後継者こそが使徒たちの頭であって、Pater Patrum (父たちの父)つまりPapa 教皇であったからです。
これは一世紀だけのことではありません。そののちもずっとそうでした。
たとえば、聖バジリオは、聖ダマソ教皇(366-384年)に小アジアにおける憂慮すべき大論争と紛糾があるときにそのことを告げて、教皇にぜひ問題解決をお願いしますとお願いしました。そのような干渉をすることが当然であるということをいったその理由の一つに、前任者であるデオニジウス(259-269年)教皇がすでに紛争の解決のために干渉したということが例にとって聖ダマソに訴えています。
あるいは東方教会の中で最も優れていたといわれる首座司教アレキサンドリアの聖チリロ(444年死亡)は、「教皇チェレスチノは全世界の司教たちの頭である」とも言っています。
このような教父たちの引用を列挙すると、このお説教は終わりがありません。ですからこのような例をいくつか挙げることに満足してこのような結論をとりたいと思います。つまりキリストがたてた教会は使徒の時代から全教会にわたって常に現代に至るまで、ペトロとその後継者を最高の指導者として来ました。
キリスト教の全司教たちの中で、ローマの教皇司教だけが常に聖ペトロの正当な後継者として主張していて、他にはそのような主張をする者は誰もおりません。つまり、キリストの教会は、ローマの司教、教皇を頭とする教会であるということです。
【4:教皇の「限界」】
では、この教会は、聖ペトロが全権を持っていて、自分の思う通りに何でもすることができるのでしょうか。いえ、教皇様には限界があります。これについては、詳しい話はまた別の機会にすることにして、一つだけ述べることにします。
たしかに 教皇はキリストの代理者として立てられましたが、後継者として立てられたのではありません。つまり、教皇様は自分の思う通りに教会を変えることができるわけではありません。教皇は、現実を教えるためにその役割を与えられました。現実というのは、頭の中で、考えたイデオロギーではなくて、わたしたちがどう考えても変えることができないその世界のことを、現実と言います。リアリティーといいます。この現実を教えるために立てられました。
そのリアリティー――現実――というのが何かというと、天主が在(ましま)すということです。三位一体の天主がまことにまします、そして永遠の命があるということ、超自然の世界がある、お恵みがある、聖寵の世界があるということ、罪があるということ、真理というものが、私たちの避けることができない現実があるということです。天国そして地獄という現実を教えるためです。
つまり信仰という、私たちが変えることができない真理の現実を教えるために立てられました。
ですからこの現実、天主の啓示・信仰を全てにまさってイデオロギーに勝って最優先にしなければならないということを教皇は教えるために、立てられました。
たとえば現実とはどんなことかというと、天主は男と女を作ったということです。それ以外のものを作りませんでした。婚姻は一人の男と一人の女が排他的に結合することだと、それが現実です。それ以外のことはありえません。それを教えるために教皇は立てられました。ですから教皇様は、教皇様といえどもイエズス様がたてられた教会をその制度を変えることはできません。現実を、真理を変えることはできません。
ですから教皇様は、たとえ教皇様といえども、使徒信経や、ニケア公会議の信仰宣言を否定したりとか禁止したりすることはできません。
同じように、教皇様といえども、教会が二千年間行って愛し信じ実行してきた聖伝のミサを禁止することはできません。教皇様の役割は、信仰を正しく伝えることにあるからです。
【5:遷善の決心】
では最後に選善の決心をたてましょう。キリストは、わたしたちに永遠の命を与えるために、目に見える指導者を与えました。信仰の一致と秘跡の一致と統治の一致をわたしたちに確実にするために、世の終わりまで確実にするために、私たちに教皇様という特別な役割を与えてくれました。それが聖ペトロの後継者です。
キリストが聖ペトロの上にたてた教会は、いまでも続いています。ローマカトリック教会です。一、聖、公、使徒継承の教会です。そしてこの教会に、愛する兄弟の皆さんと私は所属しています。この事実は疑う余地がありません。私たちがなすべきことはただ一つです。イエズス様の聖心の真理を、そして愛のプレゼントをそのまま受け入れて感謝して讃美することです。
では最後にマリア様にお祈りいたしましょう。教会の母であるマリア様にお祈りしましょう。私たちが受けたこの聖心の愛のプレゼントを感謝しそして讃美するとともに、多くの方々がこの教会の懐に入ることができますように、そして永遠の命まで導かれますように、真理を知ることができますように、お祈りいたしましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。