二十六日 至福なる聖マリアの御臨終
主よ、我(われ)御身(おんみ)を待ち望(のぞ)めり。 (詩篇 三七。一○)
思うにこの詩篇(しへん)の一句ほど、最愛の御子に別れ給うて後(あと)の、聖マリアの御心中をよく現している言葉は他(ほか)にあるまい。
イエズス・キリストの御昇天後、聖母は許されるならば、すぐにも天国の聖子(おんこ)の御許(みもと)に行きたいと、熱く望(のぞ)まれた事であろう。然し天主の思(おぼ)し召しに依(よ)って信者達の亀鑑(かがみ)となり慰(なぐさ)めとなる為に、なお十数年の久しき間、此の世に止(とど)まり給わねばならなかった。
それはどれほど御母にとってはつらい事であったか知れぬが、それだけに叉、御自分の御死去と再会の日を一日千秋の思いで待(ま)ち侘(わ)び給い、日夜祈り、黙想に従事(じゅうじ)しつつ、殆ど現世(このよ)から天国にある如く、来世(のちのよ)の事のみ考えて過ごし給うたのである。故(ゆえ)にその御臨終(ごりんじゅう)は比(たぐい)もなく麗(うるわ)しいものであった。
なるほど聖母の御死去も一見した所は、一般の人の死と余り異(こと)なっている所はないように思われる。けれどもその原因は病気でも老衰(ろうすい)でもなく、全く天国に対する憧憬(あこがれ)と、イエズスに対する止(や)みがたい愛慕(あいぼ)とが、火のように燃(も)え熾(さか)って、肉身と霊魂の繋(つな)ぎを断(た)ち切ってしまった為に外(ほか)ならない。
そして天主との一致を妨(さまた)げる罪の汚れが少しもなかったから、その御臨終には些(いささ)かの憂(うれ)愁(い)も恐怖(おそれ)も苦悩(くるしみ)も見られなかった。苦しみは却(かえ)って此の世にある間、救(きゅう)霊(れい)の犠牲の為に御子と共に充分味わはれた所である。そういう聖母にとって死は寧(むし)ろ救いであり、安息(あんそく)に入る明るい門であった。決して我等に対する如く罪の罰(ばち)でもなく、不安な暗い隧(トン)道(ネル)でもなかったのである。
我等も、もし人(じん)祖(そ)が罪を犯(おか)さなかったなら、皆かような喜ばしい死に逢(あ)う事が出来たであろう。即ち死はその場合今の如く罪の罰(ばつ)ではなく、唯(ただ)、現世(このよ)から来世(あのよ)へエデンの楽園(らくえん)から天国へ、直ちに移される事に外(ほか)ならなかった筈(はず)である然し実際に於いて罪の穢(けが)れある我等には,勿論(もちろん)聖マリアそのままの申し分なき臨終は望まれぬに相違ない。けれどもその御臨終(ごりんじゅう)から有益(ゆうえき)な教訓を得(え)る事は出来る。聖母は御自分には少しも罪がお有りにならなかったけれど、人々の罪の償(つぐな)いの為に其の御生涯(ごしょうがい)、殊に御子の十字架の下(もと)で、一方(ひとかた)ならず苦しみ給い、叉、最後には天国に対する強い憧憬(あこがれ)の為に、あれほど幸福な御臨終が遂(と)げられたのである。故に我等にも我が罪を痛悔(つうかい)し出来るだけその罪を償(つぐな)う事と、天国への憧憬(あこがれ)を抱(いだ)く事と、この二つのものが善(よ)き終りの因(もと)となるに相違ない。
一生の罪を痛悔(つうかい)してその償(つぐな)いを為(な)す事は,天主と一致(いっち)する為の障害(さまたげ)を悉(ことごと)く取り除き、後顧(こうこ)の憂(うれ)いをなからしめ、天国への強い憧憬(あこがれ)は、我等の心を果敢(はか)ない現世(このよ)のほだしから解(と)き放(はな)し、ひたすら来世(らいせ)の幸福を望(のぞ)ましめる。かようにして人は何の恐怖(おそれ)も心配もなく、明るい希望を抱(いだ)いて天主の御許(みもと)に旅立つ事が出来るのである。
然し我が罪をよく痛悔(つうかい)し、その償(つぐな)いを果(は)たし、叉、天国に対する強い憧憬(あこがれ)を抱(いだ)く事は、我等の力(ちから)だけでは中々難(むずか)しい。それ故(ゆえ)我等は先ず日頃から善(よ)き臨終の亀鑑(かがみ)なる聖母マリアの御助けを願って、天主の豊(ゆた)かな御聖寵(ごせいちょう)を請(こ)い求め、注意してその導きのままに信心を尽くす事が大切である。
そうして此の世の事物(じぶつ)に捉(とら)われず、目的を常に来世(らいせ)に置くならば、死に臨(のぞ)んで何等(なんら)の悔(く)いなく、明朗(ほがらか)な歓喜(よろこび)に溢(あふ)れる事が出来るであろう。
祈 願
ああ聖母よ、御身は只(ただ)、主イエズス・キリストのみ慕いて我等の為に苦しみを忍(しの)び給えり。我等はこの麗(うるわ)しき御鑑(みかがみ)を仰ぎつつも、尚、屡々(しばしば)此の世のはかなきものに心を傾(かたむ)け、却(かえ)って苦しみを厭(いと)う事あるを深く悲(かな)しみ奉る。
されば何卒(なにとぞ)、御憐(おあわ)れみによりて、我等の霊魂を導き、総(すべ)ての被(ひ)造物(ぞうぶつ)より離れしめ、天国に対する憧(あこが)れの心を抱(いだ)きて常に主と共に生(い)き、遂(つい)に善(よ)き臨終(りんじゅう)をとぐるの恵(めぐみ)を得(え)せしめ給わん事を、恭(うやうや)しく天使祝詞(しゅくし)三度繰(く)り返して願い奉る。
(天使祝詞 三度)
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主よ、我(われ)御身(おんみ)を待ち望(のぞ)めり。 (詩篇 三七。一○)
思うにこの詩篇(しへん)の一句ほど、最愛の御子に別れ給うて後(あと)の、聖マリアの御心中をよく現している言葉は他(ほか)にあるまい。
イエズス・キリストの御昇天後、聖母は許されるならば、すぐにも天国の聖子(おんこ)の御許(みもと)に行きたいと、熱く望(のぞ)まれた事であろう。然し天主の思(おぼ)し召しに依(よ)って信者達の亀鑑(かがみ)となり慰(なぐさ)めとなる為に、なお十数年の久しき間、此の世に止(とど)まり給わねばならなかった。
それはどれほど御母にとってはつらい事であったか知れぬが、それだけに叉、御自分の御死去と再会の日を一日千秋の思いで待(ま)ち侘(わ)び給い、日夜祈り、黙想に従事(じゅうじ)しつつ、殆ど現世(このよ)から天国にある如く、来世(のちのよ)の事のみ考えて過ごし給うたのである。故(ゆえ)にその御臨終(ごりんじゅう)は比(たぐい)もなく麗(うるわ)しいものであった。
なるほど聖母の御死去も一見した所は、一般の人の死と余り異(こと)なっている所はないように思われる。けれどもその原因は病気でも老衰(ろうすい)でもなく、全く天国に対する憧憬(あこがれ)と、イエズスに対する止(や)みがたい愛慕(あいぼ)とが、火のように燃(も)え熾(さか)って、肉身と霊魂の繋(つな)ぎを断(た)ち切ってしまった為に外(ほか)ならない。
そして天主との一致を妨(さまた)げる罪の汚れが少しもなかったから、その御臨終には些(いささ)かの憂(うれ)愁(い)も恐怖(おそれ)も苦悩(くるしみ)も見られなかった。苦しみは却(かえ)って此の世にある間、救(きゅう)霊(れい)の犠牲の為に御子と共に充分味わはれた所である。そういう聖母にとって死は寧(むし)ろ救いであり、安息(あんそく)に入る明るい門であった。決して我等に対する如く罪の罰(ばち)でもなく、不安な暗い隧(トン)道(ネル)でもなかったのである。
我等も、もし人(じん)祖(そ)が罪を犯(おか)さなかったなら、皆かような喜ばしい死に逢(あ)う事が出来たであろう。即ち死はその場合今の如く罪の罰(ばつ)ではなく、唯(ただ)、現世(このよ)から来世(あのよ)へエデンの楽園(らくえん)から天国へ、直ちに移される事に外(ほか)ならなかった筈(はず)である然し実際に於いて罪の穢(けが)れある我等には,勿論(もちろん)聖マリアそのままの申し分なき臨終は望まれぬに相違ない。けれどもその御臨終(ごりんじゅう)から有益(ゆうえき)な教訓を得(え)る事は出来る。聖母は御自分には少しも罪がお有りにならなかったけれど、人々の罪の償(つぐな)いの為に其の御生涯(ごしょうがい)、殊に御子の十字架の下(もと)で、一方(ひとかた)ならず苦しみ給い、叉、最後には天国に対する強い憧憬(あこがれ)の為に、あれほど幸福な御臨終が遂(と)げられたのである。故に我等にも我が罪を痛悔(つうかい)し出来るだけその罪を償(つぐな)う事と、天国への憧憬(あこがれ)を抱(いだ)く事と、この二つのものが善(よ)き終りの因(もと)となるに相違ない。
一生の罪を痛悔(つうかい)してその償(つぐな)いを為(な)す事は,天主と一致(いっち)する為の障害(さまたげ)を悉(ことごと)く取り除き、後顧(こうこ)の憂(うれ)いをなからしめ、天国への強い憧憬(あこがれ)は、我等の心を果敢(はか)ない現世(このよ)のほだしから解(と)き放(はな)し、ひたすら来世(らいせ)の幸福を望(のぞ)ましめる。かようにして人は何の恐怖(おそれ)も心配もなく、明るい希望を抱(いだ)いて天主の御許(みもと)に旅立つ事が出来るのである。
然し我が罪をよく痛悔(つうかい)し、その償(つぐな)いを果(は)たし、叉、天国に対する強い憧憬(あこがれ)を抱(いだ)く事は、我等の力(ちから)だけでは中々難(むずか)しい。それ故(ゆえ)我等は先ず日頃から善(よ)き臨終の亀鑑(かがみ)なる聖母マリアの御助けを願って、天主の豊(ゆた)かな御聖寵(ごせいちょう)を請(こ)い求め、注意してその導きのままに信心を尽くす事が大切である。
そうして此の世の事物(じぶつ)に捉(とら)われず、目的を常に来世(らいせ)に置くならば、死に臨(のぞ)んで何等(なんら)の悔(く)いなく、明朗(ほがらか)な歓喜(よろこび)に溢(あふ)れる事が出来るであろう。
祈 願
ああ聖母よ、御身は只(ただ)、主イエズス・キリストのみ慕いて我等の為に苦しみを忍(しの)び給えり。我等はこの麗(うるわ)しき御鑑(みかがみ)を仰ぎつつも、尚、屡々(しばしば)此の世のはかなきものに心を傾(かたむ)け、却(かえ)って苦しみを厭(いと)う事あるを深く悲(かな)しみ奉る。
されば何卒(なにとぞ)、御憐(おあわ)れみによりて、我等の霊魂を導き、総(すべ)ての被(ひ)造物(ぞうぶつ)より離れしめ、天国に対する憧(あこが)れの心を抱(いだ)きて常に主と共に生(い)き、遂(つい)に善(よ)き臨終(りんじゅう)をとぐるの恵(めぐみ)を得(え)せしめ給わん事を、恭(うやうや)しく天使祝詞(しゅくし)三度繰(く)り返して願い奉る。
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