聖母月中の祈祷
我等主の御前(みまえ)に出で、主の御母マリアの尊敬によりて、主を讃美(さんび)し奉つらんとす。主よ願わくは我等の心を浄(きよ)め、すべての無益なる思いより遠ざけしめ、我が智恵を照らし、意志をば堅固(けんご)ならしめ給わんことを、我等の主イエズス・キリストによりて、アメン
最も尊むべき天主の御母童貞聖マリアよ、我等は御身につくすべき尊敬と愛とを現さんがために此処に集(つど)いきたれり。
我等は全能の天主が御身(おんみ)にかくも高き御位(みくらい)と御光栄(みさかえ)とを下し給えることを喜び、且つ主が御身(おんみ)の御心(みこころ)に最も深きいつくしみを与え、御身(おんみ)を我等の母と定め給いしによりて主を讃美し奉(たてまつ)る。
我等はこの月を聖母の月として今日一日をもまた御身の尊敬のために捧(ささ)げ奉(たてまつ)る。
いつくしみ深き聖母よ、我等は御身(おんみ)を御子イエズスの御前(みまえ)における代祷者(だいとうしゃ)として撰(えら)び奉(たてまつ)る。
今新たに我等が身も心も御身(おんみ)に献げ、我等が悲しみも喜びも生命(いのち)、死もすべて主の御旨(みむね)にかなうよう御身(おんみ)に任(まか)せ奉る。願わくは我等の御母たることを示し給へ。我等は叉、聖会と教皇、及びすべての聖職者並びに生けると死せる親族友達の為に祈り奉る。願わくは我等が讃美(さんび)と祈りとをもって御身の御心(みこころ)を喜ばせ奉らんとするを顧(かえり)み給え。
我等はこの聖(とうと)き月において、すべての公教信者が特に御身(おんみ)にさゝぐる其の祈りに我等の祈りを合わせ、且(か)つ天国において、天の元后(げんこう)なる御身(おんみ)を永遠に讃美(さんび)する諸々(もろもろ)の天使と共に御身を讃(たた)えまつらん。
されば我等をして死に至るまで生涯(しょうがい)忠実に主に仕(つか)え、死後天堂(てんどう)において諸天使(しょてんし)諸聖人(しょせいじん)と共に御身(おんみ)を愛し御身(おんみ)に感謝し、御身(おんみ)と共に主を永遠に讃美(さんび)するをうるの最上の幸福をえせしめ給わんとを特に願い奉る。アメン
二 十 三 日
望 徳
(一)望(ぼう)徳(とく)は二つの要素(ようそ)から成りたっている。その第一は人間自身の不完全さで、第二は天主の御慈悲(おんじひ)である。
我等自身の不完全さについては今更(いまさら)、云う必要がないであろう。我等は自分の力(ちから)のみを以てしては、超自然界(ちょうしぜんかい)に何等(なんら)価値ある善業(ぜんぎょう)も出来ない。
イエズス・キリストは葡萄(ぶどう)のたとえを以て之を教え給うた。「我は葡萄(ぶどう)の樹(き)にして汝(なんじ)等(ら)は枝なり。枝が葡萄(ぶどう)の樹(き)に止(とど)まるにあらずば、自(みずか)ら実(み)を結(むす)ぶ事能(あた)わざる如く、汝(なんじ)等(ら)が我に止(とど)まるにあらずば能(あた)わず。我に止(とど)まり、叉,我がこれに止(とど)まる人は、これ多くの実(み)を結(むす)ぶ者なり」(ヨハネ 十五、四、五)ゆえに我等が天主の報(むく)いを得(え)べき善業(ぜんぎょう)を行う為には天主から御聖寵(おめぐみ)を頂かねばならぬのである。
次に天主の御慈悲(おんじひ)について考えれば、天主は我等を愛し給うゆえに、我等を天国に入れ御自分の御側(おそば)において、その光栄と幸福とを与えんと思(おぼ)し召し、其の目的を達する為に、充分(じゅうぶん)の聖寵(せいちょう)を我等に与え給うのである。
望(ぼう)徳(とく)の根本(こんぽん)は、キリストの御苦難(ごくなん)の功徳(くどく)である。キリストは「汝等,我が名によりて、何を求むるも父が汝(なんじ)等(ら)に之を賜(たま)わん為なり」と仰せられたがその聖名(みな)によりて願うとは、即ち主の御苦難を天主に献げその御功徳を厚く信頼するという意味に他ならない。
「願えよ、さらば与えられん」との御約束を以て天主は我等の心の中に信頼を起(お)こし給うた。愛に充(み)ち溢(あふ)れ給う天主は、謙遜(けんそん)をもって近づかんとする者は、決して捨て給わない。
叉、その願いをも、こばみ給わず喜んで迎え給うのである。
〔二〕我等の望(ぼう)徳(とく)は天主の大いなる喜びとなるのである。即ち信頼を以て近づき、天主がわれらの愛する父なる事を確信するは、天主の御栄(みさかえ)を増(ま)すことだからである。
聖母マリアがいかに平生(へいぜい)天主に厚い信頼の念を抱(いだ)いておられたかは、その聖女エリザベトを訪問せられた時うたわれた、あの有名なる讃美歌(さんびか)の「我が精神は我が救(すく)い主なる天主によりて、よろこびにたえず。そは御召使(おんめしつか)いの賤(いや)しきをかえりみ給いたればなり」という
御言葉(みことば)を見ても解(わか)るであろう。かくの如く我等も天主を深く信頼すれば、聖母の如く常に、よろこびを以て、この世を渡る事が出来るのである。
我等は臨終(りんじゅう)の時に,悪魔(あくま)の誘(いざな)いがいかにはげしくとも、決して絶望(ぜつぼう)せずに、十字架(じゅうじか)を手に持ち、われらの為に磔(はりつ)けられたまえるキリストの御苦難の功徳(くどく)によりて、必ず地獄(じごく)を免(まぬが)れ、天国に行くことができると確信しなければならない。
○ 聖母の御伝達(おんとりつぎ)によりてわれらの望(ぼう)徳(とく)の増(ま)さんために「めでたし」三度唱(とな)えん。
祈 願 せ ん
主イエズス・キリスト我等、主を離れては何事をもなす能(あた)わざる者なれば、己(おの)が功(いさおし)を恃(たの)むことなく、主の御苦難(ごくなん)の御功徳(ごくどく)によりてのみ救わるることを確信し、主の御慈悲(おんじひ)により、この世に於(お)いては聖寵(せいちょう)を与えられ、來(のちの)世(よ)に於(お)いては、永遠の福(ふく)楽(らく)を授(さず)けらるるよう、聖母の御伝達(おんとりつぎ)によりてひたすら請(こい)願(ねが)い奉(たてまつ)る。
アメン。
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我等主の御前(みまえ)に出で、主の御母マリアの尊敬によりて、主を讃美(さんび)し奉つらんとす。主よ願わくは我等の心を浄(きよ)め、すべての無益なる思いより遠ざけしめ、我が智恵を照らし、意志をば堅固(けんご)ならしめ給わんことを、我等の主イエズス・キリストによりて、アメン
最も尊むべき天主の御母童貞聖マリアよ、我等は御身につくすべき尊敬と愛とを現さんがために此処に集(つど)いきたれり。
我等は全能の天主が御身(おんみ)にかくも高き御位(みくらい)と御光栄(みさかえ)とを下し給えることを喜び、且つ主が御身(おんみ)の御心(みこころ)に最も深きいつくしみを与え、御身(おんみ)を我等の母と定め給いしによりて主を讃美し奉(たてまつ)る。
我等はこの月を聖母の月として今日一日をもまた御身の尊敬のために捧(ささ)げ奉(たてまつ)る。
いつくしみ深き聖母よ、我等は御身(おんみ)を御子イエズスの御前(みまえ)における代祷者(だいとうしゃ)として撰(えら)び奉(たてまつ)る。
今新たに我等が身も心も御身(おんみ)に献げ、我等が悲しみも喜びも生命(いのち)、死もすべて主の御旨(みむね)にかなうよう御身(おんみ)に任(まか)せ奉る。願わくは我等の御母たることを示し給へ。我等は叉、聖会と教皇、及びすべての聖職者並びに生けると死せる親族友達の為に祈り奉る。願わくは我等が讃美(さんび)と祈りとをもって御身の御心(みこころ)を喜ばせ奉らんとするを顧(かえり)み給え。
我等はこの聖(とうと)き月において、すべての公教信者が特に御身(おんみ)にさゝぐる其の祈りに我等の祈りを合わせ、且(か)つ天国において、天の元后(げんこう)なる御身(おんみ)を永遠に讃美(さんび)する諸々(もろもろ)の天使と共に御身を讃(たた)えまつらん。
されば我等をして死に至るまで生涯(しょうがい)忠実に主に仕(つか)え、死後天堂(てんどう)において諸天使(しょてんし)諸聖人(しょせいじん)と共に御身(おんみ)を愛し御身(おんみ)に感謝し、御身(おんみ)と共に主を永遠に讃美(さんび)するをうるの最上の幸福をえせしめ給わんとを特に願い奉る。アメン
二 十 三 日
望 徳
(一)望(ぼう)徳(とく)は二つの要素(ようそ)から成りたっている。その第一は人間自身の不完全さで、第二は天主の御慈悲(おんじひ)である。
我等自身の不完全さについては今更(いまさら)、云う必要がないであろう。我等は自分の力(ちから)のみを以てしては、超自然界(ちょうしぜんかい)に何等(なんら)価値ある善業(ぜんぎょう)も出来ない。
イエズス・キリストは葡萄(ぶどう)のたとえを以て之を教え給うた。「我は葡萄(ぶどう)の樹(き)にして汝(なんじ)等(ら)は枝なり。枝が葡萄(ぶどう)の樹(き)に止(とど)まるにあらずば、自(みずか)ら実(み)を結(むす)ぶ事能(あた)わざる如く、汝(なんじ)等(ら)が我に止(とど)まるにあらずば能(あた)わず。我に止(とど)まり、叉,我がこれに止(とど)まる人は、これ多くの実(み)を結(むす)ぶ者なり」(ヨハネ 十五、四、五)ゆえに我等が天主の報(むく)いを得(え)べき善業(ぜんぎょう)を行う為には天主から御聖寵(おめぐみ)を頂かねばならぬのである。
次に天主の御慈悲(おんじひ)について考えれば、天主は我等を愛し給うゆえに、我等を天国に入れ御自分の御側(おそば)において、その光栄と幸福とを与えんと思(おぼ)し召し、其の目的を達する為に、充分(じゅうぶん)の聖寵(せいちょう)を我等に与え給うのである。
望(ぼう)徳(とく)の根本(こんぽん)は、キリストの御苦難(ごくなん)の功徳(くどく)である。キリストは「汝等,我が名によりて、何を求むるも父が汝(なんじ)等(ら)に之を賜(たま)わん為なり」と仰せられたがその聖名(みな)によりて願うとは、即ち主の御苦難を天主に献げその御功徳を厚く信頼するという意味に他ならない。
「願えよ、さらば与えられん」との御約束を以て天主は我等の心の中に信頼を起(お)こし給うた。愛に充(み)ち溢(あふ)れ給う天主は、謙遜(けんそん)をもって近づかんとする者は、決して捨て給わない。
叉、その願いをも、こばみ給わず喜んで迎え給うのである。
〔二〕我等の望(ぼう)徳(とく)は天主の大いなる喜びとなるのである。即ち信頼を以て近づき、天主がわれらの愛する父なる事を確信するは、天主の御栄(みさかえ)を増(ま)すことだからである。
聖母マリアがいかに平生(へいぜい)天主に厚い信頼の念を抱(いだ)いておられたかは、その聖女エリザベトを訪問せられた時うたわれた、あの有名なる讃美歌(さんびか)の「我が精神は我が救(すく)い主なる天主によりて、よろこびにたえず。そは御召使(おんめしつか)いの賤(いや)しきをかえりみ給いたればなり」という
御言葉(みことば)を見ても解(わか)るであろう。かくの如く我等も天主を深く信頼すれば、聖母の如く常に、よろこびを以て、この世を渡る事が出来るのである。
我等は臨終(りんじゅう)の時に,悪魔(あくま)の誘(いざな)いがいかにはげしくとも、決して絶望(ぜつぼう)せずに、十字架(じゅうじか)を手に持ち、われらの為に磔(はりつ)けられたまえるキリストの御苦難の功徳(くどく)によりて、必ず地獄(じごく)を免(まぬが)れ、天国に行くことができると確信しなければならない。
○ 聖母の御伝達(おんとりつぎ)によりてわれらの望(ぼう)徳(とく)の増(ま)さんために「めでたし」三度唱(とな)えん。
祈 願 せ ん
主イエズス・キリスト我等、主を離れては何事をもなす能(あた)わざる者なれば、己(おの)が功(いさおし)を恃(たの)むことなく、主の御苦難(ごくなん)の御功徳(ごくどく)によりてのみ救わるることを確信し、主の御慈悲(おんじひ)により、この世に於(お)いては聖寵(せいちょう)を与えられ、來(のちの)世(よ)に於(お)いては、永遠の福(ふく)楽(らく)を授(さず)けらるるよう、聖母の御伝達(おんとりつぎ)によりてひたすら請(こい)願(ねが)い奉(たてまつ)る。
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