アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
聖ピオ十世会日本による毎年恒例の秋田巡礼ですが、2016年は巡礼10周年を記念して長崎にまで足を伸ばしました。
今回の長崎巡礼は、秋田巡礼10周年を祝うためのみならず、信徒発見150周年を祝うため、私たちと同じ聖伝の信仰と愛とを持って殉教していった先祖たちの英雄的な証をより深く知って崇敬するため、また、コルベ神父様の無原罪の園を訪ねて無原罪の聖母の騎士創立100周年を準備するため、に行われました。巡礼者の方々が、良き巡礼の時を過ごすことができたことを期待します。
愛する兄弟姉妹の皆様のしもべにとって、今回の長崎巡礼は特別のお恵みでした。長崎が、イエズスさまから愛され、マリア様から特別に愛された、贖われた人類の貴重な遺産の地であり、カトリック教会の宝、日本の宝であると、思いを深めました。
無原罪の聖母マリアさまの力の強さ、優しい配慮と親切さを、この身で体験し、目で見ることができました。
また長崎の偉大さを今回あらためて理解しました。長崎という土地は人類の大切な世界遺産だと思います。また島原半島の素晴らしさを認識しました。
数十万の殉教の地に赤く染まった長崎。550名以上の司祭・修道士・修道女・信者たちが、敵を赦しつつその聖なる血潮を流した奇跡の連続であるかのような西坂を持つ長崎。
250年以上にも亘る残酷な迫害の中で司祭がいなかったにも関わらず信仰を忠実に伝え続けた奇跡を生み出した長崎。迫害と差別を受けつづけた後に信仰を捨てなかったために日本各地に追放されながらも、それを「旅」に出ると言って喜んで追放されていった信者たちを生み出した長崎。県庁付近を狙った原子爆弾が天候のため北方に偏り浦上のしかも天主堂の真正面に流れ落ちた長崎。
原爆を受けて全てを失ったにもかかわらず、信徒代表の永井博士の口を通して「豊臣徳川の迫害に滅ぼされず、明治以来、軍官民の圧制にも負けず、いくた殉教の血を流しつつ四百年、正しき信仰を守り通したわが浦上教会こそは、まこと世界中より選ばれて、天主の祭壇に献げられるべき潔き羔の群れ」「美しきもの、潔きもの、善きものよ」と仰ぎ見て、全知全能の天主の御業に讃美し、浦上教会が世界中より選ばれ燔祭に供えられたことを感謝した長崎。
無原罪の聖母の忠実な道具である聖マキシミリアノ・コルベが、聖母マリア様の御旨によって6年住み聖化した長崎。長崎は、贖われた人類の宝であり、聖母マリアによって与えられた日本の最も誇る聖なる地の一つであると、しみじみと確信しました。
長崎には38名の巡礼者がフル参加しました。2名ほどの外国人の方々が巡礼の希望を持ちながら、熊本での地震のために、あるいはその他の理由で、残念ながら来ることができませんでした。
巡礼団の団長として巡礼のプログラムを組むに当たって、なるべく多くの場所を網羅して見て回るという観光的なやり方ではなく、それらを全てカバーすると本当に見るべきものにカバーが掛かってしまって見えなくなってしまうので、巡礼の目的を達成するために最も効果的な場所を選んで、たとえそれ自体すばらしいものであっても目的のために効果的でないならば行かない、という方針で考えました。あまりにも多くのすばらしいものがある長崎において、何を捨てて行かないかということは難しい選択でした。
【第1日目】
第1日目をプランするに当たってのターゲットは、聖フランシスコ・ザベリオによって伝えられ始めた信仰、その教えが、聖母マリア様の御取り次ぎによって、最初にどのような実を結んだのか、最初の日本二十六聖殉教者や長崎の16聖殉教者などを生んだ西坂を深く知ることです。
第1日目には、長崎に到着したその足で、すぐに西坂の丘に向かいました。550人以上(日本二十六聖殉教者記念館の館長レンゾ神父様によると600名)の殉教者の血で赤く染まったこの聖なる地に詣で、その地に接吻をし、祈りを捧げました。記念館の二階には、殉教者たちの聖遺物が納められ、ただただ跪いて祈りを捧げるのみでした。
帰り際にポーランドからの巡礼団と出会い、一緒にポーランド語で(!)ポーランドの有名な巡礼の歌を歌いました。西坂にある聖フィリポ教会にも行き、日本二十六聖人の聖遺物の前で皆が跪いて祈りを捧げ日本の殉教者をたたえる聖歌を歌いました。その日はみどりの日であり昭和の日でありましたが、昭和天皇が教会の脇にお植えになった樹木を見て、私たちがここに今日この日に来たのは偶然ではないと思いました。
次に中町教会に立ち寄り、やはり西坂で殉教して列聖された長崎16聖殉教者を崇敬しました。
【第2日目】
第2日目をプランするに当たってのターゲットは、聖母マリア様の御取り次ぎによって、日本のカトリック教会の誇るべき偉大な聖人達をどのように多く生み出されたのか、特にそれに傑出した島原半島を理解することです。
巡礼第2日目には、日本二十六聖人の随意ミサを歌ミサで捧げました。
聖伝のミサの後、私たちは貸し切りバスで雲仙に行き、島原領主松倉重政が考え出したキリシタンを苦しめる拷問、雲仙地獄の地に詣で祈りを捧げました。島原半島の殉教者たちが、御聖体に支えられれ御聖体に全てを捧げたことに、感嘆と賞賛の念でいっぱいになりました。雲仙地獄は、多くの殉教者を生み出しました。
島原は、大名の有馬義直(大村純忠の兄)が1563年にアルメイダ修道士を招いてイエズス・キリストの教えが伝わりました。貧しい方々や病気の人々を助けるために病院を建て、愛徳を込めて彼らの世話をする「ミゼリコルディアの組」(愛徳の信心会)ができ、日本人のための奉仕と福祉のために働きました。アルメイダ修道士は、ポルトガルの青年医師(外科医)で、天主の憐れみの福音を伝えるために、至る所でやむ人々に手をさしのべていました。
マリア様へのお祈りをする「ロザリオの組」(ロザリオの信心会)も組織され、「御聖体の組」(御聖体を礼拝する信心会)が特に盛んになり、平和に暮らしていました。義直がセバスチアノという霊名で洗礼を受け、その跡継ぎである有馬晴信夫婦も1579年にプロタジオとルシアという霊名で受洗し、島原の人々はほとんどが信者になりました。島原は、日本のカトリック教会の中心地となり、有馬には立派なセミナリヨ(神学校)が建てられ、有名な天正遣欧少年使節も、有馬のセミナリヨの卒業生です。当時は、セミナリヨは有馬と安土とに二校ありました。この神学校では、天主と人々への愛と奉仕に努めるリーダーたちを生み出していました。
次にこの松倉重政がキリシタンたちに7年3ヶ月に亘る強制労働を述べ100万人に上る農民の使役と重税を強いて身分に不釣合いに豪華に建てた島原城(森岳城)に行きました。お上に褒めてもらいたい、自分をよく見せたい、自分の保身、自分の利益ということのために、お上のご機嫌伺いをし、虚栄心の塊だったかのような松倉重政は、関ヶ原の戦いで逃げる西軍に勝ったという報告さえする卑しい男で、自分の身分に不相応な城を築き、江戸城修復の時には、四万石ほどの力しかないくせに十万石の賦役負担を自ら進んで幕府に申し出て、格好をつけ、幕府をせき立ててルソン征伐準備し、極めて高価な武器を数多く買い込むために、つけを領民にまわしてこれを圧迫し、それで何も思わない男でした。年貢を払えない者には、容赦のない拷問や処罰を施しました。司馬遼太郎は「街道をゆく」の中で「日本史の中で松倉重政という人物ほど忌むべき存在は少ない。」と言っているほどです。
重政が1618年から作った島原城の外郭は東西に約380m、南北に約1260mと広大で。周囲は3900mの堀に囲まれ、自分の石高に不相応な成金的な大きい城でした。本丸内の天守は五重五階で、本丸の北に廊下橋で二の丸が結ばれ、さらに三の丸を配置し、三の丸の近くの藩士屋敷には牢屋があって、宣教師や信者たちが入れられ、厳しい拷問を受け、堪え忍び、祈り、互いに励まし合い、信仰を守り抜いた場所です。
重政は57歳で急死します。雲仙地獄の拷問を考え出して三年後の1630年(寛永七年)十一月十六日に小浜温泉で狂死します。何故なら、急病にかかり、病状は日毎に悪くなり、医師たちも手の施しようがなく、重政は小浜温泉に連れて行くよう命じたのです。そこで熱湯を自分の身体にかけさせ、次には冷水をかけさせたのち、自分の身体を割竹で存分にたたけと家臣に命じました。ためらっている家臣たちに、太刀を抜いて命令通りにせよと怒るほどでした。家臣たちは命令のまま重政を叩きつづけ、ついに死に至らしめたのでした。正にキリシタンに加えた拷問を自ら望んで受けたのでした。
家督を継いだ息子の勝家は、更なる重税を課しました。1634年からの大旱魃による凶作のために、1637年3月から4月にかけて餓死者が続出しました。勝家は憐れみもなく、納税が遅滞するや、家族を人質に取り拷問を加えました。1637年、口之津村の与三左衛門の嫁は、納税を納めるまで、と人質に取られ、妊娠の身で裸で水牢に入れられて、6昼夜苦しめられ、母子ともに殺されました。勝家は、税を納められない農民に蓑を着せ、火をつけ、転げまわらせて、「蓑踊り」と称して楽しみさえもしました。特にキリシタンたちに対しては厳しい残酷な取り扱いをして、島原の乱を起こさせる原因となりました。
キリスト教を迫害して作られた島原城ですが、明治維新で廃城となり、民間に払い下げら、天守も解体され、本丸は畑となりました。三の丸のあったところは、第一小学校と島原中学校、島原高校となっています。
今存在している島原城の天守閣は、1964年に鉄筋で復元されたものです。天守閣は、運命の皮肉であるかのように、キリスト教の資料を中心とする博物館と変わりました。この資料館は貴重な資料がよく集められ、訪問に値するものでした。博物館で働いている方々がアトラクションとして昔の武士の衣装で訪問客を歓迎していましたが、その内の一人の方がロザリオを首に掲げておられ、吉利支丹を歓迎して下さっていることをうれしく思いました。
昔、島原城とは別に「原城」がありました。私たちは今回は時間が無く行けなかったのですが、原城は、天草四郎をリーダーとする島原の乱で有名です。すでに重政は、原城の石垣を全部使って、島原城の築城に利用していました。幕府は、すでに1600年にプロテスタントのオランダと接触を持っていました。何故なら、オランダのロッテルダムを出港した4隻の船隊が難破して、そのうちのリーフデ号が1600年に日本に漂着したからです。この中に、イギリス人のウィリアム・アダムス(三浦按針)が乗っていました。
1637年10月、農民は代官の林兵衛門を殺害し「島原の乱」が勃発します。農民たち、3万7千余名が原城に立てこもりました。
幕府は、日本各地から12万7千余の大群を集めて原城を攻撃しました。更にオランダに頼み、デ・ライプ号を使って、原城を海上から砲撃させました。デ・ライプ号の大砲も外させて陸上から原城を攻撃し、籠城軍に深い痛手を与えました。こうして1638年2月28日に陥落しました。
「細川家記」によると、「年貢の取り様非道なるによりて起こった」と乱の原因を明記しています。司馬遼太郎によると、島原の乱は宗教一揆ではなく、その証拠は、松倉勝家が、切腹ではなく、打首になったからだと言います。
しかし、実はそのほとんどがキリスト教信者でした。城が落ちて幕府軍が攻め込んできたとき、まだ2万人もの女性や子供達が残っていました。記録によれば、彼らは信仰を捨てないという理由で打ち首になり、堀の中に生き埋めにされました。島原の乱の陣中旗は「御聖体の組」の旗でした。島原の乱の遺跡調査によると、メダイを舌の上にのせて殉教したと思われる多くの遺骨が発見されています。それは、メダイを御聖体の代わりに口に含んでなくなっていったからです。
原城の発掘調査から出土された十字架は鉛製で、敵の火縄銃の弾丸を溶かして作ったものでした。
今の私たちは、食べるもの飲むもの着るもの住む家が全てあり、クーラーの効いた部屋でインターネットの記事を読みながら、あるいは暖房の効いた静かな部屋でぬくぬくと本を読んで、「なんだキリシタンはけしからぬ、キリスト信者たる者、忍耐し我慢しなければならない」と、島原の吉利支丹たちを非難するのは簡単です。しかし、彼らは、キリストの教えのままに天主を愛し、天主を愛するがために隣人を愛し奉仕し、平和に暮らそうと努めていたというその罪のために、断罪され、雲仙地獄で拷問を受け、蓑の火踊り、逆さづり、重税、非道で残酷な取り扱いを現実に何十年も受け続け、差別と飢餓と死と隣り合わせになっていつも生きるように強いられていたのです。カトリック司祭の良き指導もなく、キリスト信者たちは、よくぞそこまで堪え忍んだものだと感嘆します。もしもキリストへの信仰がなければ、とっくに反乱が起こっていたことでしょう。
あそこまで追い詰められた島原の農民の苦悩を思うとき、いわゆる「ABCD包囲陣」に思いが行きました。つまり、アメリカ合衆国(America)とイギリス(Britain)、オランダ(Dutch)による、経済制裁、日本への石油禁輸措置、日本資産の凍結、鉄鉱禁輸措置などを、日本の当時のマスコミが呼んだもののことです。
その後、今村刑場跡を訪問して、祈りを捧げました。最後には、有明海海岸に行き、この海に捨てられた多くのカトリック信者の殉教者たちの取り次ぎを祈りました。
【第3日目】
第3日目をプランするに当たってのターゲットは、イエズス・キリストの教えとカトリック信仰の中核である「赦し」と、その教えが聖母マリア様の御取り次ぎによって、原爆の時どのように表現されたかを理解することです。それと同時に主日として、リクリエーション的な要素も取り入れることです。
第3日目は、5月1日の主日で、まず如己堂、永井博士記念館を訪問しました。5月1日は永井博士の命日で、博士が息を引き取って霊魂を天主様に返したその場所である如己堂に馳せ行き、そこで祈りを捧げることができたのは無原罪の聖母のお計らいでした。
次に、原爆資料館、グランドゼロ、最後に浦上天主堂を訪問しました。浦上天主堂では、皆でロザリオ一環を唱えました。
最後は稲佐山に登り、長崎を一望し、長崎市内のレストランでとてもすてきな夕食を味わいました。巡礼者の皆が舌鼓を打ち、最後にレストランを選んだマネージャーに拍手喝采を送りました。
【第4日目】
第4日目をプランするに当たってのターゲットは、無原罪の聖母の道具であり騎士である聖マキシミリアノ・コルベ神父様の全生涯が、ただ純粋に単純に無原罪の聖母の意志を実行することだったということを理解することです。
第4日目は、大浦天主堂、無原罪の園(聖母の騎士)を訪問し、記念館の聖マキシミリアノ・コルベ神父様のお部屋で祈り、ルルドに上って無原罪の聖母への奉献の祈りを唱え、聖遺物のある聖堂に行きまた祈りました。
【第5日目】
第5日目をプランするに当たってのターゲットは、無原罪の聖母は、私たちのために苦しんだ憐れみの母であるということを理解することです。私たちのために必要なら奇跡さえも起こすことができる憐れみの母である、という理解です。
第5日目は長崎から秋田に向かう日です。
実は、長崎到着以来、最高の良い天気に恵まれていた私たちですが、無原罪の園からホテルに戻るやいなや天気が崩れだし、なんと夜中の2時には暴風警報のアナウンスが市内の拡声器から流されたのです。私たちは皆、真夜中にその声でたたき起こされたほどでした。
無原罪の聖母は、私たちのために苦しんだ良き母であるということを理解するために、聖母マリアの七つの御悲しみの随意ミサを捧げました。
ところで、ハプニングがありました。この日は、夜中から暴雨暴風でした。本来なら最後に、西坂の丘にもう一度行って最後のお別れの挨拶をしてから、飛行場に向かう途中にある放虎原の巡礼の地に詣で、巡礼者に祈りを捧げてから飛行場に着く予定でした。しかし、激しい雨と風のために、無原罪の聖母マリアさまは西坂の丘に登ることも、放虎原に詣でることも、お許しになりませんでした。(ご都合で秋田にはご一緒できないご家族が三名で、夕方に、天候が回復した後に、私たちの代わりに西坂で「さようなら」の挨拶をして下さいました。)
そこで私たちは、予定よりも早く飛行場に一足先に着いてみると、飛行機のスケジュールが乱れに乱れていて、暴風雨のために到着できずに戻ってくる飛行機や、飛び立てない飛行機などがありました。
ところで、外国から来られる予定だった方のうちの一人が来られないということは、私たちは突然知らされて、その方の飛行機のキャンセルは本来なら出来ないものでした。また外国から追加の参加者があったために皆が一つの飛行機で行くための予約が満席でできず別々の飛行機になってしまう予定でした。それが、この悪天候のために本来ならできなかったはずのキャンセルができ戻らないはずの飛行機代が払い戻しされました。また、本当なら別々の飛行機になってしまうはずが、皆、一緒に同一機の飛行機に乗って巡礼をすることができるようになりました。私たちは皆、この出来事のうちに、無原罪の聖母の優しいご配慮を理解しました。
ご都合で秋田までには来られない7名の方々にお別れを告げて、私たちはそのたびに遅延した飛行機に乗り継いで、秋田に参りました。
5月5日の私たちの主の昇天の祝日には、59名が聖体奉仕会に安置されている聖母マリア様のみもとで祈りを捧げました。そのうち18名がフィリピンの国籍の方々です。天主様に感謝!
愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
愛する兄弟姉妹の皆様、
聖ピオ十世会日本による毎年恒例の秋田巡礼ですが、2016年は巡礼10周年を記念して長崎にまで足を伸ばしました。
今回の長崎巡礼は、秋田巡礼10周年を祝うためのみならず、信徒発見150周年を祝うため、私たちと同じ聖伝の信仰と愛とを持って殉教していった先祖たちの英雄的な証をより深く知って崇敬するため、また、コルベ神父様の無原罪の園を訪ねて無原罪の聖母の騎士創立100周年を準備するため、に行われました。巡礼者の方々が、良き巡礼の時を過ごすことができたことを期待します。
愛する兄弟姉妹の皆様のしもべにとって、今回の長崎巡礼は特別のお恵みでした。長崎が、イエズスさまから愛され、マリア様から特別に愛された、贖われた人類の貴重な遺産の地であり、カトリック教会の宝、日本の宝であると、思いを深めました。
無原罪の聖母マリアさまの力の強さ、優しい配慮と親切さを、この身で体験し、目で見ることができました。
また長崎の偉大さを今回あらためて理解しました。長崎という土地は人類の大切な世界遺産だと思います。また島原半島の素晴らしさを認識しました。
数十万の殉教の地に赤く染まった長崎。550名以上の司祭・修道士・修道女・信者たちが、敵を赦しつつその聖なる血潮を流した奇跡の連続であるかのような西坂を持つ長崎。
250年以上にも亘る残酷な迫害の中で司祭がいなかったにも関わらず信仰を忠実に伝え続けた奇跡を生み出した長崎。迫害と差別を受けつづけた後に信仰を捨てなかったために日本各地に追放されながらも、それを「旅」に出ると言って喜んで追放されていった信者たちを生み出した長崎。県庁付近を狙った原子爆弾が天候のため北方に偏り浦上のしかも天主堂の真正面に流れ落ちた長崎。
原爆を受けて全てを失ったにもかかわらず、信徒代表の永井博士の口を通して「豊臣徳川の迫害に滅ぼされず、明治以来、軍官民の圧制にも負けず、いくた殉教の血を流しつつ四百年、正しき信仰を守り通したわが浦上教会こそは、まこと世界中より選ばれて、天主の祭壇に献げられるべき潔き羔の群れ」「美しきもの、潔きもの、善きものよ」と仰ぎ見て、全知全能の天主の御業に讃美し、浦上教会が世界中より選ばれ燔祭に供えられたことを感謝した長崎。
無原罪の聖母の忠実な道具である聖マキシミリアノ・コルベが、聖母マリア様の御旨によって6年住み聖化した長崎。長崎は、贖われた人類の宝であり、聖母マリアによって与えられた日本の最も誇る聖なる地の一つであると、しみじみと確信しました。
長崎には38名の巡礼者がフル参加しました。2名ほどの外国人の方々が巡礼の希望を持ちながら、熊本での地震のために、あるいはその他の理由で、残念ながら来ることができませんでした。
巡礼団の団長として巡礼のプログラムを組むに当たって、なるべく多くの場所を網羅して見て回るという観光的なやり方ではなく、それらを全てカバーすると本当に見るべきものにカバーが掛かってしまって見えなくなってしまうので、巡礼の目的を達成するために最も効果的な場所を選んで、たとえそれ自体すばらしいものであっても目的のために効果的でないならば行かない、という方針で考えました。あまりにも多くのすばらしいものがある長崎において、何を捨てて行かないかということは難しい選択でした。
【第1日目】
第1日目をプランするに当たってのターゲットは、聖フランシスコ・ザベリオによって伝えられ始めた信仰、その教えが、聖母マリア様の御取り次ぎによって、最初にどのような実を結んだのか、最初の日本二十六聖殉教者や長崎の16聖殉教者などを生んだ西坂を深く知ることです。
第1日目には、長崎に到着したその足で、すぐに西坂の丘に向かいました。550人以上(日本二十六聖殉教者記念館の館長レンゾ神父様によると600名)の殉教者の血で赤く染まったこの聖なる地に詣で、その地に接吻をし、祈りを捧げました。記念館の二階には、殉教者たちの聖遺物が納められ、ただただ跪いて祈りを捧げるのみでした。
帰り際にポーランドからの巡礼団と出会い、一緒にポーランド語で(!)ポーランドの有名な巡礼の歌を歌いました。西坂にある聖フィリポ教会にも行き、日本二十六聖人の聖遺物の前で皆が跪いて祈りを捧げ日本の殉教者をたたえる聖歌を歌いました。その日はみどりの日であり昭和の日でありましたが、昭和天皇が教会の脇にお植えになった樹木を見て、私たちがここに今日この日に来たのは偶然ではないと思いました。
次に中町教会に立ち寄り、やはり西坂で殉教して列聖された長崎16聖殉教者を崇敬しました。
【第2日目】
第2日目をプランするに当たってのターゲットは、聖母マリア様の御取り次ぎによって、日本のカトリック教会の誇るべき偉大な聖人達をどのように多く生み出されたのか、特にそれに傑出した島原半島を理解することです。
巡礼第2日目には、日本二十六聖人の随意ミサを歌ミサで捧げました。
聖伝のミサの後、私たちは貸し切りバスで雲仙に行き、島原領主松倉重政が考え出したキリシタンを苦しめる拷問、雲仙地獄の地に詣で祈りを捧げました。島原半島の殉教者たちが、御聖体に支えられれ御聖体に全てを捧げたことに、感嘆と賞賛の念でいっぱいになりました。雲仙地獄は、多くの殉教者を生み出しました。
島原は、大名の有馬義直(大村純忠の兄)が1563年にアルメイダ修道士を招いてイエズス・キリストの教えが伝わりました。貧しい方々や病気の人々を助けるために病院を建て、愛徳を込めて彼らの世話をする「ミゼリコルディアの組」(愛徳の信心会)ができ、日本人のための奉仕と福祉のために働きました。アルメイダ修道士は、ポルトガルの青年医師(外科医)で、天主の憐れみの福音を伝えるために、至る所でやむ人々に手をさしのべていました。
マリア様へのお祈りをする「ロザリオの組」(ロザリオの信心会)も組織され、「御聖体の組」(御聖体を礼拝する信心会)が特に盛んになり、平和に暮らしていました。義直がセバスチアノという霊名で洗礼を受け、その跡継ぎである有馬晴信夫婦も1579年にプロタジオとルシアという霊名で受洗し、島原の人々はほとんどが信者になりました。島原は、日本のカトリック教会の中心地となり、有馬には立派なセミナリヨ(神学校)が建てられ、有名な天正遣欧少年使節も、有馬のセミナリヨの卒業生です。当時は、セミナリヨは有馬と安土とに二校ありました。この神学校では、天主と人々への愛と奉仕に努めるリーダーたちを生み出していました。
次にこの松倉重政がキリシタンたちに7年3ヶ月に亘る強制労働を述べ100万人に上る農民の使役と重税を強いて身分に不釣合いに豪華に建てた島原城(森岳城)に行きました。お上に褒めてもらいたい、自分をよく見せたい、自分の保身、自分の利益ということのために、お上のご機嫌伺いをし、虚栄心の塊だったかのような松倉重政は、関ヶ原の戦いで逃げる西軍に勝ったという報告さえする卑しい男で、自分の身分に不相応な城を築き、江戸城修復の時には、四万石ほどの力しかないくせに十万石の賦役負担を自ら進んで幕府に申し出て、格好をつけ、幕府をせき立ててルソン征伐準備し、極めて高価な武器を数多く買い込むために、つけを領民にまわしてこれを圧迫し、それで何も思わない男でした。年貢を払えない者には、容赦のない拷問や処罰を施しました。司馬遼太郎は「街道をゆく」の中で「日本史の中で松倉重政という人物ほど忌むべき存在は少ない。」と言っているほどです。
重政が1618年から作った島原城の外郭は東西に約380m、南北に約1260mと広大で。周囲は3900mの堀に囲まれ、自分の石高に不相応な成金的な大きい城でした。本丸内の天守は五重五階で、本丸の北に廊下橋で二の丸が結ばれ、さらに三の丸を配置し、三の丸の近くの藩士屋敷には牢屋があって、宣教師や信者たちが入れられ、厳しい拷問を受け、堪え忍び、祈り、互いに励まし合い、信仰を守り抜いた場所です。
重政は57歳で急死します。雲仙地獄の拷問を考え出して三年後の1630年(寛永七年)十一月十六日に小浜温泉で狂死します。何故なら、急病にかかり、病状は日毎に悪くなり、医師たちも手の施しようがなく、重政は小浜温泉に連れて行くよう命じたのです。そこで熱湯を自分の身体にかけさせ、次には冷水をかけさせたのち、自分の身体を割竹で存分にたたけと家臣に命じました。ためらっている家臣たちに、太刀を抜いて命令通りにせよと怒るほどでした。家臣たちは命令のまま重政を叩きつづけ、ついに死に至らしめたのでした。正にキリシタンに加えた拷問を自ら望んで受けたのでした。
家督を継いだ息子の勝家は、更なる重税を課しました。1634年からの大旱魃による凶作のために、1637年3月から4月にかけて餓死者が続出しました。勝家は憐れみもなく、納税が遅滞するや、家族を人質に取り拷問を加えました。1637年、口之津村の与三左衛門の嫁は、納税を納めるまで、と人質に取られ、妊娠の身で裸で水牢に入れられて、6昼夜苦しめられ、母子ともに殺されました。勝家は、税を納められない農民に蓑を着せ、火をつけ、転げまわらせて、「蓑踊り」と称して楽しみさえもしました。特にキリシタンたちに対しては厳しい残酷な取り扱いをして、島原の乱を起こさせる原因となりました。
キリスト教を迫害して作られた島原城ですが、明治維新で廃城となり、民間に払い下げら、天守も解体され、本丸は畑となりました。三の丸のあったところは、第一小学校と島原中学校、島原高校となっています。
今存在している島原城の天守閣は、1964年に鉄筋で復元されたものです。天守閣は、運命の皮肉であるかのように、キリスト教の資料を中心とする博物館と変わりました。この資料館は貴重な資料がよく集められ、訪問に値するものでした。博物館で働いている方々がアトラクションとして昔の武士の衣装で訪問客を歓迎していましたが、その内の一人の方がロザリオを首に掲げておられ、吉利支丹を歓迎して下さっていることをうれしく思いました。
昔、島原城とは別に「原城」がありました。私たちは今回は時間が無く行けなかったのですが、原城は、天草四郎をリーダーとする島原の乱で有名です。すでに重政は、原城の石垣を全部使って、島原城の築城に利用していました。幕府は、すでに1600年にプロテスタントのオランダと接触を持っていました。何故なら、オランダのロッテルダムを出港した4隻の船隊が難破して、そのうちのリーフデ号が1600年に日本に漂着したからです。この中に、イギリス人のウィリアム・アダムス(三浦按針)が乗っていました。
1637年10月、農民は代官の林兵衛門を殺害し「島原の乱」が勃発します。農民たち、3万7千余名が原城に立てこもりました。
幕府は、日本各地から12万7千余の大群を集めて原城を攻撃しました。更にオランダに頼み、デ・ライプ号を使って、原城を海上から砲撃させました。デ・ライプ号の大砲も外させて陸上から原城を攻撃し、籠城軍に深い痛手を与えました。こうして1638年2月28日に陥落しました。
「細川家記」によると、「年貢の取り様非道なるによりて起こった」と乱の原因を明記しています。司馬遼太郎によると、島原の乱は宗教一揆ではなく、その証拠は、松倉勝家が、切腹ではなく、打首になったからだと言います。
しかし、実はそのほとんどがキリスト教信者でした。城が落ちて幕府軍が攻め込んできたとき、まだ2万人もの女性や子供達が残っていました。記録によれば、彼らは信仰を捨てないという理由で打ち首になり、堀の中に生き埋めにされました。島原の乱の陣中旗は「御聖体の組」の旗でした。島原の乱の遺跡調査によると、メダイを舌の上にのせて殉教したと思われる多くの遺骨が発見されています。それは、メダイを御聖体の代わりに口に含んでなくなっていったからです。
原城の発掘調査から出土された十字架は鉛製で、敵の火縄銃の弾丸を溶かして作ったものでした。
今の私たちは、食べるもの飲むもの着るもの住む家が全てあり、クーラーの効いた部屋でインターネットの記事を読みながら、あるいは暖房の効いた静かな部屋でぬくぬくと本を読んで、「なんだキリシタンはけしからぬ、キリスト信者たる者、忍耐し我慢しなければならない」と、島原の吉利支丹たちを非難するのは簡単です。しかし、彼らは、キリストの教えのままに天主を愛し、天主を愛するがために隣人を愛し奉仕し、平和に暮らそうと努めていたというその罪のために、断罪され、雲仙地獄で拷問を受け、蓑の火踊り、逆さづり、重税、非道で残酷な取り扱いを現実に何十年も受け続け、差別と飢餓と死と隣り合わせになっていつも生きるように強いられていたのです。カトリック司祭の良き指導もなく、キリスト信者たちは、よくぞそこまで堪え忍んだものだと感嘆します。もしもキリストへの信仰がなければ、とっくに反乱が起こっていたことでしょう。
あそこまで追い詰められた島原の農民の苦悩を思うとき、いわゆる「ABCD包囲陣」に思いが行きました。つまり、アメリカ合衆国(America)とイギリス(Britain)、オランダ(Dutch)による、経済制裁、日本への石油禁輸措置、日本資産の凍結、鉄鉱禁輸措置などを、日本の当時のマスコミが呼んだもののことです。
その後、今村刑場跡を訪問して、祈りを捧げました。最後には、有明海海岸に行き、この海に捨てられた多くのカトリック信者の殉教者たちの取り次ぎを祈りました。
【第3日目】
第3日目をプランするに当たってのターゲットは、イエズス・キリストの教えとカトリック信仰の中核である「赦し」と、その教えが聖母マリア様の御取り次ぎによって、原爆の時どのように表現されたかを理解することです。それと同時に主日として、リクリエーション的な要素も取り入れることです。
第3日目は、5月1日の主日で、まず如己堂、永井博士記念館を訪問しました。5月1日は永井博士の命日で、博士が息を引き取って霊魂を天主様に返したその場所である如己堂に馳せ行き、そこで祈りを捧げることができたのは無原罪の聖母のお計らいでした。
次に、原爆資料館、グランドゼロ、最後に浦上天主堂を訪問しました。浦上天主堂では、皆でロザリオ一環を唱えました。
最後は稲佐山に登り、長崎を一望し、長崎市内のレストランでとてもすてきな夕食を味わいました。巡礼者の皆が舌鼓を打ち、最後にレストランを選んだマネージャーに拍手喝采を送りました。
【第4日目】
第4日目をプランするに当たってのターゲットは、無原罪の聖母の道具であり騎士である聖マキシミリアノ・コルベ神父様の全生涯が、ただ純粋に単純に無原罪の聖母の意志を実行することだったということを理解することです。
第4日目は、大浦天主堂、無原罪の園(聖母の騎士)を訪問し、記念館の聖マキシミリアノ・コルベ神父様のお部屋で祈り、ルルドに上って無原罪の聖母への奉献の祈りを唱え、聖遺物のある聖堂に行きまた祈りました。
【第5日目】
第5日目をプランするに当たってのターゲットは、無原罪の聖母は、私たちのために苦しんだ憐れみの母であるということを理解することです。私たちのために必要なら奇跡さえも起こすことができる憐れみの母である、という理解です。
第5日目は長崎から秋田に向かう日です。
実は、長崎到着以来、最高の良い天気に恵まれていた私たちですが、無原罪の園からホテルに戻るやいなや天気が崩れだし、なんと夜中の2時には暴風警報のアナウンスが市内の拡声器から流されたのです。私たちは皆、真夜中にその声でたたき起こされたほどでした。
無原罪の聖母は、私たちのために苦しんだ良き母であるということを理解するために、聖母マリアの七つの御悲しみの随意ミサを捧げました。
ところで、ハプニングがありました。この日は、夜中から暴雨暴風でした。本来なら最後に、西坂の丘にもう一度行って最後のお別れの挨拶をしてから、飛行場に向かう途中にある放虎原の巡礼の地に詣で、巡礼者に祈りを捧げてから飛行場に着く予定でした。しかし、激しい雨と風のために、無原罪の聖母マリアさまは西坂の丘に登ることも、放虎原に詣でることも、お許しになりませんでした。(ご都合で秋田にはご一緒できないご家族が三名で、夕方に、天候が回復した後に、私たちの代わりに西坂で「さようなら」の挨拶をして下さいました。)
そこで私たちは、予定よりも早く飛行場に一足先に着いてみると、飛行機のスケジュールが乱れに乱れていて、暴風雨のために到着できずに戻ってくる飛行機や、飛び立てない飛行機などがありました。
ところで、外国から来られる予定だった方のうちの一人が来られないということは、私たちは突然知らされて、その方の飛行機のキャンセルは本来なら出来ないものでした。また外国から追加の参加者があったために皆が一つの飛行機で行くための予約が満席でできず別々の飛行機になってしまう予定でした。それが、この悪天候のために本来ならできなかったはずのキャンセルができ戻らないはずの飛行機代が払い戻しされました。また、本当なら別々の飛行機になってしまうはずが、皆、一緒に同一機の飛行機に乗って巡礼をすることができるようになりました。私たちは皆、この出来事のうちに、無原罪の聖母の優しいご配慮を理解しました。
ご都合で秋田までには来られない7名の方々にお別れを告げて、私たちはそのたびに遅延した飛行機に乗り継いで、秋田に参りました。
5月5日の私たちの主の昇天の祝日には、59名が聖体奉仕会に安置されている聖母マリア様のみもとで祈りを捧げました。そのうち18名がフィリピンの国籍の方々です。天主様に感謝!
愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)