アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
長崎巡礼で5月1日の勤労者聖ヨゼフの祝日に、シュテーリン神父様がなさった御説教をご紹介いたします。
どうぞお読み下さい。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
2016年5月1日 長崎巡礼 証聖者、童貞聖マリアの浄配、勤労者聖ヨゼフのミサ
シュテーリン神父様御説教
同時通訳:小野田圭志神父
今日、5月、聖母の聖なる月が始まります。マリア様の月が始まります。聖マキシミリアノ・コルベ神父様は、「5月の1日、1日には、マリア様がその日、その日に、特別のお恵みを準備して下さっている。」と仰っていました。
私たちがしなければならない事は、この5月の1日、1日に、マリア様に特別のやり方で近付く、という事です。そして一番、この5月の1日にするべき、一番マリア様に近付く一番良い方法は、巡礼をする事です。マリア様に近付くという事は、たくさんたくさんのお祈りしなければならない、という事ではなくて、マリア様の聖なるお望みを果たす、という事です。マリア様に近付くという事は、私たちがマリア様のより良い子供である、という事であって、マリア様が私の母であるという事を許す、許可するという事です。良い子供はその両親にとても従順です。ですから、私たちの御母マリア様に従順でありたいと思います。
では、マリア様にどうやったら従順である事ができるでしょうか?マリア様は一体、私たちに何を求めていらっしゃるのでしょうか?
マリア様は、私たちの置かれている状況、或いは長上を通して、ご自分の御旨をお知らせ下さいます。この巡礼で皆さんを導く司祭たちは、マリア様がこれらを通して、皆さんを導きたいと思っている道具に過ぎません。霊的な講話の時間になると、マリア様は皆さんに、「あぁ、我が子よ、いらっしゃい。今から私の霊的な講話が始まりますよ。私の言葉を聞いて下さい。」と、皆さんを招待しています。もしも私たちが今日、色々な巡礼の教会、巡礼の所に歩いて行かなければならない時には、それはマリア様が、「さぁ、我が子よ、我が娘よ、いらっしゃい。一緒に歩いて行きましょう。」と招いて下さるのです。ですから足がちょっと痛くても、マリア様の声に聞いて下さい。もしも神父様が、「さぁ、何時から夕食ですよ。」と言ったら、マリア様がこの司祭の声を通して、道具として、「さぁ、我が子よ、娘よ、ご飯を食べなさい。夕食を食べなさい。」と招いているのです。もしもおいしい食べ物がこの目の前に出されたら、マリア様を愛する為にこれを食べて下さい。
良きマリア様の良き子供であり、従順な子供である、という事は、複雑な事ではありません。5月の聖母の月の、その最初の日に、マリア様は特別の保護者を私たちに与えようと思っています。それは「聖ヨゼフ」、マリア様の聖なる淨配です。
ヨゼフ様について私たちは、たくさんの事を知っているわけでありません。ただ聖書に書かれているヨゼフ様の事については、「ヨゼフは正しい人であった。義人であった。“Justus”であった。」という事であります。マリア様の次に最も偉大な聖人が、聖ヨゼフです。
でも、聖ヨゼフ様はどのような方かというと、労働者でした。日々小さな仕事を、小さな手での仕事をした方に過ぎません。聖ヨゼフ様を見ると、天主様は、私たちが一体何をしたのか、という事はあまり重要でない、どれほど偉大な技を成し遂げたかとか、どれほど素晴らしい事業を成し遂げたか、という事は関係ない、という事が分かります。それよりももっと大切なのは、私たちが、私たちの仕事をどうやって、どれほどの愛を込めて、どの意向でやったか、が大切です。ですから「義人」、この“Justus”という言葉が重要になるのです、よく理解しなければなりません。
義人、「義」という事は、「各人が受けなければならないものを与える」という事です。聖ヨゼフは、天主様に与えなければならない事を与えました、全て与えました。マリア様に与えなければならない事を与えて、イエズス様に与えなければならない事を与えて、その義を証明しました。
聖ヨゼフにとって、天主の御旨を果たす事が全てでした。「天主様に与えなければならない事を与えた」という事はつまり、聖ヨゼフが、「自分を全て、全く天主様の御旨に服従させた」という事です。
聖ヨゼフ様がマリア様を選んだのでありません。聖ヨゼフ様の淨配としてマリア様が与えられて、両親のその意向に従っただけです。天主の御旨を果たす事によって、ヨゼフ様はこの世で最も幸せな男になりました。マリア様とのご結婚の後に、どれほどの美しい、御謙遜な、素晴らしい生活があった事でしょうか。
ところが天主様の御旨は、甘いものではなくて、突然のように、「さぁ、ヨゼフや。起きて、ベトレヘムに行け。」という命令でした。聖ヨゼフは、「あぁ、このベトレヘム行かなければならないという事は、この醜い異教の皇帝の、ローマの皇帝の話だ。俺とは関係ない、俺はユダヤ人だ。だから家にいる。」と言う事はできませんでした。聖ヨゼフは、「いや、これは正当な上からの命令であって、法律であって、私はこの正当な法律に従う、天主の愛の為に従う。」と言いました。
皆さん、私たちは、ただこの上からの命令が、美味しい物や、楽しいものや、嬉しいものの時だけ従うのだけではなくて、どのようなものでも全て従います。
聖ヨゼフはまた突然、天使から、「さぁ、起きてエジプトに行け。」と命令を受けました。聖ヨゼフは天使に、「ちょっと待って下さい天使さん。準備もできてませんし、今、夜中ですよ。」とは言いませんでした。
「まず食べ物も食料も準備しなければならないし、砂漠を行くにはコートも必要だし、あれも買って、これも買わなければ」とは言いませんでした。
聖ヨゼフは天使の言葉を聞いたらすぐに立って起きて、マリア様とイエズス様を連れて、エジプトにすぐに行きました。こうする事によってのみ、イエズス様を救う事ができました。
天主様が御旨をヨゼフに表した時に、ヨゼフ様は天主の御旨と議論しようとはしませんでした。ヨゼフ様はもちろん、正当な何千ものたくさんの反論をする事ができましたかもしれませんが、しませんでした。聖ヨゼフはもちろん、最も正当な色んな疑問や、反論をする事もできました。
しかし「家もないし、一体エジプトで言葉はどうして話したらいいんだ、職業はどうしたらいいんだ、お金はどうしたらいいんだ、どうやって食べていったらいいんだ、どうやって道は探したらいいんだ、GPSもないし」という事は言いませんでした。
皆さんがこの人生において、「もしかしたらこうかもしれない、こんな恐ろしい事があるかもしれない」「こういう不安がある」という事は全て、天主様の御旨に任せて、「主よ、御身は私が何をする事をお望みですか?」と聞いて下さい。
もしも聖ヨゼフのように、義人“Justus”となって、天主様の御旨に全て自分を服従させたなら、全て従わせたならば、これこそがマリア様の良き子供となります。
「義人」 というのは、天主様とのみならず、私たちの隣人にも、彼らに相応しいものを、彼らが受けなければならないものを与えなければなりません。ですから聖ヨゼフは、自分の身分上の義務をよく理解していました。身分上の義務というのは、もしも父親であれば父親である事、母親であれば母親である事、子供であれば子供である事を果たさなければなりません。これが聖ヨゼフ様の模範です。聖ヨゼフ様は、全くマリア様への奉仕の為に、イエズス様への奉仕の為に、自分を献身的に捧げていました。自分の仕事にも献身的になっていました。
聖ヨゼフが仕事場で働いた、という時には、こう材木にこう手をヤスリでかけて、「あぁ~、天主よ、御身を愛し奉る」という夢を見ていて、天主様の愛の事をこう言っていたのではありません。
聖ヨゼフが仕事をするという事は、素晴らしい出来る限りのこの椅子を、素晴らしい椅子を作ったり、机を作ったり、材木で働いて一生懸命働きました。
「天主様の御旨を果たす」という事は、もしも皆さんが奥さんで、家で料理を作らなければならない時には、天主様への愛の為にこの脱魂してしまって、料理も、料理中に脱魂してしまって、本当はお塩を入れなければならないところを、砂糖をたくさん入れて、味をまったく台無しにしてしまう、という事ではありません。
聖マキシミリアのコルベ神父様は、修道士たちに、「自分の今やっている事をしなさい。“Age quod agis”」と言っていました。
皆さんが今なさっている事は、天主様の御旨ですから、それに今全集中、心を集中させて、これを素晴らしくなさって下さい。
皆さん、皆さんの中にはもしかしたら、お祈りをして、同時に音楽を聴いて、映画も見て、それから手紙も書いて、子供の面倒を見る事を同時にできる方がいるかもしれません。でもその5つを同時にやろうとすると、それは全てうまくやる事ができないはずです。
聖ヨゼフは今日私たちに、私たちの身分上の義務を、務めを、完璧に果たすようにと教えています。“Age quod agis”「やっている事をやりなさい。」これが、“Justus”「義人」という事で、そうする事によって私たちは聖人になります。何故というと、こうする事によって天主様に与えるべき全てを与えて、私たちの隣人に与えるべきものを与える事になるからです。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、
長崎巡礼で5月1日の勤労者聖ヨゼフの祝日に、シュテーリン神父様がなさった御説教をご紹介いたします。
どうぞお読み下さい。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
2016年5月1日 長崎巡礼 証聖者、童貞聖マリアの浄配、勤労者聖ヨゼフのミサ
シュテーリン神父様御説教
同時通訳:小野田圭志神父
今日、5月、聖母の聖なる月が始まります。マリア様の月が始まります。聖マキシミリアノ・コルベ神父様は、「5月の1日、1日には、マリア様がその日、その日に、特別のお恵みを準備して下さっている。」と仰っていました。
私たちがしなければならない事は、この5月の1日、1日に、マリア様に特別のやり方で近付く、という事です。そして一番、この5月の1日にするべき、一番マリア様に近付く一番良い方法は、巡礼をする事です。マリア様に近付くという事は、たくさんたくさんのお祈りしなければならない、という事ではなくて、マリア様の聖なるお望みを果たす、という事です。マリア様に近付くという事は、私たちがマリア様のより良い子供である、という事であって、マリア様が私の母であるという事を許す、許可するという事です。良い子供はその両親にとても従順です。ですから、私たちの御母マリア様に従順でありたいと思います。
では、マリア様にどうやったら従順である事ができるでしょうか?マリア様は一体、私たちに何を求めていらっしゃるのでしょうか?
マリア様は、私たちの置かれている状況、或いは長上を通して、ご自分の御旨をお知らせ下さいます。この巡礼で皆さんを導く司祭たちは、マリア様がこれらを通して、皆さんを導きたいと思っている道具に過ぎません。霊的な講話の時間になると、マリア様は皆さんに、「あぁ、我が子よ、いらっしゃい。今から私の霊的な講話が始まりますよ。私の言葉を聞いて下さい。」と、皆さんを招待しています。もしも私たちが今日、色々な巡礼の教会、巡礼の所に歩いて行かなければならない時には、それはマリア様が、「さぁ、我が子よ、我が娘よ、いらっしゃい。一緒に歩いて行きましょう。」と招いて下さるのです。ですから足がちょっと痛くても、マリア様の声に聞いて下さい。もしも神父様が、「さぁ、何時から夕食ですよ。」と言ったら、マリア様がこの司祭の声を通して、道具として、「さぁ、我が子よ、娘よ、ご飯を食べなさい。夕食を食べなさい。」と招いているのです。もしもおいしい食べ物がこの目の前に出されたら、マリア様を愛する為にこれを食べて下さい。
良きマリア様の良き子供であり、従順な子供である、という事は、複雑な事ではありません。5月の聖母の月の、その最初の日に、マリア様は特別の保護者を私たちに与えようと思っています。それは「聖ヨゼフ」、マリア様の聖なる淨配です。
ヨゼフ様について私たちは、たくさんの事を知っているわけでありません。ただ聖書に書かれているヨゼフ様の事については、「ヨゼフは正しい人であった。義人であった。“Justus”であった。」という事であります。マリア様の次に最も偉大な聖人が、聖ヨゼフです。
でも、聖ヨゼフ様はどのような方かというと、労働者でした。日々小さな仕事を、小さな手での仕事をした方に過ぎません。聖ヨゼフ様を見ると、天主様は、私たちが一体何をしたのか、という事はあまり重要でない、どれほど偉大な技を成し遂げたかとか、どれほど素晴らしい事業を成し遂げたか、という事は関係ない、という事が分かります。それよりももっと大切なのは、私たちが、私たちの仕事をどうやって、どれほどの愛を込めて、どの意向でやったか、が大切です。ですから「義人」、この“Justus”という言葉が重要になるのです、よく理解しなければなりません。
義人、「義」という事は、「各人が受けなければならないものを与える」という事です。聖ヨゼフは、天主様に与えなければならない事を与えました、全て与えました。マリア様に与えなければならない事を与えて、イエズス様に与えなければならない事を与えて、その義を証明しました。
聖ヨゼフにとって、天主の御旨を果たす事が全てでした。「天主様に与えなければならない事を与えた」という事はつまり、聖ヨゼフが、「自分を全て、全く天主様の御旨に服従させた」という事です。
聖ヨゼフ様がマリア様を選んだのでありません。聖ヨゼフ様の淨配としてマリア様が与えられて、両親のその意向に従っただけです。天主の御旨を果たす事によって、ヨゼフ様はこの世で最も幸せな男になりました。マリア様とのご結婚の後に、どれほどの美しい、御謙遜な、素晴らしい生活があった事でしょうか。
ところが天主様の御旨は、甘いものではなくて、突然のように、「さぁ、ヨゼフや。起きて、ベトレヘムに行け。」という命令でした。聖ヨゼフは、「あぁ、このベトレヘム行かなければならないという事は、この醜い異教の皇帝の、ローマの皇帝の話だ。俺とは関係ない、俺はユダヤ人だ。だから家にいる。」と言う事はできませんでした。聖ヨゼフは、「いや、これは正当な上からの命令であって、法律であって、私はこの正当な法律に従う、天主の愛の為に従う。」と言いました。
皆さん、私たちは、ただこの上からの命令が、美味しい物や、楽しいものや、嬉しいものの時だけ従うのだけではなくて、どのようなものでも全て従います。
聖ヨゼフはまた突然、天使から、「さぁ、起きてエジプトに行け。」と命令を受けました。聖ヨゼフは天使に、「ちょっと待って下さい天使さん。準備もできてませんし、今、夜中ですよ。」とは言いませんでした。
「まず食べ物も食料も準備しなければならないし、砂漠を行くにはコートも必要だし、あれも買って、これも買わなければ」とは言いませんでした。
聖ヨゼフは天使の言葉を聞いたらすぐに立って起きて、マリア様とイエズス様を連れて、エジプトにすぐに行きました。こうする事によってのみ、イエズス様を救う事ができました。
天主様が御旨をヨゼフに表した時に、ヨゼフ様は天主の御旨と議論しようとはしませんでした。ヨゼフ様はもちろん、正当な何千ものたくさんの反論をする事ができましたかもしれませんが、しませんでした。聖ヨゼフはもちろん、最も正当な色んな疑問や、反論をする事もできました。
しかし「家もないし、一体エジプトで言葉はどうして話したらいいんだ、職業はどうしたらいいんだ、お金はどうしたらいいんだ、どうやって食べていったらいいんだ、どうやって道は探したらいいんだ、GPSもないし」という事は言いませんでした。
皆さんがこの人生において、「もしかしたらこうかもしれない、こんな恐ろしい事があるかもしれない」「こういう不安がある」という事は全て、天主様の御旨に任せて、「主よ、御身は私が何をする事をお望みですか?」と聞いて下さい。
もしも聖ヨゼフのように、義人“Justus”となって、天主様の御旨に全て自分を服従させたなら、全て従わせたならば、これこそがマリア様の良き子供となります。
「義人」 というのは、天主様とのみならず、私たちの隣人にも、彼らに相応しいものを、彼らが受けなければならないものを与えなければなりません。ですから聖ヨゼフは、自分の身分上の義務をよく理解していました。身分上の義務というのは、もしも父親であれば父親である事、母親であれば母親である事、子供であれば子供である事を果たさなければなりません。これが聖ヨゼフ様の模範です。聖ヨゼフ様は、全くマリア様への奉仕の為に、イエズス様への奉仕の為に、自分を献身的に捧げていました。自分の仕事にも献身的になっていました。
聖ヨゼフが仕事場で働いた、という時には、こう材木にこう手をヤスリでかけて、「あぁ~、天主よ、御身を愛し奉る」という夢を見ていて、天主様の愛の事をこう言っていたのではありません。
聖ヨゼフが仕事をするという事は、素晴らしい出来る限りのこの椅子を、素晴らしい椅子を作ったり、机を作ったり、材木で働いて一生懸命働きました。
「天主様の御旨を果たす」という事は、もしも皆さんが奥さんで、家で料理を作らなければならない時には、天主様への愛の為にこの脱魂してしまって、料理も、料理中に脱魂してしまって、本当はお塩を入れなければならないところを、砂糖をたくさん入れて、味をまったく台無しにしてしまう、という事ではありません。
聖マキシミリアのコルベ神父様は、修道士たちに、「自分の今やっている事をしなさい。“Age quod agis”」と言っていました。
皆さんが今なさっている事は、天主様の御旨ですから、それに今全集中、心を集中させて、これを素晴らしくなさって下さい。
皆さん、皆さんの中にはもしかしたら、お祈りをして、同時に音楽を聴いて、映画も見て、それから手紙も書いて、子供の面倒を見る事を同時にできる方がいるかもしれません。でもその5つを同時にやろうとすると、それは全てうまくやる事ができないはずです。
聖ヨゼフは今日私たちに、私たちの身分上の義務を、務めを、完璧に果たすようにと教えています。“Age quod agis”「やっている事をやりなさい。」これが、“Justus”「義人」という事で、そうする事によって私たちは聖人になります。何故というと、こうする事によって天主様に与えるべき全てを与えて、私たちの隣人に与えるべきものを与える事になるからです。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。