アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
11月は、東京では連続で3回主日に聖伝のミサを捧げることができ、このお恵みを天主様に深く感謝します。11月20日は、典礼暦最終の主日でしたので、東京では続けて黙示録について勉強しました。
11月27日の主日は、待降節第一主日です。イエズス・キリストが来られるのを準備いたしましょう。待降節は、過去キリストがお生まれになることを太祖の人々が歴史的に待望していたことに思いを馳せて、私たちもイエズス・キリストの聖誕を準備することです。
それだけではありません。待降節中に、イエズス・キリストが私たちの心にも今、現在、お越しになること、また、将来生ける人々と死せる人々とを裁くために来られることも準備させるからです。
最近私の読んだ、レオナルド・カステラニ神父(Leonardo Castellani, S.J. 1899 – 1981)が書いた黙示録の注解はとても興味深いものでした。カステラニ神父様はアルゼンチンのイエズス会司祭で神学者です。彼は、教父たちによる黙示録の解釈を専門に勉強した司祭で、聖アウグスティヌスや聖トマス・アクィナス、大聖アルベルトなどはもちろん、近代の有名な伝統的な神学者たちの意見を含めて、聖伝の観点からコメントを加えており、とても参考になりました。特に、近代主義者たちの解釈を的確に批判し、それを知性的に指摘しているのです。彼は、ロバート・ヒュー・ベンソン神父(Monsignor Robert Hugh Benson)の書いた「この世の君主」The Lord of the World (1907)をスペイン語(El señor del mundo, 1956)にも訳してます。
ベンソン神父の「この世の君主」のことをもっと話します。ベンソン神父は英国教会(聖公会)からカトリックに改宗したイギリス人です。ベンソン神父の父親は、カンタベリーの聖公会大主教(Edward White Benson, 1829 – 1896)で、黙示録の注解(The Apocalypse,: An introductory Study of the Revelation of St. John the Divine, 1900)を書いています。おそらくそれに影響を受けたのでしょう、ロバート・ベンソンは反キリストの到来を「この世の君主」として描き出します。
インサイド・バチカン誌の編集長であるロバート・モイニハン(Robert Moynihan)のエディトリアル5号(2015年2月5日付け)によると、ラッツィンガー枢機卿はこのベンソン神父の「この世の君主」について「新世界秩序」という観点で、1992年にミラノで話をしています。それは1990年9月11日にジョージ・ブッシュ(父)が初めて「新世界秩序」(new world order)という言葉をペルシャ湾の危機について米国議会で使ったすぐ後でした。モイニハンが指摘するには、これは1989年にベルリンの壁が崩れた翌年のことで、ブッシュ大統領とゴルバチェフが1990年9月にヘルシンキで首脳会議をやった直後、この1年後の1991年12月25日にゴルバチェフがソ連の解体に署名しており、そのちょうど11年後に、やはりジョージ・ブッシュ(子)が大統領の時世界貿易センタービルの攻撃がありました。
ラッツィンガー枢機卿は、ミラノの聖心大学で1992年2月8日に「新世界秩序」について話しますが、その内容は英語に訳されてイグナチオ・プレスから『ヨーロッパの転換期?教会と現代世界:評価と展望』と題して出版されました。A Turning Point for Europe?: The Church in the Modern World : Assessment and Forecast, Ignatius Press これは既に1991年にドイツ語で Wendezeit fuer Europa?: Diagnosen un Prognosen zur Lage von Kirche und Welt という題で出版されています。
ベネディクト十五世が聖ヨゼフへの信心について語った『ボヌム・サネ』(1920年)の中で人間社会に対する天主の権威を認めない世界を作ろうとするとき、不可避的に恐怖が統治することになる、と語ったように、ラッツィンガー枢機卿は、講話の中で、反キリストは、キリスト無しに"平和"をもたらすものとして現れる、と警告しています。ちょうどそれはベンソン神父のフィクションにうまく描かれていました。
『この世の君主』のヒーローはイギリス人司祭、パーシー・フランクリン神父です。ベンソン神父の自分自身の投影のようです。フランクリン神父は、米国ヴァーモント州のアメリカ人議員ジュリアン・フェルセンバークに注意深く関心を払っています。フェルセンバークは、世界戦争を回避させて世界を救い「救世主」と呼ばれ、世界を統一します。フェルセンバークは世界の大統領となり、これからは「天主を信じる」という者は反逆罪を問われます。天主教の代わりに民主教だけが、人類教だけが許される世界が出現します。天主が人間となったカトリックの代わりに、人間が神となった世界です。天主に基づく愛徳の代わりに友情が、希望の代わりに満足が、信仰の代わりに知識が、取って代わります。フランクリン神父は、ローマ教皇ヨハネ二十四世に呼ばれ、教皇にフェルセンバークについて説明します。天主に対する宗教の代わりに安楽死が実践されていること、真理の名の下に宗教を破壊しようとしていること、少数のカトリック信者たちだけが「この世の君主」に抵抗していること、を伝えます。
教皇は質問します。「何をすべきだと思うか?」
フランクリン神父は答えます。「教皇様、ミサ聖祭、祈り、ロザリオです。これらの最初で最後の武器です。この世はこれらの力を否定しています。キリスト者たちがその全ての重みを全て使うべき力を。全てはイエズス・キリストにあります。イエズス・キリストにおいて、最初と最後があります。その他は、何も出来ません。」
愛する兄弟姉妹の皆様、これこそを私たちは、待降節の間にいたしましょう。聖伝のミサ、祈り、犠牲、そして聖なるロザリオの祈り。これこそが私たちの武器です。イエズス・キリストが第一であり、私たちの全てです。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!
日本でのミッションありがとうございました。
大阪での御ミサの報告をお送りいたします。
11月18日(金)聖ペトロ、聖パウロの大聖堂の献堂式のミサには12名が、
11月19日(土)寡婦聖エリザベト のミサには13名が御ミサに与る御恵みを頂きました。デオグラチアス!
18日のお説教では聖ペトロ、聖パウロの大聖堂が建てられた背景やその意味を知る事ができました。
11月にローマの三つの大聖堂の献堂を祝うのは、1日の諸聖人の祝日から始まって、私達の心を天へ、天のエルザレムへ上げるようにとの教会の計らいであるという事がわかりました。
この日の聖福音のザケオのように、私たちがイエズス様を知りたいと思えば、イエズス様はこちらに来て下さって私たち自身を教会(神殿)にして下さるのですから、私達もザケオに倣って回心してイエズス様をお喜ばせするよう努めなければならないと思いました。
19日はハンガリーの聖エリザベトの人生についてお説教をして頂きました。
幸福な王女の生活から一転して夫であるルイ王を失い、弟ヘンリーから裏切られ、すべての財産を奪われ追放されたまだうら若かった彼女が不平不満や落胆無しにそのような沢山の十字架をどうやって耐えることができたのか興味を持ちました。
日々の小さな十字架にさえ、時々へこたれたり、悲嘆にくれたりする自分と、なにが違うのかもっと知りたいと思いました。
御ミサの御聖体変化の時、丁度地震がありました。かなり揺れたので家にいる家族や今日御ミサに来れなかった代子の無事をとっさに祈りました。
まさに、今、捧げられているイエズス様の尊いいけにえによって、今日の地震は大きくならないのだろうと勝手に安心してミサに集中しました。
この地震を、イエズス様がカルワリオでご自分を捧げられた時に起こった地震と重ねた人々もいたようです。
公教要理ではウォーレン・キャロルの「1917」という本を参考に、1917年の天と地の戦いの年についてご教示いただきました。
ロバート・ヒュー・ベンソン神父様の書かれた「世界の主」(Lord of the World)というフィクションが、今まさにノンフィクションになっている現実に恐ろしさを覚えました。それと同時にベネディクト16世、フランシスコ両教皇様がたもこの本を薦めておられたと知って本の結論である「結果、カトリック信者には祈りだけが残った」、カトリック信者の武器は祈りであり、償いであるという事を教皇様方が認めておられることにうれしく思いました。
【報告】
Dear Fr Onoda:
今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。
ミサの参列者数
男: 16人(内、子供1人)
女: 22人(内、子供3人)
計: 38人(内、子供4人)
【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!
小野田神父さま、いつもありがとうございます。
私は、『預言者ダニエルの言った、〈荒らす者のいとわしいもの〉が聖所に立つのを見たら、―読む者は悟れ―そのとき、ユダヤにいる者は山に逃げよ。』のみ言葉のなかの”山”とは、いったいなにをあらわしているのだろうかと長い年月ずっと不思議でした。
今回の神父様のお説教で、山とは永遠に変わることのない天主様の教えのことと伺って、なるほどそうなんだ!と思いました。この2000年の間変わることのないカトリックの教えのことなのですね。
典礼歴の最後には 昔からこの個所が読まれていたとのこと。黙示録の記述とも内容が重なっていて、典礼暦の最後が聖書の最後と同じような内容が語られていることに気づかされました。
黙示録の最後の御言葉は美しく荘厳で励まされます。「私たちがいつもイエズスさまを全てのうちに第一とした人は栄光を受けます」とお説教の中でも栄光のことをお話くださいました。受難の後には復活が、そしてイエズスさまが栄光のうちにおられるということを、忘れないようにします。
今回の公教要理も、難しい内容でした。
以下に「わかったこと」をまとめてみました。(間違っていたらすみません)
9章後半では 第二次世界大戦で使われた多くの武器のことが表現されていて、戦争が終わっても人々は偶像礼拝をやめることがなかったことが描かれている。
11章の1節で出てくる『神殿を測る』の神殿は 黙示録の最後に出てくる天のエルサレムとは違う意味。(計るとは、建物を造る 立て直すという意味があるとフランシスコ会の聖書の注にありました。)
『42ヶ月(三年半)の間 神殿の外庭が異邦人に外庭を荒される』というのは、反キリストがくる前に教会に離教・背教のような動きが見られるという意味。教会での教えは半分空っぽにされても 教会自体はなくならない、しかし天主様の置かれるべきところに代わりに偶像が置かれる。
『中心の至聖所が残る』ということにより、神殿のすべてが破壊しつくされないように、教えの中枢を護るグループ(SSPXのことでしょうか?)が残されることを表す。
教えの真髄がなくなってしまうと、意味のある催しだったものがただの盆踊りになってしまったり 四旬節前のCarne Vale 肉にさよならをいうのがカーニバルのお祭り騒ぎに変化してしまったり、聖人を記念するのが逆に悪魔のお祭りのハローウィンになったり・・・のように、ユダヤ教がファリザイ主義に陥ったように、宗教が形骸化してしまう。中核であるご聖体を守らなければならない(←ごミサのことでしょうか?)
『二人の証人』の意味は二通りの解釈がなされているが、一つはエリアとエノク、もう一つは"パウロ"と"ヨハネ"を指しているという説。ルフェーブル大司教さまとカストロマイヤー司教様のお二人とみるお話も。
『ソドマともエジプトともたとえられている大都市』はローマという意見もあるがむしろエルサレム。
『契約の櫃』は 聖母の連祷でも詠われるごとく マリア様のこと。
古来から解釈学というものがありそれに沿った解釈をするようになっているとのこと、暗号を解くカギがあり勝手な解釈をすることがないように配慮されているとのことで、 それらをもとに上記についてそれぞれ詳しく説明される。
ここまでが、カステラーニ神父様の本によるお話しでした。
もう一冊「Lord of the World (この世の主) 」という小説 フィクションとして1907年に カトリックの司祭 Fr. Robert Hugh Benson によって書かれたフィクション小説の本についても、ご紹介くださいました。現教皇様前教皇様のお二人ともが言及された本で、25年以上も前にもそして昨年にも、世界はこの通りになっているとおっしゃられているそうです。この本には、どのように世界に反キリストが表れるか反キリストがどのいう者か想像してその特徴を詳しく述べられているということでした。「アメリカの大統領が人々を喜ばせることを言って自分を平和を与える政治家に見せて人々を喜ばせるが、その政策はキリストのいない政策 キリストを排除する政策で、キリスト教徒は平和を乱す者として告発される。マスコミ・政治経済のすべてを牛耳ってキリスト教は迫害されてしまう。しかし、それに立ち向かうための最高の武器である祈りと犠牲は残る、祈りと犠牲は天主様からの力であり目に見える技術などよりもはるかに力があるものだから」という内容の本だそうです。
いずれにしても、今はまだラッパがすべて吹かれたわけではなく、反キリストが登場した後になってから反キリストが来たとわかるとのこと。
今回のご講義は天主様(真理)の代わりに偶像を置かないようにということで、ごミサのお説教から引き続いてお話の内容がつながっているように思いました。貴重なお話をありがとうございました。
追伸
ロバート・ベンソン神父様の本の紹介をしていただいた時、ピオ12世教皇様が「New Contemplare」という訓話のなかで 反キリストのついて お話しくださったことを ご紹介くださいました。ピオ12世教皇様は 「今の世界はプロテスタントから始まり反キリストへと向かった」と言われたそうです。プロテスタントは天主とキリストは良いが教会はいらないと言った《1517年》、 フリーメーソンは天主は良いがキリストと教会はいらないと言った《1717年》、共産主義は天主もキリストも教会もいらないと言った《1917年》。 というようにちょうど2017年から遡ることのちょうど500年前 300年前 100年前に プロテスタントから始まった反キリストの動きに変化が見られ、ますます悪い方向へと向かっているとのことです。
このお話に先がけて小野田神父様は、1990年の9月11日に アメリカのパパ・ブッシュによって 初めて新世界秩序(New World Order)という言葉が使われたと説明されました。そして、カトリックについて「イエズス・キリストは私たちが天に行くために全く新しい秩序を作られたのです。カトリックとは、イエズス・キリストによって作られた〝天に行くために〟唯一機能できる 全く新しい秩序なのです。人類における幸せと全世界にわたる平和のための唯一の全世界の国際組織なのです。」と説明をしてくださいました。
”カトリック教会が普遍・唯一の秩序のものだったのに、天主のない秩序が欲しいという(人たちを代表して)アメリカの大統領があらわれた。” ベンソン神父様の本には先見の明があったというか、反キリストの性質がとてもよく表現されている本だということが、よくわかりました。
カトリックとは何かということと、反キリストとはどういうものを指すのかということを、小野田神父様が私によくわかるように説明をしてくださいましたことを 深く感謝いたします。聖書の中に「イエズスが肉体をとって下られたキリストであることを宣言する霊はみな神からである。またこのイエズスを宣言しない霊はみな神から出たものではなく、来るだろうと聞いている反キリストの霊である。それはもう世に来ている。」(ヨハネ第一の手紙4章2~3)を見つけて読みました。ご講話を伺ってこの意味をより現代の状況に合わせて黙想しました。ありがとうございます。
【報告】
+アヴェ・マリア・インマクラータ!
小野田神父様
11/20の御ミサのレポートをお送りいたします。
御ミサ
今回の御ミサは暦年最後の主日ということで、世の終りと審判についてがメインテーマであったように感じ、3週連続で公教要理の時間にお話を伺っている黙示録の内容と通じていると思いました。
これだ! と分かったこと今回は2点あります。
1.この世の創造の目的とは、霊魂の救いであること
私たちが天国へ行き直接に天主を見、至福直感の幸せを得るためにこの世が創造された
イエズス様の御苦難のすべては私たちの霊魂の救い
天主イエズス様は私たちを地獄へ落とす為にいらっしゃるのではなく、救うためにいらっしゃるのだ
天主様の思いは平和の思いであって、悲しみではない(入祭文より)ということが良くわかりました。
今回のお説教を聞いて、私自身が実は今までこの世の創造の目的について深く良く考えたことがなかったことに気がつきました。
この世の創造の目的は「自分の」救霊のためということは意識していたのですが、それまででした。
天主様は「私たち皆」の、「全人類」の救いを望まれた、ということ、「そのために」この世を創造され、そして御自身が十字架に掛けられ贖いを果たされたということは何という神秘だろうかと思いました。御自身が受ける全ての侮辱と、御自身のなさるすべての労苦と、この世の終りまで起こる全ての事をご存知でありながら、しかしなお「私たちのために」この世を創造されたということは本当に天主様の愛であって、傷ついても与え尽くす親の愛であると思いました。もし、そのように私たちを救いたい、と思っていらっしゃる天主様に「地獄へ行くように」、と言わせてしまうことは何という悲しいことだろうかとも思います。私自身がその悲しみの原因とならないように、また、この世の他の人達に対しても天主様がそのような悲しみを抱かずとも良いようにお祈りが必要だと思いました。
2.「荒らすもののいとわしいもの」とは、偶像が崩壊した聖所に立つことであり、教えが歪曲されることである。
教父たちは、最も進んだ、来るべき偶像崇拝とは天主の代わりに人間を礼拝するということではないか、と解釈しているということ。
カステラニ神父様の黙示録のお話を思い出し、正に今のこの世のことであると思いました。ローマ皇帝を崇拝する等の偶像崇拝ではなく、天主の代わりに人間の栄光や技術や身体を崇拝し、天主を忘れ、創造の目的を忘れ、最後の審判のことを忘れさせようとし、もう既に忘れかけている今の時代のことであると思いました。
この世が創造のはじまりの目的を忘れてしまったことは、最後を忘れてしまうことをより容易にしてしまったのかもしれない、と思いました。また、最後を忘れてしまうことも、最初の目的を容易に忘れさせるのではないかとも思いました。
午後の講話
カステラニ神父様の著作を元にした黙示録についてのお話の第3回でした。また、フランシスコ教皇様が2015年に自らお薦めになったベンソン神父様(Father Robert Hugh Benson)の"Lord of the World"(1907)についてお話しをして頂きました。
カステラニ神父様は、テーマを決めて論文を書いていており、黙示録の解釈は第7のらっぱとイエズス様の来臨というところで実質的に終了しているとのことで、前々回(11/13)からお話しいただいた黙示録の内容は今回で最終回でした。
以下に内容をまとめました。
前回の続き
第7のらっぱについて
・黙示録10章8節の「小さな巻物」とは、黙示録そのもののこと
・黙示録11章には、反キリストが来る前に教会が荒らされる、艱難があるということが書かれている
ここで2つの出来事がある
1)神殿をはかる(11章1節〜)
ここで登場する「神殿」は、21章に登場する天のエルサレムとは別である
教父達は、異邦人に外庭を荒らされた神殿とは、イエズス様の再臨の前に、教会に大きな背教や離教があるということだと解釈している。しかし、外庭は荒らされるが破壊はされてはおらず、至聖所・中核は残っている。つまり、神殿はなくなってはいない。これは、少数だが天主の信仰・教義を守るグループがあるということだろう。多くのものが形骸化してしまい、中核を守る人々は攻撃されるだろう、この中核とは御聖体のことであろう。
カステラニ神父様は、カトリック教会が荒らされてしまう原因は、「ファリサイ主義(発言と行動が一致していない)」と「フォークロア(カーニバルやハロウィンなどのように民間伝承や民間信仰に取り込まれ、本来の意味を失う)」により引き起こされる形骸化ではないかと予想している。また、Benjamín Benavidesの「カトリック教会にファリザイ主義が存在しなかったならば、今、共産主義は存在しなかっただろう」("No habría comunismo en el mundo, si no hubiera fariseísmo en la Iglesia.")という発言も紹介している。
2)2人の証人(11章3節〜)
2つの説があり、どちらが正しいかは不明である
エリア・エノク(2人共死んだという記述が聖書にない)説と「パウロ」という名に代表される司教と「ヨハネ」という名に代表される司教という説。(「パウロ」という名に代表される司教はプロテスタントから出て、「ヨハネ」という名に代表される司教は聖ヨハネが宣教した東方教会から出て、2人共にカトリック教会が正しい、離教してはいけないと言い、ローマのペトロとの一致するための証人として立つ)
2人の証人の屍が横たわる大都市(11章8節)は、エルサレムであろう。
・第7のらっぱ(11章15節〜)
契約の櫃(11章19節)は聖母の連禱の中にある契約の櫃と同じ意味、つまり、聖母マリア様のことでこの世の終わり頃には聖母マリア様が私たちの目に見えるように頻繁に現れるということではないか。たとえマリア様ではないとしても、今まで隠されていたものや天主様の働きが私たちの目に見えるようになる、ということではないか。
太陽に包まれた婦人(12章1節)とは、教会であって象徴的にマリア様であろう。
男の子(12章5節)とは、イエズス様のことであろう。
古代からユダヤ人の改心が起こると言われているので、婦人が荒野に行き、男の子を産むというところでユダヤ人の改心についても触れられているのではないか。
ベンソン神父様(Father Robert Hugh Benson)の「Lord of the World」(1907)についてベンソン神父様はイギリス人で、父親はカンタベリー大司教・母親も身分の高い人であったがカトリックに改宗し、フィクションの小説として、「Lord of the World」を書いた。
内容は、天主のいない秩序を持って世界を統一しようとする人・反キリストが表れ、その人は世界のリーダーになり皆の耳に快いことを言いつつカトリックを迫害しはじめる。反キリストは、悪魔のように恐ろしい形相をもって現れるのではなく力のある政治家として現れるが、その政策は全て天主を排除する、天主のいない世界を作る政策である。偽りの平和・偽りの喜びを人民に与える一方で、カトリック教徒はそのような平和を乱すものとして告発される。反キリストは政治・マスコミ等全てを支配してしまい、キリスト教徒には何も持つものがないように見えたが、しかし実際には最後の武器を持っていた、それは、「祈りと犠牲」であり、「御聖体」だった。これこそ最高の武器で、世の中の最も強い武器もこれには勝つことができない。
というもの。
ラッチンガー枢機卿様も「この本の通りになっている。」と言及し、2015年にはフランシスコ教皇様も「世界はこの通りになっているからこの本を読むように。」と勧めた。
感想
黙示録は、難解な書物であるので詳しく読み取るのは難しいが、時代が進むに従い良く理解できるようになってきたこと、そして、「最後の時には明確に全てが分かるだろう」ということが分かりました。
聖福音とお説教との内容とも繋がり、全ては天主様のご計画の中に起こっている事であり、最後の時にはイエズス様は必ずいらして、そして勝利なさる、ということを改めて確信いたしました!
ベンソン神父様が、「Lord of the World」の中で仰った「祈りと犠牲」が私たちカトリック教徒に残された武器である、ということは、ファティマのシスタールチアも仰っていらっしゃいますしイエズス様もマリア様も聖人達もその武器でこの世に勝利なさったのだから、やはりこれが最高の道で王道なのだなと、これも改めて確信することができました。
また、カステラニ神父様が聖書解釈について「典型(プロトタイプ)を当て嵌めて行うのが聖書解釈であり、想像と解釈は違う。」と仰ったことも教えていただき、これも印象的でした。
御自身が典型となり、天国までの道を示された天主イエズス様とマリア様に本当に感謝の気持ちでいっぱいになりました。デオグラチアス!
また、カステラニ神父様の素晴らしい著作を私たちの為に分かりやすく教えて下さった小野田神父様に本当に感謝いたします。いつも素晴らしいお話をしていただき、本当にありがとうございます!
デオグラチアス!
聖ピオ十世会日本のお説教・講話がここに掲載されています。
愛する兄弟姉妹の皆様、
11月は、東京では連続で3回主日に聖伝のミサを捧げることができ、このお恵みを天主様に深く感謝します。11月20日は、典礼暦最終の主日でしたので、東京では続けて黙示録について勉強しました。
11月27日の主日は、待降節第一主日です。イエズス・キリストが来られるのを準備いたしましょう。待降節は、過去キリストがお生まれになることを太祖の人々が歴史的に待望していたことに思いを馳せて、私たちもイエズス・キリストの聖誕を準備することです。
それだけではありません。待降節中に、イエズス・キリストが私たちの心にも今、現在、お越しになること、また、将来生ける人々と死せる人々とを裁くために来られることも準備させるからです。
最近私の読んだ、レオナルド・カステラニ神父(Leonardo Castellani, S.J. 1899 – 1981)が書いた黙示録の注解はとても興味深いものでした。カステラニ神父様はアルゼンチンのイエズス会司祭で神学者です。彼は、教父たちによる黙示録の解釈を専門に勉強した司祭で、聖アウグスティヌスや聖トマス・アクィナス、大聖アルベルトなどはもちろん、近代の有名な伝統的な神学者たちの意見を含めて、聖伝の観点からコメントを加えており、とても参考になりました。特に、近代主義者たちの解釈を的確に批判し、それを知性的に指摘しているのです。彼は、ロバート・ヒュー・ベンソン神父(Monsignor Robert Hugh Benson)の書いた「この世の君主」The Lord of the World (1907)をスペイン語(El señor del mundo, 1956)にも訳してます。
ベンソン神父の「この世の君主」のことをもっと話します。ベンソン神父は英国教会(聖公会)からカトリックに改宗したイギリス人です。ベンソン神父の父親は、カンタベリーの聖公会大主教(Edward White Benson, 1829 – 1896)で、黙示録の注解(The Apocalypse,: An introductory Study of the Revelation of St. John the Divine, 1900)を書いています。おそらくそれに影響を受けたのでしょう、ロバート・ベンソンは反キリストの到来を「この世の君主」として描き出します。
インサイド・バチカン誌の編集長であるロバート・モイニハン(Robert Moynihan)のエディトリアル5号(2015年2月5日付け)によると、ラッツィンガー枢機卿はこのベンソン神父の「この世の君主」について「新世界秩序」という観点で、1992年にミラノで話をしています。それは1990年9月11日にジョージ・ブッシュ(父)が初めて「新世界秩序」(new world order)という言葉をペルシャ湾の危機について米国議会で使ったすぐ後でした。モイニハンが指摘するには、これは1989年にベルリンの壁が崩れた翌年のことで、ブッシュ大統領とゴルバチェフが1990年9月にヘルシンキで首脳会議をやった直後、この1年後の1991年12月25日にゴルバチェフがソ連の解体に署名しており、そのちょうど11年後に、やはりジョージ・ブッシュ(子)が大統領の時世界貿易センタービルの攻撃がありました。
ラッツィンガー枢機卿は、ミラノの聖心大学で1992年2月8日に「新世界秩序」について話しますが、その内容は英語に訳されてイグナチオ・プレスから『ヨーロッパの転換期?教会と現代世界:評価と展望』と題して出版されました。A Turning Point for Europe?: The Church in the Modern World : Assessment and Forecast, Ignatius Press これは既に1991年にドイツ語で Wendezeit fuer Europa?: Diagnosen un Prognosen zur Lage von Kirche und Welt という題で出版されています。
ベネディクト十五世が聖ヨゼフへの信心について語った『ボヌム・サネ』(1920年)の中で人間社会に対する天主の権威を認めない世界を作ろうとするとき、不可避的に恐怖が統治することになる、と語ったように、ラッツィンガー枢機卿は、講話の中で、反キリストは、キリスト無しに"平和"をもたらすものとして現れる、と警告しています。ちょうどそれはベンソン神父のフィクションにうまく描かれていました。
『この世の君主』のヒーローはイギリス人司祭、パーシー・フランクリン神父です。ベンソン神父の自分自身の投影のようです。フランクリン神父は、米国ヴァーモント州のアメリカ人議員ジュリアン・フェルセンバークに注意深く関心を払っています。フェルセンバークは、世界戦争を回避させて世界を救い「救世主」と呼ばれ、世界を統一します。フェルセンバークは世界の大統領となり、これからは「天主を信じる」という者は反逆罪を問われます。天主教の代わりに民主教だけが、人類教だけが許される世界が出現します。天主が人間となったカトリックの代わりに、人間が神となった世界です。天主に基づく愛徳の代わりに友情が、希望の代わりに満足が、信仰の代わりに知識が、取って代わります。フランクリン神父は、ローマ教皇ヨハネ二十四世に呼ばれ、教皇にフェルセンバークについて説明します。天主に対する宗教の代わりに安楽死が実践されていること、真理の名の下に宗教を破壊しようとしていること、少数のカトリック信者たちだけが「この世の君主」に抵抗していること、を伝えます。
教皇は質問します。「何をすべきだと思うか?」
フランクリン神父は答えます。「教皇様、ミサ聖祭、祈り、ロザリオです。これらの最初で最後の武器です。この世はこれらの力を否定しています。キリスト者たちがその全ての重みを全て使うべき力を。全てはイエズス・キリストにあります。イエズス・キリストにおいて、最初と最後があります。その他は、何も出来ません。」
愛する兄弟姉妹の皆様、これこそを私たちは、待降節の間にいたしましょう。聖伝のミサ、祈り、犠牲、そして聖なるロザリオの祈り。これこそが私たちの武器です。イエズス・キリストが第一であり、私たちの全てです。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!
日本でのミッションありがとうございました。
大阪での御ミサの報告をお送りいたします。
11月18日(金)聖ペトロ、聖パウロの大聖堂の献堂式のミサには12名が、
11月19日(土)寡婦聖エリザベト のミサには13名が御ミサに与る御恵みを頂きました。デオグラチアス!
18日のお説教では聖ペトロ、聖パウロの大聖堂が建てられた背景やその意味を知る事ができました。
11月にローマの三つの大聖堂の献堂を祝うのは、1日の諸聖人の祝日から始まって、私達の心を天へ、天のエルザレムへ上げるようにとの教会の計らいであるという事がわかりました。
この日の聖福音のザケオのように、私たちがイエズス様を知りたいと思えば、イエズス様はこちらに来て下さって私たち自身を教会(神殿)にして下さるのですから、私達もザケオに倣って回心してイエズス様をお喜ばせするよう努めなければならないと思いました。
19日はハンガリーの聖エリザベトの人生についてお説教をして頂きました。
幸福な王女の生活から一転して夫であるルイ王を失い、弟ヘンリーから裏切られ、すべての財産を奪われ追放されたまだうら若かった彼女が不平不満や落胆無しにそのような沢山の十字架をどうやって耐えることができたのか興味を持ちました。
日々の小さな十字架にさえ、時々へこたれたり、悲嘆にくれたりする自分と、なにが違うのかもっと知りたいと思いました。
御ミサの御聖体変化の時、丁度地震がありました。かなり揺れたので家にいる家族や今日御ミサに来れなかった代子の無事をとっさに祈りました。
まさに、今、捧げられているイエズス様の尊いいけにえによって、今日の地震は大きくならないのだろうと勝手に安心してミサに集中しました。
この地震を、イエズス様がカルワリオでご自分を捧げられた時に起こった地震と重ねた人々もいたようです。
公教要理ではウォーレン・キャロルの「1917」という本を参考に、1917年の天と地の戦いの年についてご教示いただきました。
ロバート・ヒュー・ベンソン神父様の書かれた「世界の主」(Lord of the World)というフィクションが、今まさにノンフィクションになっている現実に恐ろしさを覚えました。それと同時にベネディクト16世、フランシスコ両教皇様がたもこの本を薦めておられたと知って本の結論である「結果、カトリック信者には祈りだけが残った」、カトリック信者の武器は祈りであり、償いであるという事を教皇様方が認めておられることにうれしく思いました。
【報告】
Dear Fr Onoda:
今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。
ミサの参列者数
男: 16人(内、子供1人)
女: 22人(内、子供3人)
計: 38人(内、子供4人)
【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!
小野田神父さま、いつもありがとうございます。
私は、『預言者ダニエルの言った、〈荒らす者のいとわしいもの〉が聖所に立つのを見たら、―読む者は悟れ―そのとき、ユダヤにいる者は山に逃げよ。』のみ言葉のなかの”山”とは、いったいなにをあらわしているのだろうかと長い年月ずっと不思議でした。
今回の神父様のお説教で、山とは永遠に変わることのない天主様の教えのことと伺って、なるほどそうなんだ!と思いました。この2000年の間変わることのないカトリックの教えのことなのですね。
典礼歴の最後には 昔からこの個所が読まれていたとのこと。黙示録の記述とも内容が重なっていて、典礼暦の最後が聖書の最後と同じような内容が語られていることに気づかされました。
黙示録の最後の御言葉は美しく荘厳で励まされます。「私たちがいつもイエズスさまを全てのうちに第一とした人は栄光を受けます」とお説教の中でも栄光のことをお話くださいました。受難の後には復活が、そしてイエズスさまが栄光のうちにおられるということを、忘れないようにします。
今回の公教要理も、難しい内容でした。
以下に「わかったこと」をまとめてみました。(間違っていたらすみません)
9章後半では 第二次世界大戦で使われた多くの武器のことが表現されていて、戦争が終わっても人々は偶像礼拝をやめることがなかったことが描かれている。
11章の1節で出てくる『神殿を測る』の神殿は 黙示録の最後に出てくる天のエルサレムとは違う意味。(計るとは、建物を造る 立て直すという意味があるとフランシスコ会の聖書の注にありました。)
『42ヶ月(三年半)の間 神殿の外庭が異邦人に外庭を荒される』というのは、反キリストがくる前に教会に離教・背教のような動きが見られるという意味。教会での教えは半分空っぽにされても 教会自体はなくならない、しかし天主様の置かれるべきところに代わりに偶像が置かれる。
『中心の至聖所が残る』ということにより、神殿のすべてが破壊しつくされないように、教えの中枢を護るグループ(SSPXのことでしょうか?)が残されることを表す。
教えの真髄がなくなってしまうと、意味のある催しだったものがただの盆踊りになってしまったり 四旬節前のCarne Vale 肉にさよならをいうのがカーニバルのお祭り騒ぎに変化してしまったり、聖人を記念するのが逆に悪魔のお祭りのハローウィンになったり・・・のように、ユダヤ教がファリザイ主義に陥ったように、宗教が形骸化してしまう。中核であるご聖体を守らなければならない(←ごミサのことでしょうか?)
『二人の証人』の意味は二通りの解釈がなされているが、一つはエリアとエノク、もう一つは"パウロ"と"ヨハネ"を指しているという説。ルフェーブル大司教さまとカストロマイヤー司教様のお二人とみるお話も。
『ソドマともエジプトともたとえられている大都市』はローマという意見もあるがむしろエルサレム。
『契約の櫃』は 聖母の連祷でも詠われるごとく マリア様のこと。
古来から解釈学というものがありそれに沿った解釈をするようになっているとのこと、暗号を解くカギがあり勝手な解釈をすることがないように配慮されているとのことで、 それらをもとに上記についてそれぞれ詳しく説明される。
ここまでが、カステラーニ神父様の本によるお話しでした。
もう一冊「Lord of the World (この世の主) 」という小説 フィクションとして1907年に カトリックの司祭 Fr. Robert Hugh Benson によって書かれたフィクション小説の本についても、ご紹介くださいました。現教皇様前教皇様のお二人ともが言及された本で、25年以上も前にもそして昨年にも、世界はこの通りになっているとおっしゃられているそうです。この本には、どのように世界に反キリストが表れるか反キリストがどのいう者か想像してその特徴を詳しく述べられているということでした。「アメリカの大統領が人々を喜ばせることを言って自分を平和を与える政治家に見せて人々を喜ばせるが、その政策はキリストのいない政策 キリストを排除する政策で、キリスト教徒は平和を乱す者として告発される。マスコミ・政治経済のすべてを牛耳ってキリスト教は迫害されてしまう。しかし、それに立ち向かうための最高の武器である祈りと犠牲は残る、祈りと犠牲は天主様からの力であり目に見える技術などよりもはるかに力があるものだから」という内容の本だそうです。
いずれにしても、今はまだラッパがすべて吹かれたわけではなく、反キリストが登場した後になってから反キリストが来たとわかるとのこと。
今回のご講義は天主様(真理)の代わりに偶像を置かないようにということで、ごミサのお説教から引き続いてお話の内容がつながっているように思いました。貴重なお話をありがとうございました。
追伸
ロバート・ベンソン神父様の本の紹介をしていただいた時、ピオ12世教皇様が「New Contemplare」という訓話のなかで 反キリストのついて お話しくださったことを ご紹介くださいました。ピオ12世教皇様は 「今の世界はプロテスタントから始まり反キリストへと向かった」と言われたそうです。プロテスタントは天主とキリストは良いが教会はいらないと言った《1517年》、 フリーメーソンは天主は良いがキリストと教会はいらないと言った《1717年》、共産主義は天主もキリストも教会もいらないと言った《1917年》。 というようにちょうど2017年から遡ることのちょうど500年前 300年前 100年前に プロテスタントから始まった反キリストの動きに変化が見られ、ますます悪い方向へと向かっているとのことです。
このお話に先がけて小野田神父様は、1990年の9月11日に アメリカのパパ・ブッシュによって 初めて新世界秩序(New World Order)という言葉が使われたと説明されました。そして、カトリックについて「イエズス・キリストは私たちが天に行くために全く新しい秩序を作られたのです。カトリックとは、イエズス・キリストによって作られた〝天に行くために〟唯一機能できる 全く新しい秩序なのです。人類における幸せと全世界にわたる平和のための唯一の全世界の国際組織なのです。」と説明をしてくださいました。
”カトリック教会が普遍・唯一の秩序のものだったのに、天主のない秩序が欲しいという(人たちを代表して)アメリカの大統領があらわれた。” ベンソン神父様の本には先見の明があったというか、反キリストの性質がとてもよく表現されている本だということが、よくわかりました。
カトリックとは何かということと、反キリストとはどういうものを指すのかということを、小野田神父様が私によくわかるように説明をしてくださいましたことを 深く感謝いたします。聖書の中に「イエズスが肉体をとって下られたキリストであることを宣言する霊はみな神からである。またこのイエズスを宣言しない霊はみな神から出たものではなく、来るだろうと聞いている反キリストの霊である。それはもう世に来ている。」(ヨハネ第一の手紙4章2~3)を見つけて読みました。ご講話を伺ってこの意味をより現代の状況に合わせて黙想しました。ありがとうございます。
【報告】
+アヴェ・マリア・インマクラータ!
小野田神父様
11/20の御ミサのレポートをお送りいたします。
御ミサ
今回の御ミサは暦年最後の主日ということで、世の終りと審判についてがメインテーマであったように感じ、3週連続で公教要理の時間にお話を伺っている黙示録の内容と通じていると思いました。
これだ! と分かったこと今回は2点あります。
1.この世の創造の目的とは、霊魂の救いであること
私たちが天国へ行き直接に天主を見、至福直感の幸せを得るためにこの世が創造された
イエズス様の御苦難のすべては私たちの霊魂の救い
天主イエズス様は私たちを地獄へ落とす為にいらっしゃるのではなく、救うためにいらっしゃるのだ
天主様の思いは平和の思いであって、悲しみではない(入祭文より)ということが良くわかりました。
今回のお説教を聞いて、私自身が実は今までこの世の創造の目的について深く良く考えたことがなかったことに気がつきました。
この世の創造の目的は「自分の」救霊のためということは意識していたのですが、それまででした。
天主様は「私たち皆」の、「全人類」の救いを望まれた、ということ、「そのために」この世を創造され、そして御自身が十字架に掛けられ贖いを果たされたということは何という神秘だろうかと思いました。御自身が受ける全ての侮辱と、御自身のなさるすべての労苦と、この世の終りまで起こる全ての事をご存知でありながら、しかしなお「私たちのために」この世を創造されたということは本当に天主様の愛であって、傷ついても与え尽くす親の愛であると思いました。もし、そのように私たちを救いたい、と思っていらっしゃる天主様に「地獄へ行くように」、と言わせてしまうことは何という悲しいことだろうかとも思います。私自身がその悲しみの原因とならないように、また、この世の他の人達に対しても天主様がそのような悲しみを抱かずとも良いようにお祈りが必要だと思いました。
2.「荒らすもののいとわしいもの」とは、偶像が崩壊した聖所に立つことであり、教えが歪曲されることである。
教父たちは、最も進んだ、来るべき偶像崇拝とは天主の代わりに人間を礼拝するということではないか、と解釈しているということ。
カステラニ神父様の黙示録のお話を思い出し、正に今のこの世のことであると思いました。ローマ皇帝を崇拝する等の偶像崇拝ではなく、天主の代わりに人間の栄光や技術や身体を崇拝し、天主を忘れ、創造の目的を忘れ、最後の審判のことを忘れさせようとし、もう既に忘れかけている今の時代のことであると思いました。
この世が創造のはじまりの目的を忘れてしまったことは、最後を忘れてしまうことをより容易にしてしまったのかもしれない、と思いました。また、最後を忘れてしまうことも、最初の目的を容易に忘れさせるのではないかとも思いました。
午後の講話
カステラニ神父様の著作を元にした黙示録についてのお話の第3回でした。また、フランシスコ教皇様が2015年に自らお薦めになったベンソン神父様(Father Robert Hugh Benson)の"Lord of the World"(1907)についてお話しをして頂きました。
カステラニ神父様は、テーマを決めて論文を書いていており、黙示録の解釈は第7のらっぱとイエズス様の来臨というところで実質的に終了しているとのことで、前々回(11/13)からお話しいただいた黙示録の内容は今回で最終回でした。
以下に内容をまとめました。
前回の続き
第7のらっぱについて
・黙示録10章8節の「小さな巻物」とは、黙示録そのもののこと
・黙示録11章には、反キリストが来る前に教会が荒らされる、艱難があるということが書かれている
ここで2つの出来事がある
1)神殿をはかる(11章1節〜)
ここで登場する「神殿」は、21章に登場する天のエルサレムとは別である
教父達は、異邦人に外庭を荒らされた神殿とは、イエズス様の再臨の前に、教会に大きな背教や離教があるということだと解釈している。しかし、外庭は荒らされるが破壊はされてはおらず、至聖所・中核は残っている。つまり、神殿はなくなってはいない。これは、少数だが天主の信仰・教義を守るグループがあるということだろう。多くのものが形骸化してしまい、中核を守る人々は攻撃されるだろう、この中核とは御聖体のことであろう。
カステラニ神父様は、カトリック教会が荒らされてしまう原因は、「ファリサイ主義(発言と行動が一致していない)」と「フォークロア(カーニバルやハロウィンなどのように民間伝承や民間信仰に取り込まれ、本来の意味を失う)」により引き起こされる形骸化ではないかと予想している。また、Benjamín Benavidesの「カトリック教会にファリザイ主義が存在しなかったならば、今、共産主義は存在しなかっただろう」("No habría comunismo en el mundo, si no hubiera fariseísmo en la Iglesia.")という発言も紹介している。
2)2人の証人(11章3節〜)
2つの説があり、どちらが正しいかは不明である
エリア・エノク(2人共死んだという記述が聖書にない)説と「パウロ」という名に代表される司教と「ヨハネ」という名に代表される司教という説。(「パウロ」という名に代表される司教はプロテスタントから出て、「ヨハネ」という名に代表される司教は聖ヨハネが宣教した東方教会から出て、2人共にカトリック教会が正しい、離教してはいけないと言い、ローマのペトロとの一致するための証人として立つ)
2人の証人の屍が横たわる大都市(11章8節)は、エルサレムであろう。
・第7のらっぱ(11章15節〜)
契約の櫃(11章19節)は聖母の連禱の中にある契約の櫃と同じ意味、つまり、聖母マリア様のことでこの世の終わり頃には聖母マリア様が私たちの目に見えるように頻繁に現れるということではないか。たとえマリア様ではないとしても、今まで隠されていたものや天主様の働きが私たちの目に見えるようになる、ということではないか。
太陽に包まれた婦人(12章1節)とは、教会であって象徴的にマリア様であろう。
男の子(12章5節)とは、イエズス様のことであろう。
古代からユダヤ人の改心が起こると言われているので、婦人が荒野に行き、男の子を産むというところでユダヤ人の改心についても触れられているのではないか。
ベンソン神父様(Father Robert Hugh Benson)の「Lord of the World」(1907)についてベンソン神父様はイギリス人で、父親はカンタベリー大司教・母親も身分の高い人であったがカトリックに改宗し、フィクションの小説として、「Lord of the World」を書いた。
内容は、天主のいない秩序を持って世界を統一しようとする人・反キリストが表れ、その人は世界のリーダーになり皆の耳に快いことを言いつつカトリックを迫害しはじめる。反キリストは、悪魔のように恐ろしい形相をもって現れるのではなく力のある政治家として現れるが、その政策は全て天主を排除する、天主のいない世界を作る政策である。偽りの平和・偽りの喜びを人民に与える一方で、カトリック教徒はそのような平和を乱すものとして告発される。反キリストは政治・マスコミ等全てを支配してしまい、キリスト教徒には何も持つものがないように見えたが、しかし実際には最後の武器を持っていた、それは、「祈りと犠牲」であり、「御聖体」だった。これこそ最高の武器で、世の中の最も強い武器もこれには勝つことができない。
というもの。
ラッチンガー枢機卿様も「この本の通りになっている。」と言及し、2015年にはフランシスコ教皇様も「世界はこの通りになっているからこの本を読むように。」と勧めた。
感想
黙示録は、難解な書物であるので詳しく読み取るのは難しいが、時代が進むに従い良く理解できるようになってきたこと、そして、「最後の時には明確に全てが分かるだろう」ということが分かりました。
聖福音とお説教との内容とも繋がり、全ては天主様のご計画の中に起こっている事であり、最後の時にはイエズス様は必ずいらして、そして勝利なさる、ということを改めて確信いたしました!
ベンソン神父様が、「Lord of the World」の中で仰った「祈りと犠牲」が私たちカトリック教徒に残された武器である、ということは、ファティマのシスタールチアも仰っていらっしゃいますしイエズス様もマリア様も聖人達もその武器でこの世に勝利なさったのだから、やはりこれが最高の道で王道なのだなと、これも改めて確信することができました。
また、カステラニ神父様が聖書解釈について「典型(プロトタイプ)を当て嵌めて行うのが聖書解釈であり、想像と解釈は違う。」と仰ったことも教えていただき、これも印象的でした。
御自身が典型となり、天国までの道を示された天主イエズス様とマリア様に本当に感謝の気持ちでいっぱいになりました。デオグラチアス!
また、カステラニ神父様の素晴らしい著作を私たちの為に分かりやすく教えて下さった小野田神父様に本当に感謝いたします。いつも素晴らしいお話をしていただき、本当にありがとうございます!
デオグラチアス!
聖ピオ十世会日本のお説教・講話がここに掲載されています。