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Channel: Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた
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8月のミサ聖祭を天主様に感謝!

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アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 8月11日の主日には、レネー神父様が東京で聖伝のミサを捧げられ、26名の方々がミサ聖祭にあずかるお恵みをいただきました。午後には、聖母の無原罪の御宿りと被昇天の間には密接な関連があることについてお話しくださいました。

 8月18日の主日には、大阪で28名の方々が聖伝のミサにあずかるお恵みをいただきました。午後には、愛する兄弟姉妹の皆様のしもべの司祭叙階20周年を皆様で祝っていただき、感謝でいっぱいです。

 今年の8月は、アジア管区長のクチュール神父様の特別のお計らいと許可で私はポーランドのチェンストホーバに巡礼に参りました。ポーランドの聖ピオ十世会の巡礼団は8月4日からワルシャワを発って歩き始めたのですが、私は10日にこれと合流し、チェンストホーバまで野宿をしながら歩きました。私たち巡礼団は、たとえ時間が掛かっても森の中や畑の中を通って歩き、自然に恵まれとてもすばらしい巡礼でした。空の百万の美しい星の下でずっとテントで寝起きした巡礼者には感服します。私の場合、田舎の農家の方が家のソファの上に寝泊まりすることを許され、その点ではだいぶ助かりました。この巡礼に呼んでくださった聖母マリア様に感謝します。明るい山、ヤスナ・グラの聖母マリア様の元に行き、そのお姿を見たときにはあたかも天国にいるかのようでした。170余名の方々が参加しました。ポーランドの良き多くの友人と知り合うことができて感謝します。また、ポーランド以外のチェコ、ベルギー、フランスなどの巡礼者とも巡り会えて感謝します。
 シュテーリン神父様のお計らいで、予想もしていなかった、コルベ神父様の創立したニエポカラヌフを訪問するお恵みをいただき汚れなき聖母マリア様、インマクラータに感謝します。
 今回の巡礼で、ポーランドのすばらしさについて垣間見ることが出来、天主様に感謝します。

 さて、8月の通常のミッションついて、次のようなご報告をいただきましたので、ご紹介します。

【8月11日の主日の報告】
レネー神父は今日のお説教で、昨日の聖ラウレンツィオの祝日と数日後の聖母
の被昇天の祝日は、カトリック信者にとっての死は勝利への道であることを教
えているというお話をしてくださいました。これに関連して、私たちの死が勝
利への道であるということは個人的経験や感情ではなく客観的な真実であるこ
と、私たちの人生の目的は天国に行くことであること、私たちの霊魂が不死で
あること、私たちを救ってくださる方は主イエズス・キリストのみであるこ
と、そして私たちはキリストとともに苦しみを受けない限り天国には行けない
こと、等を説明してくださいました。

昼食の後の霊的講話では、聖母の無原罪の御宿りと被昇天の間には密接な関連
があることについて様々な面からの説明をしてくださいました。例えば聖母に
は罪がなかったためにその罰としての肉体の亡びがなくその故に被昇天があっ
たこと、無原罪の御宿りは聖母の体が御言葉である主を受け入れるのにふさわ
しくあるためであったばかりではなく、カルワリオでの御受難に聖母が主とと
もに生け贄として参加されるために罪のないものであるべきであったこと、聖
母が生まれながらにして罪がなかったことと同じことは、教会についてはこの
世の終わりに実現されること、など詳しい解説をしていただきました。その
後、晩課を歌ってお別れしました。

ミサの参列者数
男: 9人(内、子供0人)
女: 17人(内、子供0人)
計: 26人(内、子供0人)

霊的講話の参列者数
男: 6人
女: 7人
計: 13人

晩課の参加者数
男: 6人
女: 2人
計: 8人

【報告終わり】

レネー神父様のお説教は次の通りでした。

2013年8月11日 レネー神父説教

親愛なる兄弟の皆さん

 母なる教会は、昨日、殉教者聖ラウレンツィオの祝日を、また木曜日には聖母の被昇天を記念します。
この二つの祝日が私たちに教えてくれることは、真のキリスト教徒、真のカトリック教徒の死は、この世が考えているような敗北ではなく、むしろ勝利への道だということです!お告げの祈りの最後の祈りでは"per passionem et crucem ad gloriam resurrectionis perducamur"、すなわち、「願わくは[キリスト]の御苦難と十字架とによりて、ついに御復活の栄えに達するを得んため」とお祈りするのです。

 私が強調しておきたい第一の点はこれです。これはただ、いい感じがする、苦難を前にした時に慰めになるいい考え方だというだけではありません。これは客観的な真実だということです。先日私はインドのカトリック神学校の神学生が世界、特にインド国内におけるプロテスタント教会の広がりについて書いた論文を読んでいました。そこではこの神学生が、インドの人々を引きつけているのは「神の経験」とされるようなものであると指摘していました。そこでこの神学生が解決策として同級生に提案していたのは、カトリック教会でも似たような経験を促進してみよう、ということでした。しかし、信仰は個人的経験に基づくと主張する行為は近代主義である、として聖ピオ十世教皇がこれを排斥したという事実を、この神学生は完全に無視してしまっているようです。同様の経験を育んでみるということによって、この神学生は人々を近代主義者にしてしまうことになるのです。

 真のカトリックの立場によれば、信仰は真理に基づいており、知性によって理解されるものであって、通常、感情や情緒のレベルで語られる「個人的経験」に基づいているのではありません。カトリックの信仰は真理に基づいていますから、「個人的=自分に限られた」ものではありません。カトリックの信仰は、一方では、私は信じるから私のものですが、他方、私のものではないとも言えます。それは、信仰の真理は私によっているのではありませんし、真理は天から来るものですし、客観的な方法で確認できるものですし、全ての人の知性に合わされたもの、奇蹟や預言によって保証されたものであるからです。カトリックの信仰は天主の客観的な啓示に対する私たちの答えである、ということは既に何度もお話しいたしました。天主が奇蹟や預言というしるしによってこの啓示に謂わば署名されたことによって、私たちはこれが真に天主の啓示されたことであるということを知っています。この保証は「個人的経験」ではなく、客観的なものです。ルルドでは多くの奇蹟が起こり、ファチマでは1917年6月13日に予言された奇蹟が4ヵ月後の1917年10月13日に起こったことを知っています。私がその場にいる必要はありません。これらの出来事は十分に文書として記録されています。これらの奇蹟は、旧約聖書の預言、キリストの数多くの奇蹟、教会の歴史上の全ての聖人達の数多くの奇蹟とともに、私の知性のためだけにではなく、正直な考えを持った全ての人の知性に対して、カトリックの宗教が真実であることの十分な証明となっています。そして、私がそれについて何かを「感じる」か否か、には関わりありません。時には、人は反対の感情を持つことがあるかもしれません。例えば、教会に来ることがおそろしい、「好んでいる罪」を捨てることがおそろしい、正しくない関係や慣習をやめることがおそろしい、などです。しかし、真実は存在します。もし私が真実に対して知的に正直になりたいなら、私は真実を認めなくてはなりません。

 現在多くの近代主義者達は、誰もが自分独自の信仰を持ってよい、と考えています。その人が自分独自の信仰についていい感じがする限り、その人にとってはそれが良いものであり、私たちの主イエズス・キリストに改宗する必要はないとするのです。このような考え方によるならば、感情が支配的なものとなり、知性は完全に忘れ去られてしまいます。たとえば、カトリックの教理は唯一の真なる天主には三つのペルソナがあるとしており、イスラム教がこれを否定していることを見れば、全ての宗教が同時に正しいということは全くあり得ないことです。天主は至高の知性であって、純粋に霊であり、「礼拝者も、霊と真理とをもって礼拝しなければならない」(ヨハネ4章24節)。天主は私たちに知性、天主を知ることを可能とする知性をくださったのですから、私たちが真理において天主を知るか、あるいは天主に関する誤りにだまされるかについて無関心でおられる筈はありません。天主は至高の真理であり、天主は真理を愛しておられますから、「すべての人が救われて、真理を深く知ることをのぞまれる。」(ティモテオへの前の手紙2章4節)言い換えると、人は救われる為には、真理を知ることが必要なのです。

 そうすると、真の信仰には「神の経験」のようなものは存在しないのでしょうか?実際、教会は伝統的には「神の経験」ではなく、「霊的な慰め」と呼んでいます。真に天主は、とりわけ霊的な生活の初めに、私たちを正しい方向に導くために、霊的な慰めを与えてくださることがあります。私たちの主イエズス・キリストを見いだしたとき、しばしば大きな喜びがありますが、これは天主から来るものです。しかし、このような自分自身の感情に頼ることは大きく間違っています。このような感情は、悪魔が人々を騙すために真似たものであることがあります。(これは自分自身を過信したことへの罰であるかもしれません。)またしばしば、喜びの本当の原因を見極めることは簡単ではありません。プロテスタントの教会では、人々は真理と一緒に誤りをも受け入れてしまいます。カトリック教会の聖人達は、私たちが自分自身の判断や感情を信じることなく、カトリックの教えという客観的真理に従うことを勧めています。これが、聖人達のほとんどが霊的指導者を持っていた理由です。多くの聖人は宗教生活を選びましたが、それは上長の指導の下にいるためであり、その訳は自分自身の判断力を信じなかったからです。これに対してプロテスタント主義の根源は私的判断にあります。このため、あらゆる種類の誤りに陥ってしまいます。

 元の目的である聖人の祝日に戻りましょう。聖ラウレンツィオ、そしてだれよりも聖母は、私たちの人生の目的を教えてくださいます。それは天国です。この偉大なる真実には見える側、すなわち自然的な側面があり、それは(カトリックではない人々を含め)全ての人が見ることのできるものです。それは、私たちのこの地上における人生は死によって終わるということです!この第一の真実は、過ぎ去る事物に執着する全ての人々への警告であるとともに、地上の物事、権力、富、快楽が空虚と虚栄であることを私たち全員に教えてくれるものです。全ての物事は過ぎ去ってしまい、私たちもこの世から過ぎ去ってしまうのです!私たちがこのように過ぎ去る物事に執着するならば、私たちの喜びもそれらの物事と一緒に過ぎ去ってしまいます。私たちが永遠の善に執着するならば、私たちの喜びも永遠のものです。

 私たちの人生の目的に関する真理には、自然のレベルですが、見えない、もう一つの側面があります。私たちの霊魂は不死であることです。その意味は、私たちの霊魂は、それが霊的なものであるが故に、私たちの肉体の死によっては破壊されることなく存在し続け、永遠に存在してゆくということです。霊魂が霊的であるということは自然的な真実、すなわち私たちの理性という自然の光によって証明することのできる真実です。

 私たちが思考するとき、私たちはイメージと考えの両方を使っています。イメージは特定のもので、考えは一般的なものです。例えば、あらゆる三角形の内角の和が180度ということを証明するとき、紙(またはホワイトボード)に一つのイメージを書いて証明を行ないます。最後にこれは全ての三角形に当てはまる、と結論づけます。もし自分の書いた一つのイメージについてのみ論じたのであれば、どうしてそのような一般的な結論を出せるのでしょうか?それは、その特定のイメージについてではなく、三角形という一般的な考えについて論じたからです。ですからその結論は正しいのです。人は知性という光によって、特定のイメージから一般的な考えを引き出し、与えられた特定の感覚によって、特定のイメージの中に一般的な考えを見るのです。人間の考えは一般的なものです。ところで、全ての物質的なものは特定のものであって、一般的なものではありません。そのため、人間の考えは物質的なものではなく、霊的なものです。考えは非物質的なものですから、そのような考えを創り出す機能はそれより低いことはなく、この機能も霊的レベルになくてはなりません。この機能こそが知性であって、脳ではありません。脳はイメージを創り出すので、イメージは脳にあります。しかし知性は脳ではありません。脳は物質的なもので、知性は霊的な機能です。したがって、このような機能を持っている霊魂はそれ自体霊的なものであって、その存在を物質や身体に依存していません。よって霊魂は不死なのです。

 私たちの霊魂は不死ですから、その目的は地上の物事に限定されているのではありません。地上の物事は全て過ぎ去ってしまい、私たちの霊的な霊魂の広大な力を満たすことができないからです。これを満たすことができるのは天主のみです。聖アウグスティノの美しい言葉でいえば、「御身は御身の為に我々を造りたもうた、おお主よ。御身に安らぐまで我々の心には安らぎがない!」

 実際これが私たちの人生の目的の第三の側面、すなわち超自然的側面です。私たちは啓示によって次のことを知っています。「神はおん独子をお与えになるほど、この世を愛された。それは、かれを信じる人々がみな亡びることなく、永遠の命をうけるためである。神がみ子を世におくられたのは、世をさばくためではなくて、それによって世を救うためである。」(ヨハネ3章16-17節)永遠に生きることを望まない人がいるでしょうか?私たちは永遠の命を私たちの主イエズス・キリストに、そしてイエズス・キリストにのみ、見いだすことができます。イエズス・キリストは私たちの救い主であり、私たちを罪と、罪から流れ出る全ての悪から最終的に救ってくださる方であって、イエズス・キリスト以外に救い主はいないのです。

 私たちは啓示によって次のことも知っています。「かんがえよ、私たちは神の子と称されるほど、おん父から、はかりがたい愛を与えられた。私たちは神の子である。この世が私たちを認めないのは、おん父を認めないからである。愛するものたちよ、私たちはいま、神の子である。のちにどうなるかは、まだあらわれていないが、それがあらわれるとき、私たちは神に似たものになることを知っている。私たちはかれをそのまま見るであろうから。主が清いお方であるように、主にたいするこの希望をもつ者は清くなる。」(ヨハネの第一の手紙3章1-3節)

 聖人達の祝日を祝うために、聖ラウレンツィオ、そしてとりわけ聖母は私たちの目を挙げ、私たちの霊魂の目である知性を、天主における永遠の生活を黙想するよう仕向けてくださいます。そこでは、聖人達は崇高の善、無限の善、不変の善、善そのものである父と子と聖霊との交わりの内に永遠に喜んでいるのです。「そこで私たちはみなおおいを顔に垂れず、鏡にうつすように、主の光栄をうつし、霊なる主によってますます光栄を増すその同じすがたに変わる。」(コリント人への後の手紙3章18節)徳には報いがあるのです!信徳には報いがあるのです!「自分をすて、自分の十字架をになって、[キリスト]に従」(マテオ16章24節)うことを忠実に行なう人には報いがあるのです。

 親愛なる兄弟の皆さん、聖人達の栄光を黙想するとき、聖人達の後に続く決心をしなければなりません、それも中途半端な態度ではなく熱心さをもって、躊躇するのではなく、この道こそが永遠の命、永遠の喜びにつながる道であって、私たちのなし得る全ての努力が報われるという、唯一の正しい信仰に基づいた確信をもって従う決心です!「主が清いお方であるように、主にたいするこの希望をもつ者は清くなる。」(ヨハネの第一の手紙3章3節)しかしこの努力自体も私たちをいつも助けてくださる天主の贈り物なのです。この助けをもってすれば、私たちが失敗することはあり得ません。ですから、私たちは信頼して進みましょう。

 最後に指摘しておきたいのは、私たち自身を聖化する行いは御聖体と密接な結びつきがあるということです。聖ラウレンツィオの例をご覧ください。聖ラウレンツィオは聖シクスト二世教皇の助祭でした。聖シクスト二世教皇が殉教の場所に引かれてゆくとき、聖ラウレンツィオは言いました。どちらにいらっしゃるのですか、おお大司祭よ、あなたの助祭を置いて?ミサの犠牲を捧げるときは、いつもあなたの助祭と一緒であったことを思い出してください、と。8月6日に殉教した聖シクスト二世教皇は、聖ラウレンツィオに対して、彼も数日後にもっと輝かしい殉教をもって続くであろうと言いましたが、実際その通りとなりました。この聖人達が自らの命をキリストのために捧げる力を得たのは御聖体からです。キリストは彼らの為に死に、彼らは天主の子羊、十字架の生け贄の肉を何度も食べたのです。今度は彼らが天主の子羊と共に子羊となり、キリストと共に一つの生け贄となる時であったのです。聖人達にはその準備ができていました。また更に、聖母マリアは天に挙げられましたが、聖母がキリストに従って天国にまで行ったのは、聖母がまずキリストに従ってカルワリオの山に行ったからです。キリストは、「『私は地上からあげられて、すべての人を、私のもとに引きよせる』とおおせられた。(それから、ご自分が、どんな死に方をするかを、お示しになった。)」(ヨハネ12章32-33節)キリストに従って天国に行きたい人は沢山いますが、キリストに従ってカルワリオに行きたい人は少ないのです。けれども、私たちがキリストの御受難に加わらない限り、キリストの栄光には加われません。聖パウロは明確に言っています。「私たちが神の子である…。私たちが神の子であるのなら、世つぎでもある。キリストとともに光栄をうけるために、その苦しみをともに受けるなら、私たちは、神の世つぎであって、キリストとともに世つぎである。今の時の苦しみは、私たちにおいてあらわれるであろう光栄とは比較にならないと思う。」(ローマ人への手紙8章16-18節)

 全てのミサにおいて天主の生け贄とともに私たち自身をお捧げすることを習慣としましょう。そうすることによって、いつの日かキリストの為に私たちの命をお捧げする準備ができていますように、そして聖母と全ての聖人達とともに天主の御国に永遠に住まわせて頂けますように。アーメン。


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