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Channel: Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた
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「苦しみ」というものが何の為にあるか、それに価値があるものとなる為にはどうすれば良いのか。

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 2016年2月7日(主日)に東京で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2016年2月7日 五旬節の主日のミサ
小野田神父 説教

 日本の聖なる殉教者巡回教会にようこそ。今日は2016年2月7日、五旬節の主日のミサを捧げております。来たる水曜日は、灰の水曜日で、健康な21歳以上59歳までの成人の方々は、大小斎の義務があります。これは灰の水曜日と聖金曜日にある義務です。聖伝によれば、灰の水曜日から復活祭まで、主日を除いて、大小斎を捧げていた、という習慣によります。
 聖ピオ十世会では、四旬節の全ての金曜日を、大小斎で過ごす事になっています。もしも皆さんもよろしかったら、一緒になさって下さい。厳格な義務は、灰の水曜日です。この2月10日と11日には、建国記念日には大阪でミサがあります。
 次のここでのミサは、明日の朝7時と、2月21日、第3主日の朝10時30分からです。3月も同じく、第1・3主日で、3月6日と20日に予定されています。いらして下さい。
 2月2日には、世界中にある聖ピオ十世会の神学校で、45名の神学生がスータンの着衣式を受けました。どうぞこれらの神学生の為にもお祈り下さい。多くの召命が日本からも輩出致しますように、お祈り致しましょう。

 
“Consummabuntur omnia, quae scripta sunt de Filio hominis. Tradetur gentibus, et illudetur, et conspuetur, et postquam flagellaverint, occident eum, et tertia die resurget.”

 聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

 愛する兄弟の皆さん、今日イエズス様が仰った言葉が、福音の最初の部分でこう読まれました、「人の子について書かれている事は、全て成就するだろう。人の子は異邦人に渡され、馬鹿にされ、唾きせられ、そして彼らは鞭で打った後、彼を殺すだろう、人の子を殺すだろう。そして人の子は、3日目によみがえるだろう。」

 一体なぜ、四旬節に入る直前の主日に、教会はイエズス様のここの言葉を私たちに読んで聞かせたのでしょうか?この言葉を私たちが理解して、それをこの四旬節に実践するためには、どうしたら良いのでしょうか?

 今日は、この「苦しみ」というものが何の為にあるか、それに価値があるものとなる為にはどうすれば良いのか、最後に、遷善の決心をする事に致しましょう。

 愛する兄弟の皆さん、なぜ教会が、四旬節の直前の五旬節の主日に、このイエズス様の言葉を読ませたか、というのは、何故かというと、四旬節というのは、単なるそれだけの為のものではなくて、実は四旬節というのは、復活祭に繋がるものであって、復活祭の準備である、私たちがイエズス様と、四旬節の間にますます一致しなければならない、ということを示すためです。

 四旬節には私たちは、特に祈りと犠牲を捧げるように勧められています。四旬節には、イエズス様が40日断食されたように、私たちも祈りと断食をするように勧められています。断食以外の色々な苦行や、克己の業をするように、と言っています。もちろんこれには色々な理論が、神学上の理論もあります。例えば、私たちの信仰が深くなる為に、私たちの知性が、賢慮の恵みが、ラテン語では「intellectus」と言われている恵みが、ますます鋭くなって、天主様の神秘の中に深く入って行く事ができるように、その知性を磨かなければならない、感覚を鋭くしなければならない、信仰を鋭くしなければならない。

 すると、その鋭さを取ってしまう、鈍感にさせてしまうのは何かというと、それは肉の快楽のやり過ぎであって、食べ過ぎや飲み過ぎ、或いは肉体の情念に溺れてしまう事によって、私たちの信仰の感覚が、肉体の感覚が鈍感になってしまう。ですから、それを肉体上の節制と、特に貞潔によって、私たちは鋭く、心も体も鋭くしなければならない。

 ちょうどダニエルの書に、「『天主様に仕える者たちを準備させるために、子どもたちには節制と貞潔を守らせた。その後に初めて、天主様の知識を与えた。』と書かれている通りである。」とあります。

 しかし、私たちは更にもっとイエズス様の模範に倣って、祈りと苦行を捧げる時だと認識しています。何故かというと、私たちがこの苦行を、苦しみを捧げる、というのは、全ての苦しみが、罪の結果によって私たちに与えられたものであるからです。しかし、この罪の結果である苦しみ、「悪」は、イエズス様によって、全く聖化されました。

 これはどういう事かというと、「罪」は、罪の償いとなるのみならず、これを苦しみを通して、私たちの栄光の為の道となる、私たちを栄光へと導く手段となる、という事です。私たちにとって苦しみとか辛い事やその他は、単なるそれだけの弱ってしまう事ではなくて、イエズス様と一致するが故に、イエズス様と共に捧げるが故に、それは、良いものに変わる、という事です。

 第2のポイントは、では、どうしたらそれが良いものに変わるのでしょうか?それは、聖パウロが今日書簡の中で、はっきりと言っています、「イエズス様に対する成聖の恩寵に於いて、イエズス・キリストを信じ、イエズス・キリストを愛する事によって与えられた成聖の恩寵を保つ事によって、私たちの全ての行為が、永遠に於いて、価値のあるものとなる。」という事です。私たちが成聖の状態に於いて、恩寵の状態に於いて、イエズス様と一致している限りにおいてのみ、価値があるという事です。全ての行為が、永遠の価値があるという事であって、苦しみ、平凡な事でさえも、価値を持つ、という事です。

 私たちは今日、聖パウロの書簡を読み直して、「本当にすごい事を言っているなあ。」と思います。私たちが色んな国の人々の言葉を話すことができたら、どれほど良いでしょうか。ベトナムの人と話す事ができるようにベトナム語、或いは中国の人たちと話す事ができるように中国語。或いはフィリピンのタガル語に、セブアノ語、或いは韓国語、世界中の言葉、ドイツ語や、タイ語や、或いはもっと、天使たちが語らうその言葉を、私たちが身に付けて、それについて色々なコミュニケーションをしたら、どれほど素晴らしい事でしょうか。

 例え私たちがその学徳を持っていたとしても、全ての人々の言葉を話すようになったとしても、美しい言葉で、現代のシェイクスピアと言われるようになったとしても、美しい詩を書いて、文章を書いて、劇を書いて、小説を書いて、論文を書いたとしても、この色々な言語の粋を尽くして、もう世界の人々をアッと驚かすような芸術作品を生み出したとしても、もしもそれが成聖の状態になければ、罪を赦された状態になければ、イエズス様を愛する状態になければ、救霊の為に、永遠の為に、復活の為に、全く価値がない、ただ鳴り響くドラに過ぎない、犬の遠吠えに過ぎない、と言います。

 もしも私たちが、カトリック信仰を深く信じて、その信仰の強さのあまり、山をさえも動かす事ができるほどの、確信と信仰に満ちて、「こうだ!」と奇跡さえも起こす事ができたら、どれほど素晴らしい事でしょうか。多くの人々をカトリック信仰に導く事ができるし、奇跡を起こして、多くの方をイエズス様の救いの道に導く事ができるかもしれません。

 そればかりではありません。その信仰の確固としたその強さのみならず、深い神秘を持って、三位一体についての深い知識、或いは御聖体に対する深い知識、或いはマリア様に対する深い知識を持って、人々の心に触れて、そのような深い知識を、信仰の神秘を、皆、「知りたい」と言って、多くの人々が涙を流して聞くような話をしたとしても、更に、私たちが全宇宙の神秘を知っていたとしても、宇宙の彼方から来るガンマ線や、アルファ線、或いは原子力の秘密と、世界の不思議と言われる宇宙の構造を、力の重力と磁力と、全ての力の統一原理を発見して、説明して、物理・化学・生物学の神秘を深く理解して、経済・政治について深く語る事ができて、「今の問題はこうだ」と解く事ができたとしても、「しかし、もしもイエズス様への愛がなければ、全く私たちには益する事が無い、全くの無駄。」

 もしも私たちが持っている全財産を貧しい人々に施して、アフリカの飢えている人に施して、世界中の困っている人々にそれを、その財を尽くして、基金を作って、財団を作って、私たちのあらゆる知恵を使って助けたとしても、私たちの体を、殉教を覚悟で焼かれる為に渡しても、「しかし、もしもイエズス・キリストへの愛がなければ、全く無に等しい。」と、聖パウロは言っています。

 イエズス・キリストとの一致がなければ、「イエズス・キリストを愛する為に、」というものがなければ、私たちの日常の生活は、それがこの世の人々をアッと驚かすようなものであっても、「全く価値が無い」と言っています。それが、例え深い信仰であったとしても、「価値が無い」と、言います。

 では、愛する兄弟の皆さん、私たちは四旬節の前に、何をしたら良いのでしょうか?

 その模範は、今日の福音の中の、この盲目の方が、盲目の人が私たちに模範して見せています。私たちは今まで盲目でした。例え見えるように思っても、実は見えてなかった事がたくさんありました。私たちはどれほど、日常に起きた十字架を見ると、その十字架の事だけを考えて、十字架の事だけしか考えなくて、表面つらしか見なくて、その奥にあるイエズス様の復活までを見なかったのでしょうか。

 私たちは、「イエズス様が十字架に付けられた」というのは見ますけれども、その十字架の事だけを考えて、「イエズス様が天主が、救い主が、私たちの愛の為に付けられた」という事をコロッと忘れていた事が、目が開いていても見えなかった事が、どれほど多くあった事でしょうか。

 イエズス様は、聖書の予言を全て成就しました。それはどういう事かというと、異邦人に、裏切られて異邦人に渡されました。馬鹿にされました。唾きせられさえしました。私たちは、そこまで悪い態度を取られた事がどれほどあったでしょうか。イエズス様はこれを、私たちの為に受けて下さいました。イエズス様は、私たちを天国に導くために、イエズス様との至福の状態に導くために、鞭打たれ、殺される事さえも、という事さえも、聖書を成就する為に、私たちの為に受け入れられました。

 私たちはそれを知りながら、どうも今まであまりにも目がくらんでいました。自分の事だけしか見ていませんでした、苦しみの事だけ、「何で私はこんなに苦しむのか、何でこんなに辛いのか、何だ、何だ、あの人はこんなに悪い、私はこんなに良い、」という事しか考えませんでした。

 しかし、今日この盲目の人と共に、「ダビドの子よ、我をあわれみ給え。“Fili David, miserere mei.”」例え他の人が、「お前うるさい、黙れ!」と言ったとしても、私たちは更に強い声で、この四旬節を前に、「イエズス様、どうぞ私をあわれんで下さい!私に目が見えるようにして下さい、信仰の目を開けて下さい!十字架の上に、イエズス様を認めさせて下さい、私たちの為に、私たちを愛して、これほど苦しまれたイエズス様を認めさせて下さい!イエズス様のその苦しみを理解させて下さい!イエズス様のこの苦しみの後に、十字架の後に復活がある事を認めさせて下さい!これは、全て復活の為でした!」と、祈り求めることに致しましょう。

 イエズス様は今日、必ず私たちに、この私たちの信仰の目をカッと開けてくださる恵みを下さるに違いありません。そしたら私たちは、四旬節はどれほど喜びに変わることでしょうか。何故かというと、私たちは常にイエズス様と一致して、イエズス様の十字架と一致している事ができるからです。すると、例えどんな小さなことでも、小さな十字架でも、どのような善行でも、それは永遠の価値、永遠の実りを結ぶ事ができるからです。

 私たちの四旬節が、何をそんなに喜びに満ちたものになるかというと、「イエズス様との一致がなければ、愛による一致がなければ、例え高貴な、例えこの世では良い事をしたと見えたとしても、全く無価値だった」という事が理解できるからです。

 最後に、マリア様にお祈り致しましょう。マリア様は、その最初の瞬間から、無原罪の御孕りの瞬間から被昇天に至るまでいつも、イエズス様への愛に満ちておられました。マリア様はその全てを、イエズス様と合わせてお捧げになっておられます。マリア様に倣って私たちも、この四旬節を聖なるものとしてお捧げする事ができるように、お祈り致しましょう。

 聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

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