2024年9月22日聖霊降臨後第十八主日のミサの説教
トマス小野田圭志神父
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、
先週は、マリアさまの七つの悲しみの祝日で、マリアさまがイエズス・キリストの伴侶――第二のエワ――として、主の御旨に従って、イエズス・キリストの功徳にまったく従属して、イエズス様において、イエズス様によって、イエズス様とともに、贖いの業を成し遂げられたということを黙想しました。
その結果として、マリアさまは御苦しみにおいてわたしたちを超自然の生命に生み出してくださった本当のお母様である、ということを黙想しました。実際に、典礼では、マリアさまがお母様であるということは、いろいろなところに出ています。聖母の連祷、サルベ・レジナ、アヴェ・マリス・ステラ、などなどに。
マリアさまは、イエズス様とともにイエズスと共同して私たちを贖った方――その結果私たちの霊的母・・・。では、このことからいったい何が、さらに導き出されるでしょうか? そのいろんなことが導き出されますが、そのうちの一つは、マリアさまが仲介者である――そういうことです。今日はそのことについて特に黙想したいと思っています。
【聖母が母であるということの結果】
マリアさまが霊的な母親である本当の母親であるということは、この世において天国への道を進んでいる私たちにとっては、マリアさまは私たちのために必要な聖寵を、お恵みを仲介して、取り次いでくださっている方ということです。もしも私たちが天国に到達したならば、マリアさまはその時、母であり、同時に聖人たちの元后・女王となられます。
聖ベルナルドは、聖母についてわたしたちは語り切れない(De Maria nunquam satis)と言いましたが、本当にその通りです。ですから今日は的を絞って、マリアさまが特に全ての聖寵の仲介者であるということをお話しします。
【全ての聖寵の仲介者】
「仲介者」というのは、いったいどういうことでしょうか。仲介者というのは、中にはいって両者の関係がうまくいくように手伝ったり取り次ぐ人のことです。
ところで、マリア様のことを聖福音に従って読んでみると、イエズス・キリストのこのご生涯のその最初から、霊的にそして物質的に取り次いで、イエズス様からお恵みを奇蹟を取り次いだ人です。
たとえば、マリアさまを通して、イエズス様は最初に洗者聖ヨハネを聖化しました。またマリアさまを通して、イエズス様は最初にカナで物質的な奇蹟を行いました。これはそののちまで世の終わりまで、イエズス様はマリアさまを通して奇蹟を行い続けますよという前兆でした。これが天主のみ旨ですよという、予告でした。
使徒行録によると、聖霊降臨のときにはマリアさまは使徒たちと一緒に祈っていました。そして聖母は、私たちの母として天に上げられた今、子供たちである私たちのために祈り続けています。絶えず祈り続けています。
では、マリアさまが「仲介者」であるということはどういうことか、そのことを深く見てみましょう。三つの点があります。
(1)【天主の御母となる恵み】
一つは、マリアさまがまず、天主の御母となるお恵みをいただいた、ということです。聖母は被造物でありながら、天主の御母となられました。これほど天主の本性とぴったりと親密な関係を持つ方は存在しえません。天主の御母――天主の母となるために、マリアさまは、満ち満ちと溢れる聖寵を受けて、そしてその溢れは私たちの上に溢れ出て、注がれるばかりでした。マリアさまが持っていたその天主の母のお恵み、これが大事です。
(2)【自由な承諾】
第二は、ただお恵みをいただいたというだけではありません。マリアさまはそれに自由に承諾しました。進んで協力したということです。救い主の母となるということは、いったいどれほどのことか、どれほどの苦しみを伴うことかということを、マリアさまは聖書を通してよくご存じでした。しかしそれに自由に承諾しました。「われ主のはしためなり。おおせのごとくわれになれかし。」そして救い主の犠牲とそのご生涯にできる限り密接に結びつこうとして、そして苦しみました。そしてそうすることによって、私たちの救いに協力しようと望みました。意志しました。ですから、マリアさまには、お恵みを受けただけでなく、自分の意志があったということがわかります。
(3)【協力の実現による功徳】
三番目は、そう望んだだけではありません。実際にそうした、それを果たした、という点です。協力を実現させた、功徳があるということです。ただそうなったらよいなあというだけではありませんでした。マリアさまは、私たちの罪の贖い・償いのために究極まで、十字架の下に佇んで、ご自分の苦しみをイエズス・キリストとともにお捧げになりました。そして、イエズス・キリストとともに溢れるばかりの功徳をお積みになりました。ですから、その功徳をもって、いま天国で、私たちの救いに役立つすべてのお恵み・聖寵を、私たちのために祈り取り次いでくださっているのです。
マリアさまが取り次ぐのは、イエズスさまとわたしたちの間です。ですから聖母は、贖い主・キリストとわたしたちの間の仲介者として、取り次いでくださっています。わたしたちのつたない祈りや犠牲を、マリアさまはイエズス様に取り次ぎ、そしてイエズス様から特別の祝福あるいは聖寵、わたしたちにとっての利益を得て、わたしたちにくださるようになさっています。こうすることによって、イエズス様に従属する・依存する普遍的な仲介者となられています。
【依存・従属する仲介とは?】
では、イエズス様に依存したり従属するというのはいったいどういうことなのでしょうか。このことを誤解のないようになさってください。贖い、つまり贖罪という大事業は、まず天主から――聖寵をわたしたちに創りわたしたちにくださる天主から、まったく由来しています。と同時に、完全な仲介者であるイエズス・キリストからも完全に由来します。さらに、従属的な仲介者であるマリアさまから、由来します。
天主、イエズス・キリスト、マリアさま、これはどういう関係になっているかというと、たとえばある荷物を3人の人が3人の紐で一緒に、「一・二・三」と引っ張ったという関係ではありません。そうではなくて、ちょうど林檎がどうやって実るかというようなのに似ています。まず、自然の創造主である天主によってあぁ林檎というものが創られたのですけれども、同時にその林檎の実がなるためには樹が生えていなければなりません・・・と同時に、その樹に枝がついていて、花が咲いて、実がならなければなりません。そのように、天主、イエズス・キリスト、マリアさまは、従属して、三つが協力されて、贖いの事業が成立しました。
つまり、すでにすばらしいやり方で無原罪の御宿りというやり方で、イエズス・キリストによって贖われて、原罪と自罪のすべてから守られたマリアさまが、わたしたちを、まず罪の赦しとそれを聖化しそして最後まで聖寵の状態に堅忍することができるように守ってくださる、そういうやり方で私たちの贖いに協力してくださっています。
これを別の言い方でいうと、マリアさまはイエズス様と一緒に二人で功徳を積んだ方です。
【聖母の功徳:全ての聖寵の仲介者】
(1)マリアさまだけが、救い主を私たちに与えました。(2)マリアさまだけが、十字架の犠牲に生贄に最も緊密に結ばれました。(3)そしてマリアさまだけが、全人類のためにすべての必要なお恵みを普遍的に仲介してくださっています。
(1)聖トマス・アクィナスは、このことをこう言っています。
「マリアさまが全く自由に聖寵の創り主である救い主の母となることに同意したので、マリアさまはあらゆる被造物の中で聖寵を創った主に最も密接に親しかった方であり、聖寵の充満を受けた。これによって聖母は聖寵に満ちた方をその胎内にお宿しになり、その方をお産みになることによって、ある意味ですべての人の聖寵の源となられた。」(III, Q. xxvii, art. 5)
(2)また、マリアさまだけが十字架と結ばれたということについては、確かにイエズス様は厳格な正義のもとに天主として功徳を積みましたが、マリアさまはいとも清い方でイエズス様を最高度に愛した方だったので、非常にふさわしいやり方で、わたしたちの罪の償いの功徳を積まれた方です。イエズス・キリストとともに積み、そして天主の正義を非常にふさわしいやり方で満足させた方です。
(3)そして、こうやってイエズス様と共に勝ち取ったこの贖いの実りを――これはイエズス様のものであると同時にマリアさまのものであるのですから――わたしたちのために自分のものとして、イエズス様と同時に共同のものとして、わたしたちのためにひとりひとりのために、特にマリアさまに助けを求める人々のために取り次ぐことができるのです。
こうやって、天主の御旨によって、あらゆる取次者の中で、マリアさまは完全な仲介者として定められました。
聖ベルナルドはこう言っています。
「私たちがマリアを通してすべての恵みを受けることは天主の御旨である」(「Serm. de aquaeductu,」 n. vii)。と。
何故なんでしょうか? それはわたしたちがあまりにも弱く、イエズス様まで到達する際にも仲介者が必要であるからです。またもう一つの理由は、マリアさまはあまりにも謙遜な方であったので、天主は聖母を高めようとお望みになられたからです。ですから、マリアさまに、救いとわたしたちの聖化のために重要な役割を果たすことができるように、それを望まれたからです。
このマリアさまの御取次の偉大さについては、聖霊の浄配という役割のためにものすごい力があったということは、さらにお話がありますが、これはまたのちの機会にしたいと思います。
【スタバト・マーテル】
最後に、この黙想を終わるについて、マリアさまが罪の贖いのために協力して、わたしたちにどれほどお恵みを勝ち取ってくださっているかということは、スタバト・マーテル(Stabat Mater)という続誦に非常に美しく表れています。その数節を引用して、この黙想を終わりたいと思います。
Eia, Mater, fons amoris me sentire vim doloris fac, ut tecum lugeam.
慈しみの泉なる聖母よ、われをして御悲しみのほどを感ぜしめ、共に涙を流さしめ給え。
Fac, ut ardeat cor meum in amando Christum Deum ut sibi complaceam.
わが心をして、天主たるキリストを愛する火に燃えしめ、一(いつ)にそのみ心に適わしめ給え。
Fac, ut portem Christi mortem, passionis fac consortem, et plagas recolere.
われにキリストの死を負わしめ、そのご苦難を共にせしめ、その御傷を深くしのばしめ給え。
Fac me tecum pie flere, crucifixo condolere, donec ego vixero.
命のあらん限り、御身(おんみ)と共に熱き涙を流し、はりつけにされ給いしイエズスと苦しみを共にするを得しめ給え。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。