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天主の十戒「第四戒」 ー隣人に対する掟の中で、第一の掟ー:聖ピオ十世会司祭 レネー神父様

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

レネー神父様の「天主の十戒」についてのお説教をご紹介いたします。

第5回目は、第四戒「汝、父母を敬うべし。」についてです。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2016年4月10日 復活後第二主日―大阪 霊的講話「第四戒」

親愛なる兄弟の皆さん、

天主は、最初の三つの掟で、天主に対する欠かすことのできない義務を私たちにお命じになったのち、次の七つの掟で、隣人に対する義務を私たちにお命じになります。これらすべての掟は、愛徳という掟によって実現されるのです。「隣人を自分のように愛せよ」(マテオ19章19節)。実際、「天主を愛する者は自分の兄弟も愛せよ。これは私たちが天主から受けた掟である」(ヨハネ第一4章21節)。聖パウロ自らが説明します。「全律法は『自分と同じように隣人を愛せよ』という一言に含まれているからである」(ガラツィア5章14節)。天主はモーゼに、二つの「石版」に書かれた十戒をお与えになりました。最初の三つの掟が「第一の石版」で、残りの七つの掟が「第二の石版」でした。これは二つの愛徳の掟に対応しています。これについて私たちの主イエズス・キリストは言われます。「すべての律法と預言者はこの二つの掟による」(マテオ22章40節)。

英語で愛を示す「love」という言葉は包括的すぎ、意味が広すぎます。愛は、ギリシャ語では三つの言葉に対応しています。感覚的な愛である「エロス」、「博愛」である「フィロス」、そして霊的であり全面的な自己犠牲の愛である「アガペー」です。この三番目の愛がラテン語で「カリタス」、英語では「チャリティー(慈愛)」と訳されます。この最高の愛について、こう言われます。「天主は愛である!」(ヨハネ第一4章8節)。現代の世俗的な言葉では、チャリティー(慈愛)は低いレベルの概念ですが、カトリック信者は、霊的であり全面的な自己犠牲の愛である「アガペー」という高いレベルの概念を守るべきです。私たちは信仰のために、天主に敬意を示す(第一戒)ために、殉教者となって死ぬ覚悟を持つべきであるだけでなく、隣人の救いのためにもその覚悟を持つべきです。聖ヨハネがこう言うように。「主が私たちのために命を捧げられたことによって、私たちは愛を知った。私たちもまた、兄弟のために命を捧げねばならぬ」(ヨハネ第一3章16節)。このように、天主の掟が私たちに教えるのは、まことの愛であり、まことの愛における順序です。

隣人に対する掟の中で、第一の掟は私たちに「汝の父と母を敬え」(脱出[出エジプト]20章12節)と命じています。この掟は「汝殺すなかれ」(脱出20章13節)よりも前に置かれており、この掟の重要性を示しています。自分の親を大切にしない者は、いったい誰を大切にしようと思うでしょうか。誰も大切にはしません! この掟は大変厳しいため、天主はさらにこう付け加えられました。「父あるいは母を呪う者は死と定められる」(脱出21章17節)。また私たちの主イエズス・キリストは山上の垂訓の中でこの両方の節を取り上げられます。旧約においては、死刑は非常に重大な罪、大罪を示しているのです。

気を付けていただきたいのは、天主が言われたのは汝の父母を「敬え」であって、汝の父母を「礼拝せよ」ではないことです。私たちは親を、被造物に見いだされ得る相対的な優越性のために尊重し、尊敬しますが、それは天主の最高の優越性のために行なう礼拝とは違います。なぜでしょうか? 私たちは両親から命を授かりました。両親が私たちに命を与えました。しかし、両親は命の源ではありませんでした。天主だけが命そのものであり、すべての命の源なのです。両親にできたのは、自分たちに授けられた命を私たちに伝達することだけでした。天主が命の源そのものなのであり、またそれゆえに最高の優越性を持っておられるのですから、私たちは、天主に最高の敬意、すなわち礼拝を捧げるべき借りがあるのです。親は私たちに自分たちが授かった命を与えてくれたのですから、私たちは両親に、最高の敬意ではないものの、まことの敬意である相対的敬意を示すべき借りがあるのです。

従って、この掟に反する罪は二つあります。一つは親を大切にしないという怠慢の罪であり、もう一つは祖先の崇拝という行き過ぎの罪です。親を大切にしないことは、現代世界に共通に見られますが、これは全くキリスト教に反しており、良きカトリック信者にはありえないことです。旧約はこの罪に対して非常に厳しかったため、それが反抗の段階にまで達すれば、その罰は死刑であり、これは大罪を示していました。「ある男の子どもが、がんこで反抗的で、父の言うことも母の言うことも聞かず、懲らしめても言いつけを聞かなければ、父母はその子を捕らえて町の長老たちのいる門のところへ連れて行き、自分の町の長老にこう言う、『この息子はがんこで反抗的で、私たちの言うことを聞かず、女狂いするし酒におぼれています』。そこで町の男たちは彼に石を投げて殺さねばならぬ。こうすればおまえの町から悪を取り除ける。全イスラエルはそれを聞いて恐れるだろう」(第二法[申命記]21章18-21節)。

祖先崇拝という行き過ぎの罪は、中国文化(圏)の異教の人々によく見られます。祖先崇拝もまた、唯一のまことの天主以外の「他の神々」の崇拝と同じく、旧約では死刑によって罰せられました。そのような環境の中で生きているのですから、皆さんもこの行き過ぎの罪を避けるよう注意しなければなりません。これもまた大罪なのですから。

若年のときに親に敬意を示すべきだということは、子どもは親に従順である義務があるということを暗示しています。従順は幼年時代の大きな徳です。聖グレゴリウスはこれを「すべての徳の母」と呼んでいます。なぜなら、子どもが親に従順であるとき、それによって他のすべての徳を行うことを学ぶからです。その理由は、親が、たとえ自分たちが常に正しいことをするわけではないにしても、ほとんどの場合、子どもに正しいことをするよう命じるからです。従順は幼子イエズスの徳でした。幼いときだけでなく、十代のときも従順でした。聖書がこう言うようにです。「イエズスは彼らとともに下り、ナザレトに帰って、二人に従って生活された」(ルカ2章51節)。イエズスはそれまでずっと大変従順でしたから、マリアとヨゼフは、イエズスがなぜエルザレムで離ればなれになったのか理解できませんでした。しかし、それは天の御父への従順からであり、その後のイエズスはマリアとヨゼフに「服従」しておられました。

この従順の義務がどんな理由に基づくのかというと、子どもは自分の生活を方向づける知恵をまだ持っていないからです。そのため、子どもは自然に親の指導の下にいて、従順によって正しいことをすることを学ぶよう、天主が定められたのです。このように、親の権威は子どもたちの善のためです。ですから、聖パウロは命じます。「子どもたちよ、主において両親に従え。それは正しいことである」(エフェゾ6章1節)。

従順は道徳上の徳であり、怠慢―つまり不従順、合法的な命令を守らないこと―と、行き過ぎ―つまり盲従、非合法の命令まで守ること―との間にあります。従順に反する罪のほとんどは不従順ですが、時には従順の行き過ぎによって罪を犯すことが起こりえます。典型的なケースは、親が子どもを虐待する人物に娘を売ったり、父親が自分の娘に虐待をしたりする場合です。そのとき、その子どもには「いやです」と言うべき厳しい義務があります。それは簡単ではありませんが、義務なのです。もちろん、そんなケースにおいて、そんな方法で自分たちの権威を乱用する人々の罪は、大変な罪です。子どもたちにとっての善であるべきという親の権威の目的そのものに、真っ向から反するのですから。ほとんどの親は自分の子どもたちに悪いことをするよう命じることはないでしょう。でも、それでも現代世界ではそんなケースが見られ、それは非難されなければなりません。

子どもたちが親に対して示すべき敬意を表す方法は他にもいろいろあります。例えば、親が話しているとき、子どもたちはそれを聞くべきです。子どもたちは親の話の邪魔をしてはいけません。また、地下鉄では、子どもたちは親や年上の人々に席を譲るべきです。親が子どもたちを座らせて自分たちが側に立っているのは、良い教育に大きく反しています。でもこれは、不幸なことですが、今日ではよく見かける光景ですが、そうすると親を敬うことを子どもたちに教えていないのです。

子どもたちが大人になったのちには、もう親への厳しい従順(の義務)を負いません。しかし、親への敬意を示すという義務は残るのです。子どもたちが親からどれほど多くの物を受けたか、命だけでなく食べ物や衣服、特に自分の教育まで含め、そのリストを作るならば、非常に長いリストになるでしょうし、良い親であればあるほどそのリストはさらに長くなるでしょう。大人になっても、子どもたちが親の忠告を聞くのは善いことなのです。

さらに、親が病気になったり年老いたりすると、子どもたちには親の世話をする特別な義務があります。こうして、自分たちの若いころに親が長く面倒を見てくれたお返しをするのです。親に多くの子どもたちがいる場合は、そうあるべきですが、その場合は子どもたちが年老いた親の世話をするのは難しくありません。私は、十二人の子どもたちがいるある母親のことを覚えています。彼女が病気で死期が近づいたとき、子どもたちと孫たちは絶え間なく面倒を見るために協力していました。彼女は決して一人にはなりませんでした。常に子どもか孫の一人が一緒にいて、共に祈り、慰めるなどしていました。良き親への美しい報いです! 子どもたちは、親と共に祈って、親が聖なる死を迎えるよう助けるべきです。また、親のために司祭を呼んで、終油の秘跡を受けさせるべきです。そして親が亡くなったあとも、子どもたちは親をきちんと埋葬して、親の霊魂の安息のために祈るべきです。

その反対に、多くの親たちが子どもを持つ義務を果たさない現代世界は、今や年老いた人々の面倒を見ることができないという深刻な問題を抱えています。年老いた人々の面倒を見るための若い世代が十分にいないのです。こうして、妊娠中絶が安楽死につながるのがわかります。中絶が子どもたちに対する親としての義務に反する最大の罪であるように、安楽死は親に対する子どもとしての義務に反する最大の罪なのです。

実際、第四戒は親を敬うことを子どもたちに義務づけるだけでなく、親にもまた、子どもたちの面倒を見ることを義務づけ、その能力に従って子どもを持つことをも義務づけているのです。これは実際に楽園において与えられた掟でした。「生めよ、ふえよ」(創世記1章28節)。私に言わせてもらえば、ふえるのに最も小さな数は2を掛けることです。ですから、二人の親はできるなら少なくとも四人の子どもを持つべきです。良きカトリックの家庭には、しばしば五人、六人、七人、そしてそれ以上の子どもがいます。また、一人か二人の子どもよりも、多くの子どもを教育する方が簡単です。実際、大家族には自己中心の心が存在する場所はありません。しかし、両親に一人か二人の子どもしかいないときは、子どもたちは自己中心になりがちで、すべてが自分たちのためにあると考えがちです。子どもをもうけ、教育することは、まさに結婚の第一の目的です。

親はまず第一に、子どもたちに信仰を、私たちの主イエズス・キリストの知識と愛を教えるべきです。これは最初から、実際結婚の前からでさえ始まるもので、将来の両親になる夫婦は将来持つ子どもたちのためにすでに祈るべきです! すると、子どもたちは、母親の毎日の祈りを胎内で聞いて、生まれる前から家族の祈りに慣れるのです! 家族の祈りは実際、家庭生活に欠かせないもの、子どもたちの良き教育に欠かせないものなのです。家族の祈りを規則的に行うことは欠かせないものであり、祈りの長さよりも規則的に祈ることが重要です。ロザリオを一連だけでも毎日祈る方が、時折全部のロザリオを祈るよりもよいのです。子どもたちが幼いときは、長すぎる祈りは理想的ではありません。子どもたちが育つにつれて、家族の祈りも子どもたちの成長とともに育っていくでしょう。

良い教育のためには良い模範が必要です。親は子どもたちの模範になるべきであり、特にあらゆるキリスト教的な徳の実践において模範となるべきです。良い教育にはまた、ある程度しつけも必要です。自分たちの子どもたちを決して正そうとしない親の弱さは罪であり、子どもたちを正しく教育しない親は、それを天主に釈明しなければなりません。子どもたちはしばしば、親からの過剰な寛大さや甘やかしのせいで駄目になってしまいます。「人は実によってその人を知ることができる」(マテオ7章20節)。子どもたちは親の実なのです。ですから、良き子どもたちは良き親への最上の報いなのです。

しつけ(規律)に怠慢があるように、行き過ぎることもあり得ます。聖パウロはそれについて親たちに警告しています。「両親よ、あなたたちの子どもをいからせることなく、主に従って規律をもって育て戒めよ」(エフェゾ6章4節)。

さて、完璧な家庭はなく、完璧な親もいません。ですから、すべての家庭で許しが必要です。親は子どもを許し、子どもに対して忍耐強くあるべきです。でも正しく教育すべきです。そして子どもたちは互いに許し合い、親が自分たちの世話をするのに欠けていたところがあってもそれを許すべきです。自分の兄弟姉妹を許さず、親や子どもを許さないとしたら、いったい誰を許すというのですか? さらに、「一人一人が心から兄弟を許さないと、私の天の父もあなたたちをこのように扱われるだろう」(マテオ18章35節)。「他人を許さなければ、父もあなたたちの過失を許してはくださらぬ」(マテオ6章15節)。

多くの子どもたちがいる良きカトリックの家庭においては、修道者として、あるいは司祭として生きるために天主に自分を捧げるよう、天主が子どもたちに召命を与えられることがよくあります。このようなとき、親には子どもたちに召命を強制する権利も、子どもたちを召命から妨げる権利もないことを知っておくのは良いことです。親の義務は、土地を用意し、悪い習慣である雑草をすべて取り除くことであり、召命の種を植え付けることは天主の専権事項です。しかし、良き親は子どもたちの中に召命があるようしっかり祈ります。そうすれば天主は親の望むもの以上のものをお与えになることができるのです! 幼きイエズスの聖テレジアの両親を見てください!

親たちが子どもたちに、この世の富や成功だけを願うのは良いことではありません。親たちの中には、いかなる犠牲を払っても子どもたちの成功を見ることに熱心なあまり、この世のものを好むことや永遠のことを無視することを実践によって教えている人々がいます。これは全く良くありません。そうではなく、親たちは、徳がこの世のいかなる富よりも重要であると、子どもたちに教えるべきです。聖パウロは書いています。「確かに足ることを知る人々にとって敬虔は利益の道である。私たちは何も持たずにこの世に来て、また何も持って去ることができない。食べる物と着る物があれば、それで満足しなければならない。ところが富を求める人々は誘(いざな)いとわなと、人間を堕落と滅亡に落とし込む愚かな恥ずかしい欲望に陥る。実にすべての悪の根は金への執心である。それを得て信仰から迷い、さまざまの苦しみをもって自分自身を刺し貫いた人々がいる」(ティモテオ前書6章6-10節)。

第四戒は親に対してだけでなく、更にはあらゆる権威に対しても適用されます。つまり、政治上の権威と宗教上の権威に対してです。実際、あらゆる権威は一種の父権であって、父権はあらゆる自然的権威の第一の基礎です。ですから、聖パウロは書いています。「すべての人は上の権威者に服従せよ。なぜなら、天主から出ない権威はなく、存在する権威者は天主によって立てられたからである」(ローマ13章1節)。そしてこう結論します。「すべての人に与えねばならぬものを与えよ。貢を払うべき人には貢を、税を払うべき人には税を、恐れるべき人には恐れを、尊ぶべき人には尊敬を与えよ」(ローマ13章7節)。これは、宗教上の権威について特に当てはまります。聖パウロはティモテオにこう書いています。「正しく支配する長老たちは二重の誉れを受ける値打ちがある。特に言葉と教えによって働く人はそうである」(ティモテオ前書5章17節)。

この誉れ、敬意は従順の義務も含んでいます。しかし、上で説明したように、従順は道徳上の徳であって、怠慢―つまり不従順―と、度が過ぎること―つまり盲従―の間にあります。ですから、妊娠中絶を許すような悪しき法律には抵抗しなければなりません。また、宗教上の権威者が、私たちの主イエズス・キリストから使徒たちとその聖なる後継者を通して何世紀にもわたって伝えられてきたことに反する新奇なことを命じるとき、その新奇なことにも抵抗しなければなりません。でも、権威の乱用に抵抗する一方で、権威の所有(者)自身に対する敬意は持ち続けなければなりません。それは、権威を与えられた人物の内に、すべての権威の源である天主ご自身の権威そのものを見るからです。


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