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Channel: Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた
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「チェザルのものはチェザルに、天主のものは天主に返せ。」とはどういうことか?

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2016年10月16日(主日)に東京で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


2016年10月16日 聖霊降臨後第22主日
小野田神父 説教

日本の聖なる殉教者巡回教会にようこそ。

今日は2016年10月16日、聖霊降臨後第22主日のミサをしております。今日は奇しくも、聖マキシミリアノ・コルベ神父様がローマで無原罪の聖母の騎士を創立して99周年の日で、創立の日でもあります。

今日いつものように14時30分から公教要理の勉強があります。
前回は聖書について、特に聖ヒエロニモの業績について黙想しましたが、今日は10月13日のすぐ次の主日ですので、ファチマのマリア様について、99年前に一体どんな事が起こったのか、という事を一緒に黙想していきたいと思っています。

16時からは主日の第2晩課があります。明日も7時からいつものようにミサがあります。

11月は第1・第2・第3と、3週主日を連続でミサがある予定です。どうぞいらして下さい。

来年ファチマに巡礼に行く予定です。締め切りがシンガポールの方に、締め切りは11月30日までに、申し込みのお金500シンガポールドルとパスポートの写しを送らなければならないので、ファチマにローマに行こうという方はぜひ早めに仰って下さればと思います。



“Reddite ergo quae sunt Caesaris Caesari, et quae sunt Dei Deo.”
「チェザルのものはチェザルに、天主のものは天主に返せ。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日私たちの主は、ファリザイ人から試みを受けて、「ユダヤ人はローマに従うべきか、従順であるべきだろうか?それともローマには異教の権威だから従わずに反乱するべきかどうか?」という事を試されました。

そしてお答えになったのが、この有名な、「チェザルのものはチェザルに返し、天主のものは天主に返せ」でした。ここに、「私たちが従順というものはどこに通ずるのか」という本質が隠されています、述べられています。

そこで今日提案したいのは、この「チェザルのものはチェザルに返す」という事はどういう事なのか?

そして第2に、「天主のものを天主に返す」とはどういう事なのか?です。
実は、今日のミサを見ると、むしろ強調は「天主のものは天主に返す。」その返したいその為に、その為の祈りがミサの全てに込められたように思われます。そこで天主のものを天主に返すとはどういう事か、という事を黙想して、

最後に、私たちは遷善の決心を立てる事に致しましょう。

第1のポイントです。
では「チェザルのものはチェザルに返す」という事はどういう事なのでしょうか?

これは聖パウロがはっきりと説明しているように、「全ての権威は天主から来る」という事です。全ての権威が天主から来ているのであって、天主から来ない権威は全くないが故に、私たちは、私たちの上に立てられた目上に長上に従わなければならない、そしてそれは天主の御旨に非常に適う事である、という事です。何故かというと、天主様は私たちが社会生活を送る事を望み、そしてその社会生活の基礎とする「権威」を与える事を望まれたからです。私たちが権威に従うという事は、天主の御旨であるからです。

ではなぜ私たちは他の人に従わなければならないのでしょうか?何故かというと、人間の本性それだけを見るとその事だけを見ると、実は私たちは人間の本性としては皆同じであって、その数がいくら多かろうが、いくら知恵があろうが、本性の、人間の自然の本性だけを見るならば、誰がその人の上に立つ、その人の下だ、という事は説明がつかないからです。

天主は、人が権威の上に立つようにまず「家庭制度」というものをつくりました。子供がお父さんとお母さんから生まれてきて、子供が家庭の中に生活するというように望まれました。同じく、この家庭が集まって「社会」をつくる事を望まれました。

天主が権威者に権威を与えるが故にこそ、それが天主の御望みで社会生活をする事が御望みであるからこそ、私たちは天主に従うが故に地上の権威に従わなければなりません。

この天主の権威が故に、地上の権威者、それがお父さんやお母さんであったり、或いは学校の先生であったり、或いは町長さんであったり、市長であったり、或いは王様であったり、天皇陛下であったり、大統領であったりしますが、天主様が私たちの意思を1つにまとめて、1つの共通の善の為にまとめる為に、1つに一致させる事を御望みになったが為に、この権威に従う事は天主の聖心に非常に適う事になるのです。

その権威は従って天主の代理者であって、その権威に従う事は私たちはすなわち天主に従う事に繋がるのです。ですから権威者が法律を定める時には、私たちは天主からのものとしてそれに従わなければなりません。もしも国が例えば兵隊に、「この国の為に、守る為に行って戦え」と命令するならば、それにさえも従わなければならない義務が生じます。

しかしこの地上の権威は、天主の代理者であるが故に権威を持つものであるので、もしもそれがあからさまに明らかに天主に反するものであったり、或いはキリストに反するものであったり、或いはイエズス様の立てたカトリック教会の権威と掟に反するものであれば、それは私たちには従う義務がありません。

ですから日本に来たキリシタンたちも同じ事を教えられていました。迫害を受けながら宣教師たちは、「上の命令は天主様の命令だから、それに従うように。例えそれが私たちを迫害するような者からのものであっても、私たちは従わなければなりない。ただしキリストを否む、キリストに逆らう、というような命令にだけは私たちは従う事ができない」と同じ事を教えていました。

つまり、「チェザルのものはチェザルに返せ」という事は、「地上の権威には、天主の権威に従うが為に従いなさい」という事です。それが納税の義務であり、或いは兵役の義務であり、或いは遵法精神であり、全てそうだという事です。

ではその、チェザルものはチェザルに返すその元になった、「天主の権威」というものは何でしょうか?

今日のミサの中心のテーマはここにあります、「天主のものは天主に返す。」つまり私たちは、「私たちの存在、私たちが今こう在る事を、今こう生きて、息を吸って生活している事ができる事、私たちが目をもって、耳をもって、そして鼻で呼吸をして、手で触って、足で歩いて、私たちが全て持っているものは天主から来た。それを私たちは天主に返さなければならない。」

もしも私たちが良い市民である事を命じられているならば、イエズス様が良い日本国民である事を命じておられるならば、更にもっと良き天国の市民である事を命じておられる、という事です。

私たちは天主様から全てを頂き、それは天主の為に頂きました。私たち自身の為に、私たちの自立的な、天主に反する、天主とは関係ない、天主とは全く独立した世界や何かをつくる為ではありません。しかし、こう私たちが天主様から頂いたこの肉体と霊魂、知性と意思、或いは心と精神、私たちの持てる全ての才能と能力、或いは私たちの持つ全ての財産やその友人、家庭、全ては天主様から頂いたものであるにもかかわらず、私たちはそれ一体をどうやって使ってきたでしょうか?天主様の為に全てをお返ししたでしょうか?天主に属するものとしてそれを返したのでしょうか?良き天国の市民だったのでしょうか?

私たちは何か、「そうだ」と言ってしまう事は自分を騙しているという事に気が付いています。

何故かというと、「天主の為に良く時間を使ったのだろうか?良く自分が与えられた才能を使ったのだろうか?」というとそうではなく、他の為に、自分のやりたい、しかし禁じられた事の為に、或いは天主に反する為に、或いは罪を犯す為に使ってしまった、という事が過去あるからです。

ちょうどそこから、今日の入祭誦の叫びが出てくるようです、「私たちは本当なら天国の市民として生活しなければならないにもかかわらず、でも実際はバビロンの流刑に居て、天主から遠い所に居るようだ。深い淵の中から私は天主に叫ぶ。御身が邪悪に目を向けたならば、一体誰がそれに、邪悪ではない身の潔白を証明する事ができようか。どうぞ私の叫びの、祈りの声を聞いて下さい」と入祭誦では歌っています。

入祭誦の中には実は無いのですけれども、この有名な詩篇の中には、「御身の耳を注意深く傾けて下さい。私の祈りの声を聞いて下さい。“Fiant aures tuæ intendentes in vocem deprecationis meæ. ”」という有名な1節があります。

集祷文も同じです。集祷文も「教会の祈りに耳を傾けて下さい」と言っています。聖体拝領唱も同じです、「御身の耳を傾けて私の声を聞いて下さい」と。

これは一体何を意味しているかというと、「私たちが天主様の、天主の義務を果たさなければならないにもかかわらず、これを果たすのに失敗している。私たちには主の助けと憐れみが必要である」というその心からの叫びです。イエズス様が、「天主のものを天主に返せ」と言われたのにもかかわらず、私たちはそれをうまくする事ができないでいる。

一体私たちはどうしたら良いのでしょうか?どうしたら天主のものを天主に返す事ができるでしょうか?「どうぞ私の声を聞いて下さい。」教会はミサの全ての中で、「私たちの声を聞いて下さい」「私たちの声を聞いて下さい」「聞いて下さい」と嘆いて、叫んで、繰り返し、繰り返し、頼んでいます。

では私たちはどのような遷善の決心を取ったら良いのでしょうか?

ちょうど100年前、1916年、同じような事を言った存在があります。それはファチマで3人の子供たちに、ポルトガルの守護の天使が現れてこう言ったのです。

「我が天主よ、私は御身を信じ、御身を礼拝し、御身に希望し、御身を愛し奉る。私は御身を信じない人々、御身を礼拝しない人々、希望しない人々、愛さない人々の赦しを乞い願い奉る。」

このように3回お祈りをして見本を見せて、その次に子供たちに言いました。10歳にもならない子供たちでした。「イエズス様とマリア様の聖心は、あなたたちのこの祈りに非常によく耳を傾けている、注意深くしている」と。

天使のこの、「あなたたちの祈りの声に、イエズス様の聖心とマリア様の御心は非常に注意深く聞いていますよ」というのは、ちょうど教会の今日の叫び、お祈りに対する答えではないでしょうか。全く同じ言葉が使われています、ただ、「2つの耳」の代わりに「イエズス様とマリア様の聖心」に変わっているだけです。他は全く同じです。

では、私たちはちょうど99年前のマリア様の言葉にも、10月13日に現れたマリア様の言葉にも耳を傾けて下さい、「もうこれ以上、天主に対して罪を犯さないで下さい。私たちの主はもはやすでに犯され続けています。もうこれ以上犯さないで下さい」と最後にお願いしました。シスタールチアは後に、「ファチマのマリア様の言葉の中で一番印象に残った、一番心に深く残ったのはこの言葉だった」と言います。

私たちも、天主のものを天主に返すように致しましょう。もはや主を犯す事はないように、罪を犯し続ける事がないように、私たちのでは祈りを捧げる事に致しましょう。

「主よ、私は御身を信じ、御身を礼拝し、御身に希望し、御身を愛し奉る。御身を信じない人々、礼拝しない人々、希望しない人々、愛さない人々の代わりにその赦しを乞い求め奉る」と私たちも何度もお祈り致しましょう。

すると、私たちのこの祈りは非常にイエズス様とマリア様の心に快く響き、そして極めてそれに敏感に答えて下さるはずです、天使がそう約束しました。

マリア様は同じくファチマで仰いました、毎回6回御出現される度に、「ロザリオを唱えなさい」「ロザリオを毎日唱えなさい」「ロザリオを毎日唱え続けなさい」「戦争が終わる為にロザリオを唱えなさい」と言われました。

ですから私たちもこの声に応える事に致しましょう。こうする事によって私たちは、天主のものを天主に返す事ができます。

“Reddite ergo quae sunt Caesaris Caesari,et quae sunt Dei Deo.”
「チェザルのものはチェザルに、天主のものは天主に返せ。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


聖ピオ十世会日本のお説教・講話がここに掲載されています。

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