アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
5月22日(主)三位一体の大祝日の御ミサの後の霊的講話の時間に、
レネー神父様がなされた講話「ローマと聖ピオ十世会の関係について」をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
レネー神父様御講話
同時通訳:東京の信徒会長
前半の講話の続き・・・
レネー神父様:ご質問は?
質問者Aさん:あの、先程の従順と不従順の中で、非常にこう分かりやすい、例えば「跪いたらダメだ」とか「天主はいっぱいいる」とか、そういう分かりやすい信仰を「No」とは言いやすいのですけれども、ものすごくこう繊細な、「教皇様は本当に異端じゃないのか」とか、あと「同じ聖ピオ十世会の神父様でも、“上の長上の言っている事が間違っているから私たちは出ます”というレジスタンスになる」だとか、そう非常にこう微妙な問題が出た時に、私たち一般信者たちはどういう判断を下していけば良いのでしょうか?
レネー神父様:まず信者、それから神父様たちもそうなのですが、まず最初に想像するのは、「上長が、上司が、上が言うんだから、正しいんであろう。」と、まず推定する、と。「明らかにそれが間違っている」という証拠があるのであれば、それは拒絶しなければいけないけれども、「どちらか微妙で分からない」という時は、上長に言うように従うのが正しいのです。
例えば1960年代、70年代に「新しいミサ」というのがありましたけれども、これは新しいミサを作るのに、プロテスタントの牧師が6人参加しました。「これは明らかにおかしい。」と。これは誰が見てもおかしいので、これは拒否しなきゃいけない。或いは「御聖体を手で受ける」そんな事は教会の歴史でこれまでありませんでした。「これは明らかにおかしい。」と。そういう事については反対します。
例えばルフェーブル大司教が反対されたのは、第二バチカン公会議でおかしかった事、新しいミサでおかしかった事が導入されてから、「明らかにこれはおかしい」という事で、「これはできません。」と仰いました。
前に私は文書を書いたのですが(※1)、そのレジスタンスという、先程例があった人たちの言ってる事は、「いや、何かフェレー司教様がここで言ったのは、こういう“感じがする”【主観】」とか、「こういう“調子で言っている”【思い込み】」とか、非常に不確かな、証拠も無い事に関して自分の上長に、「だから反対」。これは態度としておかしい、と。
私たちも皆さんもやらなくてはいけないのは、「自分の上が上長が言った事は、『明らかにそれは違うだろう』という事で、拒否しなければいけない事がなければ、まずは従わなくてはいけない。」と。
ルフェーブル大司教の、まずそのレジスタンスの方が言っているのは、例えば「フェレー司教が後でこういう妥協をするだろう【予想】。だから私はもう反対します。」という風に言っています。
それと対照となるのは、例えばルフェーブル大司教が仰ったのは、「第二バチカン公会議が起こった後、その実がどうであるか。」例えば新しいミサに関しても、一番最初の頃は、来た神学生に対して、「新しいミサに行って良い。」と仰っていました、ルフェーブル大司教は。実際にその新しいミサに行った時に、「どういう実が出るのか、本当に良いものなのか、大丈夫なのか。」で、それが「悪い」という事になって、それがはっきりしてから、行くのを禁止されました。
例えばシャザール神父がマニラにいた時に、「私は上長の言う事は聞きたくない。」という風に言っていました。例えばクチュール神父様が上長なので、「ちょっとヒゲを切りなさい。」と言っても、「いや、それには応じられない。」と言っていました。上長が言った別に何も悪い事がない命令なのに、まずそれに対して反対する、というのは良くない事です。この時にシャザール神父が言っていたのは、「私はヒゲを伸ばしているのは、その“抵抗のしるし”なんだ。」と。「だから応じないんだ。」と言っていたのですけれども、上長が言った、法に基づいた命令、正式の命令に関して、そういう意味を持って反対するというのは、これはおかしな事です、非常におかしな事です。
例えば聖ピオ十世会を見て頂いたら分かりますけれども、過去からずっと、教えている事も、典礼をやっている事も、全くどこにも変わりがありません。いわゆるレジスタンスが反対するというのは、「実際、教皇様と話をしている」という事について反対していたのです。
「教皇様と話をしている事に反対する」というのは、「教皇様と話をする事さえ反対しているのに、カトリックである」というのは、非常にこれはおかしな話です。
例えば、フェレー司教様が間違いをした時に、「いや、それは明らかな間違いなので従えません。」これならばよろしいです。そういう証拠が無い時には、「私は従います。」これがカトリックの立場です。
カトリックには、「天主様のご意志というのは、私たちが自分の義務を守った時には、天主様がいつも守って下さる。」というのがあります。ですから、自分の上長に間違った事をする人がいる時、というのは非常に注意しなくてはいけませんけれども、でも原則は「従う」。どうしても「これはおかしい」という「証拠」があれば、「従わない」という事が原則なのであって、「この人が悪い事をしそうだから、いや、無視するんだ。」とか、「最初から従わない」というのは、カトリックの方法ではありません。
質問者Bさん:ある司祭にこう聞きました。そうすると、この「カトリック教会が間違っていた、間違ったんだ」と。「100年前から間違った」とか、或いはね、「ニケア公会議から間違った」で、「『Immaculata Conceptio(無原罪の御宿り)』とか『Assumption(聖母被昇天)』」ね。「これも間違いなんだ。」というような事なんでしょう?「間違えたのだ。」と。
信徒会長:そういう方がいらっしゃる、と。
質問者Bさん:えぇそういうカトリックは間違っていたという教えを、セミナリー(神学校)辺りで教えてるから、みんな今そういう傾向なんですね。それはどういうような?
レネー神父様: 今挙げて頂いたのはちょうど良い例で、そこまでおかしければこれは明らかにどう見ても、「仰る通り」という訳にはいきません。ですけれども、「証拠が無くてよく分からないけれども」という時は、「まずは従う」というのがカトリックの立場ですけども、今の例であれば、もうこれは明らかに違うので、もう論を待たずに、「それはちょっと違いますね。」と。「言う事には従えません」「仰る事には従えません。」
質問者Aさん:何度もすいません。あと、あの信者さんたちが一番怖いのは、「色んな事をたくさん知りたい」とか、「色んな事を勉強したい」というのがありますが、例えば日本の場合は聖ピオ十世会の神父様が常駐でいらっしゃらない。頼る知識というのは、本とかインターネットとかテレビとか、色んなその情報媒体なのですけれども、そこには沢山のその「嘘」とか「偽善」とか「異端」とか色んなものが入り混じっていて、でも自分がその間違っている所に、「良い」とか同調した部分があった場合に、それを信じ込んでしまう危険がある、全く異端の事を信じ込んでしまったりする場合もあるのですけれども、そういう事をなくす為に、何かアドバイスとかありますでしょうか?
レネー神父様:まず、「聖人」の書いたものは非常に信頼ができます。これは注意して頂きたいのは、「聖人」の書いたものであって「聖人をフォローしている人」の書いたものではないという事です。聖人のご自身の書かれた本。日本語で翻訳されているかどうかよく分かりませんと仰いましたけれども、そういうものはそれ自体は大丈夫です。
例えば皆さんがそれで、インターネットで良いものを探している時は良いものに当たるのでしょうが、良くないものはたくさんあります。良いものもありますけれども良くないもの物もあるので、よく見て選んで下さい。
それで書きもので言いますと、良い教皇様、基本的には「1960年より前の教皇様が出された文章」であれば、これはほぼ信用に足りるものなのでぜひ読んで下さい。1960年以降のものは、悪いものとは言いませんが、良いものと悪いものが混ざっています。良いものが9割あって悪いものが1割あっても、これは非常に混乱の元です。どれが良いとか悪いとか言わなきゃいけないので、基本的には避けた方がよろしいでしょう。
そういう聖人以外にも、ここにあります「ドン・マルミオン」ですとか、「ドン・ショタール」ですとか、「ドン・スクポリー」ですとか、こういう方の書かれた本は非常に良い本です。それから一般的に言いますと、「良い方によって勧められた本」というのは良い本であるという事です(※2)。
本の読み方ですけれども、インターネットではなくて本ですが、読む時には、「5ページ読んで、またこっちに行って10ページ読んで」という風にはしないで下さい。良い本がありましたら「一番最初から最後まで」読んで下さい。この「秩序立った話を読んで、自分の知識がしっかりする」というのが非常に大事な事です。それと比べて、例えばインターネットでしたら、「ここで1ページ読んで、ここで2ページ読んで」というバラバラの知識になるので、良い秩序が生まれませんので、良い本を見つけた時は、最初から最後まで全部読んで下さい。
それからさっきのインターネットの事ですけれども、プロテスタントの方が書いたものだとか、そこには良い事も悪い事もあるかもしれません。そういうややこしい所にはそもそも行かない方をお勧めします。先程言ったように、混ざっているものは非常に危険というか、混乱の元になります。
例えば「SSPXのサイト」だとか、SSPXは関係ありませんけれども「ロラテ・チェリ」というこれは英語ですけれども、そこのウェブサイトだとか、「Life Site News」というのは、pro-lifeの関係の英語のウェブサイトですとか、こういう所は比較的良いものが載っています。
あと本については、今仰った通り、最初から最後まで通しでしっかり読んで下さい。
例えば現代の人というのは、よく毎日のニュースを追っかけて見たりしますけれども、それが現代の病のようなものだと思いますが、「今はこれだ」「今はこういうニュースだ」と言ったとしても、明日になったら忘れ去られてしまいます。
例えば「トリビアだ」と言って、「二十何年前のこの試合がどうだった、こうだった」と覚えてみても、それは「無くなってしまう知識」です。それと比べて、聖人の書いた本というのは、「永遠の意味がある内容」が入っています。ですからこれを読んで頂くと、「永遠にずっと、一生役に立つ知識」が得られます。
それと比べて、毎日毎日ニュースを追いかけているだけ、というのは、「明日意味の無くなるものを見ているだけ」という事になります。
質問者Cさん:すみません、これから洗礼をちょっと一応受けようと思っているのですけれど、近くの教会だと、普通の、「トリエント・ミサ」じゃなくて、普通の日本語とスペイン語でミサをされていて、聖体拝領も手でされているような感じなんですけど、やはりそういった所は避けるべきでしょうか?
レネー神父様:主が、私たちの主が仰ったのは、「これが私の体であり、私の血である。」と仰ったのですけれども、例えば「ユスティニアヌス」という人がその50年後に本に書いているのですが、「確かに、イエズス・キリストがこう仰いました。」と。「自分の体であり、自分の血である。」と。「50年前で、私の父から聞いた」というのは、もうその本人、「使徒の本人から聞いた」という事で、一番最初からこれは伝統なのです。
私たちがずっと使徒から持っている信仰というのは、「その御聖体の中に、イエズス・キリストが本当におられる。」で、「本当のイエズス・キリストなので、それを礼拝しなければいけない。」という事です。
ところがそれはいいのですけれども、それに応じて、例えば今私たちはカトリックの中でもこれは西の典礼なので、「御聖体を跪いて舌で受ける」という事で、これは例えば東の典礼でありましたら、昔今もそうですけれども、「御聖体を御血の方につけて、スプーンで口に与える」という事もありますが、どちらにしても、キリスト教の伝統というのは、「御聖体の中にイエズス・キリストが現存しておられる」という事を信じているから、そういう形を取っているのであって、その証拠に16世紀になった時に、プロテスタントが跪いたり、口で御聖体を受けるというのやめたのですけども、それは「そういう事を信じていないぞ。」というしるしの為に、プロテスタントの人がやった、「私たちは、そのパンの形の中に、イエズス・キリストはいないだろうと思う。その反対をする為に、いやそれは手でもらっていいんだ。それはパンに過ぎないんだ。」という事を始めた、そういう経緯があります。
1960年代になって、近代主義者の人たちがこの「立って、手で受ける」という事を再び導入したおかげで、信者の方が「信仰をなくす」という事が起こりました。これはその、前2000年間やってきた正しい伝統をやめてしまったので、悪い結果が生まれたという事です。
違う面から言いますと、例えば私の経験で、小さい子供、3歳、5歳、10歳の子供でも、大人がみんなちゃんと跪いて舌で御聖体を受けていると、「あ。これは何か特別なものを受けているのだ。」と。「大人の人が。」「私もこれをもらいたい。」と思って、同じようにこう跪いて口を開けて待っている、というのを見たら分かりますけれども、カテキズムを勉強しない子供でも、「これが普通のパンではないのだ。」という事が心の中で分かります。
ところがプロテスタントの影響がある所を見てみますと、プロテスタントの方も、新しいカトリックの典礼もそうですけれども、立って手で受けていると、「これが何か分からないであろう」と。実際そういう事が私にもあったのです。新しく聖伝のミサに来られた方で、そのお父さんお母さんは跪いて受けられたのですけれども、12歳ぐらいの子供がよく分からなくて、手を出してこうやって、「下さい。」と言ってきた、と。「そうじゃないですよ。」と言って、ミサの後に、「どうしたの?」と聞いてみて、「あれは何をもらっているか分かってる?」と言ったら、「何かよく分からない。何かよく分からないけど、私も皆ももらっている。」
こういう風に信者にとっても、「一体その御聖体というのは、どういう事なのか」というのが分からないような、後で信仰を無くしてしまうようなやり方なので、信者にとっても良くない。「天主様を礼拝する」という、「正しく礼拝する」という事で、手で受けるんじゃないでしょう、という事でも大事ですし、「信者の為にも」大事な事、2つ大事な事があります。
質問者Dさん:あの、Yahooニュースか何かなのですけれど、教皇フランシスコ様が、何か女性が、何か聖職者か何か検討する、という風なものがあるのですけれども、もし仮に、可能性はないとは思うのですけれども、もしそれが結論に達した場合、それに従うべきなのでしょうか?
レネー神父様:「教皇様」というのは、教皇様であっても変えられない事があります。例えば「秘跡が7つある」というのは変えられません。それから「『御聖体を作る』という事は司祭しかできない」という事は、これは天主が決められた事ですから、教皇様が変えられる事ではありません。それから「神父になるのは男しかない」というのも、これも教皇様が変えられる事ではありません。
その今話題になっている、「『助祭』のような人が、聖書に書いてあるんじゃないか」と「女性ではないか」という話なのですが、これはその時の様子を見てみると、「どういう人であったか」というのは、おそらく「60歳以上の人で、未亡人の方で、非常に信心深い方」で、「主に何をされていたか」というと、どうやら「当時の女性が、洗礼を受けるのを手伝われていた」と。何故かというと、当時の洗礼というのは、「全浸礼」と言いまして、頭に水をかけるのはではなくて、こうプールのような川のような所に全部入る事をしていたので、服を脱いだりしなきゃいけない事があるので、「これを神父がやる訳にはいかないだろう」という事で、「その世話をしている人を『助祭』というような名前で呼んでいた女性であった」という事なので、後は貧しい人を助けていたかもしれませんけども、これは現代で言えば『修道女』がやっている事なので、いわゆる『叙階された助祭』というのは全然話が違う。それを『助祭』というものに教皇様がする事はできません。
例えばそうは言いましても、新しいミサでは、祭壇に登ってお手伝いをするのに女の子が行ってみたり、女性が行ってみたり、或いは、聖書を読むのに女性がやってみたり、という事があるのですけれども、これもいわば、「なし崩しにやってきた事」で、「本来あるべきではない」。何故かというと、その聖書を読んだり、祭壇の上で神父様の手伝いをするというのは、元々は「神父というその叙階される前の段階、もっと下級の品位の叙階」という事はあったのですけれども、そこに、それはバチカンが廃止してしまったのですけれども、そこに叙階される、その代わりをやっていたので、これは「男だけである」という事だったので、それを混ぜこぜにしてしまってはいるのですが、で非常に怪しい事をしていますけれども、「女性を叙階する」という事は、いくら教皇様でもできない、という事で、それだけは明らかです。
「どうしてじゃあ、司祭は男性しかできないのだ」という事ですが、色々教会も考えたのですけども、基本的な答えとしては、「主が男性ばかりを選ばれたのだろうから、主の事を信じましょう。」と。「きっと理由があってされたのでしょう。」というのが一番代表的な答えです。それ以上詳しくすると時間がもっとかかってしまうので(^^;
(※1)レネー神父著 『偽りの反リベラル主義者の錯覚』The pseudo-anti-liberal illusion
(※2)トマス小野田神父のお薦めの良書
愛する兄弟姉妹の皆様、
5月22日(主)三位一体の大祝日の御ミサの後の霊的講話の時間に、
レネー神父様がなされた講話「ローマと聖ピオ十世会の関係について」をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
レネー神父様御講話
同時通訳:東京の信徒会長
前半の講話の続き・・・
レネー神父様:ご質問は?
質問者Aさん:あの、先程の従順と不従順の中で、非常にこう分かりやすい、例えば「跪いたらダメだ」とか「天主はいっぱいいる」とか、そういう分かりやすい信仰を「No」とは言いやすいのですけれども、ものすごくこう繊細な、「教皇様は本当に異端じゃないのか」とか、あと「同じ聖ピオ十世会の神父様でも、“上の長上の言っている事が間違っているから私たちは出ます”というレジスタンスになる」だとか、そう非常にこう微妙な問題が出た時に、私たち一般信者たちはどういう判断を下していけば良いのでしょうか?
レネー神父様:まず信者、それから神父様たちもそうなのですが、まず最初に想像するのは、「上長が、上司が、上が言うんだから、正しいんであろう。」と、まず推定する、と。「明らかにそれが間違っている」という証拠があるのであれば、それは拒絶しなければいけないけれども、「どちらか微妙で分からない」という時は、上長に言うように従うのが正しいのです。
例えば1960年代、70年代に「新しいミサ」というのがありましたけれども、これは新しいミサを作るのに、プロテスタントの牧師が6人参加しました。「これは明らかにおかしい。」と。これは誰が見てもおかしいので、これは拒否しなきゃいけない。或いは「御聖体を手で受ける」そんな事は教会の歴史でこれまでありませんでした。「これは明らかにおかしい。」と。そういう事については反対します。
例えばルフェーブル大司教が反対されたのは、第二バチカン公会議でおかしかった事、新しいミサでおかしかった事が導入されてから、「明らかにこれはおかしい」という事で、「これはできません。」と仰いました。
前に私は文書を書いたのですが(※1)、そのレジスタンスという、先程例があった人たちの言ってる事は、「いや、何かフェレー司教様がここで言ったのは、こういう“感じがする”【主観】」とか、「こういう“調子で言っている”【思い込み】」とか、非常に不確かな、証拠も無い事に関して自分の上長に、「だから反対」。これは態度としておかしい、と。
私たちも皆さんもやらなくてはいけないのは、「自分の上が上長が言った事は、『明らかにそれは違うだろう』という事で、拒否しなければいけない事がなければ、まずは従わなくてはいけない。」と。
ルフェーブル大司教の、まずそのレジスタンスの方が言っているのは、例えば「フェレー司教が後でこういう妥協をするだろう【予想】。だから私はもう反対します。」という風に言っています。
それと対照となるのは、例えばルフェーブル大司教が仰ったのは、「第二バチカン公会議が起こった後、その実がどうであるか。」例えば新しいミサに関しても、一番最初の頃は、来た神学生に対して、「新しいミサに行って良い。」と仰っていました、ルフェーブル大司教は。実際にその新しいミサに行った時に、「どういう実が出るのか、本当に良いものなのか、大丈夫なのか。」で、それが「悪い」という事になって、それがはっきりしてから、行くのを禁止されました。
例えばシャザール神父がマニラにいた時に、「私は上長の言う事は聞きたくない。」という風に言っていました。例えばクチュール神父様が上長なので、「ちょっとヒゲを切りなさい。」と言っても、「いや、それには応じられない。」と言っていました。上長が言った別に何も悪い事がない命令なのに、まずそれに対して反対する、というのは良くない事です。この時にシャザール神父が言っていたのは、「私はヒゲを伸ばしているのは、その“抵抗のしるし”なんだ。」と。「だから応じないんだ。」と言っていたのですけれども、上長が言った、法に基づいた命令、正式の命令に関して、そういう意味を持って反対するというのは、これはおかしな事です、非常におかしな事です。
例えば聖ピオ十世会を見て頂いたら分かりますけれども、過去からずっと、教えている事も、典礼をやっている事も、全くどこにも変わりがありません。いわゆるレジスタンスが反対するというのは、「実際、教皇様と話をしている」という事について反対していたのです。
「教皇様と話をしている事に反対する」というのは、「教皇様と話をする事さえ反対しているのに、カトリックである」というのは、非常にこれはおかしな話です。
例えば、フェレー司教様が間違いをした時に、「いや、それは明らかな間違いなので従えません。」これならばよろしいです。そういう証拠が無い時には、「私は従います。」これがカトリックの立場です。
カトリックには、「天主様のご意志というのは、私たちが自分の義務を守った時には、天主様がいつも守って下さる。」というのがあります。ですから、自分の上長に間違った事をする人がいる時、というのは非常に注意しなくてはいけませんけれども、でも原則は「従う」。どうしても「これはおかしい」という「証拠」があれば、「従わない」という事が原則なのであって、「この人が悪い事をしそうだから、いや、無視するんだ。」とか、「最初から従わない」というのは、カトリックの方法ではありません。
質問者Bさん:ある司祭にこう聞きました。そうすると、この「カトリック教会が間違っていた、間違ったんだ」と。「100年前から間違った」とか、或いはね、「ニケア公会議から間違った」で、「『Immaculata Conceptio(無原罪の御宿り)』とか『Assumption(聖母被昇天)』」ね。「これも間違いなんだ。」というような事なんでしょう?「間違えたのだ。」と。
信徒会長:そういう方がいらっしゃる、と。
質問者Bさん:えぇそういうカトリックは間違っていたという教えを、セミナリー(神学校)辺りで教えてるから、みんな今そういう傾向なんですね。それはどういうような?
レネー神父様: 今挙げて頂いたのはちょうど良い例で、そこまでおかしければこれは明らかにどう見ても、「仰る通り」という訳にはいきません。ですけれども、「証拠が無くてよく分からないけれども」という時は、「まずは従う」というのがカトリックの立場ですけども、今の例であれば、もうこれは明らかに違うので、もう論を待たずに、「それはちょっと違いますね。」と。「言う事には従えません」「仰る事には従えません。」
質問者Aさん:何度もすいません。あと、あの信者さんたちが一番怖いのは、「色んな事をたくさん知りたい」とか、「色んな事を勉強したい」というのがありますが、例えば日本の場合は聖ピオ十世会の神父様が常駐でいらっしゃらない。頼る知識というのは、本とかインターネットとかテレビとか、色んなその情報媒体なのですけれども、そこには沢山のその「嘘」とか「偽善」とか「異端」とか色んなものが入り混じっていて、でも自分がその間違っている所に、「良い」とか同調した部分があった場合に、それを信じ込んでしまう危険がある、全く異端の事を信じ込んでしまったりする場合もあるのですけれども、そういう事をなくす為に、何かアドバイスとかありますでしょうか?
レネー神父様:まず、「聖人」の書いたものは非常に信頼ができます。これは注意して頂きたいのは、「聖人」の書いたものであって「聖人をフォローしている人」の書いたものではないという事です。聖人のご自身の書かれた本。日本語で翻訳されているかどうかよく分かりませんと仰いましたけれども、そういうものはそれ自体は大丈夫です。
例えば皆さんがそれで、インターネットで良いものを探している時は良いものに当たるのでしょうが、良くないものはたくさんあります。良いものもありますけれども良くないもの物もあるので、よく見て選んで下さい。
それで書きもので言いますと、良い教皇様、基本的には「1960年より前の教皇様が出された文章」であれば、これはほぼ信用に足りるものなのでぜひ読んで下さい。1960年以降のものは、悪いものとは言いませんが、良いものと悪いものが混ざっています。良いものが9割あって悪いものが1割あっても、これは非常に混乱の元です。どれが良いとか悪いとか言わなきゃいけないので、基本的には避けた方がよろしいでしょう。
そういう聖人以外にも、ここにあります「ドン・マルミオン」ですとか、「ドン・ショタール」ですとか、「ドン・スクポリー」ですとか、こういう方の書かれた本は非常に良い本です。それから一般的に言いますと、「良い方によって勧められた本」というのは良い本であるという事です(※2)。
本の読み方ですけれども、インターネットではなくて本ですが、読む時には、「5ページ読んで、またこっちに行って10ページ読んで」という風にはしないで下さい。良い本がありましたら「一番最初から最後まで」読んで下さい。この「秩序立った話を読んで、自分の知識がしっかりする」というのが非常に大事な事です。それと比べて、例えばインターネットでしたら、「ここで1ページ読んで、ここで2ページ読んで」というバラバラの知識になるので、良い秩序が生まれませんので、良い本を見つけた時は、最初から最後まで全部読んで下さい。
それからさっきのインターネットの事ですけれども、プロテスタントの方が書いたものだとか、そこには良い事も悪い事もあるかもしれません。そういうややこしい所にはそもそも行かない方をお勧めします。先程言ったように、混ざっているものは非常に危険というか、混乱の元になります。
例えば「SSPXのサイト」だとか、SSPXは関係ありませんけれども「ロラテ・チェリ」というこれは英語ですけれども、そこのウェブサイトだとか、「Life Site News」というのは、pro-lifeの関係の英語のウェブサイトですとか、こういう所は比較的良いものが載っています。
あと本については、今仰った通り、最初から最後まで通しでしっかり読んで下さい。
例えば現代の人というのは、よく毎日のニュースを追っかけて見たりしますけれども、それが現代の病のようなものだと思いますが、「今はこれだ」「今はこういうニュースだ」と言ったとしても、明日になったら忘れ去られてしまいます。
例えば「トリビアだ」と言って、「二十何年前のこの試合がどうだった、こうだった」と覚えてみても、それは「無くなってしまう知識」です。それと比べて、聖人の書いた本というのは、「永遠の意味がある内容」が入っています。ですからこれを読んで頂くと、「永遠にずっと、一生役に立つ知識」が得られます。
それと比べて、毎日毎日ニュースを追いかけているだけ、というのは、「明日意味の無くなるものを見ているだけ」という事になります。
質問者Cさん:すみません、これから洗礼をちょっと一応受けようと思っているのですけれど、近くの教会だと、普通の、「トリエント・ミサ」じゃなくて、普通の日本語とスペイン語でミサをされていて、聖体拝領も手でされているような感じなんですけど、やはりそういった所は避けるべきでしょうか?
レネー神父様:主が、私たちの主が仰ったのは、「これが私の体であり、私の血である。」と仰ったのですけれども、例えば「ユスティニアヌス」という人がその50年後に本に書いているのですが、「確かに、イエズス・キリストがこう仰いました。」と。「自分の体であり、自分の血である。」と。「50年前で、私の父から聞いた」というのは、もうその本人、「使徒の本人から聞いた」という事で、一番最初からこれは伝統なのです。
私たちがずっと使徒から持っている信仰というのは、「その御聖体の中に、イエズス・キリストが本当におられる。」で、「本当のイエズス・キリストなので、それを礼拝しなければいけない。」という事です。
ところがそれはいいのですけれども、それに応じて、例えば今私たちはカトリックの中でもこれは西の典礼なので、「御聖体を跪いて舌で受ける」という事で、これは例えば東の典礼でありましたら、昔今もそうですけれども、「御聖体を御血の方につけて、スプーンで口に与える」という事もありますが、どちらにしても、キリスト教の伝統というのは、「御聖体の中にイエズス・キリストが現存しておられる」という事を信じているから、そういう形を取っているのであって、その証拠に16世紀になった時に、プロテスタントが跪いたり、口で御聖体を受けるというのやめたのですけども、それは「そういう事を信じていないぞ。」というしるしの為に、プロテスタントの人がやった、「私たちは、そのパンの形の中に、イエズス・キリストはいないだろうと思う。その反対をする為に、いやそれは手でもらっていいんだ。それはパンに過ぎないんだ。」という事を始めた、そういう経緯があります。
1960年代になって、近代主義者の人たちがこの「立って、手で受ける」という事を再び導入したおかげで、信者の方が「信仰をなくす」という事が起こりました。これはその、前2000年間やってきた正しい伝統をやめてしまったので、悪い結果が生まれたという事です。
違う面から言いますと、例えば私の経験で、小さい子供、3歳、5歳、10歳の子供でも、大人がみんなちゃんと跪いて舌で御聖体を受けていると、「あ。これは何か特別なものを受けているのだ。」と。「大人の人が。」「私もこれをもらいたい。」と思って、同じようにこう跪いて口を開けて待っている、というのを見たら分かりますけれども、カテキズムを勉強しない子供でも、「これが普通のパンではないのだ。」という事が心の中で分かります。
ところがプロテスタントの影響がある所を見てみますと、プロテスタントの方も、新しいカトリックの典礼もそうですけれども、立って手で受けていると、「これが何か分からないであろう」と。実際そういう事が私にもあったのです。新しく聖伝のミサに来られた方で、そのお父さんお母さんは跪いて受けられたのですけれども、12歳ぐらいの子供がよく分からなくて、手を出してこうやって、「下さい。」と言ってきた、と。「そうじゃないですよ。」と言って、ミサの後に、「どうしたの?」と聞いてみて、「あれは何をもらっているか分かってる?」と言ったら、「何かよく分からない。何かよく分からないけど、私も皆ももらっている。」
こういう風に信者にとっても、「一体その御聖体というのは、どういう事なのか」というのが分からないような、後で信仰を無くしてしまうようなやり方なので、信者にとっても良くない。「天主様を礼拝する」という、「正しく礼拝する」という事で、手で受けるんじゃないでしょう、という事でも大事ですし、「信者の為にも」大事な事、2つ大事な事があります。
質問者Dさん:あの、Yahooニュースか何かなのですけれど、教皇フランシスコ様が、何か女性が、何か聖職者か何か検討する、という風なものがあるのですけれども、もし仮に、可能性はないとは思うのですけれども、もしそれが結論に達した場合、それに従うべきなのでしょうか?
レネー神父様:「教皇様」というのは、教皇様であっても変えられない事があります。例えば「秘跡が7つある」というのは変えられません。それから「『御聖体を作る』という事は司祭しかできない」という事は、これは天主が決められた事ですから、教皇様が変えられる事ではありません。それから「神父になるのは男しかない」というのも、これも教皇様が変えられる事ではありません。
その今話題になっている、「『助祭』のような人が、聖書に書いてあるんじゃないか」と「女性ではないか」という話なのですが、これはその時の様子を見てみると、「どういう人であったか」というのは、おそらく「60歳以上の人で、未亡人の方で、非常に信心深い方」で、「主に何をされていたか」というと、どうやら「当時の女性が、洗礼を受けるのを手伝われていた」と。何故かというと、当時の洗礼というのは、「全浸礼」と言いまして、頭に水をかけるのはではなくて、こうプールのような川のような所に全部入る事をしていたので、服を脱いだりしなきゃいけない事があるので、「これを神父がやる訳にはいかないだろう」という事で、「その世話をしている人を『助祭』というような名前で呼んでいた女性であった」という事なので、後は貧しい人を助けていたかもしれませんけども、これは現代で言えば『修道女』がやっている事なので、いわゆる『叙階された助祭』というのは全然話が違う。それを『助祭』というものに教皇様がする事はできません。
例えばそうは言いましても、新しいミサでは、祭壇に登ってお手伝いをするのに女の子が行ってみたり、女性が行ってみたり、或いは、聖書を読むのに女性がやってみたり、という事があるのですけれども、これもいわば、「なし崩しにやってきた事」で、「本来あるべきではない」。何故かというと、その聖書を読んだり、祭壇の上で神父様の手伝いをするというのは、元々は「神父というその叙階される前の段階、もっと下級の品位の叙階」という事はあったのですけれども、そこに、それはバチカンが廃止してしまったのですけれども、そこに叙階される、その代わりをやっていたので、これは「男だけである」という事だったので、それを混ぜこぜにしてしまってはいるのですが、で非常に怪しい事をしていますけれども、「女性を叙階する」という事は、いくら教皇様でもできない、という事で、それだけは明らかです。
「どうしてじゃあ、司祭は男性しかできないのだ」という事ですが、色々教会も考えたのですけども、基本的な答えとしては、「主が男性ばかりを選ばれたのだろうから、主の事を信じましょう。」と。「きっと理由があってされたのでしょう。」というのが一番代表的な答えです。それ以上詳しくすると時間がもっとかかってしまうので(^^;
(※1)レネー神父著 『偽りの反リベラル主義者の錯覚』The pseudo-anti-liberal illusion
(※2)トマス小野田神父のお薦めの良書