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Channel: Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた
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全ての人は、主の救いを見るだろう。

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2016年12月17日(土)に大阪で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2016年12月17日 待降節の四季の斎日 土曜日のミサ
小野田神父 説教
聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2016年12月17日、待降節の四季の斎日の土曜日です。このミサの後に、いつものように公教要理を提案します。

来週もミサがあります。木・金・土、12月22日・23日・24日で、23日は国民の祝日で天皇陛下の誕生日ですので、午前中の10時30分からあります。24日は土曜日でいつものように、クリスマスイブで10時30分からあります。9時からは洗礼を受ける方が2人いらっしゃいますので、たくさんお祈りをなさって下さい。24日の夜の午後の21時からクリスマスの朝課、主の御降誕の聖務日課の朝課をグレゴリオ聖歌で歌って、そして真夜中の24日の午後11時59分から、25日の0時の1分前から司祭がここを入場して、イエズス様を置いて、そしてミサを始めようと思っています。どうぞいらして下さい。日本の公教会の規定によると、12月25日のクリスマスは守るべき祝日ですので、是非いらして下さい。
聖ピオ十世会では、四季の斎日と、そしてクリスマスの前日12月24日は、大小斎の日ですので、もしも皆さん守る事ができれば一緒に大小斎を守って下さい。



“Videbit omnis caro salutare Dei. ”
「全ての人は、主の救いを見るだろう。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日は四季の斎日の土曜日のミサを捧げています。今日私も生まれて初めて、全て最初から最後までグレゴリオ聖歌でこの四季の斎日を歌ミサでする事ができて、この四季の斎日のミサの中に深く入る事にしましょう。

そこで今日は、この四季の斎日がどういう歴史を持っていて、どんなに特別のミサだったのか、何でこんなに長かったのか、一体四季の斎日のこの土曜日のミサの特徴は一体何なのか、それを黙想し、

何でこんなお祈りをして、こんなに読書をするのかを黙想し、

最後に、私たちがクリスマスの日まで、イエズス様の御降誕まで、どんな気持ちで、どんな心の準備をして、準備しなければ御降誕を迎えなければならないか、という遷善の決心を立てる事に致しましょう。


皆さんも今日、今見た通り、今日の四季の斎日のミサはとても特別です。何故かというと、たくさんの読書と、聖歌と、お祈りがあって、たくさん跪いたり、たくさん立ったり座ったりしたからです。

何故かというとこれは、昔々から迫害時代から、カトリック教会の初期の時代からローマでは、12月のこの日にだけ叙階式を行っていたのです。

叙階式をどこで行ったかというと、聖ペトロが殉教したそのバチカンの丘で、そこで行いました。何故かというと、この聖ペトロの大聖堂が一番ローマの中で大きくて、叙階をしようとする何百人もの聖職者たちを受けて、そしてその家族たちを受け入れる事ができるからです。

考えてもみて下さい。トンスラを今日受ける人が500名、守門になる人が600名、或いは読師になる人が400名、等々と何百名の人たちが代わる代わるにこう叙階を受けていって、そして唯一の、この初期の段階では唯一の12月の叙階の日でした。

そこで後には、四季の斎日の土曜日には叙階式をするようになったとしても、この12月だけは特別の機会でした。そこで復活祭の夜と同じように、四季の斎日のこの土曜日も特別な日として設定されていました。ちょうど聖週間の聖土曜日にはミサが無いように、実はこの四季の斎日のこの土曜日にもミサが無くて、ちょうど復活祭の徹夜祭の夜中に洗礼式があって、大人が多く洗礼を受けたように、ちょうどこの12月の四季の斎日の土曜日に、多くの人々が聖職者となり、そして司祭となり、叙階を受けていったのです。

そして古代から、この1日中この四季の斎日の土曜日には、断食をして、お祈りして、そして夜中からこのミサを始めて、次々と叙階をしていって、そして叙階式が終わってミサが終わる頃には、長い長い長い、今でもエコンでは叙階式が3時間とか4時間かかりますけれども、その人数の多さやその儀式の長さから、ちょうどこのミサが終わる頃に夜明けになって、そして実は主日のミサと同じように考えられていたのです。

そこで今日のミサには、「夜中、夜」というのと、「光」という、2つの事がよくテーマになっています。まさにここにこそ、待降節、イエズス様を救い主を待っている夜中の夜の状態が、イエズス様の正義の太陽の到来によって照らされる、という事を私たちが実感する事ができるように、典礼は配慮されていたのでした。

ではこの今日のミサの特徴というのは、待降節とクリスマスが一緒になっているような凝縮された、ギュッと詰まっているようなもので、待降節の長い暗闇の中を長い叙階式で過ごした後に、寒くてお腹が減ってもうヘトヘトで、お祈りして、そうするとミサが終わった頃に夜明けがあって、御聖体も拝領できて、そして「あぁ、イエズス様が来られた。喜びに喜べ」というその待降節が凝縮された形である、というのが少し外観できたかと思いますが、では詳しく、パッと空を飛ぶようにミサを眺めてみます。

すると入祭誦では、「来て、そして御身の御顔を見せて下さい。」「キリストの光を輝かせて下さい。御降誕の光を私たちに輝かせて下さい」と願っている教会の姿があります。

集祷文では、5つの集祷文の中には、「主の御来臨」とか、或いは「主の御誕生」とか、或いはまたもう1つ「御来臨」「すぐ近くに来ている」「お祝い」とか「主の訪れ」として、「主が私たちを訪れて下さる」という、御降誕を待ち望む待降節の気分が深く入っています。

読書は5つあって、その内の4つはイザヤの書から取られています。イザヤというのは、預言者イザヤは待降節の重要な人物です。来たるべき救い主を告げ知らせるべき、準備させるべき重要な人物ですから、ここで取られています。

最初の読書では、「光が、エジプトの暗い異教の地に照らされて、そして彼らが癒やされる」という事が読まれますが、これはこの「光」というのが「イエズス様の救い」の事を表しています。

第2の読書では、「救い主が来られる事によって天主の新しい王国ができて、そこは新しいエデンとなる。その新しいエデンではこんなに美しい奇跡的な平和が起こる」という事が描かれています。

そして第3の預言では、「勝利者がこの地上に来られる。救い主が来られる」と預言されています。

第4の預言では、「アッシリアの」バルバロ神父様のミサ典書では「チロ」と書かれていますが、或いは「キロ」とか或いは「キルス」という王様がいるのですけれども、この方がバビロンにいたユダヤ人たちを聖地に返すので、救い主の典型、この前表として理解されています。そこでこの、「ちょうどこのキロが捕囚の状態から解放したように、イエズス・キリストももうすぐやって来て、私たちの悪魔の囚われの状態から解放して下さる」という預言をしています。

歌われるのは詩編の18番から取られているのですけれども、バルバロ神父様のミサ典書にはこの番号が少し、18ではなく78となっているのですけども、実は本当は18番なのです。そしてそこから取られていますが、「太陽が、夜のテントから所から出てきて燦然と輝く。」つまり、「マリア様から生まれて、燦然と正義の太陽イエズス様が輝く」とか、或いは「花嫁が自分の寝床から出てくる」とか、或いはイエズス様のシンボルである「太陽がすぐやって来る」という事が歌われます。

もちろんこれは、叙階式が終わって、この夜のミサが終わった後に朝日が昇る、というその事も暗示しています。「待降節の暗闇の次に、御降誕の光が来る」という事の暗示です。

最後の第5のダニエル書は、これは四季の斎日の土曜日には必ず最後に読まれるもので、これは「3人の子供たちが竈に入れられるんだけれども、決して傷を受けずに讃美の歌を歌った」というものです。これは古代から、復活とそして殉教のイメージとしていつも考えられていました。

書簡では、「イエズス様、キリストが戻られる」という事が読まれます。「イエズス・キリスト様は私たちを裁く為に再臨する」と。「しかし、イエズス様が来られる前にものすごい暗闇があるだろう、反キリストの時代があるだろう。しかし、イエズス様がその御自分の光を以てその暗闇を打ち払い、そして勝利する。」これもやはり、夜から朝日が昇る、或いは待降節がクリスマスの光によって、御降誕の光によって変わる、という事を意味しています。

次に福音では、「先駆者がやって来た。歴史的にどこの地方で、正確にどこの国で、どこの場所で、何年何月何日、誰の王の時代に、」詳しい状況のうちに、「さぁ、先駆者聖ヨハネが説教を始めた。救い主の到来を告げ知らせた。主の道を準備するように話し始めた。さぁ、王は近い。王の御光来を告げ知らせる前触れがラッパを鳴らしてきた。さぁ、王は王様はすぐ近くに待っている、すぐ来る」と。「主の道を早く準備しなければならない。」

そこでこれから説教の後に歌われる奉献では、「シオンの娘よ、喜べ。エルサレムの娘よ、さぁ告げ知らせよ。主は近い、主は来る。もうすぐだ、喜べ」と、喜びの伝えを私たちに知らせています。

ここで、ミサの前半の部分で待降節の準備が終わりで、これからミサのいけにえが捧げられます。イエズス様は確かに、私たちの御前にパンの姿で、パンとブドウ酒の外見を持ってお生まれになります。私たちの御元に近寄ります。そして御恵みをもって私たちを照らして下さいます。どれほど喜ばなければならない事でしょうか。

イエズス様のその一体、イエズス様が一体どなたかを考えれば考えるほど、イエズス様が私たちをどれほど愛して下さっているか、その愛の巨大さを考えれば考えるほど、イエズス様が「私たちのもとに来たい」という望みの巨大さを考えれば考えるほど、イエズス様が私たちに「恵みたい」と思っているその御恵みの莫大さを思えば思うほど、私たちはどれほど感謝をしなければならないでしょうか、喜ばなければならないでしょうか。

「シオンの娘よ、喜べ。エルサレムの娘よ、喜べ。新大阪の聖母の汚れなき御心の娘たちよ、喜べ」と。イエズス様が私たちの心に生まれるという事が、今現実のものとなりつつあるのです。いけにえを捧げる事によって、ミサのいけにえによって、イエズス様は到来されるのです。

「王は来たり給うた。お前たちの為に来たり給うた。もう聖なる方、救い主、王の王は、他でもないお前たちの為に来たのだ」とミサは歌っています。

そして御聖体拝領の祈りではやはり、「太陽は昇った。奇跡の太陽は私たちの所に来た。そして高く、その天のいと高き所からまたもっといと高き所まで私たちを照らし出す。」そして実に周りを見ると、本当に太陽が上がってきた、明るくなってきた、夜明けだ、さぁ、もうクリスマスだ、喜ぼう。

これがこのミサの特別の作りとなっています。

そして私たちに何をメッセージで教えたいかというと、「喜び」なのです。「キリストは御降誕は近い。イエズス様の御降臨は近い。」

皆さん、実はこの前の主日はGaudeteの主日と言っていて、その時にはカトリックの典礼では非常に例外的に、紫の祭服ではなくバラ色の祭服を着るように司祭に命じました。何故かというとこの「紫」は、「罪の痛悔」とか「悔悛」とか、その罪を犯してしまったという事の悲しみと悔悛のしるしであって、償いと苦悩の苦行のしるしですけれども、「まあ、そんなに悲しむな。主は近い。だから白が混ざった、喜びの白が混ざったバラ色でもう喜ぶように」とさえも教えていました。典礼の色さえも変えて、私たちに喜びを伝えようとしました。

今日の四季の斎日のこの土曜日は、別の形で私たちにその喜びを伝えています。

では、今日はどのような決心を立てなければならないでしょうか?

私たちもますます、この待降節の精神に深く入って、主の御降臨を喜びに喜んで待ち望む事に致しましょう。クリスマスの日には悲しくあってはいけません。クリスマスの日には今の喜びをはるかに超えた喜びでなければなりません。そしてこのクリスマスの大きな喜びを既に私たちは感じ取るように致しましょう。

何故クリスマスにそれほど私たちが喜ばなければならないかという事は、何故かというと天国で私たちが生まれる時に、「本当の喜びが何か」という事を私たちが実感する事をイエズス様が望んでおられるからです、教会は望んでいるからです。

では私たちは、この本当のクリスマスの喜びを得る為に、まずイエズス様を受けなければなりません。イエズス様を受ける事ができるように、喜びをもたらすイエズス様を受ける事ができるように、心をますますイエズス様のようにイエズス化させて、イエズス様のお望みのように、イエズス様の考えるように、イエズス様のなさるように、私たちも心をイエズス様のようにますます変えていく事に致しましょう。謙遜と、愛と、そして柔和と、忍耐、祈りと犠牲の心をますます、イエズス様にチューンを合わせて波長を合わせて、このイエズス様の声をよく聞き取る事ができるように致しましょう。

その為にも私たちの全て、心から全てイエズス様に反対するようなもの、怒りや、心配や、或いは憎しみ、或いは不安など、全てイエズス様にお委ね致しましょう。

イエズス様にプレゼントを準備致しましょう。クリスマスの時にはイエズス様に特別のプレゼントをしなければなりません。何故かというとイエズス様は私たちの心にお生まれになろうと、霊的に生まれようと来られるのですから、そして御聖体でイエズス様は本当に私たちの中に来られるのですから、自分御自身を私たちに全くプレゼントしてしまうのですから、私たちもイエズス様にプレゼントをお返事しなければなりません、クリスマスの為に。そのクリスマスのプレゼントを準備しなければなりません。

どんなプレゼントが良いでしょうか?お祈りのプレゼントや、犠牲のプレゼントや、従順のプレゼント。イエズス様が一番喜ぶ事は何かを考えて、私たちはプレゼントの計画を立てましょう。

イエズス様を受けるには秘密があります、それはマリア様です。マリア様がいらっしゃらなければイエズス様を受ける事ができません。イエズス様を受けるが為にもマリア様をお受け致しましょう。

多くの人は残念ながら、この素晴らしい、私たちの本当の喜びをもたらして下さる王の王イエズス様を受けようとしません。残念ながら。イエズス様はどれほど悲しまれる事でしょうか。「今年のクリスマスこそ受け入れられたい」と思っても、「来るな。」「あっち行け」とイエズス様は追い払われています。マリア様と共に追い払われています。

ですから私たちはその人たちに代わって、マリア様を通して、イエズス様をお受けする事に致しましょう。

「全ての人は、主の救いを見るだろう。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。




聖ピオ十世会日本のお説教・講話がここに掲載されています。

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