アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
2016年6月4日(初土)に大阪で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
2016年6月4日 初土曜日 聖母の汚れ無き御心の随意ミサ
小野田神父説教
聖母の汚れ無き御心聖堂にようこそ。
今日は2016年6月4日、初土曜日、聖母の汚れ無き御心の随意ミサをしています。
今日のこのミサの後に、いつものように公教要理を勉強しましょう。
今回は長崎の巡礼の事がどうしても忘れられずに、長崎の巡礼で一番私の記憶に残った、是非「福者中浦ジュリアン」について、もし皆さんもう一度話をする事ができればと思います。
皆さんお食事お昼の後には、ここで聖歌の練習があります。聖歌の練習をここでまた集まってやります。
せっかくのマリア様に捧げられた聖堂ですので、このこれをたくさんマリア様の讃美をより良くする事ができる為に、聖歌の練習をして下さればと思っています。
8月10日から被昇天まで、聖グリニョン・ド・モンフォールによる聖母黙想会が開かれます。ただの聖母黙想会ではなくて、聖グリニョン・ド・モンフォールによる黙想会で、これを指導して下さる方は世界中広しといえども、そんなに多くあるわけではありません。特にそれを深く研究されていた、聖マキシミリアノ・コルベ気違いである、失礼しました、シュテーリン神父様が、この黙想会を指導して下さるので、是非この機会に、ファチマ100周年を記念する為にも、マリア様に捧げられたこの汚れ無き御心をますます愛する私たちとしても、是非その黙想会にいらして下さる事をお願い致します。
場所は大阪です。大阪の去年した所と同じ所であります。どうぞたくさん、皆さんお友達を誘ってたくさん集まって下さい。
「天主は、御身は聖霊の全き宿を、聖母の汚れ無き御心にしつらえ給いしにより、
この信心を行う私たちをして、御身の聖心に適いて生きるを得しめ給え。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、今日はマリア様の汚れ無き御心の随意ミサをしているので、マリア様の御心について、その「マリア様の御心は一体何なのか」を黙想したいと思います。
「イエズス様の聖心は愛の聖心で、私たちを永遠の昔から愛する、開かれた、傷付いた、愛に傷付いた聖心、愛するがあまり、愛に燃えるがあまり、その愛の痛みにズキズキと傷を受けたように痛む聖心であった」という事を黙想しました。
ではマリア様の御心は一体何なのでしょうか?私たちはどうして、マリア様の御心に信心があると、イエズス様の聖心に従って生きる事ができる様になるのでしょうか?何でそういう事を集祷文で祈らせているのでしょうか?それを黙想する事を提案します。
皆さんも黙想をしながら、「一体、マリア様の御心とは一体何なのだろうか?」「マリア様の御心に対する信心とはどういう事を意味するのだろうか?」「イエズス様の聖心に従って生きるというのはどういう事なのだろうか?」という事を考えながら黙想なさって下さい。
昨日、イエズス様の聖心の愛に燃える聖心、傷付いた聖心を黙想して私たちは、「イエズス様の聖心が、ちょうど『美しい門』であるかのようだ。」と黙想しました。「美しい門にちょうど私たちが連れて来られて、その門に、生まれつき足なえの、生まれつき歩く事のできない、1人ではもうどうする事もできない私たちが、美しい門に連れて来られてきて、聖ペトロと聖パウロにこの乞食が願ったように、『何か憐れんで欲しい、恵んでほしい。』と願っているかのようである。」
イエズス様は仰いました、「確かに、私は羊の門である。私を通らなければ誰も父の元に行けない。私を通らない者は泥棒である、強盗である。」
ですから誰もが、この美しい門であるイエズス様を通って行かなければなりません。ちょうど愛によって傷付いて開かれた聖心は、私たちの為に開かれた門であるかのようです。「さぁこの傷口から、愛に燃える傷口から入っていらっしゃい。入って来なさい。お前たちに全てのもの与えてあげよう。私はこれほど愛している。愛に傷付いている。愛に狂っている。お前たちに与えたくて、与えたくて、与えたくて、轟々とこの愛熱の竈の様に燃えているこの門を大きく開いて、私たちがその聖心の愛の中に、入るように、入るように」と、言っています。
私たちにするべき事は、その門の前でこの乞食が、昔この使徒行録にある乞食がやったように、「そのお恵みを欲しい。」と言う事です。聖ペトロとパウロに言われたように、「イエズス様の聖名によって歩け。」と言われたら、そのイエズス様の聖名によって歩く、つまりイエズス様の、「イエズス様の御旨を行う。イエズス様のお望みの通り、イエズス様からの溢れる愛を受ける。それだけでいいのだ。ただ望みさえすれば良い。ただイエズス様から受ける愛を受けさえすれば良い。」
「問題は、『私たちがイエズス様の愛を知らない』という事であって、私たちは、『イエズス様の愛を受けようとしない。自分の事だけでいっぱいだ。自分でもう十分だ。イエズス様はもういらない。』と思っていることです。
ゴミを漁ったり、この地獄のゲヘンナの火で焼かれてしまうべき被造物にあまりにも愛着して、それから目を離さずに、それだけの事を考えて、もう腐って食べてはいけないようなものを食べて、飲んでいけないようなもの、毒を飲んで、腐ったものを飲んで食べて、それで満たす事ができない腹を満たそうとしたり、それで却って健康を害してしまったり、永遠の死に至ってしまったり、私たちのまさに悲惨な状態は、イエズス様の愛を理解しようとしない、受け入れない、そこにある。」という事を昨日黙想しました。私たちはこれをヤラセでやっているのではなくて、本当にそれをやってしまっているという事が、それが現実であるという事が、あまりにも悲惨なのでした。
その悲惨な状況を見て、「私たちは一体どうすればよいか」という時に、この初土の信心がやって来ました。マリア様は、そのような悲惨な状態を見て、天から涙を流されておられます。私たちを、私たちが健康な永遠の命を、健全な食べ物を食べる事ができるように、健康である事ができるように、永遠の命を得る事ができるように、マリア様は母として全てをされた方でした。
アダムとエワが蛇にそそのかされて、禁断の木の下で罪を犯した時に、この2人はこの地上に死をもたらしました。エワは人類の母となるべき方でしたが、実は死をもたらした母となりました。
それにちょうどその罪を償うかのように、十字架の下で、第2のアダム、第2のエワがおりました。第2のアダムは十字架に、第2のエワの実りとして、胎内の実りとして木に付けられ、あたかも盗んだ実を、果実を返済したかのように十字架に付けられ、エワは第2のエワは、第1のエワが、堕ちた天使の悪魔の声を聞いたのに反して、天主から送られた大天使聖ガブリエルの言葉を信じて、主の御旨のままに全生涯を送ってきた方でした。
第2のアダムと第2のエワは2人協力して、私たちに永遠の命を与えようとされたのでした。第2のアダムの聖心と、第2のエワの御心は、心は全く1つの事を望んでいました、「天主の栄光、天主御父の栄光と、全人類の救霊」この2つです。
神学者たちによると、「全ての人類の生んだ、全ての聖人、聖女、殉教者、その全ての成聖の聖寵を集めて、全天使たちを集めてその聖寵を集めて、マリア様が最初に無原罪の御宿りの時に受けたその聖寵と比べると、そのマリア様の受けた最初に受けたお恵みの方が、全人類と全天使たちが集めたものよりもさらに大きい。」と言っています。
神学者たちによると、「更には、全ての被造物が、この世の始まりから終わりまで讃美した天主様の栄光、この天使大天使たちの何千何億何兆何京ものすごい数の天使たち、大天使たちケルビム、セラフィム、座天使、権天使、能天使、主天使、全てが集まって、全人類が集まって、多くの殉教者たち、多くの証聖者たち、博士たち、童貞、全ての聖なる教皇様と全ての人たちが集まって天主様を賛美したその栄光、また全被造物が捧げたその栄光と、マリア様が生涯捧げた栄光とを比べると、マリア様が御一人でなさって天主に捧げた栄光の方がはるかに多い。」「マリア様のその天主に捧げた栄光は大海原のようであって、それに比べて、全被造物が捧げる栄光は1滴の水であるかのようだ。」
マリア様は何故そうだったのでしょうか?何故かというと、マリア様は聖寵に充ち満ちた方であって、イエズス様から天主から受ける、天主が「与えたい」と思ったその愛と、天主が「与えたい」と思ったお恵みを全て、1つも拒否する事なく、純粋に「はい。我は主の婢女なり。」と受け、更に受け、更に受けた御方であったからです。聖霊の素晴らしい宿として準備されたのが、このマリア様の御心だったからです。
ですから、このマリア様の御心に対する信心を行うと、行えば行うほど、私たちはますますマリア様のその御心の影響を受ける事になります。マリア様の信心を行えば行うほど、私たちもマリア様に倣って、マリア様に於いて行動するようになります。するとどうしても、私たちはマリア様のそばにいるので、マリア様の御心によって「美しい門」の近くに、つまり「聖伝のミサ」の近くに、「イエズス様の十字架の生け贄」の近くに、「開かれたイエズス様の聖心」のそばにいつもいる事になります。
私たちがマリア様の信心をすればするほど、マリア様に倣って、「あぁ、マリア様が受けたように、イエズス様の聖心から来る愛とお恵みを全て、私たちも受けたい。」とますます思うようになります。
マリア様の信心をすればするほど、イエズス様の聖心にますます近寄り、イエズス様からますます受けるようになるのです。
ですから、集祷文で何故こういう風にお祈りをさせているのか、私たちはますます理解できます。
書簡で言うように、マリア様に於いて全てのお恵みがあります。道と真理の全てのお恵みがあります。マリア様は美しき愛の母であります。命と徳の全ての希望がマリア様に於いてあるからです。
マリア様は十字架の下にいつも、第2のエワとして立って、第2のアダムから宣言されました、「汝の子、ここにあり。」と。私たちに向かって、「汝の母、ここにあり。」と。イエズス様は、イエズス様の聖心はマリア様の事をそう宣言なさっています。
では、私たちは一体これから何をしなければならないでしょうか?
聖ピオ10世教皇様によると、その教皇様はその教皇様になった最初の時に、「全てをキリストにおいて復興させる。“Omnia instaurare in Christo." 」というモットーを出しましたけれども、それに続いてマリア様に対する回勅を出しました、「Ad Diem Illum」それでそこにおいて教皇様の言葉を一言でまとめると、「もしも私たちがイエズス様に対する、本当のイエズス様の聖心に対する信心を行いたいならば、マリア様の信心を、真の信心を行わなければならない。マリア様の御心に、恵みの玉座に近寄らなければならない。マリア様を母として愛さなければならない。無原罪の、汚れの無い御心に近寄らなければならない。」と教えています。
では今日は、私たちは是非その遷善の決心として、私たちは聖母の騎士の会員でもありますから、マリア様に1日1回でも、「原罪の汚れ無き宿り給いし聖マリア、御身により頼み奉る我らの為に祈り給え。」と、マリア様にお祈りする事に致しましょう。「御身により頼み奉らない者にも、フリーメイソンの会員の為にも、また御身に委ねられた者の為にも、我らの為に祈り給え。」と。マリア様の信心をますます行う事によって、イエズス様の聖心に従って生きる事ができますように、お祈り致しましょう。
「天主は、御身は聖霊の全き宿を、聖母の汚れ無き御心にしつらえ給いしにより、この信心を行う私たちをして、御身の聖心に適いて生きるを得しめ給え。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、
2016年6月4日(初土)に大阪で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
2016年6月4日 初土曜日 聖母の汚れ無き御心の随意ミサ
小野田神父説教
聖母の汚れ無き御心聖堂にようこそ。
今日は2016年6月4日、初土曜日、聖母の汚れ無き御心の随意ミサをしています。
今日のこのミサの後に、いつものように公教要理を勉強しましょう。
今回は長崎の巡礼の事がどうしても忘れられずに、長崎の巡礼で一番私の記憶に残った、是非「福者中浦ジュリアン」について、もし皆さんもう一度話をする事ができればと思います。
皆さんお食事お昼の後には、ここで聖歌の練習があります。聖歌の練習をここでまた集まってやります。
せっかくのマリア様に捧げられた聖堂ですので、このこれをたくさんマリア様の讃美をより良くする事ができる為に、聖歌の練習をして下さればと思っています。
8月10日から被昇天まで、聖グリニョン・ド・モンフォールによる聖母黙想会が開かれます。ただの聖母黙想会ではなくて、聖グリニョン・ド・モンフォールによる黙想会で、これを指導して下さる方は世界中広しといえども、そんなに多くあるわけではありません。特にそれを深く研究されていた、聖マキシミリアノ・コルベ気違いである、失礼しました、シュテーリン神父様が、この黙想会を指導して下さるので、是非この機会に、ファチマ100周年を記念する為にも、マリア様に捧げられたこの汚れ無き御心をますます愛する私たちとしても、是非その黙想会にいらして下さる事をお願い致します。
場所は大阪です。大阪の去年した所と同じ所であります。どうぞたくさん、皆さんお友達を誘ってたくさん集まって下さい。
「天主は、御身は聖霊の全き宿を、聖母の汚れ無き御心にしつらえ給いしにより、
この信心を行う私たちをして、御身の聖心に適いて生きるを得しめ給え。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、今日はマリア様の汚れ無き御心の随意ミサをしているので、マリア様の御心について、その「マリア様の御心は一体何なのか」を黙想したいと思います。
「イエズス様の聖心は愛の聖心で、私たちを永遠の昔から愛する、開かれた、傷付いた、愛に傷付いた聖心、愛するがあまり、愛に燃えるがあまり、その愛の痛みにズキズキと傷を受けたように痛む聖心であった」という事を黙想しました。
ではマリア様の御心は一体何なのでしょうか?私たちはどうして、マリア様の御心に信心があると、イエズス様の聖心に従って生きる事ができる様になるのでしょうか?何でそういう事を集祷文で祈らせているのでしょうか?それを黙想する事を提案します。
皆さんも黙想をしながら、「一体、マリア様の御心とは一体何なのだろうか?」「マリア様の御心に対する信心とはどういう事を意味するのだろうか?」「イエズス様の聖心に従って生きるというのはどういう事なのだろうか?」という事を考えながら黙想なさって下さい。
昨日、イエズス様の聖心の愛に燃える聖心、傷付いた聖心を黙想して私たちは、「イエズス様の聖心が、ちょうど『美しい門』であるかのようだ。」と黙想しました。「美しい門にちょうど私たちが連れて来られて、その門に、生まれつき足なえの、生まれつき歩く事のできない、1人ではもうどうする事もできない私たちが、美しい門に連れて来られてきて、聖ペトロと聖パウロにこの乞食が願ったように、『何か憐れんで欲しい、恵んでほしい。』と願っているかのようである。」
イエズス様は仰いました、「確かに、私は羊の門である。私を通らなければ誰も父の元に行けない。私を通らない者は泥棒である、強盗である。」
ですから誰もが、この美しい門であるイエズス様を通って行かなければなりません。ちょうど愛によって傷付いて開かれた聖心は、私たちの為に開かれた門であるかのようです。「さぁこの傷口から、愛に燃える傷口から入っていらっしゃい。入って来なさい。お前たちに全てのもの与えてあげよう。私はこれほど愛している。愛に傷付いている。愛に狂っている。お前たちに与えたくて、与えたくて、与えたくて、轟々とこの愛熱の竈の様に燃えているこの門を大きく開いて、私たちがその聖心の愛の中に、入るように、入るように」と、言っています。
私たちにするべき事は、その門の前でこの乞食が、昔この使徒行録にある乞食がやったように、「そのお恵みを欲しい。」と言う事です。聖ペトロとパウロに言われたように、「イエズス様の聖名によって歩け。」と言われたら、そのイエズス様の聖名によって歩く、つまりイエズス様の、「イエズス様の御旨を行う。イエズス様のお望みの通り、イエズス様からの溢れる愛を受ける。それだけでいいのだ。ただ望みさえすれば良い。ただイエズス様から受ける愛を受けさえすれば良い。」
「問題は、『私たちがイエズス様の愛を知らない』という事であって、私たちは、『イエズス様の愛を受けようとしない。自分の事だけでいっぱいだ。自分でもう十分だ。イエズス様はもういらない。』と思っていることです。
ゴミを漁ったり、この地獄のゲヘンナの火で焼かれてしまうべき被造物にあまりにも愛着して、それから目を離さずに、それだけの事を考えて、もう腐って食べてはいけないようなものを食べて、飲んでいけないようなもの、毒を飲んで、腐ったものを飲んで食べて、それで満たす事ができない腹を満たそうとしたり、それで却って健康を害してしまったり、永遠の死に至ってしまったり、私たちのまさに悲惨な状態は、イエズス様の愛を理解しようとしない、受け入れない、そこにある。」という事を昨日黙想しました。私たちはこれをヤラセでやっているのではなくて、本当にそれをやってしまっているという事が、それが現実であるという事が、あまりにも悲惨なのでした。
その悲惨な状況を見て、「私たちは一体どうすればよいか」という時に、この初土の信心がやって来ました。マリア様は、そのような悲惨な状態を見て、天から涙を流されておられます。私たちを、私たちが健康な永遠の命を、健全な食べ物を食べる事ができるように、健康である事ができるように、永遠の命を得る事ができるように、マリア様は母として全てをされた方でした。
アダムとエワが蛇にそそのかされて、禁断の木の下で罪を犯した時に、この2人はこの地上に死をもたらしました。エワは人類の母となるべき方でしたが、実は死をもたらした母となりました。
それにちょうどその罪を償うかのように、十字架の下で、第2のアダム、第2のエワがおりました。第2のアダムは十字架に、第2のエワの実りとして、胎内の実りとして木に付けられ、あたかも盗んだ実を、果実を返済したかのように十字架に付けられ、エワは第2のエワは、第1のエワが、堕ちた天使の悪魔の声を聞いたのに反して、天主から送られた大天使聖ガブリエルの言葉を信じて、主の御旨のままに全生涯を送ってきた方でした。
第2のアダムと第2のエワは2人協力して、私たちに永遠の命を与えようとされたのでした。第2のアダムの聖心と、第2のエワの御心は、心は全く1つの事を望んでいました、「天主の栄光、天主御父の栄光と、全人類の救霊」この2つです。
神学者たちによると、「全ての人類の生んだ、全ての聖人、聖女、殉教者、その全ての成聖の聖寵を集めて、全天使たちを集めてその聖寵を集めて、マリア様が最初に無原罪の御宿りの時に受けたその聖寵と比べると、そのマリア様の受けた最初に受けたお恵みの方が、全人類と全天使たちが集めたものよりもさらに大きい。」と言っています。
神学者たちによると、「更には、全ての被造物が、この世の始まりから終わりまで讃美した天主様の栄光、この天使大天使たちの何千何億何兆何京ものすごい数の天使たち、大天使たちケルビム、セラフィム、座天使、権天使、能天使、主天使、全てが集まって、全人類が集まって、多くの殉教者たち、多くの証聖者たち、博士たち、童貞、全ての聖なる教皇様と全ての人たちが集まって天主様を賛美したその栄光、また全被造物が捧げたその栄光と、マリア様が生涯捧げた栄光とを比べると、マリア様が御一人でなさって天主に捧げた栄光の方がはるかに多い。」「マリア様のその天主に捧げた栄光は大海原のようであって、それに比べて、全被造物が捧げる栄光は1滴の水であるかのようだ。」
マリア様は何故そうだったのでしょうか?何故かというと、マリア様は聖寵に充ち満ちた方であって、イエズス様から天主から受ける、天主が「与えたい」と思ったその愛と、天主が「与えたい」と思ったお恵みを全て、1つも拒否する事なく、純粋に「はい。我は主の婢女なり。」と受け、更に受け、更に受けた御方であったからです。聖霊の素晴らしい宿として準備されたのが、このマリア様の御心だったからです。
ですから、このマリア様の御心に対する信心を行うと、行えば行うほど、私たちはますますマリア様のその御心の影響を受ける事になります。マリア様の信心を行えば行うほど、私たちもマリア様に倣って、マリア様に於いて行動するようになります。するとどうしても、私たちはマリア様のそばにいるので、マリア様の御心によって「美しい門」の近くに、つまり「聖伝のミサ」の近くに、「イエズス様の十字架の生け贄」の近くに、「開かれたイエズス様の聖心」のそばにいつもいる事になります。
私たちがマリア様の信心をすればするほど、マリア様に倣って、「あぁ、マリア様が受けたように、イエズス様の聖心から来る愛とお恵みを全て、私たちも受けたい。」とますます思うようになります。
マリア様の信心をすればするほど、イエズス様の聖心にますます近寄り、イエズス様からますます受けるようになるのです。
ですから、集祷文で何故こういう風にお祈りをさせているのか、私たちはますます理解できます。
書簡で言うように、マリア様に於いて全てのお恵みがあります。道と真理の全てのお恵みがあります。マリア様は美しき愛の母であります。命と徳の全ての希望がマリア様に於いてあるからです。
マリア様は十字架の下にいつも、第2のエワとして立って、第2のアダムから宣言されました、「汝の子、ここにあり。」と。私たちに向かって、「汝の母、ここにあり。」と。イエズス様は、イエズス様の聖心はマリア様の事をそう宣言なさっています。
では、私たちは一体これから何をしなければならないでしょうか?
聖ピオ10世教皇様によると、その教皇様はその教皇様になった最初の時に、「全てをキリストにおいて復興させる。“Omnia instaurare in Christo." 」というモットーを出しましたけれども、それに続いてマリア様に対する回勅を出しました、「Ad Diem Illum」それでそこにおいて教皇様の言葉を一言でまとめると、「もしも私たちがイエズス様に対する、本当のイエズス様の聖心に対する信心を行いたいならば、マリア様の信心を、真の信心を行わなければならない。マリア様の御心に、恵みの玉座に近寄らなければならない。マリア様を母として愛さなければならない。無原罪の、汚れの無い御心に近寄らなければならない。」と教えています。
では今日は、私たちは是非その遷善の決心として、私たちは聖母の騎士の会員でもありますから、マリア様に1日1回でも、「原罪の汚れ無き宿り給いし聖マリア、御身により頼み奉る我らの為に祈り給え。」と、マリア様にお祈りする事に致しましょう。「御身により頼み奉らない者にも、フリーメイソンの会員の為にも、また御身に委ねられた者の為にも、我らの為に祈り給え。」と。マリア様の信心をますます行う事によって、イエズス様の聖心に従って生きる事ができますように、お祈り致しましょう。
「天主は、御身は聖霊の全き宿を、聖母の汚れ無き御心にしつらえ給いしにより、この信心を行う私たちをして、御身の聖心に適いて生きるを得しめ給え。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。