2024年7月15日 東京 カルメル山の聖母の随意ミサ 説教
「人間の生命は天主のみがその絶対の主である」(2024年7月15日 カルメル山の聖母の随意ミサ)
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
神父様、
愛する兄弟姉妹の皆様、
今日は2024年7月15日、「マーチ・フォー・ライフ2024年」の行事の一環としてカルメル山の聖母の随意ミサを荘厳ミサで行っています。
この世における人間の生命(いのち)は、神聖であってけっして犯すことができません。人間の生命が受精の瞬間から始まるということ、そして人間としての存在の最初の瞬間からこの生命がまもられなければならないということは、真理です。これは誰も変えることができません。この真理をカトリック教会は常に教え続けています。
【最初の瞬間から人間の生命がまもられなければならない理由】
何故なら、人間の生命は、天主だけがその絶対の主であるからです。
ほかには誰も手を付けることができません。
何故ならば、人間の生命(いのち)は、人間すべては、天主の似姿にしたがって天主の肖像によせて作られているからです。
何故ならば、人間は洗礼を受けることによって、天主の養子、子どもとなることができる高貴な存在であるからです。
人間は天主の永遠の至福の栄光の冠を受けるために、そのためにこの地上で生まれてくるのです。
【天主こそが絶対の主】
もしも創造主なる天主の存在を否定したとしたならば、もしも人間が天国での永遠の至福の生命を得るためにこの世に生きるのではないとしたならば、もしも人間のこの世における存在というのがただ偶然のものに過ぎないとしたならば、その論理的な結論は何でしょうか。
その結論は、つまり人間の生命(いのち)の価値などまったくない、です。価値がないと結論づけざるを得なくなります。
もしも天主が人間の生命(いのち)の絶対の主でないならば、天主の十戒は、社会生活において無視されるに違いありません。
もしもそうならば、天主の聖なる掟は、夫婦の生活においても無視されます。
結婚が聖なるものや、家庭生活が尊いということ、これも無視されます。聖なる家庭を築き上げるという理想が、個人主義・利己主義・エゴイズムに取って代わるに過ぎません。
もしも超自然の生命(いのち)への希望がなくなってしまったならば、キリスト教の理想が失われてしまいます。つまり異教の理想がそれにとって代わるしかありません。言いかえると、人間は、永遠のしあわせのためではなくて、この世の快楽のためにだけ生きていることになってしまいます。
面白おかしい刹那の快楽を追求するために、自分の欲求を全て満足させるために、何が必要でしょうか。お金が必要です、権力が必要です、地位と名声が必要です。これを求めます。
自分のやりたい放題、下等な本能に従って、好きなだけ、制限もなく、ブレーキもなく楽しみたい。そうしたら邪魔者は敵になります。いったい何が邪魔者でしょうか。道徳です、天主です、掟です、家族、家庭、さらには子供たちさえも自分の楽しみの邪魔になるかもしれません。
堕胎・妊娠中絶、これはお母さんの胎内にある子供たちの命を殺害することです。
何故こんなことをしてしまうのでしょうか。こどもがこんなに大切ではないでしょうか。いや、子供が邪魔だからです。自分の健康や、快楽、評判や、キャリア、世間体などにとって邪魔だからです。
それを守るために、自分の快適な生活と言う偶像のために、小さな赤ちゃんを生け贄として人身御供として捧げているのです。自分の面白おかしい生活を、他の人間の死に基づかせているのです。自分の楽しみのほうが、子どもの命よりも絶対的な価値を持っていると主張するからです。これは確かに偶像崇拝と言えるかもしれません。
いえ、天主こそが絶対の主です。天主の掟に従うこと、永遠のいのちの救い、これこそがわたしたちにとって最優先しなければなりません。
【堕胎】
特にわたしたちはマーチ・フォー・ライフを行っていますから、カトリック教会の古代からの声を響かせなければなりません。カトリック教会は、ローマ時代、テルトゥリアンの時代から堕胎を非難してきました。古文書にそう記録されています。
つい最近の話でいえば、ヨハネ・パウロ二世も「いのちの福音」の回勅の中で何度も同じことを繰り返しています。
一つだけそれを引用します。
「キリストがペトロとその後継者たちに与えた権威によって、カトリック教会の全ての司教たちとの交わりにおいて、私はこう断言する。罪のない人間を直接に意図的に殺害することは、常に重大な非倫理的な行為である、と。この教えは、全ての人間が理性の光によってその心に発見する 書かれていない法――掟(おきて)――に基づき、聖書によって再確認され、教会の聖伝によって伝えられ、通常の普遍の教導権によって伝え続けられてきたことである。」
ヨハネ・パウロ二世の引用を終わります。【こんなことを教皇が荘厳に発言しなければならないとは、私たちは何と恐ろしい時代に生きていることでしょうか!】
四年前にはグアダルーペの聖母の祝日に、1人の枢機卿と4人の司教が共同の声明を出しました。
「カトリック教会には、中絶は絶対に拒否されなければならないという真理をはっきりと証しする義務があります。目的が手段を正当化することはできません。私たちは、今まで見たこともない最悪の大虐殺の中で生きています。世界中で何百人もの赤ちゃんがお母さんの胎内で虐殺され、この隠された大虐殺は、中絶産業、生物医学研究、胎児技術を通じて日々続いているからです」。
(「1人の枢機卿、4人の司教が明確に教える」Catholic Family News, Dec.12, 2020.)
私たちの主イエズス・キリストは、小さな弱々しい子どもたちをご自分自身であると考えています。私たちの主のおっしゃる言葉を聞いてください。「まことにまことに私はあなたたちにいう、これらの私の最も小さな兄弟たちの一人にあなたたちがしたことは、私にしたことである。」
現代、日本では、まだ小さな赤ちゃんたちが、人間の生命が殺され続けています。日本の堕胎の数は年々少なくなっているといわれていますが、しかし、目に見えない型の別の堕胎が行われています。
たとえば、人工授精による不妊治療では、多くの受精した小さな人間が廃棄されています。不妊治療によって、一人の子どもが生まれるために多くの受精卵が凍結され、そしてついには、破棄されます。でもこれらの受精卵はすでに人間なのです。
あるいは、避妊薬は、たとえばモーニング・ピルと呼ばれているものは、受精した人間がお母さんのおなかに着床しないように、わざと妨害する堕胎のくすりなのです。
ですから、計算・統計上には上げられていなくても、それをはるかに上回るものすごい数の子どもたちがいま殺害されているということを私たちは知らなければなりません。これはなにかというと死の文化です。命を大切にしないという文化です。
たった一回の中絶であっても、これは非常に大きな犯罪です。子どもたちのいのちが、罪のない命が、守られなかった、殺害されたからです。
愛する兄弟の皆さん、どうぞカトリック教会の使命のために、生命に対する尊重の立場から、ぜひこの「生命のための行進」マーチ・フォー・ライフに参加なさってください。今日、カトリック教会とすべてのカトリック信者は、私たちの受けた教え、聖伝、そして信仰の実践を行わなければならないからです。そして私たちには、生命の大切さに対する証しを、続けていく義務があります。
現代行われていることは、ちょうどアステカでおこなわれていた人身御供のようです。しかし、マリア様はグアダルーペにお現われになって、この死の文化を「いのちの文化」に変えてくださいました。
今日わたしたちは特にカルメル山の聖母の随意ミサを捧げています。マリア様が私たちの死の文化を「いのちの文化」へと変えてくださいますように。「いのちの文化」はマリア様の御取次によっていま大きな動きとなっています。
マリア様の御取次を今日求めて、このミサを捧げていきましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。