アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
2016年6月17日(土)に大阪で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
2016年6月17日 証聖者司教聖グレゴリオ・バルバディコ
小野田神父説教
聖母の汚れなき御心教会にようこそ。今日は2016年6月17日、聖グレゴリオ・バルバディコの祝日を祝っております。
7月の御ミサの予定は少し不規則になっています。7月は7月1日・2日、初金・初土と、それから8日・9日の1週間続けて、その次に17日・18日、主日・月曜日とレネー神父様がいらして下さいます。どうぞお間違えのないようにお願いします。
「天の国は、遠くに旅立つある人が下男たちを呼んで、自分の持ち物を預けるのに例えてもよい。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、
今日証聖者グレゴリオ・バルバディコのミサで、福音書では有名な例えを読みました。ある人が旅を立つ時にしもべたちを呼んで、しもべの能力に従って、ある人には5タレント、ある人には2タレント、ある人には1タレント預けて、「さぁこれをお前たちに委ねる。」と言って、自分は遠くに旅立ちます。帰って来ると、5タレントを預かった人は、そのそれを非常にうまく使って、更にそれを有効に利用した為に、もう5タレントを儲けた。もう1人は2タレントを受けたのですけれども、その2タレントを非常にうまく使って、また2タレントを儲けた。「ご主人様、ここにお返しします。更に儲けました、どうぞ。」1タレントを受けた人は、実は主人を怖がっていたので、何か恐れて、「罰せられるのではないか。」と思って、それを無くさないように、非常に大切に隠して土に埋めておいた。主人が帰って来たら掘り起こして、「はい、ここに預けておられた1タレントがあります。ちゃんととっておきました。」この5タレントを受けた人、2タレントを受けた人は儲けたので褒められて、「さぁ、私のもっとたくさんのものをお前に委ねよう。天の国に入れ。」と言われるけれども、1タレントを受けた人は、「何だ、お前は預けたものを何の有効利用もしなかったのか。」と言って、相手にされなかった。
一体これはどういう意味なのでしょうか?私たちは、私たちのこの人生において受けたタレントというのは、何を意味するのでしょうか?一体その私たちは何をする事が期待されているのでしょうか?この福音の例えの意味は何なのでしょうか?一体これで何を言おうとしているのでしょうか?
これを今日一緒に皆さんと黙想する事を提案します。特にこの黙想、この福音は、6月のイエズス様の聖心の月に於いてとても重要なテーマだと思います。何故かというと聖心は、「イエズス様の聖心は私たちを愛している、イエズス様の聖心は天主は、私たちをここまで愛している」というのを、私たちに目に見える形になったのが、イエズス様の聖心ですから、私たちはますます「主から、天主から愛されている」という事をますます自覚するのみならず、「それに対して応えていかなければならない」それがイエズス様の聖心の月であり、聖心への信心であるからです。何故かというと、愛は必ず愛を呼ぶからです。もしも私たちが人から親切を受けると、どうしても私もそれに感謝して、「親切をして返したい、お礼をしたい。」と思うのが普通であるからです。イエズス様から天主からこれほど受けた愛があるので、これほど受けた御恩があるので、「その御恩にどうしても返したい。」それが私たちの自然な反応であるべきであるからです。
ですから聖務日課やミサの典礼では、「私たちをこれほど愛したお方を、どうして愛さない事があるだろうか。救われた身分でありながら、救い主を熱烈に愛し返さない事ができる者がいるだろうか。」というのがテーマになっています。愛に応えて、天主である愛を、「愛である天主を、愛を以て返す。」これこそがイエズス様の聖心の信心のテーマです。
私たちはどのような愛を受けたでしょうか?私たちが今こうやって生きているのも、こうやって健康であるのも、こうやってミサに与る事ができるのも、私たちが「何が良い、何が悪いか」という事を知る事ができるのも、全てこれはお恵みです。
そればかりでありません。私たちが持っているお友達、或いは家族、或いは食べ物がある事、それを超えて超自然のお恵み、例えば信仰の恵み、私たちの持っている希望、或いは愛のお恵み、或いは色々な徳を積む事ができるというのも、これも全てお恵みによって与えられたものです。私たちが1人で全てできたわけではありません。与えられて、その機会が与えられて、その力が与えられて、助けられて初めて、私たちができたものです。私たちがもしも何かその仕事ができたとしたならば、もしも何か役に立てる事ができたとすれば、それはそのような機会が与えられたからです。もしも私たちがより大きな地位を持てば持つほど、より多くの善をする事ができます。より大きな地位が与えられるという事は、それは多くの愛が与えられた、その機会が与えられた、これもますますお恵みです。
天主から与えられたものを私たちはどのように使う事が期待されているのでしょうか?もちろんこれは自分の利己主義の為にではありません。自分の都合の為ではありません。例えば特別な地位を与えられているにもかかわらず、その地位を乱用して、公用車を使って別荘に行ったり、あるいは芸術品を買ったり、あるいは公費を使って高級のホテルに泊まって何とかをすれば、やはりそれは一体「公私混同だ」とこの世でも追及されるではないでしょうか。ある地位のある人は、離職さえもしなければなりませんでした。
イエズス様から頂いた私たちのお恵みはやはり、イエズス様を主を愛するが為に与えられているのです。天主への奉仕の為に与えられました。それを良く使う為に与えられました。与えられた才能や、時間や、健康や、お恵みを、天主を愛するが為に、或いは天主を隣人に於いて愛するが為に、天主が隣人に於いてますます愛されるようにする為に、与えられました。もしもそれを私たちが自分の為だけに、天主様から与えられたものを無頓着に、或いは冷淡に、自分の事だけで打算的に、自分の事だけに隠しておいているならば、「あぁ、恐ろしい方だから罪さえ犯さなければいいんだ。大罪を犯すのはしないけれども、でも大罪は犯さない程度で、自分の好きな事をしたい。自分のやりたい事はこうだ。イエズス様の望みはというよりは自分の望みをする。」これはまさに、タレントを隠して、自分の為だけに取っておく事に過ぎません。それを主の為にたくさん増やす事ではありません。
タレントを5つ、5タレントを頂いた人はこれを良く使って、「全て自分の持てるものを主の為に使おう」と努力した人でした。このような人はたくさんいます。日本でもたくさんいました。つい最近私たちの巡礼に行った長崎でも、本当に素晴らしい人がいました。
福者中浦ジュリアン神父様。いつもローマの方に手を向けてこう銅像が立っていますけれども、絶対死ぬまで、ローマ教皇様に会ってその恩を受けた事を忘れずに、死ぬまで、自分の全ての持ち物を全て使って、4,000人の霊魂たちの司牧と救霊の為に全てを尽くした方でした。
福者ペトロ岐部神父様。日本人として初めて聖イグナチオや聖フランシスコ・ザヴェリオの列聖式にも与り、イエズス会士として、司祭としてローマで勉強して、ローマで司祭になったにもかかわらず、日本に帰って、命をかけて司牧をして、この「自分の司祭職を善の為に使いたい」と思って、江戸で拷問を受けて亡くなりました。
或いは司祭でなかったとしても、例えば雲仙地獄と呼ばれる所で殉教をしていった、パウ内堀親子。子供の例えばアントニオ内堀は、まだ18才にもかかわらず、指を切られて、3本の中の指を切られて、「キリシタンは動物と同じだから」といって切られて、このものすごい痛みを受けて、あと寒い冬だったにもかかわらず、溺れるか溺れないか、引っ張られたり出されたり、遂には亡くなる時にお父さんに、「お父さん、この大きな殉教のお恵みを感謝しましょう。」と言って死んでいきました。お父さんもお父さんで、その溺れるか溺れないかの時には、この浮かび上がる度に息がつくと、「御聖体に在すイエズス様は、至聖なる秘蹟は讃美せられさせ給え。」「イエズス様の御聖体は讃美せられさせ給え。」とそれだけを言って、遂に殉教していきました。御聖体に対するものすごい愛を持って、御聖体の為に、イエズス様の愛の為に生きていた人でした。
そのローマの教皇様に書いた手紙の中に、12名サインされた手紙が残っていますけれども、その内の1人にパウロ内堀のサインもありました。それには、「お恵みによって私たちは、聖なる公教会への証をする為に命を捧げる準備ができている。」と。そのサインした12人の内の6名は殉教しています。感謝しながら全てを捧げて、生きていた人でした。
やはりここに愛の本質があります。受けたものを、受けた愛を愛で返す。受けた全てのお恵みをイエズス様に全て返す。これが殉教者であって、今日の聖人グレゴリオ・バリバディコもまさに、「受けた愛をお恵みを全て良く使って、イエズス様の為に主の為に、愛を愛で返した」という聖人でした。イエズス様の愛が私たちをもう駆り立てたのでした。
もしも私たちがイエズス様に対する、聖心に対する奉献をするとしたら、まさにこれです。私たちにとってイエズス様に対する奉献というのは、イエズス様にただお祈りの文だけではなくて、「自分の持てる全ての時間、才能、この全生涯、全存在、全ての命を、主の為に捧げる」という事です。自分の好み、自分のやり方、自分の利益、自分の考えを放棄して、「イエズス様のやり方、イエズス様の考え、イエズス様の御望み、イエズス様の御希望、イエズス様の御望みの通りにさせたい。イエズス様の一番気に入るようにしたい。」もしもその為に自分のやりたい事ができなかった、自分の地上への愛着を放棄しなければならないとしたら、それを喜んで放棄する。これがイエズス様の聖心に対する奉献であって、受けたタレントを最大限に活用する事であって、イエズス様の為にたくさんのタレントをまた儲けるという事であって、愛を愛で返すという事です。
今日聖グレゴリオ・バリバディコは私たちに、イエズス様の聖心にどうやって、愛を愛で返すれば良いかという模範を示してくれています。私たちの過去の先祖たち、諸聖人、殉教者たちもその見本を示して下さいます。
今週の月曜日にはパドゥアの聖アントニオの祝日を祝っていましたけれども、パドゥアのアントニオも5歳の時に、ポルトガルの裕福な家に生まれた子供ですけれども、5歳の時に冬、ある誰かがノックをするので開けてみると、子供が立っていたのだそうです。貧しい服を着た子供で、裸足で、何か背中にリュックを背負っていて、「一体この子誰だろう?」と思ってリュックの裏を見ると、心臓のようなルビーのような、赤々とした物がたくさん荷物の中に入っていた。あまりにもおかしいのでびっくりして聞いてみると、「あなたは誰ですか?何の為に来たのですか?誰ですか?」と聞くとこの子は、「私は王子だ。私は人々の心を探して来て、乞い求めている。この乞食をしている。名前は、私の名前は君に言う必要はない。何故なら君はよく僕の事をよく知っているからだ。私はイエズスだ。」と言って消えたのだそうです。その時に幼きパドゥアの聖アントニオは、「イエズス様が私たちの愛を求めている。」という事を理解しました。
例えば聖ブリジッタも同じような事を体験しています。聖ブリジッタがある時、イエズス様がもうボロボロの傷だらけの姿で現れた時に、「主よ、一体誰があなたにこの様な事をしたのですか?何でこんな、そんな傷だらけで血をもうタラタラ流して、もういかにも半死半生でもう死なれるような御姿なのですか?一体誰がこうしたのですか?」すると、「私が特に、私が敵から受けるものよりも、私が特に愛した霊魂から愛が返って来ない時に受けるのがこれであって、愛を受けない、愛するべき者が私の事を愛さないが為に、私は今こうなっている。」と聖ブリジッタに説明しました。イエズス様は悪魔から受ける侮辱よりも、愛する者、特にイエズス様から愛された者がそれを、愛を愛で返さない時に受けるその事を、非常に辛く思っておられます。
そこで今日良い決心を立てて、イエズス様の聖心をますますお愛しする、という決心を立てる事に致しましょう。この私たちの受けたタレントを全てうまく使う事ができますように。決して恐れて、「あぁ、大罪さえ犯さなければいいんだ、罪さえ犯さなければいいんだ。あとは面白おかしく過ごせばいいんだ。」と、私たちの受けた時間や、大切なお恵みを、無駄に土に隠して埋めてしまうだけではなく、それを私たちは更に使って、イエズス様をますますお愛しする事ができますように、ますますイエズス様の愛のタレントを増やしていく事ができますようにお祈り致しましょう。
マリア様はそうなさいました。マリア様は御受胎のその瞬間から、ますます愛に成長して、多くのタレントを増やした方です。マリア様に是非お祈りして、イエズス様をマリア様のようにお愛しする事できますように、愛を愛で返す事ができますようにお祈り致しましょう。
「天の国は、遠くに旅立つある人が下男たちを呼んで、自分の持ち物を預けるのに例えてもよい。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、
2016年6月17日(土)に大阪で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
2016年6月17日 証聖者司教聖グレゴリオ・バルバディコ
小野田神父説教
聖母の汚れなき御心教会にようこそ。今日は2016年6月17日、聖グレゴリオ・バルバディコの祝日を祝っております。
7月の御ミサの予定は少し不規則になっています。7月は7月1日・2日、初金・初土と、それから8日・9日の1週間続けて、その次に17日・18日、主日・月曜日とレネー神父様がいらして下さいます。どうぞお間違えのないようにお願いします。
「天の国は、遠くに旅立つある人が下男たちを呼んで、自分の持ち物を預けるのに例えてもよい。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、
今日証聖者グレゴリオ・バルバディコのミサで、福音書では有名な例えを読みました。ある人が旅を立つ時にしもべたちを呼んで、しもべの能力に従って、ある人には5タレント、ある人には2タレント、ある人には1タレント預けて、「さぁこれをお前たちに委ねる。」と言って、自分は遠くに旅立ちます。帰って来ると、5タレントを預かった人は、そのそれを非常にうまく使って、更にそれを有効に利用した為に、もう5タレントを儲けた。もう1人は2タレントを受けたのですけれども、その2タレントを非常にうまく使って、また2タレントを儲けた。「ご主人様、ここにお返しします。更に儲けました、どうぞ。」1タレントを受けた人は、実は主人を怖がっていたので、何か恐れて、「罰せられるのではないか。」と思って、それを無くさないように、非常に大切に隠して土に埋めておいた。主人が帰って来たら掘り起こして、「はい、ここに預けておられた1タレントがあります。ちゃんととっておきました。」この5タレントを受けた人、2タレントを受けた人は儲けたので褒められて、「さぁ、私のもっとたくさんのものをお前に委ねよう。天の国に入れ。」と言われるけれども、1タレントを受けた人は、「何だ、お前は預けたものを何の有効利用もしなかったのか。」と言って、相手にされなかった。
一体これはどういう意味なのでしょうか?私たちは、私たちのこの人生において受けたタレントというのは、何を意味するのでしょうか?一体その私たちは何をする事が期待されているのでしょうか?この福音の例えの意味は何なのでしょうか?一体これで何を言おうとしているのでしょうか?
これを今日一緒に皆さんと黙想する事を提案します。特にこの黙想、この福音は、6月のイエズス様の聖心の月に於いてとても重要なテーマだと思います。何故かというと聖心は、「イエズス様の聖心は私たちを愛している、イエズス様の聖心は天主は、私たちをここまで愛している」というのを、私たちに目に見える形になったのが、イエズス様の聖心ですから、私たちはますます「主から、天主から愛されている」という事をますます自覚するのみならず、「それに対して応えていかなければならない」それがイエズス様の聖心の月であり、聖心への信心であるからです。何故かというと、愛は必ず愛を呼ぶからです。もしも私たちが人から親切を受けると、どうしても私もそれに感謝して、「親切をして返したい、お礼をしたい。」と思うのが普通であるからです。イエズス様から天主からこれほど受けた愛があるので、これほど受けた御恩があるので、「その御恩にどうしても返したい。」それが私たちの自然な反応であるべきであるからです。
ですから聖務日課やミサの典礼では、「私たちをこれほど愛したお方を、どうして愛さない事があるだろうか。救われた身分でありながら、救い主を熱烈に愛し返さない事ができる者がいるだろうか。」というのがテーマになっています。愛に応えて、天主である愛を、「愛である天主を、愛を以て返す。」これこそがイエズス様の聖心の信心のテーマです。
私たちはどのような愛を受けたでしょうか?私たちが今こうやって生きているのも、こうやって健康であるのも、こうやってミサに与る事ができるのも、私たちが「何が良い、何が悪いか」という事を知る事ができるのも、全てこれはお恵みです。
そればかりでありません。私たちが持っているお友達、或いは家族、或いは食べ物がある事、それを超えて超自然のお恵み、例えば信仰の恵み、私たちの持っている希望、或いは愛のお恵み、或いは色々な徳を積む事ができるというのも、これも全てお恵みによって与えられたものです。私たちが1人で全てできたわけではありません。与えられて、その機会が与えられて、その力が与えられて、助けられて初めて、私たちができたものです。私たちがもしも何かその仕事ができたとしたならば、もしも何か役に立てる事ができたとすれば、それはそのような機会が与えられたからです。もしも私たちがより大きな地位を持てば持つほど、より多くの善をする事ができます。より大きな地位が与えられるという事は、それは多くの愛が与えられた、その機会が与えられた、これもますますお恵みです。
天主から与えられたものを私たちはどのように使う事が期待されているのでしょうか?もちろんこれは自分の利己主義の為にではありません。自分の都合の為ではありません。例えば特別な地位を与えられているにもかかわらず、その地位を乱用して、公用車を使って別荘に行ったり、あるいは芸術品を買ったり、あるいは公費を使って高級のホテルに泊まって何とかをすれば、やはりそれは一体「公私混同だ」とこの世でも追及されるではないでしょうか。ある地位のある人は、離職さえもしなければなりませんでした。
イエズス様から頂いた私たちのお恵みはやはり、イエズス様を主を愛するが為に与えられているのです。天主への奉仕の為に与えられました。それを良く使う為に与えられました。与えられた才能や、時間や、健康や、お恵みを、天主を愛するが為に、或いは天主を隣人に於いて愛するが為に、天主が隣人に於いてますます愛されるようにする為に、与えられました。もしもそれを私たちが自分の為だけに、天主様から与えられたものを無頓着に、或いは冷淡に、自分の事だけで打算的に、自分の事だけに隠しておいているならば、「あぁ、恐ろしい方だから罪さえ犯さなければいいんだ。大罪を犯すのはしないけれども、でも大罪は犯さない程度で、自分の好きな事をしたい。自分のやりたい事はこうだ。イエズス様の望みはというよりは自分の望みをする。」これはまさに、タレントを隠して、自分の為だけに取っておく事に過ぎません。それを主の為にたくさん増やす事ではありません。
タレントを5つ、5タレントを頂いた人はこれを良く使って、「全て自分の持てるものを主の為に使おう」と努力した人でした。このような人はたくさんいます。日本でもたくさんいました。つい最近私たちの巡礼に行った長崎でも、本当に素晴らしい人がいました。
福者中浦ジュリアン神父様。いつもローマの方に手を向けてこう銅像が立っていますけれども、絶対死ぬまで、ローマ教皇様に会ってその恩を受けた事を忘れずに、死ぬまで、自分の全ての持ち物を全て使って、4,000人の霊魂たちの司牧と救霊の為に全てを尽くした方でした。
福者ペトロ岐部神父様。日本人として初めて聖イグナチオや聖フランシスコ・ザヴェリオの列聖式にも与り、イエズス会士として、司祭としてローマで勉強して、ローマで司祭になったにもかかわらず、日本に帰って、命をかけて司牧をして、この「自分の司祭職を善の為に使いたい」と思って、江戸で拷問を受けて亡くなりました。
或いは司祭でなかったとしても、例えば雲仙地獄と呼ばれる所で殉教をしていった、パウ内堀親子。子供の例えばアントニオ内堀は、まだ18才にもかかわらず、指を切られて、3本の中の指を切られて、「キリシタンは動物と同じだから」といって切られて、このものすごい痛みを受けて、あと寒い冬だったにもかかわらず、溺れるか溺れないか、引っ張られたり出されたり、遂には亡くなる時にお父さんに、「お父さん、この大きな殉教のお恵みを感謝しましょう。」と言って死んでいきました。お父さんもお父さんで、その溺れるか溺れないかの時には、この浮かび上がる度に息がつくと、「御聖体に在すイエズス様は、至聖なる秘蹟は讃美せられさせ給え。」「イエズス様の御聖体は讃美せられさせ給え。」とそれだけを言って、遂に殉教していきました。御聖体に対するものすごい愛を持って、御聖体の為に、イエズス様の愛の為に生きていた人でした。
そのローマの教皇様に書いた手紙の中に、12名サインされた手紙が残っていますけれども、その内の1人にパウロ内堀のサインもありました。それには、「お恵みによって私たちは、聖なる公教会への証をする為に命を捧げる準備ができている。」と。そのサインした12人の内の6名は殉教しています。感謝しながら全てを捧げて、生きていた人でした。
やはりここに愛の本質があります。受けたものを、受けた愛を愛で返す。受けた全てのお恵みをイエズス様に全て返す。これが殉教者であって、今日の聖人グレゴリオ・バリバディコもまさに、「受けた愛をお恵みを全て良く使って、イエズス様の為に主の為に、愛を愛で返した」という聖人でした。イエズス様の愛が私たちをもう駆り立てたのでした。
もしも私たちがイエズス様に対する、聖心に対する奉献をするとしたら、まさにこれです。私たちにとってイエズス様に対する奉献というのは、イエズス様にただお祈りの文だけではなくて、「自分の持てる全ての時間、才能、この全生涯、全存在、全ての命を、主の為に捧げる」という事です。自分の好み、自分のやり方、自分の利益、自分の考えを放棄して、「イエズス様のやり方、イエズス様の考え、イエズス様の御望み、イエズス様の御希望、イエズス様の御望みの通りにさせたい。イエズス様の一番気に入るようにしたい。」もしもその為に自分のやりたい事ができなかった、自分の地上への愛着を放棄しなければならないとしたら、それを喜んで放棄する。これがイエズス様の聖心に対する奉献であって、受けたタレントを最大限に活用する事であって、イエズス様の為にたくさんのタレントをまた儲けるという事であって、愛を愛で返すという事です。
今日聖グレゴリオ・バリバディコは私たちに、イエズス様の聖心にどうやって、愛を愛で返すれば良いかという模範を示してくれています。私たちの過去の先祖たち、諸聖人、殉教者たちもその見本を示して下さいます。
今週の月曜日にはパドゥアの聖アントニオの祝日を祝っていましたけれども、パドゥアのアントニオも5歳の時に、ポルトガルの裕福な家に生まれた子供ですけれども、5歳の時に冬、ある誰かがノックをするので開けてみると、子供が立っていたのだそうです。貧しい服を着た子供で、裸足で、何か背中にリュックを背負っていて、「一体この子誰だろう?」と思ってリュックの裏を見ると、心臓のようなルビーのような、赤々とした物がたくさん荷物の中に入っていた。あまりにもおかしいのでびっくりして聞いてみると、「あなたは誰ですか?何の為に来たのですか?誰ですか?」と聞くとこの子は、「私は王子だ。私は人々の心を探して来て、乞い求めている。この乞食をしている。名前は、私の名前は君に言う必要はない。何故なら君はよく僕の事をよく知っているからだ。私はイエズスだ。」と言って消えたのだそうです。その時に幼きパドゥアの聖アントニオは、「イエズス様が私たちの愛を求めている。」という事を理解しました。
例えば聖ブリジッタも同じような事を体験しています。聖ブリジッタがある時、イエズス様がもうボロボロの傷だらけの姿で現れた時に、「主よ、一体誰があなたにこの様な事をしたのですか?何でこんな、そんな傷だらけで血をもうタラタラ流して、もういかにも半死半生でもう死なれるような御姿なのですか?一体誰がこうしたのですか?」すると、「私が特に、私が敵から受けるものよりも、私が特に愛した霊魂から愛が返って来ない時に受けるのがこれであって、愛を受けない、愛するべき者が私の事を愛さないが為に、私は今こうなっている。」と聖ブリジッタに説明しました。イエズス様は悪魔から受ける侮辱よりも、愛する者、特にイエズス様から愛された者がそれを、愛を愛で返さない時に受けるその事を、非常に辛く思っておられます。
そこで今日良い決心を立てて、イエズス様の聖心をますますお愛しする、という決心を立てる事に致しましょう。この私たちの受けたタレントを全てうまく使う事ができますように。決して恐れて、「あぁ、大罪さえ犯さなければいいんだ、罪さえ犯さなければいいんだ。あとは面白おかしく過ごせばいいんだ。」と、私たちの受けた時間や、大切なお恵みを、無駄に土に隠して埋めてしまうだけではなく、それを私たちは更に使って、イエズス様をますますお愛しする事ができますように、ますますイエズス様の愛のタレントを増やしていく事ができますようにお祈り致しましょう。
マリア様はそうなさいました。マリア様は御受胎のその瞬間から、ますます愛に成長して、多くのタレントを増やした方です。マリア様に是非お祈りして、イエズス様をマリア様のようにお愛しする事できますように、愛を愛で返す事ができますようにお祈り致しましょう。
「天の国は、遠くに旅立つある人が下男たちを呼んで、自分の持ち物を預けるのに例えてもよい。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。