アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
2016年12月16日(金)に大阪で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
2016年12月16日 待降節の四季の斎日 金曜日のミサ
小野田神父 説教
聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2016年12月16日、待降節の四季の斎日の金曜日の御ミサをしています。聖エウゼビオの殉教者の記念を行っております。今日は四季の斎日の金曜日ですので、聖ピオ十世会ではこの金曜日と土曜、水・金・土と大小斎を守らなければなりません。これは日本では決まりはありませんが、もしも一緒にこの犠牲を捧げたいと思う方はどうぞなさって下さい。
今日は平日のミサを歌ミサをしています。序誦のトーンが荘厳調からFerial Tone、平日の調子になります。何か耳で聞いたところではこの死者ミサとかで使われるような調子になります。どうぞご了解下さい。今日のこの御ミサの後にいつものように聖体拝領の後の祈りをして、終課を一緒に唱える事に致しましょう。明日も朝10時30分からミサがあります。
来週もミサがあります。来週は木・金・土と続けてミサがあります。木曜日は18時00分から、金曜日は祝日ですので10時30分から、金曜日23日天皇誕生日には10時30分から、土曜日にはやはり10時30分からミサがあります。特に土曜日には2人の方が洗礼を受けようと今準備されているので、どうぞ良い洗礼式がなされるように皆さんの心からのお祈りをお願い致します。
「胎内で、私の子供が喜びに踊った。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、今日は四季の斎日の金曜日で、ここではマリア様の御訪問の部分を読みました。これは四季の斎日の水・金・土と続くシリーズのその真ん中で、第1が天使の御告げ、第2場面の金曜日がこの御訪問、第3は洗者聖ヨハネがその主の道を準備する、という3つの場面の内の1つです。
そこで今日は聖福音に従って、教会の精神に従って、待降節の主な3つの登場人物を見て黙想しましょう。
1つはイザヤ、預言者イザヤです。これは遙か旧約の時代から、「主が来る」という事を告げた方です。今日の書簡はイザヤの預言書から取られています。
第2が洗者聖ヨハネです。主の道を準備する為に送られた洗者聖ヨハネです。
第3がマリア様です。
今日のこのミサでは、この3人が主の道を準備する為に私たちに遣わされて来ました。
預言者イザヤは私たちに、「イエッセの枝から花が咲く。イエッセの根から枝が出て、それに花が咲く。」この「枝」というのはマリア様の事で、この「花」はイエズス様の事です。
「この花の上に7つの霊が留まる。」聖霊の7つの賜物をイザヤはここで言及します。イエズス様は私たちをこの聖霊の7つの賜物の精神に従って贖おうとされます。
実は明日から、「O Antifona」という有名なAntifonaを晩課の時に、MagnificatのAntifonaとして歌うのですけれども、「この7つのAntifonaは、7つの聖霊の賜物の事を意味している」と言われています。
第2の登場人物は洗者聖ヨハネです。洗者聖ヨハネは私たちに、「主を、イエズス様をどのように受け入れるべきか」という事を教えてくれます。
マリア様の声を聞くと、既に洗者聖ヨハネは「胎内で喜びに踊った」と聖エリザベトは言っています。イエズス様の到来をすでに理解して、洗者聖ヨハネはその御恵みを受けて喜びに踊ったのでした。実はこのGaudeteの主日、待降節第3主日では、やはりこの「喜び」という事がテーマでした。洗者聖ヨハネは私たちにこの喜びを教えています。
この喜びは、この地上の事の喜びで、地上の快楽とか、地上の持ち物をたくさん詰め込んだ積み上げた、かき集めたから喜んだのではなく、美味しいものを食べたから、きれいな服を着たから、褒められたからではなく、人間からちやほやされたから喜ぶのではなく、そうではなくて、「主によって私たちが罪を赦されて、永遠の命を受ける事ができる、永遠の命の為に、主が私たちの為に近くに来られた、私たちの為に与えられた」という超自然の喜びです。
この喜びは、この地上の多くの場合、地上の喜びとの引き換えに与えられるものです。私たちが十字架と犠牲と祈りを捧げる事によって、多くの場合与えられる超自然の喜びです。
この喜びを与える為に、私たちの主は来られました。今日のミサの入祭誦では、「主は、すぐ近くに来られている」と言っています。私たちはですからますます喜ばなければなりません。
洗者聖ヨハネは聖人になって、ユダヤの人たちに洗礼を授けながらこう言う事でしょう、「主の道を正しくせよ。主の道を準備せよ。救い主は来られる。」ある時にはこう言います、「お前たちの中に既に、あなたたちが知らない者が来ている。主は救い主は来ているのだけれども、お前たちはその事を知らない」と。ユダヤ人たちにとってはなんという厳しい叱責の言葉だったでしょうか。
洗者聖ヨハネは子供の時からイエズス様が訪問されて、胎内にいた時からすでに主を知って、主が来られたという事で喜び踊ったにもかかわらず、ユダヤ人たちは主がこんなに近くにその彼らの間に在す事、居るにもかかわらず、全く知らずに無関心で、その事に気が付かずに、その何の事もなかったかのようにしていたからです。
私たちは洗者聖ヨハネに是非お祈りしなければなりません。私たちも洗者聖ヨハネのように敏感にイエズス様の御降来を感じ取って、「イエズス様が来られた!」と私たちが喜ぶ事ができますように。ユダヤ人たちのように無関心や、或いはバーゲンセールとかクリスマスセールの事だけで、その本質を見失う事がないように、超自然の喜びに満たされる事ができますように。洗者聖ヨハネが私たちに、「あぁ、イエズス様は私たちの所に実は来ているのに、お前たちは分かっていない」と叱責する事がないように、主を認める事ができるようにお祈り致しましょう。
と言っても私たちは実は、洗者聖ヨハネが言っているように、主が私たちの中におられる、例えばミサの時に私たちと共におられる、或いは御聖体において私たちの中に来られるとしても、「実は、本当は主がどれほど私たちを愛しておられるのか、私たちの為にどれほど愛に燃えておられるのかについてよく分かっていない」と言わなければなりません。
イエズス様は永遠の昔から、私たちを愛するがあまり、無から私たちを創造されました、天主の命を与える為に。私たちの祖先がその天主の計画を破壊して、「嫌だ!」と言ったにもかかわらず、私たちの全人類の罪を償う為に、敢えて苦しむ為に、死を受ける為に、幼い子供となって来ようとされました。この無限の愛と憐れみを、私たちは言葉では知っていますが、でも本当のところそれがどれほど深いものか、よく理解し尽くしていないと言わざるを得ません。
イエズス様が無限の天主であって、そのイエズス様の前には天使たちが、何千何万もの天使たちが膝をかがめて、「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」と日々永久に讃美しているその天主様が、私たちを愛するが為に、寒い馬小屋で、貧しく赤子として、生まれる所もなく、それでもお生まれになろうとされたその無限の愛を、私たちは完全に理解し尽くす事はできないと言わなければなりません。
そればかりではありません。私たちを愛するがあまりに人間となったのみか、十字架の上に付けられて、尊き御血潮を全て流し尽くして、私たちが本当ならば受けなければならない苦しみを、罪の償いを果たし尽くして、さらにその聖心を開いて、「さぁ、私の心の中に聖心の中に入っておいで。傷の中から私の中に入っておいで。永遠の命をあげよう。罪を赦そう。さぁ、私はその為に、お前の為にやって来た。さぁ、その為に生まれて来たのだ」と招いておられるイエズス様の愛を、憐れみを、私たちは理解し尽くす事はできません。
イエズス様のその無限の愛は、更に、私たちの中に生まれる為に、私たちと共にいる為に、本当にエンマヌエルとなる為に、御聖体さえも作り出して、私たちと共に1つになりたいと思いました。
洗者聖ヨハネが、「お前たちの中に、お前たちの知らない人が立っている。イエズス様の無限の愛をお前たちは知らない」と言っても、それも無限の愛かもしれません。洗者聖ヨハネに是非、イエズス様の愛を理解させて下さるようにお祈り致しましょう。イエズス様の道を準備する事ができるお恵みを乞い求めましょう。
第3の方はマリア様です。マリア様はイエズス様を抱いて、イエズス様と共にイエズス様を携えて聖エリザベトをまず訪問されました。天使のお告げを受けてすぐに発って急いで山を通って、3日かかって、長い道のりを歩いてエリザベトの家まで行きました。聖エリザベトはすぐにマリア様とイエズス様の事を理解しました。「あぁ、主の御母が私の所を訪問してくれるなんて、それはなんて偉大な事でしょうか!」
マリア様は私たちに、イエズス様を持って私たちにイエズス様を下さいます。もしもクリスマスに御降誕の御恵みを私たちが受けるならば、受けたいと思うならば、超自然の喜びを受けたいと思うならば、イエズス様の御恵みの御訪問を受けたいと思うならば、御降誕のその御恵みの聖寵の深みにますます浸透したいと思うならば、マリア様をまず喜んで迎えなければなりません。マリア様を喜んで迎える事によって初めて、イエズス様が私たちに御恵みをもたらす事ができるからです。
マリア様は「山を通ってユダヤの街に行った」と書かれていますが、教父は、「この『急いで山に向かった』というのは、『山』というのはキリストの事だから、マリア様はキリストに向かって行ったのだ」と解釈しました。私たちもキリストに向かって早く急いで向かわなければなりません。御降誕の喜びを受け入れる準備をしなければなりません。
もしも聖ヨハネがマリア様の訪問を受けてこれほど喜んだのならば、私たちにこの喜びを今、今日四季の斎日の金曜日に私たちにこの喜びを伝えようとするならば、「主は近い」とその喜びを伝えようとするならば、私たちはこの喜びにどっぷりと浸る事に致しましょう。主は私たちに無限の愛を持って来ておられます。その主はもうすぐに私たちの門のすぐ近くに立って、扉を叩こうとしています、「さぁ、大きな贈り物を持ってやって来た。さぁ、私が入るのを許してほしい」と。喜んでドアを大きく開けて、「イエズス様、すぐ来て下さい、私の心に入って来て下さい!私がイエズス様のその愛の深さを喜びをもって理解する事ができるように御恵みを下さい!」とお願い致しましょう。
もしも既に、クリスマスの前からこれほどの喜びを教会が私たちに与えたいと思うならば、クリスマスの日はどれほど喜びに満たされる事でしょうか。天国で永遠のクリスマスを迎える時には、その天上の喜びはどれほど偉大な事でしょうか。私たちが本当に主の愛を、無限の愛を理解して、それを目の前に見て、永遠も足りないほど日々主の憐れみと愛に、無限の愛に讃美する事ができる喜びはどれほど大きな事でしょうか。
その準備の為に、ぜひ洗者聖ヨハネとマリア様に準備のお恵みを乞い求めましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
聖ピオ十世会日本のお説教・講話がここに掲載されています。
愛する兄弟姉妹の皆様、
2016年12月16日(金)に大阪で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
2016年12月16日 待降節の四季の斎日 金曜日のミサ
小野田神父 説教
聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2016年12月16日、待降節の四季の斎日の金曜日の御ミサをしています。聖エウゼビオの殉教者の記念を行っております。今日は四季の斎日の金曜日ですので、聖ピオ十世会ではこの金曜日と土曜、水・金・土と大小斎を守らなければなりません。これは日本では決まりはありませんが、もしも一緒にこの犠牲を捧げたいと思う方はどうぞなさって下さい。
今日は平日のミサを歌ミサをしています。序誦のトーンが荘厳調からFerial Tone、平日の調子になります。何か耳で聞いたところではこの死者ミサとかで使われるような調子になります。どうぞご了解下さい。今日のこの御ミサの後にいつものように聖体拝領の後の祈りをして、終課を一緒に唱える事に致しましょう。明日も朝10時30分からミサがあります。
来週もミサがあります。来週は木・金・土と続けてミサがあります。木曜日は18時00分から、金曜日は祝日ですので10時30分から、金曜日23日天皇誕生日には10時30分から、土曜日にはやはり10時30分からミサがあります。特に土曜日には2人の方が洗礼を受けようと今準備されているので、どうぞ良い洗礼式がなされるように皆さんの心からのお祈りをお願い致します。
「胎内で、私の子供が喜びに踊った。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、今日は四季の斎日の金曜日で、ここではマリア様の御訪問の部分を読みました。これは四季の斎日の水・金・土と続くシリーズのその真ん中で、第1が天使の御告げ、第2場面の金曜日がこの御訪問、第3は洗者聖ヨハネがその主の道を準備する、という3つの場面の内の1つです。
そこで今日は聖福音に従って、教会の精神に従って、待降節の主な3つの登場人物を見て黙想しましょう。
1つはイザヤ、預言者イザヤです。これは遙か旧約の時代から、「主が来る」という事を告げた方です。今日の書簡はイザヤの預言書から取られています。
第2が洗者聖ヨハネです。主の道を準備する為に送られた洗者聖ヨハネです。
第3がマリア様です。
今日のこのミサでは、この3人が主の道を準備する為に私たちに遣わされて来ました。
預言者イザヤは私たちに、「イエッセの枝から花が咲く。イエッセの根から枝が出て、それに花が咲く。」この「枝」というのはマリア様の事で、この「花」はイエズス様の事です。
「この花の上に7つの霊が留まる。」聖霊の7つの賜物をイザヤはここで言及します。イエズス様は私たちをこの聖霊の7つの賜物の精神に従って贖おうとされます。
実は明日から、「O Antifona」という有名なAntifonaを晩課の時に、MagnificatのAntifonaとして歌うのですけれども、「この7つのAntifonaは、7つの聖霊の賜物の事を意味している」と言われています。
第2の登場人物は洗者聖ヨハネです。洗者聖ヨハネは私たちに、「主を、イエズス様をどのように受け入れるべきか」という事を教えてくれます。
マリア様の声を聞くと、既に洗者聖ヨハネは「胎内で喜びに踊った」と聖エリザベトは言っています。イエズス様の到来をすでに理解して、洗者聖ヨハネはその御恵みを受けて喜びに踊ったのでした。実はこのGaudeteの主日、待降節第3主日では、やはりこの「喜び」という事がテーマでした。洗者聖ヨハネは私たちにこの喜びを教えています。
この喜びは、この地上の事の喜びで、地上の快楽とか、地上の持ち物をたくさん詰め込んだ積み上げた、かき集めたから喜んだのではなく、美味しいものを食べたから、きれいな服を着たから、褒められたからではなく、人間からちやほやされたから喜ぶのではなく、そうではなくて、「主によって私たちが罪を赦されて、永遠の命を受ける事ができる、永遠の命の為に、主が私たちの為に近くに来られた、私たちの為に与えられた」という超自然の喜びです。
この喜びは、この地上の多くの場合、地上の喜びとの引き換えに与えられるものです。私たちが十字架と犠牲と祈りを捧げる事によって、多くの場合与えられる超自然の喜びです。
この喜びを与える為に、私たちの主は来られました。今日のミサの入祭誦では、「主は、すぐ近くに来られている」と言っています。私たちはですからますます喜ばなければなりません。
洗者聖ヨハネは聖人になって、ユダヤの人たちに洗礼を授けながらこう言う事でしょう、「主の道を正しくせよ。主の道を準備せよ。救い主は来られる。」ある時にはこう言います、「お前たちの中に既に、あなたたちが知らない者が来ている。主は救い主は来ているのだけれども、お前たちはその事を知らない」と。ユダヤ人たちにとってはなんという厳しい叱責の言葉だったでしょうか。
洗者聖ヨハネは子供の時からイエズス様が訪問されて、胎内にいた時からすでに主を知って、主が来られたという事で喜び踊ったにもかかわらず、ユダヤ人たちは主がこんなに近くにその彼らの間に在す事、居るにもかかわらず、全く知らずに無関心で、その事に気が付かずに、その何の事もなかったかのようにしていたからです。
私たちは洗者聖ヨハネに是非お祈りしなければなりません。私たちも洗者聖ヨハネのように敏感にイエズス様の御降来を感じ取って、「イエズス様が来られた!」と私たちが喜ぶ事ができますように。ユダヤ人たちのように無関心や、或いはバーゲンセールとかクリスマスセールの事だけで、その本質を見失う事がないように、超自然の喜びに満たされる事ができますように。洗者聖ヨハネが私たちに、「あぁ、イエズス様は私たちの所に実は来ているのに、お前たちは分かっていない」と叱責する事がないように、主を認める事ができるようにお祈り致しましょう。
と言っても私たちは実は、洗者聖ヨハネが言っているように、主が私たちの中におられる、例えばミサの時に私たちと共におられる、或いは御聖体において私たちの中に来られるとしても、「実は、本当は主がどれほど私たちを愛しておられるのか、私たちの為にどれほど愛に燃えておられるのかについてよく分かっていない」と言わなければなりません。
イエズス様は永遠の昔から、私たちを愛するがあまり、無から私たちを創造されました、天主の命を与える為に。私たちの祖先がその天主の計画を破壊して、「嫌だ!」と言ったにもかかわらず、私たちの全人類の罪を償う為に、敢えて苦しむ為に、死を受ける為に、幼い子供となって来ようとされました。この無限の愛と憐れみを、私たちは言葉では知っていますが、でも本当のところそれがどれほど深いものか、よく理解し尽くしていないと言わざるを得ません。
イエズス様が無限の天主であって、そのイエズス様の前には天使たちが、何千何万もの天使たちが膝をかがめて、「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」と日々永久に讃美しているその天主様が、私たちを愛するが為に、寒い馬小屋で、貧しく赤子として、生まれる所もなく、それでもお生まれになろうとされたその無限の愛を、私たちは完全に理解し尽くす事はできないと言わなければなりません。
そればかりではありません。私たちを愛するがあまりに人間となったのみか、十字架の上に付けられて、尊き御血潮を全て流し尽くして、私たちが本当ならば受けなければならない苦しみを、罪の償いを果たし尽くして、さらにその聖心を開いて、「さぁ、私の心の中に聖心の中に入っておいで。傷の中から私の中に入っておいで。永遠の命をあげよう。罪を赦そう。さぁ、私はその為に、お前の為にやって来た。さぁ、その為に生まれて来たのだ」と招いておられるイエズス様の愛を、憐れみを、私たちは理解し尽くす事はできません。
イエズス様のその無限の愛は、更に、私たちの中に生まれる為に、私たちと共にいる為に、本当にエンマヌエルとなる為に、御聖体さえも作り出して、私たちと共に1つになりたいと思いました。
洗者聖ヨハネが、「お前たちの中に、お前たちの知らない人が立っている。イエズス様の無限の愛をお前たちは知らない」と言っても、それも無限の愛かもしれません。洗者聖ヨハネに是非、イエズス様の愛を理解させて下さるようにお祈り致しましょう。イエズス様の道を準備する事ができるお恵みを乞い求めましょう。
第3の方はマリア様です。マリア様はイエズス様を抱いて、イエズス様と共にイエズス様を携えて聖エリザベトをまず訪問されました。天使のお告げを受けてすぐに発って急いで山を通って、3日かかって、長い道のりを歩いてエリザベトの家まで行きました。聖エリザベトはすぐにマリア様とイエズス様の事を理解しました。「あぁ、主の御母が私の所を訪問してくれるなんて、それはなんて偉大な事でしょうか!」
マリア様は私たちに、イエズス様を持って私たちにイエズス様を下さいます。もしもクリスマスに御降誕の御恵みを私たちが受けるならば、受けたいと思うならば、超自然の喜びを受けたいと思うならば、イエズス様の御恵みの御訪問を受けたいと思うならば、御降誕のその御恵みの聖寵の深みにますます浸透したいと思うならば、マリア様をまず喜んで迎えなければなりません。マリア様を喜んで迎える事によって初めて、イエズス様が私たちに御恵みをもたらす事ができるからです。
マリア様は「山を通ってユダヤの街に行った」と書かれていますが、教父は、「この『急いで山に向かった』というのは、『山』というのはキリストの事だから、マリア様はキリストに向かって行ったのだ」と解釈しました。私たちもキリストに向かって早く急いで向かわなければなりません。御降誕の喜びを受け入れる準備をしなければなりません。
もしも聖ヨハネがマリア様の訪問を受けてこれほど喜んだのならば、私たちにこの喜びを今、今日四季の斎日の金曜日に私たちにこの喜びを伝えようとするならば、「主は近い」とその喜びを伝えようとするならば、私たちはこの喜びにどっぷりと浸る事に致しましょう。主は私たちに無限の愛を持って来ておられます。その主はもうすぐに私たちの門のすぐ近くに立って、扉を叩こうとしています、「さぁ、大きな贈り物を持ってやって来た。さぁ、私が入るのを許してほしい」と。喜んでドアを大きく開けて、「イエズス様、すぐ来て下さい、私の心に入って来て下さい!私がイエズス様のその愛の深さを喜びをもって理解する事ができるように御恵みを下さい!」とお願い致しましょう。
もしも既に、クリスマスの前からこれほどの喜びを教会が私たちに与えたいと思うならば、クリスマスの日はどれほど喜びに満たされる事でしょうか。天国で永遠のクリスマスを迎える時には、その天上の喜びはどれほど偉大な事でしょうか。私たちが本当に主の愛を、無限の愛を理解して、それを目の前に見て、永遠も足りないほど日々主の憐れみと愛に、無限の愛に讃美する事ができる喜びはどれほど大きな事でしょうか。
その準備の為に、ぜひ洗者聖ヨハネとマリア様に準備のお恵みを乞い求めましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
聖ピオ十世会日本のお説教・講話がここに掲載されています。