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Channel: Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた
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「マリア様の汚れ無き御心はエデンの園である」ことの意味について

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2016年8月22日(月)に大阪で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


2016年8月22日(月)聖母マリアの汚れ無き御心の大祝日のミサ
小野田神父説教
聖母の汚れ無き御心聖堂にようこそ、歓迎致します。

今日は2016年8月22日、聖母の汚れ無き御心の大祝日、日本の主要の第1の守護者の保護の祝日であり、私たちの聖堂の守護の聖人、マリア様の特別の日です。

日本の公教会の希望に従ってその指導に従って、ミサの後に司祭の退場の前に、「日本を聖母の汚れ無き御心に捧げる祈り」をマリア様の連祷と共に捧げます。

本来私の予定には、アジア管区長の命令にご希望に従って予定が組み込まれていて、そして残念ながらこの御聖堂ではミサができない予定だったのですけれども、しかしマリア様が、ご自分の御心に捧げられたこの御聖堂が今年出来て、私の記憶が正しければ、ファチマの聖母のご出現の祝日に出来た。どうしてもマリア様は、ご自分の御聖堂でこのミサを捧げるようにお望みになりました。

私はフィリピンに行く飛行機がキャンセルされて無くなりまして、明日東京でミサを捧げる祭壇も無く、路頭に迷っていたところでした。マリア様の計らいでとても良いインスピレーションを私たちに下さって、「御ミサが、ここで御ミサができる」という事を思いつかせて下さいました。

本当にマリア様がどれほど私たちを、この御聖堂を、愛していて気に入って下さっていて、そのここでのミサを非常に快く思って下さっているか、という事の証拠だと思っています。

全てがうまくいって、マリア様のお望みの通り、新幹線も1分の狂いもなく私をここに運んできて、飛行機会社の方も非常に親切に、問題なく関空から明日出る事ができるように、「汽車賃は出ませんけれども、でもどうぞ関空からお越し下さい」と言いました。本当にマリア様の御計らいで、マリア様の聖なる望みが、「ここで、今日、皆さんと一緒にミサをする事だ」という事が明らかに分かりました。その今日のミサの前にもロザリオも5連唱えて、そしてマリア様の、公教会をマリア様に捧げる事ができる聖務日課と晩課も歌う事ができて、本当に喜びに満ちています。

今日のこの御ミサは2回目のミサですので、特別に皆さんの意向の為に、一人ひとりの為に、そして日本の為に、この御聖堂の為に、特別に捧げられています、心を合わせて下さい。このお知らせが長くなりましたけれども、お説教も少しだけする事をお許し下さい。

「そして主は、自分の母に向かって言った、『女よ、汝の子を見よ。』
そして弟子に向かって、『汝の母を見よ。』」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、姉妹の皆さん、今日はマリア様の汚れ無き御心の大祝日です。マリア様の汚れ無き御心について、その最も専門家である聖ヨハネ・ユードは色々言っています。「マリア様の心は、それは青空大空、私たちの遥かに上にある天のようだ」ともいっています。

ヨハネ・ユードは或いは、「マリア様の心は薔薇に囲まれた白い百合のようだ。いくらこの世の薔薇があざみが生えていても、全く傷の無いすらりと咲く百合のようだ。」

或いは、「マリア様の心は太陽のようだ。」「マリア様の心は地球の中心のようだ。」「マリア様の心は大海原のようだ」などと言っています。

そのヨハネ・ユードは、「マリア様の心は実は、旧約聖書のエデンの園だ。エデンの園において、アダムが置かれたエデンの園は、実はマリア様の前兆であってその象りである」という話をしています。実はこれについて、グリニョン・ド・モンフォールも同じ事を言うのです。

そこで今日は皆さんに、このマリア様の汚れ無き御心の聖堂にいる私たち、この中に入った私たちは、マリア様のこの中に入って御心の中に入る事ができるように、では何故ヨハネ・ユードは、「マリア様の御心がエデンの園だ」と言ったのか、エデンの園とは何なのか?これを黙想しましょう。

第2に、ヨハネ・ユードではなく、今度はグリニョン・ド・モンフォールが、「マリア様はエデン園だ」と言ったのは、何故だったのか?

最後に、私たちはその今日それについて黙想の結果、遷善の決心を立てる事に致しましょう。マリア様の御心の中に入って、いつもマリア様の内にいる、という事はどういう事か。

では第1に、「マリア様の御心はエデンの園だ」と言った聖ヨハネ・ユードは、色々な理由からそうだ、と言うのです。

まず1つに、「名前がそうだ」と言います。何故かというと、名前は創世記の第2章には、「Locus voluptatis」とか「Paradisus voluptatis」という風に言われていて、『喜びの場所』『喜びの楽園』と名前が付けられたのです。「エデンの楽園」という名前はラテン語では、『喜びの場所』になっています。

それはどういう事かというと、「第1のアダムは、その場所に於いて喜びを見出した。そしてもしも天主の御旨に背かなければ、そのままずっとその喜びを味わい続ける。そして永遠の命まで繋がる喜びの場所だった。でもアダムは残念ながらそれを、天主の計画を壊してしまった。そこでその罪を償う為にも、またこのアダムとアダムの置かれたこの喜びの場所は楽園は、実は、来たるべき第2のアダムが、その内に於いて造られるべき本当の喜びの場所であった。何故かというと、マリア様こそがイエズス・キリストの喜びと愛の対象であって、天主聖父を除いてマリア様ほど、イエズス様はその愛した方がおられずに、イエズス様はマリア様こそを誉め讃えて尊敬して、そしてマリア様に於いて喜びを味わっていた」から。「そしてその中にアダムが、第2のアダム、イエズス・キリストが造られた」から。

第2に、ヨハネ・ユードが指摘しているのは、「マリア様がそうであるように、この第1の地上の楽園は閉じられた庭であった。マリア様も閉じられた庭であった。何故かというと罪を知らなかったから。罪と悪魔を知らずにいつも閉じられていたから。マリア様が知っていたのは、天主イエズス・キリストだけであったから。」

第3にヨハネ・ユードは、「第1の楽園には3つのものがあった。1つは命の木、命の実の成る木。第2は善と悪の知識の実の成る木。第3はその他色々の美しい木々があった。第1のアダムは天主の御旨に反して、善と悪の知識の実を食べてしまった。」「しかし第2の楽園であるエヴァは、エヴァの中にもその中に、命の木がある。それが十字架の木であって、イエズス・キリストの成る木であって、そして更に善と悪の知識の実の木もある。何故かというとマリア様は、天主のお望みの通り、天主が見る通り、天主が理解する通りに『罪とは何か』という事を知っていたので、罪を非常に、天主が憎むと同じように憎む事ができた。また善を天主の観点から、天主を愛する観点から見ていたので、全てに越えて善を愛していた。天主が理解すると同じような理解を、マリア様は善と悪に対して知っていたので、マリア様こそ本当の意味で善悪を知る事ができた。しかもマリア様は、天主の御旨に従ってこれを知っていた。だからマリア様には悪に対する絶対的な敵対があって、憎しみがあって、悪を絶対に受け入れなかった。」「マリア様という楽園にはそれだけでなく、イエズス・キリストの命の木と、天主に対する愛の、そして罪に対する憎しみのその知識のみならず、謙遜、貞潔、忍耐、憐れみ、正義、親切、その他全ての色々な善徳の木が美しく輝いていた。」

聖ヨハネ・ユードはその他色々な事を挙げて、「マリア様こそ実は第2のエデンの庭であって、イエズス・キリストがその中で造られるべき庭であった」と言います。


第2のポイントでは、ではグリニョン・ド・モンフォールは何と言ったのか?やはりグリニョン・ド・モンフォールも同じ事を言います、「マリア様は第2のエデンの楽園であって、イエズス・キリストがその中で喜びとする、閉じられた秘密の庭であって、これは選ばれた、聖霊によって選ばれた者たちだけが、特別のお恵みを受けた者たちだけがその中に入る事ができる。だからマリア様のその汚れ無き御心は、罪の無い汚れの全くの無い御心であって、マリア様の中に入る者は罪を犯さなくなる。だから、『私を飲む者はますます渇き、私を食べる者はますます食べたくなる。そして私を知る者は罪を犯さない』と知恵の書で今日言われている通りだ。地上の食べ物は、地上の楽しみは、地上のどのようなものも、食べ過ぎればもうお腹がいっぱいになって食べるのも嫌になるし、飲み物もどんなにおいしい飲み物も飲み過ぎればもうゲブゲブするし、どんなに楽しいお友達とのどんなに楽しい夕べもそれが終わってみると孤独だったり、夜遅くなって疲れて、そして本当の、本当の喜びというのは無かったりよくします。しかしマリア様を知る者は、マリア様と共にいる者は、『ますますマリア様の事を知りたい、マリア様を愛したい。マリア様を味わって、更に味わって、更に味わいたい』となり、そしてそのような人たちは罪を知る事が無くなる。」だから聖グリニョン・ド・モンフォールは私たちに、「マリア様を通して、マリア様と共に、マリア様において、マリア様の為に全てをする事」を教えています。

「マリア様を通してする」という事は、「マリア様の御旨は何なのか。マリア様のお望みは何なのか。マリア様のご計画は何なのか」という事を考える事です。「マリア様のなさりますように私もしたい。」

「マリア様と共に」というのは、「マリア様がなさるように、マリア様が行動されるように、マリア様が内的にどのように心持ちになったか、それを共に私たちも真似する」という事です。

「マリア様において」という事は、グリニョン・ド・モンフォールによれば、「その第2の楽園であるマリア様の中に入って、ますます罪を犯さなくなるという事だ」と言います。

そして「全てをマリア様の為にする」と言います。何故でしょうか?マリア様の中に入れば入るほど、全て私たちはイエズス・キリストのお望みのままに、御旨のままに、イエズス・キリストと共に、全てをイエズス・キリストの為にする事ができるからです。「イエズス・キリストの御国が来たらん事を。イエズス様の支配が、愛の支配が、私たちに染み通りますように。」それをマリア様が助けてくれるからです。

では今日は遷善の決心を、マリア様の御助けによってますますマリア様の中に、マリア様の汚れ無き御心の中に入る事に致しましょう。私たちはいつもこの御聖堂の中でミサをしていますから、マリア様の御心の、汚れ無い御心の中に入って、罪を知らない、イエズス様をのみ愛する事ができますように、私たちもマリア様の汚れ無き御心に全てを奉献する事に致しましょう。日本と私たちの兄弟姉妹たちを全て奉献する事に致しましょう。そして遂に、マリア様の御恵みによって特別のお恵みが、回心のお恵みが、イエズス・キリストをますます愛するお恵みを、イエズス様の御国が発展するお恵みが来ますように、私たちの心と日本に来ますように。遂に私たちはこの地上のマリア様の汚れ無き御心から、天国の御心の中に入って、永遠に永久にマリア様を讃美して、私たちの母、女王であるマリア様のお傍に永遠に、幸せに、過ごす事ができますようにお祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


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