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Channel: Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた
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子どもたちの教育についてどのような報告をしなければならないか?自分の務めが何であるか?子どもたちに信仰を、超自然の命を伝えるために何をしなければならないか?

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2024年7月14日大阪主日ミサ説教

トマス小野田圭志神父

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、

【導入】
今日の福音を読むと、今日の福音の管理人に起こったように、私たちは死の瞬間、イエズス・キリストによって裁かれ、同じことを言われます。「おまえの一生の会計の報告を出しなさい、もうあなたを支配人にしておくわけにはいかないから」と。
今日はこの言葉について一緒に黙想いたしましょう。

私たちは全てを主から受けました。私たちの持っているもので、主から受けなかったものは一切ありません。生命、時間、才能、境遇、家族、言語、能力、性別、地位、責任などなど・・・、これら以外にもすべて主から受けたもので、天主からでないものはありません。私たちはこれをどのように使ったのか、受けた恵みにどのように答えたのかについて最後に報告しなければなりません。真理に、イエズス・キリストに忠実だったのかどうか、あるいは善を愛したか、キリストをお愛し申し上げたかどうかについて、私たちは厳格に厳密に報告しなければなりません。

【いろいろな報告の例】
いろいろな報告の例があります。なぜかというと、報告や裁きの内容は、身分や境遇によってさまざまです。わたしが報告しなければならない内容は、愛する兄弟の皆さんが報告しなければならない内容とは異なっています。地位が高ければ高いほど、多くを受けたのであればあるほど、より厳しい裁きを受けます。
たとえば財産についていえば、金持ちは、自分の財産や富があればあるほど、それをどのように良くつかったのか、どれほどキリストのために・本当の善のために使ったのかについて、厳しく裁かれます。地位についていえば、たとえば司祭あるいは司教であれば、受けた司祭職あるいは司教の権能をどのように良くキリストのために使ったのか、ということについて厳格に裁かれます。

【負債】
「報告を出せ」と、これは負債です。
私たちが主から受けたものは、主に返さなければなりません。私たちの受けた時間や才能は、いわば主に返さなければならない負債であって、これはこの世のことだけのために与えられたのではありません。今日の書簡で聖パウロが言っている通りです。「兄弟たちよ、私たちは負債をおっているが、肉にしたがって生きるための、肉に対する負債をおってはいない。」そうではなくて、「天主の霊によって導かれて」生きるために、「天主の子ら」として生きるために、恵みを受けました。ですからこの主のために生きることによって、負債を返さなければなりません。イエズス・キリストのために生きることによって、よく使い、よく負債を返すことができるようになります。このことについて、どのようによく使ったのかについて報告しなければなりません。

【子どもの教育の使命】
では第二のポイントです。7月は子どもたちの学校の夏休みの時ですから、もちろん私たちにはおのおのいろいろな報告内容がありますが、特に今日はとりわけ子どもたちの教育について、私たちがどのような報告をしなければならないかということを黙想することを提案します。特に今日はお父さんやお母さんたちのために、あるいは将来のお父さんお母さんたちのために、黙想を提案しています。

まず第一に、子どもは天主さまからの命の贈り物です。天主は、子どもの出産と教育の力を私たちに委ねました。私たちはこれを天主の助けのもとに行わなければなりません。
天主は私たちに自然の命を伝達することと、さらに超自然の命を伝達することを委ねました。

でも、子どもの本当の目的――命の本当の目的――は、超自然の命のためです。つまり、もしもお父さんとお母さんが、子どもの生命の教育を伝えることを委ねられたとしたら、これは、子どもたちが天国に導かれるために与えられました。

では、子どもの教育、どうしたらよいのでしょうか。天国に導くためにどうしたらよいのでしょうか。子どもの教育のためには、子どものことを良く知らなければなりません。つまり、子どもの弱点や長所をよく知っている、識別する必要があります。では、弱点、長所、どんなものでしょうか。これは、自然な弱点と長所のことだけではありません。子どもは、か弱くもあり、同時に偉大な尊厳をも持っています。どういうことかというと、子どもは、自然本性に従えば、原罪の罪を負って生まれてきた罪人です。しかし、洗礼を受けることによって天主の養子となります。天主の子どもとなります。超自然の命を受けることができる、永遠の栄冠を受ける候補者となるのです。天国の聖人となることができるものすごい存在だということです。別の言葉で言いなおすと、よく私たちが聞くように、人間は性善説だ、性悪説だという二つでは説明できない存在だということです。白か黒かではなくて、さまざまな美しい色とりどりの色によって描かれている存在です。つまり人間というのは罪人でありますが、しかし天主の御血によって贖われた、そして高められた罪人だということです。

もう少し詳しく説明すると、子どもは、自然な目から見ただけでも純粋な天使ではありません。かといって、単なる動物やペットのようなものではありません。たしかに動物のような本能や能力を持っています、が、それと同時に、天使のように知性や自由意志をも持っています。そればかりではなく、 陰を持っています。どのような陰かと言いますと、原罪によって悪に傾いています。無知の傷を負っています。弱さを負っています。しかし、真理を知り、善を選ぶことができます。さらに超自然の光が、洗礼によって与えられて、洗礼の恵みによって、弱さが強められ、超自然の秩序に高められます。また天主が味わっている永遠の至福に与り、そして天国の遺産を相続する天国の世継ぎ、キリストとともに永遠の命をうけることができる共同相続者となるように召されています。子どもはこうやって究極な目的を天国に持っていて、子どもがそれにたどりつく唯一の道はイエズス・キリストだけです。

ではこのような目的を持った色とりどりにきれいに飾られた子どもたち、これは、どのような手段をもって天国に導いてあげることができるでしょうか。

子どもたちは、超自然への命へとたどり着くためにこの世に生まれてきたのですから、子どもたちのお父さんお母さんは、超自然の環境の中で生活することができるように助けてあげなければなりません。ですから愛する兄弟の皆さま、そしてお父さんとお母さんたちは、そして子どもたちがまず何よりもまずキリスト者であるということを自覚なさってください。この子どもたちのこの世での人間の人生の間、この子どもたちが考えること、話す言葉、あるいは歩み、あるいは行い、その他全ては、天主の子どもとして相応しいように、あるいは、キリスト者として天国の永遠の命を受けることにふさわしいようになるように導いてあげなければなりません。導くというのは、ラテン語で ducereと言いますが、このe-ducereということばから、education 教育と言う言葉が生まれました。

天国へと導いてあげる、これこそが本当のカトリックの教育です。そのためにはどうやって導いてあげたらよいでしょうか。

まず自然な徳を身につけるように手伝ってあげなければなりません。なぜかというと、子どもは、謙遜、従順、貞潔、剛毅などなどの徳を身につけなければなりません。徳というのは、英語でVirtueと言いますが、その徳の行為を繰り返して行えば行うほど、徳が身に付きます。そしてそれをより簡単に行うことができるようになります。人間は、徳がある生活をするように有徳の生活をするように創られています。善い行いを繰り返すことによって、より簡単に善を行うことができるばかりか、その善を行うことが楽しくなります。うれしくなります。その善を行いたくなります。こうして善徳を身につけることによって、わたしたちの生命が、人生が豊かになっていきます。

自然の徳だけではありません。超自然の徳についても同じです。超自然の徳というのには、信仰、希望、愛徳があります。これはたしかに洗礼を受けることによってその種を、芽を受けることができますが、それを繰り返し実践して、それを使って、育てていかなければなりません。信仰の知識を深めて、お祈りをして、愛徳を実践して、深めて、育てていかなければなりません。

また同時に、お父さんとお母さんは原罪を負った存在だ、ということを知らなければなりません。私たちすべてに原罪の傷がある、ということを知らなければなりません。ですから、こんなにかわいい子どもでさえも持っている悪しき傾きの芽が伸びるのをうまーく賢明に上手に防いであげて、そして同時に、天主の聖寵の助けとともに、子どもが超自然の聖徳にまた自然の善徳に育つことができるように気を配ってあげなければなりません。もちろん子どもの知性は、この世に関する知識も必要です。しかし、イエズス・キリストに対する深い知識が、公教要理の知識が必要です。祈りの実践も必要です。

お父さんとお母さんは子どもが公教要理を深く学ぶことができるように、気を配ってあげなければなりません。また、最後に、教皇ピオ十二世は、こんなことも言っています。子どもたちは知性も性格も霊的な特徴も同じではない、と指摘しています。ですから子どもたち一人ひとりの違いをよく理解してあげて、褒めたりあるいは注意してあげたりしなければならない。また、家庭と教会そして学校という三つの場所が、同じ精神で同じことを教えて子どもたちを守ってあげるのが理想的だと言われています。少なくとも家庭でやっていることと、そして、教会でのことがおんなじでなければなりません。

【良心の究明】
では良心の糾明をいたしましょう。私たちは子どもに一体何が一番重要であるのかということを、言葉と模範で示しているでしょうか?教会の教えと家での教えはぴったりと一致しているでしょうか?それとも私たちが子どもたちに伝えようとしている最も大切なものはいったい何なのでしょうか?永遠の命なのでしょうか?それともこの世の楽しみのことなのでしょうか?わたしたちが主日にいったい何を選んでいるでしょうか?「なんじ、安息日を聖とすべきことをおぼゆべし。」これは天主の十戒の第三戒です。これは主日にわたしたちは聖伝のミサに与ることによって聖化しようと、あるいは距離があるのでどうしても与れないので、しかたがないので、ロザリオを唱えることによって主日を聖化しようとしているでしょうか?公教要理を学ぼう、あるいは子どもたちに学ばせようとしているでしょうか?それとも、主日は他のことを選ぶようにしているでしょうか?

私の知っている方は…私こんなことを聞きました…ある女の子は特別に奇跡的に大好きなミュージシャンのコンサートのチケットが当たったのだそうです。しかし、ミサに与るためにそれを棄てて犠牲にしてミサに与った。あるいは、ある家族は夜行バスに乗って夜も眠らずに何時間も揺らされてミサに与るために来た。私の知っているある中学生は――中学三年生の時からミサに与るようになったのですけれども――彼はそれまで大好きだった日曜日ごとに行っていた空手の道場を辞めてミサに与るようにしました。永遠の命にとって私たちはいったい何が大切なのでしょうか。いったい私たちは何のために生きているのでしょうか。

今日の集祷文にはこうあります。「主よ、願わくは、正しいことを考えかつ行う霊を常に我らに憐れみ深く与え給え。そは、御者なくしては、存在しえないわたしたちが、御身に従って生きるためなり。」


【警告】
ここで本当ならばわたしは、お説教を終えようとしようと思ていました。しかしルフェーブル大司教様のおっしゃっている言葉を少しだけいくつか引用することをゆるしてください。

私たちにとって聖伝のミサを選ぶということが、あるいは超自然の命を選ぶ・信仰を選ぶということがどれほど大切か、そのためにどれほど多くの司祭たちや司教様たちが命がけでそれを守ってきたかという例をいくつかあげたいと思っています。これは、ルフェーブル大司教様が挙げたことばで、警告の言葉です。

ソ連時代、モスクワの支配下にあったポーランドでさえ、――ルフェーブル大司教様によると――カトリック司祭たちは…カトリック司祭でさえも、最も重要な問題はモスクワとの決裂を避けることだったと考えていたそうです。ですから政治的な策略を彼らは第一にしてしまいました。つまり、カトリックの信仰とか霊魂の救いが最も大切だという代わりに、そして信仰のため救霊のためならば生命をもすべて犠牲にしなければならないとは考えなかった、ので、ですからクレムリンは、モスクワは、たいした抵抗も受けることなく、ポーランド国民を完璧な奴隷状態に落としめることができた、と言っています。ルフェーブル大司教様のお言葉です。
(教皇)ピオ九世は、すでに言っていました。共産党とは協力できない、と。もしもだまされて、だまされるがままになって、社会主義や共産主義の体制をつくるために、協力するならば、協力することに同意するならば、それは最後の裁きの日に大きな罰を蓄えるのみならず、その裁きの罰を待っているあいだにも、国民は現世的な利益を何ひとつ得られず、かえって苦痛と災難を加え増し増加するだけだ、と。だまされた!では遅すぎる。」と警告しています。

【模範1】
ルフェーブル大司教様は、ある主任司祭が、こんな手紙を書いたと云うことを私たちに教えてくれます。主任司祭は自分が受け持つ二つの小教区の信徒たちに次のようなお別れの手紙を出したそうです。
「×年○月○日の面会で、教区長の司教様は私に最後通牒を伝えました。」
これは神父様の教区民への手紙です。引用して読んでいます。神父様の引用を続けます。
「新しい宗教を受け入れるか拒否するかの二者選択でした。私はこれを避けて通ることが出来ません。ですから、私は自分の受けた司祭職に忠実に留まるために、永遠の教会に忠実に留まるために、・・・私は自分の意に反して、引退するように要求され強制されました。・・・私は、正にこの天主に関わる重大な問題・・・つまり永遠の聖伝のミサの問題・・・において、誠実である義務を果たしています。・・・これは、私が天主に、そして人々に特に教区の皆さまに与えなければならない忠実と愛の証拠です。この忠実と愛の証拠について、私は最後の審判の日に裁かれるでしょう。それは他方で同じ遺産を委ねられた全ての人々についても言えることです。」

【模範2】
ルフェーブル大司教様は、公開書簡の最後にこうも書いています。自分のことについてこう言っています。
「もしあなたがたが、なぜ私がこれほどにまで(聖伝のミサを守るために)粘り強い態度をとるのかと問うならば、私はこう答えましょう。私がこの地上を去るとき、天主が「お前は司教として何をした? 司教、司祭の恩寵に与ったお前は、どんな働きをしたのだ?」と私にお尋ねになられたとき、私は天主様の口から次の恐ろしい言葉を聞きたくないのです。「お前もまた、他の者たちと一緒になって、教会を破壊する手助けをしていたのではないか。」

では最後にマリア様にお祈りいたしましょう。私たちが自分の務めがいったい何であるか、子どもたちに信仰を伝えるために、超自然の命を伝えるためにいったい何をしなければならないか、最も大切なものは何かをよくわきまえ知り、そしてそれをよく果たすことができるようにマリア様の特別な御取り次ぎを請い求めましょう。

「会計の報告を出しなさい、もうあなたを支配人にしておくわけにはいかないから」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


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