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ナイムの寡婦の涙と教会の涙、聖母の涙の意味

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ナイムの寡婦の涙と教会の涙、聖母の涙の意味

2024年9月1日 聖霊降臨後第15主日ミサ説教

トマス小野田圭志神父

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、
今日、福音では、一人息子を失って涙を流す寡婦・やもめのお母さんが登場します。今日は、この涙から、教会が超自然の命を失った子どもたちについて嘆いていること、そしてマリアさまの涙について、一緒に黙想いたしましょう。

【ナイム:一人息子を失って涙をながす寡婦】
今日の福音を見ると、主はナイムという町に行かれます。ナイムというのは、語源によると、美しいとか、喜ばしいという意味です。

すると、町の門に近づくと、主は葬式の行列に出会います。誰が死んだのでしょうか。若い一人息子が担ぎだされてきました。お母さんは泣いています。やもめです。つまり、たった一人の、支えの一人息子を失ってしまった、もうこれからいったいどうしていけばいいのだろうか、と途方に暮れて涙を流しているお母さんです。

イエズス様は、このお母さんを見て非常にあわれに思ったに違いありません。きっとマリアさまのことを思ったに違いありません。なぜかという、マリアさまも聖ヨゼフ様を失ったやもめであり、そして私たちの霊魂の救いのために御一人子であるイエズス様を失うであろう、からです。そのことをよく知っていたイエズス様は、このやもめのこととマリアさまを重ね合わせたに違いありません。

イエズス様は、マリアさまにはご自分の復活をもって慰めを与えますから、ナイムのやもめにはこの子供の復活をもって慰めようと思われました。

【罪人の霊魂をおもって涙を流すカトリック教会】
この史実は、歴史上の出来事は、今でも霊的に起こっています。どういうことかというと、教父たちによると、霊的な意味では、美しい町…成聖の恩寵の状態の町から担ぎだされる死人というのは、大罪を犯したことによって天主の聖寵(gratia)を失った私たちの霊魂のことだといいます。罪こそが、私たち人類にとって最大の問題です。そして最大の不幸であり、最大の悲しみです。

天主は、すべてを尽くしてわたしたちを愛し、永遠の命に導こうとしておられます。それにもかかわらず、人類は自由を乱用して、与えられた自由をいいように使って、罪を犯し続けているからです。そして罪を犯すことによって、永遠の死に向かっているからです。これこそが、人類にとっても天主にとっても、最も悲しい出来事です。

教会の使命というのはなんでしょうか。教会の使命のこの本質、その核心というのは、この霊的に死んだ子どもたちが、超自然の命に生き返るようにと祈ることです。教会は、私たちにとって超自然の命の霊的なお母さんです。母なる教会というのはこのためです。なぜかというと、教会の懐でわたしたちは洗礼を受けて、超自然の命である天主の聖寵・成聖の恩寵を受けたからです。

この聖寵こそが、わたしたちの将来の栄光の種(semen gloriae)となるものです。これなくては、わたしたちは将来永遠の命を受けることができないからです。

私たちは霊魂を一つしか持っていません。ですからいわば一人息子です。人生はたった一回限りです。霊魂もたった一つです。これを失ってしまうと、もう取り返しがつきません。これを失ってしまうということはどういうことかというと、地獄に落ちてしまうということです。永遠の死に落ちてしまうということです。ですから、イエズス様はなんとかしてこの最大の不幸、永遠の死から、地獄の火から、わたしたちを救いたい、永遠の命へと導きたいと思われています。

カトリック教会は、キリストの花嫁です。キリストが頭であり、教会はその体です。一体となっています。ですから教会は、花婿であるキリストと同じ心・同じ願いを持っています。それは私たちの永遠の救いです。

イエズス様は十字架の死をもって私たちを贖いました。ですから花嫁である教会は、いわばやもめであるともいえます。ですから教会は、ちょうど今日の福音のナイムのやもめのように寡婦のように、わたしたちがあるいは罪人が、罪の状態から霊的に復活することができるようにと、いつも祈っています。罪を犯して霊的に死んでいる子どもたちが、罪を捨てて超自然の命に生き返るように祈っています。

ですから教会は、二千年間、罪こそが最大の悪である、と言い続けてきました。たとえこの世でどんなに不幸があったとしても病気だったとしても、貧乏だったとしても、あるいは事故にあったとしても、五体不満足だったとしても、しかし、天国に行ければ、永遠の至福を受ければ、すべては解決できます。しかし、この世でどれほどお金があってどれほど幸せで美味しいものを食べて何でもできたとしても、永遠の命を失ったならば、いったいそれが何の利益になるでしょうか。

ではどうしたらわたしたちは永遠の命を失ってしまうのでしょうか。それは罪です。たったひとつ、罪だけが、わたしたちをして永遠の命を失わせてしまうのです。

ですから教会は、罪を犯さないように、罪から立ち直るように、罪を棄てるように、聖なる生涯を送るようにと、いつも祈ってきました。償いと祈りと償いの涙を捧げてきました。特に、この「教会が超自然の命のために祈っている」ということを、今日は皆さんに訴えたいと思います。

【永遠の命】
教会は、いつも使徒信経で言います。「終わりなき命を信じ奉る」。

終わりなき命、つまり永遠の命 vita aeterna、これはわたしたちの究極の目的です。これは、ただ比喩ではありません。文字通りの本当の意味で、永遠の命をわたしたちが受けることになっています。

えっ!なぜ?どうやって? わたしたちは限りある人間なのにもかかわらず、なんで終わりなき命を受けることができるのか?

それは、限りあるわたしたちですけれども、無限の天主の超越的な絶対の至福にあずかることができるように、主がわたしたちに特別の光を与えてくれるからです。

もちろん、創造主である天主と被造物である人間との間には、無限の隔たりがあります。いわば、断絶があります。ですから、わたしたちがいくら永遠の命を持ったからといって、有限であるものが無限であるものになるわけではありません。被造物が創造主になるわけではなりません。しかし、天主は天主、人間は人間として区別されながらも、天主の光によって栄光の光によって、わたしたちは天主の永遠の至福に与ることができるようになります。

どういうことかというと、たとえでいうと、たとえばここに鉄の塊があります…硬い鉄の塊で冷たい鉄の塊ですけれども、これを竈(かまど)の中に轟々(ごうごう)と燃やしてしまうと、炎の中に入れられたこの鉄の塊は熱を帯びて、あたかも火の塊であるかのように真っ赤になって、そしてトロトロと溶け出して、そしてもっともっと熱を加えたら、もしかしたら気体になってしまうかもしれません。

それと同じように、もしもわたしたちも、天主の栄光の光の中に入ってそれにあずかると、その天主の栄光に光によってわたしたちの霊魂は沁みとおり、あたかも天主であるかのように変化してしまいます。あたかも天主の栄光に入った人は主の愛に燃やされて、自分は自分であることはやめませんが、この地上にいる人々とはまったく違ったものになります。そうしてわたしたちは、主の栄光、喜び、楽しみに満たされて、心の思いはすべてかなえられ、そしてあたかも天主であるかのようになるんです。

イエズス様はこう言いました。「永遠の命とは、唯一のまことの天主であるあなたと、あなたがお遣わしになったイエズス・キリストを知ることにあります」(ヨハネ17:3)。

聖ヨハネはこう言います。「愛するものたちよ、私たちはいま、天主の子であるが、のちにどうなるかは、まだ現われていない。それが現われるとき、私たちは天主に似たものとなることを知っている。私たちはかれをそのまま見るであろうから」(1ヨハネ3:2)。

聖パウロはこう言います。「今私たちは、鏡を見るようにぼんやりと見ている――つまり信仰を通してみている――、しかし、その時には――つまり天国の栄光では――顔と顔とを合わせて見るであろう。今私は、不完全に知っているが、しかし、その時には、私が知られているとおり知るであろう。」(コリント前13:12)

「天主を目の当たりにして、天主を見る」――これを、至福直感と言います。そうすると、天主が、このあまりにも愛に満ちた方であり、無限の善であり、最高の完全さをもっている方であることを深く理解して、天主を所有し天主とあたかも一つになるかのようになります。もちろんわたしたちは 天主とわたしたちは区別しますが、主を所有するように、そして幸福で欠けたものは全くないような幸せに満たされます。なぜならばわたしたちはすべてを持っているからです。これができるのは、栄光の光(lumen gloriae)のおかげです。そのとき、天主はわたしたちを栄光の光で照らして、その中で主を見るからです(詩26:10参照)。

この至福を、最高の宝であるわたしたちの究極の目的である永遠の至福を奪うものは、何でしょうか。たった一つあります。それは罪です。大罪です。ですから、教会はわたしたちが罪を犯すことがないように、罪を犯したらそれから超自然の命に回復するように、成聖の恩寵の状態に立ち戻るように、息を吹き返すように、いつも涙を流し、嘆き、祈っています。

【罪人の霊魂をおもって涙を流す聖母】
では最後に、つい最近秋田のマリアさまのメッセージを聴いたシスター笹川が亡くなられたので、マリアさまが涙を流したことについても一緒に黙想して、少し話をしたいと思います。

秋田でも、101回の涙を流されました。なぜ流されたのでしょうか。マリアさまの話によると、それは「世の多くの人々は、主を悲しませて」【第二のメッセージ】いるからです。罪を犯しているからです。主がそれによって悲しんでいるので、マリアさまも涙を流しています。

またマリアさまはこうも言われます。
「たくさんの霊魂が失われることがわたしの悲しみです。」【第三のメッセージ】

霊魂が失われるというのはどういうことでしょうか。これは天国へ行くことができなくなってしまう、罪を犯したがために、成聖の状態にいることができなくて、失われてしまう――地獄に失われてしまうということです。「それがわたしの悲しみです。」

守護の天使は、マリアさまの涙をこう説明しています。「聖母は、いつも、一人でも多くの人が改心して祈り、聖母を通してイエズス様と御父に献げられる霊魂を望んで、涙を流しておられます。」

ですから秋田の聖母の涙、この核心は、わたしたちが罪を犯さないように、あるいは罪を犯したらそれが回心するようにという、その涙です。この地上で、たとえば、‟天から火が来るから”ということが、マリアさまのメッセージの核心ではありません。

ファチマでも、やはり同じことをおっしゃいました。わたしたちにロザリオの時に、こう祈るようにいわれたからです。「ああイエズスよ、われらの罪をゆるし給え、われらを地獄の火より守り給え。」

マリアさまのお考えはいつも来世のことです。彼岸のことです。

ある時ルルドでは、聖ベルナデッタに こう言いました。「わたしはあなたにこの世では幸せを約束しません。しかし、来世ではします、来世の幸せを約束します」と。

ですから、こういわなければなりません。マリアさまが涙を流されているのは、わたしたちの永遠の命のためだ、と。

ですから、もしも秋田のメッセージの核心が何かというと、火が天から降ることではありません。‟マリアさまだけがわたしたちを助けることができる“というのは、そのような大天罰が来るときにマリアさまが物理的にそういう被害を与えないように守ってくださる、ということではありません。

もちろんマリアさまはわたしたちの優しいお母さまですから、わたしたちがこの世で苦しむことがないようにと、思っておられます。わたしたちがこの世で苦しむことを悲しまれます。できれば苦しませたくないと思われます。しかし、人類が罪を犯し続けるので、人類はどうしても受けなければならない罰がある、と。それを何とか避けさせるために、マリアさまはイエズス様とともに、御父にお祈りをして、それを慰めようとしてきた、宥めようとしてきた。しかしそれでも足りないので、多くの人々の祈りと犠牲が必要だ。だからマリアさまは、「助けてほしい」とわたしたちに訴えています。

ですから、マリアさまがおっしゃる警告というのは、脅迫ではありません。脅迫というのは、さあさあと言って、恐怖におとしいれて、嫌なことでもやれ、と…そういうことを要求することではありません。そうではなくて、わたしたちが永遠の命を受けるために、いまから厳しいことがあるかもしれない、とそれを予告します。心の準備をさせます。

特に、永遠の命を受けるために最も必要であるはずの枢機卿があるいは司教様たちが互いに対立してわたしたちを上手く天国まで導くことができないかもしれない…教会は荒らされる…司祭・修道者も辞めてしまう…悪魔が聖職者たちに働きかけている…わたしたちが正しい教えを聴くことができないようにさせてしまっている…そのために多くの霊魂が失われてしまっている――それが悲しい。

ですから、マリアさまは、わたしたちが悔い改めるように、罪を犯し続けるのを止めるように、と訴えています。 

【遷善の決心】
では最後に選善の決心を立てましょう。
マリアさまは罪を避けるように、つまり、天主の十戒を愛をこめて守るように、そして天主を愛するがために隣人を我が身のように愛するように、祈りという天主との愛の会話をするように、わたしたちの日頃の義務を身分上の務めを愛をこめて償いとして天主に捧げるように、と招いています。そして、イエズス様とともにマリアさまとともに、わたしたちの日頃の生活を祈りと償いをもって捧げるように、と招いています。

そうすると、そのようなわたしたちを見た、マリアさまと一緒に死人を担いで出てくるその行列をするわたしたちを見たイエズス様は、きっと十字架の木に手をかけて、罪人たちにこう命じられることに違いありません。「青年よ、私はいう。起きよ!」と。

すると、罪人は、多くの人々は、霊的なよみがえりをするに違いありません。教会とマリアさまの涙をごらんになって、罪人を憐れみに思ったイエズス様が、超自然の命をわたしたちにくださるのです。

これこそが教会の存在理由であって、教会の使命の核心であり、本質です。「超自然の命を与える」。そして、これこそが、マリアさまが涙を流される理由です。

では、今日この福音を黙想しつつ、わたしたちもマリアさまの涙に教会の嘆きに合わせて、日々の生活をお捧げいたしましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


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