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Channel: Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた
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2016年9月30-10日3日の聖伝のミサの報告:聖ピオ十世会 SSPX JAPAN Latin Traditional Mass

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

9月30日の金曜日と10月1日の初土曜日には大阪で、
10月2日には、東京で聖伝のミサを捧げることが出来ました!天主様に感謝!

大阪では、今月はスケジュールの都合で、初金のミサを捧げることが出来なかったので、初土のミサの直後に聖体降福式を行いました。初土の信心も行うことができました。聖堂はますます美しくなっているので、御聖体礼拝もますます心がこもりました。

大阪では、金曜日のミサの後には、ティシエ・ド・マルレ司教様の来日の時から始まった終課をグレゴリオ聖歌に従って皆で歌いました。この美しいメロディーに心は天まであげられたようでした。
金曜日は、聖エロニモの祝日でしたので、聖エロニモの生涯とその業績を黙想しました。この黙想を準備するに当たって、いろいろ読みました。特に、ベネディクト十六世が2007年11月7日と、11月14日の二回に分けてした聖エロニモの講話が良くまとまっていて興味深く読みました。


東京では、46名の兄弟姉妹の方々が聖伝のミサに与ることが出来ました。嬉しいことに赤ちゃんの数も多くなり、ますます教会らしくなっています。
主日のお説教では、奉献文の Super flumina Babylonis illic sedimus et flevimus, cum recordaremur Sion.
「バビロンの川のほとり、そこに私たちは坐って涙した、シオンを思い出しながら」を黙想することを提案しました。
シオンは天国のことを象徴していますが、特にシオンにあるエルサレムの神殿への熱い思いがこもっています。
「バビロンの川のほとり、そこに私たちは坐って涙した、シオンを思い出しながら」を黙想することを提案しました。
「日本の大都会のど真ん中、あっという間に過ぎ去る流行と時間の川のほとりに、私たちは座ってうずくまり涙した、天国を思い出しながら」と。

この世の中で、日本の中で、霊魂が死に瀕しても、聖伝のミサでイエズス様と出会うことによって、癒やされますように! ミサ聖祭の中では、イエズス様は本当に私たちのもとに来て下さるのですから!
ミサ聖祭に与れない日々は、私たちがいつもイエズス様と出会うことが出来るミサ聖祭に熱い思いを寄せることが出来ますように!
「コンピュータと仕事の中、あっという間に過ぎ去る時間という川のほとりに、ロザリオを握りながら私たちは座って涙した、聖伝のミサを思い出しながら」と。


今月の10日から15日まで、フィリピンでは毎年恒例の司祭黙想会があります。これは教会法によって定められているもので、必ず行わなければなりません。良き黙想会のために、愛する兄弟姉妹の皆様のたくさんのロザリオをお願いいたします。

聖伝のミサのご報告を紹介いたします。

【報告】【大阪】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

10月の最初の御ミサの報告をお送りいたします。

9月30日(金) 司教教会博士聖イエロニモ のミサには14名が、
10月1日(初土) 聖母の汚れなき御心の随意ミサには 18名の方々が御ミサに与るお恵みを頂きました。デオグラチアス!

教会博士聖イエロニモ(347~420年)の御ミサでのお説教で、ラテン教会四大教父の一人である聖イエロニモが教会に残した偉大な功績について知る事が出来ました。聖イエロニモの取次ぎによって、私ももっと聖書を愛し、行動できるようになりたいと思いました。

主な功績は
①旧約聖書 ヘブライ語からラテン語に翻訳
 新約聖書 ギリシャ語からラテン語に翻訳されていたものを訂正、修正、注解書を書いた。
②キリスト教古典文学を確立 (聖人伝、手紙、異端への反駁など)
③聖務日課を毎日誦える事、ミサ中にアレルヤを取り入れた。
④ベトレヘムにラテン教会では初めて男子修道会、女子修道会、巡礼者施設を作った。

名言(!?)の一部
「聖書の言葉の順序さえも神秘であり、意味がある」
「ユダが天主に失望した罪は、裏切りよりも大きな罪であった。」
「娘さんが毎日聖書の一節をよんで勉強するよう教育しなさい。祈ってから読み、読んでからまた祈りなさい。」
「宝石よりも聖書を愛するように教育しなさい。」
「聖書を愛するなら、悪徳を愛する事は決して無い。」
「福音は私達の愛徳の行動によって翻訳されなければならない。」
「聖人たちを崇敬することは、聖人たちがそのために死んでいった天主を礼拝することである。」
「司祭はそのお説教のとおりに生きなければならない。」
「両親は言葉より、模範によって子を教育しなさい。」※耳が痛いです
「私は聖ペトロの座との交わりを大切にしています。なぜなら教会の外に救いはないからです。」
 ※最後のは、ルフェーブル大司教様も全く同じ事を仰っていたように思います。

教会の初期の時代から、聖イエロニモはマリア様対する大きな愛を持っておられたと最後にお聞きしました。
聖書のプロフェッショナルが、どのようにマリア様について知り、愛しておられたのか、いつか機会があれば教えて頂きたいです。

聖イエロニモのミサの後、終課を唱えました。夜の静寂の中に響く終課の美しいメロディーにうっとりしてしまい、日本語訳を読み損ねてしまいました。(>_<)
聖務日課を毎日祈るようにして下さった聖イエロニモ様にも感謝しました。


初土曜日の聖母の汚れなき御心の随意ミサでは、ミサの昇階唱とアレルヤについて黙想しました。
マリア様の御心の歌、「マニフィカト」で、マリア様の精神が何に喜び躍ったのかが、追放された高山右近や、外国に拉致された人質の例などを聞いてよく理解できました。

また、ファチマのルチアのいう、私たちに残された最後の救霊の二つの手段、
『ロザリオ』と、『聖母の汚れなき御心への信心』をイエズス様をお慰めし、お喜ばせるためにも聖ピオ十世会のロザリオ十字軍を本気で頑張らなければと思いました。

ミサの後、御聖体降福式があり、御聖体の前で初土曜の信心の一つである、ロザリオの玄義の黙想を出来た事が嬉しかったです。
イエズス様が貧しい汚れなき御心聖堂で、汚れなき御心への信心をする貧しい私たちの事を喜んでご覧になって下さったように感じました。

【報告】【大阪】
金曜日と初土曜日の大阪での尊い御ミサと司牧のミッションをありがとうございました。
10月の初金曜日のかわりに、初土曜日に御聖体降福式をしてくださり、御聖体にまします天主イエズス様に
礼拝と愛と祈りと感謝を捧げることができました。また人類の忘恩をお詫びし償う祈りをお捧げすることができました。

御ミサでの所感を申し上げますと、

まず、この初土曜日のお説教で、マニフィカトでうたわれる、マリア様の喜びについての黙想が心に残りました。
それはご託身の奥義からくる、計り知れない御恵みへの喜びであった。すなわち、天主ご自身である救い主がご自分の胎内で生まれるのを待っておられる、救い主の贖いによって、人類は再び天国に帰れることが許されるという巨大な喜びであったこと。
聖霊がマリア様を支えておられなかったら、マリア様は死んでしまうほどの恩寵に対する喜びであったということです。
この世が決して与えることができない幸福、財産に対する喜びを、聖霊の浄配であるマリア様は、上智の座であられるマリア様は
はっきりとその価値をご存知になられたのだと思いました。
そして、私や人類はこの世に執着してしまって、永遠の価値の財産を理解せず、目を向けないことか!と思いました。

ファティマのマリア様がルチアに託された、「聖母の汚れ無き御心に対する信心、初土曜日の信心」を考えるときには、いつも
あまりの特典に、呆然となります。
憐れみを与える方から、「どうぞ憐れみを受け取ってください。」とお願いされていることに本当に驚きます。
この世の普通の人間の世界だったら、憐れみを受ける人が憐れみをこい願って、与える人はそれに同意するだけなのに。
天主の御母が、最愛の聖子を引き裂き、頭のてっぺんから、足の裏まで貫き、十字架につけて殺してしまった、
「敵かたき」であった人類の私たちを、ご自分と同じように愛するようにとの遺言に完全に従って、
私たちを子供としてくださったことに、本当に驚きます。自分に置き換えてみても想像することさえできません。

マリア様からの切ないくらいの、最後の切り札に、本来は60数億人の私たち人類は、全員こぞって、「マリア様ありがとうございます。汚れ無き御心に寄りすがります。天主に立ち戻ります。罪とその機会を避けます。」とひざまずかなくてはならないのに、一体どれほどの人がマリア様の汚れ無き御心に逃げ込んでいるだろうかと想像すると、悲しくなり恐ろしくなります。

マリア様の汚れ無き御心の愛の深さ、巨大さを、私は全部理解することはできないですが、
マリア様の御心を思い、マリア様への愛のために、マリア様の切望される罪人の回心、救霊のために、自分をマリア様のインマクラータの道具としてお使いくださるように、改めてお捧げしようと思いました。

聖ヴィアンネ神父様は、強力な2つの手段は「聖母の汚れ無き御心」と「ロザリオ」であるとおっしゃいました。
もうひとつの強力な手段である、ロザリオを熱心に、心から、常にお捧げしようと思いました。

聖母の汚れ無き御心よ、我らのために祈りため。
ロザリオの聖母、我らのために祈りたまえ。


【報告】【東京】
Dear Fr Onoda:

今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 16人(内、子供1人)
女: 30人(内、子供3人)
計: 46人(内、子供4人)


【報告】
+アヴェ・マリア・インマクラータ!

御ミサと公教要理のクラスのレポートをお送りいたします。

・御ミサ
これだ!と分かった点
御ミサの奉献文、詩篇136-1「われらは、バビロンの川岸に坐って、シオンの町、汝を思い出して泣いた。」の意味が、ユダヤがイスラエルとユダヤに分割され、エルサレムの神殿・祖国を対岸のバビロンの川岸から眺め思い出して泣いているということであり、これはこの世に生きる私たちの姿、本当の祖国である天国を追われこの世の捕虜となった私たちの姿と重なっている、ということが分かりました。これが理解できたので、その後の公教要理の時間に教えていただいた聖イエロニモの「聖書は決して古くならない、永遠の御言葉だから。」という言葉もよく理解することができたと思います。

今回よくわからなかった点
日曜の御ミサではなく、3日月曜日の幼きイエズスの聖テレジア様の御ミサの入祭文と昇階誦から質問をしてもよろしいでしょうか・・・
(もし不適切でしたら、申し訳ありません。削除をお願いいたします。)
入祭文と昇階誦に「リバノン」が出てきます。他の日の御ミサでも「義人はリバノン杉のように生える」等とありますが
ただの地名や固有名詞の他に「リバノン」は何を意味するとされているのでしょうか。
聖書では地名やその他の固有名詞にもそ、ただその物を指すそれ以上の意味があるので「リバノン」とは何を指すのか、どんな意味なのか疑問に思いました。

今回のお説教では、神父様が「ミサは天国のイメージ、ミサの犠牲は天国のイメージです。」と仰ったことが印象的でした。御ミサにますます大切に与らねばと思います。


・公教要理
今回の公教養理の時間は、「聖書について」ということで、
つい先日(9/30)、その祝日であった聖イエロニモ様の生涯について学びました。
聖イエロニモ様は、聖ダマソ教皇様の依頼で383年頃から亡くなる直前までかかって聖書をラテン語へ翻訳しました。病に苦しみつつも、勉強は怠らず90歳の高齢で帰天なさるまで教皇様の命令、教会の命令、天主様の命令に忠実に止まって自らの仕事を成し遂げられたのだと思います。帰天なさる時のお気持ちは、シメオン様の「主よ、今こそあなたのしもべを安らかに死なせたまえ。」と同じだったのではないか、と想像致しました。ヒエロニモ様のおかげで今私たちも正しい聖書を読むことができます、デオグラチアス!

神父様から教えていただいたイエロニモ様が仰った
「聖書は決して古くならない、永遠の御言葉だから。」
「聖書と聖伝の二つが大切である。」
「司祭は真の愛徳の態度で、聖書を翻訳しなさい。」という言葉にはとても感銘を受けました!!
聖書は決して古くならないけれど、正しい解釈のためには聖伝の信仰と聖霊の導きが必要不可欠で、そして、その信仰と聖霊の賜物を与えるためには司祭が必要不可欠であり、その司祭の養成のためには聖書と聖伝が必要不可欠であり・・・と、真の司祭、聖書、聖伝とカトリック教会の欠くことのできない重要な要素について仰っていらっしゃると思ったからです。

今回の公教要理の時間は1人の聖人の方について様々なお話を聞くことができ、とても興味深いと同時に有意義な時間でした! 要理のお話も聖書のお話も伺いたいですが、今回のように聖人のお話を伺うこともとても素晴らしかったです。
聖ベルナルドや聖グリニョン・ド・モンフォールなどのマリア様について深く研究した聖人方、また、聖ドミニコや聖シモン・ストックなどのマリア様から特別の使命を託された聖人方の生涯についても伺いたいな、と思いました。

神父様は司祭黙想会に参加なさるとのこと、とても嬉しいです。
毎日休まず色々な仕事をなさって世界を駆け巡っていらっしゃると思うので、静かに霊魂を天主様に挙げられるというのは貴重な時間ではないかな、と思います。良い黙想会となりますよう、ロザリオのお祈りでマリア様と共にお祈りしております!
+In Mary Immaculate


【お返事】
旧約聖書には、レバノンという地名が良く出てきます。Vigouroux 編の Dictionnaire de la Bible によると、旧約聖書では60回以上出てきますが、新約聖書には一度も出てきません。レバノンとは、ヘブライ語で「白い山」、モンブラン、という意味です。山の岩の白い美しさとその栄光で有名で、レバノンの杉は有名です。レバノンの杉の木はレバノンの国旗にも書かれています。
幼きイエズスの聖テレジアの祝日の入祭唱:Veni de Libano, sponsa mea, veni de Libano, veni: vulnerasti cor meum, soror mea sponsa, vulnerasti cor meum. (レバノンから来なさい、わが花嫁よ、レバノンから来なさい、お出でなさい。あなたはわが心を傷つけた、わが妹よ、わが花嫁よ、あなたはわが心に傷を付けてしまった。)は、美しく高くそびえるところから私のところに来て欲しい、あなたは美しく、いとおしい。私のこころは傷つけられたように、あなたに恋い焦がれている、という意味で、イエズス・キリストが聖テレジアに対して言っている言葉として使われています。
全体を見ると分かるように、レバノンは、美と優雅さと栄光の象徴・代名詞になっています。



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