愛する兄弟姉妹の皆様、
2016年11月19日(土)に大阪で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
2016年11月19日(土)寡婦聖エリザベトのミサ
小野田神父説教
聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。今日は2016年11月19日、ハンガリーの聖エリザベトの祝日のミサをしています。
今日この御ミサの後でいつもの通り、御聖体拝領の後の感謝の祈りをいたしましょう。その後で、 5分間ほどしてからその後に、ファチマのマリア様について、1917年、今から100年前にどんな事が起こったのか、という事をお話ししたいと思っています。この前のお話しの続きなのですけれども、どうぞ聞いていって下さい。
「ハンガリーの聖エリザベト、我らの為に祈り給え。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
神聖ローマ帝国、或いはハンガリー王国はとても、その家族は王家は、多くの聖人や多くの聖女たちを生み出しました。ここでつい最近ポルトガルの女王様の聖エリザベトのお祝いをしましたけれども、今日はその伯母さんにあたる親戚の、ハンガリーの聖エリザベト女王様のそして寡婦の祝日をお祝いしています。
今日はですから、聖エリザベトという方はどんな方だったのか?どんな人生を、いつどこで、どうやって生まれてどうやって生活したのか?をまず黙想して、
その次に、聖エリザベトは一体どんな苦しみを受けたのか?どんな一番その最高潮だったのはクライマックスだったのはどんなところだったのか?聖エリザベトは3つの苦しみを受けました。
それで最後に私たちは、じゃあこの今年2016年11月19日に生きている私たちは、一体どのような遷善の決心をしなければならないのか、どうやって生きていかなければならないのか、という結論を立てる事に致しましょう。
聖エリザベトという方は、1207年ハンガリーの王様のアンドレアという使徒的王の娘として生れました。ハンガリーの王様は初代王が聖ステファノと言って、教皇様からその王冠を戴いた特別の王様で、「使徒的王」と言われています。その最後の王様がちょうど私たちが今日お話しするカール1世、福者カール1世で、今日お話しをする聖エリザベトはこのカール1世の先祖にあたります。また今日後にお話しするロシアのツァリーツァ、皇帝の皇后も、皇帝ニコライ2世の皇后アレクサンドラもやはり、ハンガリーのエリザベトをその祖先に持っています。
1207年に生まれたエリザベトは、若い頃から既にドイツのトゥリンケンという所の宮廷に送られて、そしてそこの王様となるべき公爵、「公爵」というのは、王様の次に皇太子がいますが、その皇太子の次に偉い、位の高い方で、この公爵のルイという人のもとに若くして結婚します。14歳の時に1221年に結婚して、そしてそこの王様のお城に住みます、ヴァルトブルグというお城に住みます。そしてとても良い、王様はとても良い方で、とても幸せな結婚生活をします。王様と結婚している内に子供もたくさん生まれてきました。
子供の頃からとても信心深かった聖エリザベトは、結婚してからもその信心業を忘れる事はありませんでした。たとえ王様のルイ4世のもとに結婚したとしても、いつも夜に朝早くに起きてお祈りをして、そしてお祈りの生活も決して忘れる事はありませんでした。特に貧しい人やかわいそうな人、辛い人、病気の人に対して非常に大きな憐れみの心を持っていて、自分の義務をよく果たしながらも、そのような人たちの面倒をよく見ていました。特にそのようなかわいそうな人がいると、看病したり見舞ったり、或いは孤児の子供たちを助けたり、或いは寡婦となって旦那さんが亡くなってしまったようなお母さんや奥さんの為には特別の注意を払ったり、或いは病気の人、或いは貧しい人の為に自分の持ち物を与えてしまったりしました。ある時には飢饉が起こった時には、自分の倉庫の中にあった小麦や食べ物を貧しい人や苦しむ人たちに与えました。
ある時に、その王様の財産を管理していた人が不平を言った事がります、「皇后様は、エリザベト皇后様は王様の財産を貧しい人に配って困ります」と言うと、ルイ王様は答えて、「私の妻のエリザベトには好きなようにさせてあげなさい。皇后がもしも与えたい物があれば、それを自分の好きなようにやって、ただ私の為には自分のお城のヴァルトブルグのお城と、もう1つ別のナウムブルクのお城だけを残してくれればそれで良いのだ」と言って、とても寛大にエリザベト皇后を守って、そして助けて愛してくれていました。
エリザベトもそのような夫に支えられて、お祈りと、そして奉仕と、寛大な貧しい人を助ける事に精を出しました。特に歴史家の記録によると、「その当時女王様たちは、フランスの女王様たちに負けないほどきれいな美しいドレスを着て、美しいお化粧をして着飾っていた」とありますけれども、でも貧しい人を助ける為には、その自分の身分が要求する時にはそれを使いますが、それを却ってそうではなくて、簡単な服で、作業がしやすいように助けて回ったそうです。時には癩(らい)病の人を看病して、その人を自分で自ら看病した事もありました。そしてその癩病の人の足に接吻した事もあるのだそうです。
ある時にエリザベト皇后は、その非常にこの厳しくいつも悲しそうな顔をしてお祈りや、何か隣人の愛徳の業をする人たちに、「あぁ、この人たちは何か天主様をおっかながってているのではないか。天主様は喜んで与える人にもっと寛大に喜ぶのに、何かいつも辛そうであまり喜ばない」とポロッと漏らした事もあるそうです。
そのような非常に優しい、寛大で、国民から愛されて、夫と家族円満なエリザベトでしたけれども、とても辛い事が起こりました。それは3つのポイントがあります。
1つは十字軍でした。十字軍の為に王ルイは皇帝フレデリック2世と共に、エリザベトと一緒に生活をする事ができなくなりました、軍隊に出なければなりませんでした。兵士たちを率いて戦いに出なければなりませんでした。それが王様の義務だったからです。「決して夫と離れる事がない」と思っていた、そしていつも幸せな生活をする事を喜んでいた、このように素晴らしい優しい夫に恵まれたエリザベトにとって、このルイ王と離れる事は特に辛かったのです。特に子供も3人いましたし、小さな子は数ヶ月でした。
次に第2の大きな試練は、その後に、実はルイがイタリアで、十字軍の戦いでフレデリックのもとにいる時に死亡したという、「死別した」というニュースを受けた時でした。その愛する王を失った時の聖エリザベトの悲しみは、もう私たちの想像を絶するものがありました。しかしその時には、王の女王としての服をみな脱いで、「これからは貧しく、貧しい服を着て、もう王様がいなくなったので喪に服して、そして貧しい人と身寄りのない人の奉仕の為に生きよう」と思ったそうです。
第3の十字架は、今度は今まで家族の一員であったはずの弟が、ヘンリー・ラスペという弟が、自分の夫の持っていた城を自分のものにしてしまって、そして今まで嫁に入ってきたエリザベトを追い出してしまったのです。財産を全て奪ってしまって自分のものにしてしまって、「兄嫁は出て行け」と、自分の住んでいた宮殿からお城から追い出されて、子供はその時残して行ったのですけれども、その子供さえも、遂には「出て行け」と追い出されてしまいました。しかもこの悪い事に、この弟は国民に、臣下に命令して、「この兄嫁を受け入れてはいけない。誰もその宿に宿してはいけない」などとさえも言うのです。
国民はどれほど心を痛めた事でしょうか。「この女王様こそが自分の貧しい時に助けてくれた方であって、病の時には看病してくれた方であって、この苦しい時には資金を送ってくれた方であって、これほどの大恩人を恩を返す事ができない、もしもそんな事があったら大きな罰が待っている。」そしてこの女王様は全く財産を失って、友達も失って、そして寒い冬であったとしてもその中を凍えながら、住む所を寝る所を探して行かなければなりませんでした。3人子供がいて、乳飲み子を持っていたそのお母さんにとってどれほどそれは辛い事だったでしょうか。
考えてもみてください。私たちがどこかの家にお嫁に行って、そしたら主人が亡くなった。そしたら弟がそれを、夫の家を取ってしまって「出て行け」と言われた。
エリザベトはしかし天主様の御憐れみによって、ある、それでも憐れみのある方がいて、「もう打ち捨てられた馬小屋がここにあるから、そこに休む事ができる」という事を教えてくれました。
何かイエズス様の御誕生の時にあった事と同じような事が起こりました。天主の天国の全ての宝を残して、この地上に全く貧しい者として生まれて、そして馬小屋で生まれた。
聖エリザベトも同じでした。全てこの世の人々から捨てられて、そして意地悪な悪口や、嫌みや嘲笑い、或いはもう聞くに堪えないような悪口とか言われたかもしれません。お金持ちであった時にはちやほやされたかもしれませんが、しかしこんなに貧しくなってしまっては、王様の敵となってしまっては、もう誰も助ける者もいませんでした。
それでも聖エリザベトのすごい事は、まだ20歳にならない、20歳になるかならないかのこの若い皇后は寡婦は、それを喜んで天主様の為に御捧げした、という事です。
こうしてエリザベトはその後に、夫が亡くなった後の1年後には、フランシスコ会の第3会会員に入会する事にします。そしてこれからはもっと貧しい、つぎはぎだらけの貧しい者で、そして謙遜な、病人の世話とかお掃除とか、自分の住む所はもう貧しい掘立小屋で満足していて、そして若くして24歳にして亡くなります。
亡くなった時には大きな葬儀が行われました。そして聖エリザベトのお墓ではたくさんの奇跡が起こりました。あまりにもその奇跡が目を見張るものであったので、否定できなかったそれをその事を確認した教皇様は、聖エリザベトが亡くなった4年後の1235年に、聖グレゴリオ9世教皇様が聖エリザベトを聖人の位に列聖しました。そしてこの聖エリザベトは、初代の王様である聖ステファノの名前にふさわしい立派な大聖人になったのです。聖エリザベトの娘にはやはりトゥリンケンの聖ジェルトルード、或いはその伯母さんにはヘドウィージェ、或いはその姪や姪の子供たちにはボヘミアの聖アグネスとか、ハンガリーの聖マルガリタ、或いはポーランドのクニグンデ、或いはこの前お祝いしたポーランドの聖エリザベトなどが顔を並べて、そして最後には、福者聖カール1世もその子孫としてあります。
聖エリザベトは、この世の富とこの世の栄華を全く軽蔑して、イエズス・キリスト様の愛の為に全く軽蔑して、イエズス・キリスト様を信じて、そしてそれを礼拝して、それに希望して、イエズス・キリスト様を愛して生きた方でした。
この人生はちょうど、私たちの目の前にいる天使が礼拝している、イエズス様の人生と同じものであって、そしてファチマのジャシンタやフランシスコ、或いはシスタールチアが送ったような生活であって、ファチマと同時代に生きたカール皇帝も同じように生きてきました。
私たちはでは今回、どのような遷善の決心を立てたら良いでしょうか?
今日は、私たちも聖エリザベトに倣って、私たちは聖エリザベトと比べると、その若くしてこれほどの聖徳に達した彼女と比べると、「私たちは何年も生きているにもかかわらず、何とそのほど遠いものであるか」と思いますけれども、聖エリザベトとマリア様の御取次ぎによって、この私たちの目をいつも天国の栄光に、天国のイエズス様の事に、イエズス様への愛の為に、天国にいつも眼差しを確固と定めている事ができますように、そしてこの世で辛い事が起こった、悲しい事が起こった、不正な事をされた時には、イエズス様を愛するが為に、多くの諸聖人たちに倣って、私たちもそれをイエズス様への愛の為に捧げる事ができますように、そして遂には聖エリザベトと同じように、天国の栄光の中で永久に永遠に喜ぶ事ができますように、お祈り致しましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
聖ピオ十世会日本のお説教・講話がここに掲載されています。
2016年11月19日(土)に大阪で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
2016年11月19日(土)寡婦聖エリザベトのミサ
小野田神父説教
聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。今日は2016年11月19日、ハンガリーの聖エリザベトの祝日のミサをしています。
今日この御ミサの後でいつもの通り、御聖体拝領の後の感謝の祈りをいたしましょう。その後で、 5分間ほどしてからその後に、ファチマのマリア様について、1917年、今から100年前にどんな事が起こったのか、という事をお話ししたいと思っています。この前のお話しの続きなのですけれども、どうぞ聞いていって下さい。
「ハンガリーの聖エリザベト、我らの為に祈り給え。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
神聖ローマ帝国、或いはハンガリー王国はとても、その家族は王家は、多くの聖人や多くの聖女たちを生み出しました。ここでつい最近ポルトガルの女王様の聖エリザベトのお祝いをしましたけれども、今日はその伯母さんにあたる親戚の、ハンガリーの聖エリザベト女王様のそして寡婦の祝日をお祝いしています。
今日はですから、聖エリザベトという方はどんな方だったのか?どんな人生を、いつどこで、どうやって生まれてどうやって生活したのか?をまず黙想して、
その次に、聖エリザベトは一体どんな苦しみを受けたのか?どんな一番その最高潮だったのはクライマックスだったのはどんなところだったのか?聖エリザベトは3つの苦しみを受けました。
それで最後に私たちは、じゃあこの今年2016年11月19日に生きている私たちは、一体どのような遷善の決心をしなければならないのか、どうやって生きていかなければならないのか、という結論を立てる事に致しましょう。
聖エリザベトという方は、1207年ハンガリーの王様のアンドレアという使徒的王の娘として生れました。ハンガリーの王様は初代王が聖ステファノと言って、教皇様からその王冠を戴いた特別の王様で、「使徒的王」と言われています。その最後の王様がちょうど私たちが今日お話しするカール1世、福者カール1世で、今日お話しをする聖エリザベトはこのカール1世の先祖にあたります。また今日後にお話しするロシアのツァリーツァ、皇帝の皇后も、皇帝ニコライ2世の皇后アレクサンドラもやはり、ハンガリーのエリザベトをその祖先に持っています。
1207年に生まれたエリザベトは、若い頃から既にドイツのトゥリンケンという所の宮廷に送られて、そしてそこの王様となるべき公爵、「公爵」というのは、王様の次に皇太子がいますが、その皇太子の次に偉い、位の高い方で、この公爵のルイという人のもとに若くして結婚します。14歳の時に1221年に結婚して、そしてそこの王様のお城に住みます、ヴァルトブルグというお城に住みます。そしてとても良い、王様はとても良い方で、とても幸せな結婚生活をします。王様と結婚している内に子供もたくさん生まれてきました。
子供の頃からとても信心深かった聖エリザベトは、結婚してからもその信心業を忘れる事はありませんでした。たとえ王様のルイ4世のもとに結婚したとしても、いつも夜に朝早くに起きてお祈りをして、そしてお祈りの生活も決して忘れる事はありませんでした。特に貧しい人やかわいそうな人、辛い人、病気の人に対して非常に大きな憐れみの心を持っていて、自分の義務をよく果たしながらも、そのような人たちの面倒をよく見ていました。特にそのようなかわいそうな人がいると、看病したり見舞ったり、或いは孤児の子供たちを助けたり、或いは寡婦となって旦那さんが亡くなってしまったようなお母さんや奥さんの為には特別の注意を払ったり、或いは病気の人、或いは貧しい人の為に自分の持ち物を与えてしまったりしました。ある時には飢饉が起こった時には、自分の倉庫の中にあった小麦や食べ物を貧しい人や苦しむ人たちに与えました。
ある時に、その王様の財産を管理していた人が不平を言った事がります、「皇后様は、エリザベト皇后様は王様の財産を貧しい人に配って困ります」と言うと、ルイ王様は答えて、「私の妻のエリザベトには好きなようにさせてあげなさい。皇后がもしも与えたい物があれば、それを自分の好きなようにやって、ただ私の為には自分のお城のヴァルトブルグのお城と、もう1つ別のナウムブルクのお城だけを残してくれればそれで良いのだ」と言って、とても寛大にエリザベト皇后を守って、そして助けて愛してくれていました。
エリザベトもそのような夫に支えられて、お祈りと、そして奉仕と、寛大な貧しい人を助ける事に精を出しました。特に歴史家の記録によると、「その当時女王様たちは、フランスの女王様たちに負けないほどきれいな美しいドレスを着て、美しいお化粧をして着飾っていた」とありますけれども、でも貧しい人を助ける為には、その自分の身分が要求する時にはそれを使いますが、それを却ってそうではなくて、簡単な服で、作業がしやすいように助けて回ったそうです。時には癩(らい)病の人を看病して、その人を自分で自ら看病した事もありました。そしてその癩病の人の足に接吻した事もあるのだそうです。
ある時にエリザベト皇后は、その非常にこの厳しくいつも悲しそうな顔をしてお祈りや、何か隣人の愛徳の業をする人たちに、「あぁ、この人たちは何か天主様をおっかながってているのではないか。天主様は喜んで与える人にもっと寛大に喜ぶのに、何かいつも辛そうであまり喜ばない」とポロッと漏らした事もあるそうです。
そのような非常に優しい、寛大で、国民から愛されて、夫と家族円満なエリザベトでしたけれども、とても辛い事が起こりました。それは3つのポイントがあります。
1つは十字軍でした。十字軍の為に王ルイは皇帝フレデリック2世と共に、エリザベトと一緒に生活をする事ができなくなりました、軍隊に出なければなりませんでした。兵士たちを率いて戦いに出なければなりませんでした。それが王様の義務だったからです。「決して夫と離れる事がない」と思っていた、そしていつも幸せな生活をする事を喜んでいた、このように素晴らしい優しい夫に恵まれたエリザベトにとって、このルイ王と離れる事は特に辛かったのです。特に子供も3人いましたし、小さな子は数ヶ月でした。
次に第2の大きな試練は、その後に、実はルイがイタリアで、十字軍の戦いでフレデリックのもとにいる時に死亡したという、「死別した」というニュースを受けた時でした。その愛する王を失った時の聖エリザベトの悲しみは、もう私たちの想像を絶するものがありました。しかしその時には、王の女王としての服をみな脱いで、「これからは貧しく、貧しい服を着て、もう王様がいなくなったので喪に服して、そして貧しい人と身寄りのない人の奉仕の為に生きよう」と思ったそうです。
第3の十字架は、今度は今まで家族の一員であったはずの弟が、ヘンリー・ラスペという弟が、自分の夫の持っていた城を自分のものにしてしまって、そして今まで嫁に入ってきたエリザベトを追い出してしまったのです。財産を全て奪ってしまって自分のものにしてしまって、「兄嫁は出て行け」と、自分の住んでいた宮殿からお城から追い出されて、子供はその時残して行ったのですけれども、その子供さえも、遂には「出て行け」と追い出されてしまいました。しかもこの悪い事に、この弟は国民に、臣下に命令して、「この兄嫁を受け入れてはいけない。誰もその宿に宿してはいけない」などとさえも言うのです。
国民はどれほど心を痛めた事でしょうか。「この女王様こそが自分の貧しい時に助けてくれた方であって、病の時には看病してくれた方であって、この苦しい時には資金を送ってくれた方であって、これほどの大恩人を恩を返す事ができない、もしもそんな事があったら大きな罰が待っている。」そしてこの女王様は全く財産を失って、友達も失って、そして寒い冬であったとしてもその中を凍えながら、住む所を寝る所を探して行かなければなりませんでした。3人子供がいて、乳飲み子を持っていたそのお母さんにとってどれほどそれは辛い事だったでしょうか。
考えてもみてください。私たちがどこかの家にお嫁に行って、そしたら主人が亡くなった。そしたら弟がそれを、夫の家を取ってしまって「出て行け」と言われた。
エリザベトはしかし天主様の御憐れみによって、ある、それでも憐れみのある方がいて、「もう打ち捨てられた馬小屋がここにあるから、そこに休む事ができる」という事を教えてくれました。
何かイエズス様の御誕生の時にあった事と同じような事が起こりました。天主の天国の全ての宝を残して、この地上に全く貧しい者として生まれて、そして馬小屋で生まれた。
聖エリザベトも同じでした。全てこの世の人々から捨てられて、そして意地悪な悪口や、嫌みや嘲笑い、或いはもう聞くに堪えないような悪口とか言われたかもしれません。お金持ちであった時にはちやほやされたかもしれませんが、しかしこんなに貧しくなってしまっては、王様の敵となってしまっては、もう誰も助ける者もいませんでした。
それでも聖エリザベトのすごい事は、まだ20歳にならない、20歳になるかならないかのこの若い皇后は寡婦は、それを喜んで天主様の為に御捧げした、という事です。
こうしてエリザベトはその後に、夫が亡くなった後の1年後には、フランシスコ会の第3会会員に入会する事にします。そしてこれからはもっと貧しい、つぎはぎだらけの貧しい者で、そして謙遜な、病人の世話とかお掃除とか、自分の住む所はもう貧しい掘立小屋で満足していて、そして若くして24歳にして亡くなります。
亡くなった時には大きな葬儀が行われました。そして聖エリザベトのお墓ではたくさんの奇跡が起こりました。あまりにもその奇跡が目を見張るものであったので、否定できなかったそれをその事を確認した教皇様は、聖エリザベトが亡くなった4年後の1235年に、聖グレゴリオ9世教皇様が聖エリザベトを聖人の位に列聖しました。そしてこの聖エリザベトは、初代の王様である聖ステファノの名前にふさわしい立派な大聖人になったのです。聖エリザベトの娘にはやはりトゥリンケンの聖ジェルトルード、或いはその伯母さんにはヘドウィージェ、或いはその姪や姪の子供たちにはボヘミアの聖アグネスとか、ハンガリーの聖マルガリタ、或いはポーランドのクニグンデ、或いはこの前お祝いしたポーランドの聖エリザベトなどが顔を並べて、そして最後には、福者聖カール1世もその子孫としてあります。
聖エリザベトは、この世の富とこの世の栄華を全く軽蔑して、イエズス・キリスト様の愛の為に全く軽蔑して、イエズス・キリスト様を信じて、そしてそれを礼拝して、それに希望して、イエズス・キリスト様を愛して生きた方でした。
この人生はちょうど、私たちの目の前にいる天使が礼拝している、イエズス様の人生と同じものであって、そしてファチマのジャシンタやフランシスコ、或いはシスタールチアが送ったような生活であって、ファチマと同時代に生きたカール皇帝も同じように生きてきました。
私たちはでは今回、どのような遷善の決心を立てたら良いでしょうか?
今日は、私たちも聖エリザベトに倣って、私たちは聖エリザベトと比べると、その若くしてこれほどの聖徳に達した彼女と比べると、「私たちは何年も生きているにもかかわらず、何とそのほど遠いものであるか」と思いますけれども、聖エリザベトとマリア様の御取次ぎによって、この私たちの目をいつも天国の栄光に、天国のイエズス様の事に、イエズス様への愛の為に、天国にいつも眼差しを確固と定めている事ができますように、そしてこの世で辛い事が起こった、悲しい事が起こった、不正な事をされた時には、イエズス様を愛するが為に、多くの諸聖人たちに倣って、私たちもそれをイエズス様への愛の為に捧げる事ができますように、そして遂には聖エリザベトと同じように、天国の栄光の中で永久に永遠に喜ぶ事ができますように、お祈り致しましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
聖ピオ十世会日本のお説教・講話がここに掲載されています。