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パリのオリンピックの開会式でおこなわれた冒涜の償いの三日間(第一日目)冒涜するよりも恐ろしいものは何もない

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パリのオリンピックの開会式でおこなわれた冒涜の償いの三日間(第一日目)

2024年8月2日(初金)説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、
今日から三日間、ミサを連続して、パリのオリンピックの開会式でおこなわれた冒涜の償いのために捧げます。三日間連続で、ミサの直後に償いのためのご聖体降福式も行われます。皆さん、どうぞいらしてください。そして、いま実際にミサに与れない方でも、YouTubeのライブによって、一緒にお祈りを捧げてくださるようにお願いいたします。

【1:イエズス・キリストの御業への侮辱】
ちょうど一週間前の金曜日の夜のことでした。パリのオリンピックの開会式では、全世界の人々の目前で、見ている前で、私たちの主イエズス・キリストを侮辱するパーフォーマンスが行われました。フランス共和国の大統領政府が、国家行事としてのオリンピックの開会式で、この冒涜を行いました。しかも、キリスト教の最も大切な部分が、非キリスト教的なやり方で侮辱されました。

もう少し具体的に申し上げます。わたしたちの宗教行事の中核の一つである、十字架の犠牲の先取り、つまり最後の晩餐、最初のミサ聖祭が、侮辱されました。

いったい、ミサでは何が行われたでしょうか。最後の晩餐では何が行われたでしょうか。イエズス様が、つまり、人となった天主ご自身が、わたしたち罪人に対する無限の憐れみをもって、深い憐れみ深い愛をこめて、ご自分をわたしたちに与えようとされたのです。パンをご自分の体に聖変化させて、そしてブドウ酒をご自分の御血に聖変化させて、すべてわたしたちに与え尽くしました。その愛の御業の行われた行事でした。その瞬間でした。また同時に使徒たちを新約の司祭たちと叙階した最初のカトリックの叙階の席でもありました。また、ミサ聖祭は、わたしたちキリスト教信者が古代から全世界において2000年間の間大切に捧げ続けてきたものです、ミサ聖祭です。

このわたしたちの宗教の信仰の最も大切な部分、愛の御業が、嘲笑と軽蔑と侮辱の対象となりました。天主の愛の最高の業が、冒涜されました。わたしたちの天主・救い主・贖い主・王、私たちの愛が、足蹴にされました。主のなさった愛の最高の業が、屈辱を受けました。これは、主がなさったすべてのことに対する冒褥であり、主を信じる人々・弟子たち・信者たちに対する嘲笑以外のなにものでもありません。

しかも、これはオリンピック開会式という公式の儀式の場で、公然と行われました。そしてこの侮辱を行われるのを、わたしたちは全世界の人々は、その目にしました。この冒涜的な屈辱に、世界中の至る所にいるカトリック信者たちは、キリスト者たちは、深い悲しみを覚えて、傷つきました。

この儀式が終わった直後すぐに、外国にいる聖ピオ十世会ではない司祭から、私は連絡を受けました。この今日金曜日午後4時に全世界で償いの祈りを捧げるからという招待のメッセージでした。また日本におられる多くのフランスの方々からも、神父様今日この金曜日に私たちは何か償いをしましょう、このミサを償いのために捧げましょう、と要請を受けました。わたしは喜んで、もちろんそうする!そうする!と答えました。そして、三日間の償いの日々を企画して、そして東京と大阪で同時に行うことになりました。

フランスという国が、カトリック教会の長女であるフランスが、同時に汚されるのをわたしたちは目の当たりにしました。フランスの方々は非常に傷つきました。涙を流しました。唖然としてショックを受けました。多くの方々がそのことを、あるいはYouTubeであるいはツイッターであるいはそのほかの方法で、嘆いています。フランスの最も大切な文化・伝統・フランスの特徴はまったく無視された。そのかわりに外国から来たイデオロギー・反キリスト教的なイデオロギー、あるいは道徳的な退廃、あるいは暴力的革命を賛美するようなものが歌われているのを見て、非常に傷つき悲しみました。また同時に、多くの人々は、スポーツの選手たちも、健全であるスポーツが汚されるのを穢されるのを見て、悲しみ傷つきました。

もしもこの開会式で、韓国の選手が北朝鮮の選手だといって間違って紹介されたために国際オリンピック委員会の会長が直接韓国の大統領におわびしてそしてその他公式の文章を出して謝罪したとしたならば、このオリンピックの侮辱を見て、オリンピック国際委員会はそしてそのすべての代表者は、イエズス・キリストに、三位一体に、そしてカトリック教会に、そしてイエズス・キリストを信じるすべての人々に、心からの謝罪と罪の償いを捧げなければならないはずです。

【冒涜】
いったい、なぜこれほどの大きなこととなり、そして、謝罪をし、償いを果たさなければならないのでしょうか。なぜかというと、これは、冒涜であるからです。冒涜というのは、天主を傷つけるなんらかの言葉や行いのことです。天主の御稜威にふさわしくないことを、述べたり、行ったり、あざわらったり、嘲笑したりすること、それが冒涜といわれます。天主を軽蔑し侮辱することです。

ミサ聖祭と十字架は、天主が私たちのためになさった愛の最高の大傑作です。もしも冒涜の対象が聖なるものであれば聖なるものであるほど、愛が大きければ大きいほど、その罪は重大になります。

したがって冒涜というのは、いろいろな罪のなかでもっとも恐ろしい罪です。聖ヒエロニモは、預言者イザヤの一節(18:2)を解説してこう言っています。引用します。

自分の口にいとも高き者の、つまり天主を置いて冒涜するよりも恐ろしいものは何もない。(言葉を続けて)全ての罪は冒涜と比較するならばより軽い罪となる。(nihil enim horribilius blasphemia, quae ponit in excelsum os suum. ... omne quippe peccatum comparatum blasphemiae, levius est. )

“すべての罪は、冒涜と比較するなら、軽い罪だ”、と。この聖ヒエロニモの言葉は、聖トマス・アクィナスの神学大全で引用しています。

人間の犯す罪のなかで最も重い罪だと考えられる殺人であっても、それがどのような恐ろしいものであったとしても、冒涜に比較すればはるかに軽い罪だと聖トマス・アクィナスは言います。

なぜかというと、冒涜は、天使よりもはるかに聖なる天主であり創造主である天主を直接に屈辱するものであるからです。天主に反するものであるからです。しかし、殺人はどれほどおそろしいものであっても、被造物に対するものであるからです。しかも、冒涜を行う人は天主の名誉に危害を加えようとすることを意図しているので、絶対的な意味では、冒涜者は殺人者よりも重大な恐ろしい罪を犯したことになります。(II, II, q13, art 3 ad 1)

では、冒涜が最も恐ろしい重い罪であるということは、いったいどんなことを意味するでしょうか。つまり、これは、冒涜にはもっとも厳しい最も恐ろしい罰が現世そして来世に待っている、ということです。正義がそれを要求する、ということです。

もしかしたら、パリのオリンピックは、この来るべき恐ろしい罰の前兆であるかもしれません。つまり公式に天主・創造主を否定して、そして創造主と被造物の区別をなくしてしまった。その結果いったい何が起こったかというと、男と女の区別がわからない。ですから、女性のスポーツ・女性の試合に男が混じって、女性を殴ってそして男が勝つ。そしてそれがフェアプレーだとされたり、あるいは汚い水を飲まなければならなかったり、あるいは貧しい食事をしなければならなかったり、あるいは暑さに耐え忍ばなければならなかったり、あるいは盗みや八百長や嘘八百などがまかり通る世界にわたしたちは生きなければならないということを暗示しているのかもしれません。イエズス・キリストが馬鹿にされる・屈辱される世界はそういう世界だということを、全世界の前でわたしたちに予告しているのかもしれません。

【償い】
では、わたしたちはそのような冒涜を見て、イエズス・キリストに対してなされる屈辱を見て、何をしなければならないのでしょうか。わたしたちは、その冒涜を何とかして償わなければなりません。もしもそれを行った人が償わないならば、誰かが代ってそれを償ってあげなければなりません。もしも冒涜を見て償わないでいたら、それを止めないでいたら、それに対して沈黙を守っていたならば、それは冒涜に賛成したということであり、冒涜を助けた、幇助した、ということになります。つまり、冒涜したと同じような責任をもつことになります。

歴史のなかには、冒涜を見て、そしてそのまま何もしなかったがために町全体が滅んでしまったという例が存在しています。例えば1902年3月28日聖金曜日に、マルティニーク島のサンピエールという町でこんなことが起こりました。この聖金曜日には一部の人々によって、キリストの十字架像が馬鹿にされました。
彼らは十字架像をもって、屈辱を浴びせながら、町をでて、近くにあったプレ山という山に向かいました。十字架の道行きの信心を嘲るために――聖金曜日にカットリック教会ではそれを行うので――道すがら十四回わざと留まって十字架を屈辱しました。そして最後には、冒涜を繰り返したのちに、その十字架像をプレ山の噴火口に投げこみ嘲笑いました。このことを知って、これに抗議の声をあげる人は誰もいませんでした、残念ながら。

そののち、同じ年の5月8日、キリストの昇天の祝日に、突然、マルティニーク島にあるプレ火山が噴火しました。早朝のことでした。そしてサンピエール市はすべて火山灰のもとに埋められてしまい、壊滅しました。そこにいた約4万人が死亡しました。助け出ることができたのは、非常に朝早く出勤のためにその町を離れたほんの数名だけでした。

ですから、わたしたちは、そして世界中の心ある人たちは、この冒涜を見て、ノー!と叫んでいます。
「わたしたちはこれを受け入れない!」
「わたしたちはこのような屈辱を見て、イエズス・キリストに対する償いを果たしたい!」
「特に御聖体が、ミサ聖祭が屈辱されたので、わたしたちはミサ聖祭において、そして御聖体に対して特別の愛をあらわして、罪を償いたい!」
「冷淡に対して、愛をもって応えたい!」
と思っています。

ですから、愛する兄弟の皆様は、今日はここに与りました。どうぞご聖体拝領を、愛をこめてなさってください。そしてイエズス様のご聖体を、心から礼拝してください。世界中のカトリック信者たちと心を合わせて、この償いの業を果たしてください。

もしかしたら私たちの数はそんなに多くないかもしれません。しかし、ソドムとゴモラの町を破壊しようと、罰せようとした天主に対して、アブラハムは、こう言ったではないでしょうか。
「いや、天主よ、憐れんでください。もしもこの巨大な町、ソドムとゴモラに、たった五十人でも義人がいるならば、その五十人たちのためにこの町を容赦してください、そうしてくださいますか?」
「そうしよう。もしも五十人いたらこの町を救おう、罰しない。」
アブラハムはもっと憐れみを願います、四十人、三十人、二十人、十人。主はいいます。
「十人でも、義人がいるならば、私はソドムとゴモラを滅ぼさない。」
しかし、アブラハムにはさらに言葉を続けることができませんでした。残念ながら、ソドムとゴモラには、その十人さえもいませんでした。そして滅ぼされてしまいました。

わたしたちは、ですから、主に、わたしたちの少ない人数にもかかわらず、愛をもって捧げることによって、主に特別の愛を、あわれみを請い求めましょう。

三日間、償いのミサと御聖体降福式を行いましょう。わたしたちの主がこのわたしたちのつたない祈りと愛を見て、宥められ、そしてわたしたちを憐れんでくださいますようにお祈りいたしましょう。また、マリア様の御取次をも願いましょう。

Deus propitius esto nobis peccatoribus!
天主よ、罪人である私たちを憐れみ給え!

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

Par Nationaal Museum van Wereldculturen, CC BY-SA 3.0,


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