アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
2016年12月24日(土)に大阪で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
2016年12月24日(土)平日の主の御降誕の前日のミサ
小野田神父 説教
聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2016年12月24日、主の御降誕の前日のミサをしております。今日はこのミサの前に2人の方が洗礼を受けて、イエズス様の兄弟、天主の子供となりました。どうぞこの2人の方が天国に真っ直ぐ、清く聖なる生活を送りますようにお祈り下さい。
今日はここで夜中の0時からミサがあります。深夜のクリスマスのミサがあって、その前に21時から朝課も、グレゴリオ聖歌の聖務日課の朝課もあります。いらして下さい。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、今日はクリスマスイブで、日本のキリスト教ではない方も、「今日はクリスマスの聖夜だ、聖なる夜だ」と祝われています。
どこもかしこも、街も家も、クリスマスセールやクリスマスの飾りで、メリークリスマスと言われ、皆イルミネーションが飾られて、光で輝いて、皆クリスマスを、キリスト教を知らないような方でもクリスマスを祝っています。
しかし残念な事に、そのクリスマスが「一体どんな意味か?」と聞いてみると、「え?クリスマスというのはこのプレゼントをする日じゃないの?」とか、「クリスマスというのは一体、ケーキを食べる日なのか?」とあまりよく知らないので、でもクリスマスというのは元々は英語では“Christ mas”「キリストのミサ」をする日で、このクリスマスの日には確かにプレゼントの日ですけれども、実は天主様が私たちに特別の「キリスト」というプレゼントして下さったという日なのです。
そこで是非、このクリスマスとは一体何なのか?クリスマスの一体核心とは何なのか?
一体どんなプレゼントがあったのか?何故このようなプレゼントがあったのか?
それでそのプレゼントを私たちが受けたのですけれども、私たちはじゃあ一体そのプレゼントをどうして受けたら良いのか?という事を一緒に黙想したいと思っています。
実は「クリスマス」というのは、天主様が私たちに、天主の御子、永遠の御言葉、聖父と聖子と聖霊の三位一体の御子、天主三位一体の第2のペルソナである永遠の御言葉、この全世界を宇宙を創った方が、人間となって、私たちに与えられた、その日なのです。
でもこの事をよく理解する為に、私たちが一体何故そこまでそうなったのか、という事を知らなければなりません。
どうなったかというと、永遠の昔から永遠の未来に至るまで、全く変わる事のない、永遠に無限に幸せな天主が、この世を創られる天主が存在しています。ところで天主は愛でありました。「自分の持っている良いものを他に伝えたい」という愛でした。そこで永遠の昔から時に於いて、永遠というのは時によって計る事ができないのです。しかし「時」というものを創って、そして時の始めに於いて、「自分の永遠の幸せを分かち合う事ができる、被造物を創ろう」と思いました。
その必要がなかったのですけれども、そのようなどうしてもしなければならないという事もなかったのですけれども、でも愛のあまり、あまりにも善であるので良い御方であるので、「自分の持っているものを、永遠の命と喜びを他の者にも与えたい。そのような喜びを持つものを創って、彼らに与えよう」と思われました。そうして創られたのが、天使たちと私たち人類でした。
天主は私たちを「無」から創造しました。無から創造したというのは、無という材料を使って何かを造ったというのではなくて、そうではありません。全く材料も何も無い、「無い」ところから、「有る」ものを創ったのです、存在するものを創りました。人間にはそういう事ができません。人間は必ず材料が必要です。どんな何かアイデアも必要です。しかし三位一体は、全くの無から私たちを有らしめました。そして今でも有らしめて下さっています。
そうやって私たちを有らしめるのみならず、私たち特に人間、天使たちを、天主の子供として、天主の命に与る事ができるように、三位一体と同じ愛のまどいの中に、その天主様の命を生きる事ができるように、幸せとなる事ができるように考えて下さいました。
考えてもみて下さい。皆さんこの街を歩いていたら、どこかのみすぼらしい、この汚いボロボロの服を着たどこかの男の子がいて、お金もないので空き缶を持っていて、こう「お金を欲しい」と、「食べるパンもない」と、病気で何か苦しそうだ、という子供がいたら、「あぁ、そうか、」この子供に、「じゃあ自分の持っている家をあげよう。さぁ、自分の家に来なさい、自分の子供としてあげよう。そしてこの自分の持っている物はみんなお前にあげよう」ともしも言ったとしたら、これはものすごい愛の業で、寛大な業だと言わざるを得ません。
でも天主様がなさった事はそれよりも更にすごい事でした。まったく無に等しい私たちを創って、それを天主の子供として、天主の「無限の幸せを与えよう」と思ったからです。
太陽の温かさ、或いは大自然の美しさ、金・銀・宝石・ダイヤモンド、或いは星々の偉大さ、太陽と銀河の偉大さ、この地球の大海原のその大自然の力、雪、嵐、それも私たちもその大自然の力を見ると、「すごいなぁ」と思いますけれども、アルプスの高い山々、深い海。でも天主のその持てる宝、天主の力と比べたら何のちっぽけなものにすぎません。
「私たちが天主の子供となる」というのは、それよりも更にすごい事でした。無限の命と、永遠の命と、永遠の幸せを、天主のようになる、という事でしたから。この地上を全て所有したよりも、そんなのはちょうどトイレで流す紙が与えられて、パシャット流されたら、それよりもまだつまらないものだった。それほどのものが与えられました。
でも残念な事に、そうやって与えられて全てのものが準備されたにもかかわらず、私たちの先祖アダムとエヴァは、「NO!」と言ったのです。何故かというと、蛇がやって来て悪魔がやって来て、「あぁ、主の言う事は信じなくて良い、それは嘘だ。俺の言う事を信じろ。そうしたらあなた方は俺の言う事による事によって神々のようになる。そうしたら幸せになる。信じてはいけない」と言ったのです。
考えて下さい。せっかく、「さあ、お前にこれをやるぞ」と言ったこの子供がやって来て、「あ、いいか、でもね、1つだけこうしてはいけないよ。こうするとこの本当に危ないから」と言った、その「いけないよ」とたった1つだけの事さえも、「いや、信じない!これは俺の物だ!俺の思い通りにやる!」この恩も義理も忘れて、この助けてやったその恩人を全く無にした、その恩返しもせずに、それに反抗したとしたら、「お前はもう出て行け。もう知らない」と言われるに決まっています。
実際、アダムとエヴァも天主に逆らって、天主の「してはいけない。それをするとお前は死んでしまうぞ」と言ったその通りの事を、その「いけない」と言った事を、そそのかされて、信ぜずに、逆らってしまいました。
しかし天主の、私たちの創造主が私たちになさった事は、私たちのやるような事ではありませんでした。確かに罰として、「お前はここから出なければならない」と楽園から追放されましたが、「しかし、必ず救世主を送る。その罪の償いをする者が来る。お前たちをもう一度引き戻してあげる」と約束して下さったのです。
人類は4000年間、その救い主を待たなければなりませんでした。そしてその4000年間その救い主を待つ間に、どれほど人類は主の力なくては、助けなくては全く惨めで、混乱していて、暗闇で置かれて、もうどうしようもない所までいってしまいました。世の中は乱れに乱れて、人は人とも思わず、残酷で、裏切りで、ひどい世界になっていきました。
そういう中で、天主は私たちを救おうと思って、その義務は無かったのですけれども、憐れみによって、私たちを愛するがあまり、どうしても私たちに永遠の命を与えようと思って、私たちをもう一度天の、天主の子供として受け入れようと思って、永遠の命の幸せを与える為だけに、私たちが天主となる事ができるように、天主様は人となられたのでした。
私たちが服を着る事ができるように、御自分は貧しく、裸のように、赤ちゃんとなってお生まれになりました。私たちが王の服を着る事ができるように、自分は乞食の様子で生まれてきました。この天地の創造主で、王の王であり、全ての支配者であって、王様として生まれて、プリンスとして生まれて来て、大宮殿で生まれて来て、家臣らが「ハハーッ!」と平伏したとしても何らおかしくない天主の御子が、私たちの為に貧しいまぐさ桶で、私たちの為に、私たちのものとなる為にお生まれになりました。
何故かというと、私たちがその幼きイエズス様を受け入れる事ができるように、誰でも恐れずに近寄る事ができるように、可愛い赤ちゃんとなってお生まれになったのでした。私たちが主を愛する事ができるように、近寄る事ができるように、ただその為だけにお生まれになりました。私たちに全てを与える事ができる、その為だけに、クリスマスの夜に天主が人となってお生まれになりました。
これよりも偉大な天からの贈り物はありません。ここにこそ天主様の愛が現われます。私たちはここに於いて、天主がどれほど私たちを愛して、憐れんでいるかを知り、私たちは天主の愛を信じたのです。
この大きな憐れみと、その大きなプレゼントの前に私たちはどうしたら良いでしょうか?
今日は2人の方が、この憐れみを受けて、そのイエズス様のもとに駆け寄り、イエズス様からの御望みの通りに、洗礼の水を受けました。そしてもうすぐイエズス様の御望みの通りに、イエズス様の御体を御聖体で受けます。
悪魔は「主の言葉を受けなくて良い」と言います。やってはいけないと言った「あの木の実から取って食べろ。そうしたら美味しいし、面白おかしくする事ができる。」
しかし、お生まれになったイエズス様はそれと反対の事を言います、「いや、主の道を信じるように。そして謙遜であるように。主に従うように。掟を愛を以て守るように。信じるように。主を信頼するように。決して私たちを捨ててはおかない、その主の憐れみに信頼するように。そしてその別の木からその果実を受けるように。」と教えて下さいます。
イエズス様がキリスト様が今日夜お生まれになる、キリスト様が私たちに、「さあ、ここの木から食べなさい」というその木は、十字架の木です。そして自分がその十字架の上に付けられて、イエズス・キリストの御体を、「その木の実として受けなさい。この木から流れる恵みの水を受けなさい、洗礼の水を受けなさい」と招いて下さっています。
では私たちはどうしたら良いでしょうか?
マリア様のように致しましょう。マリア様も天使ガブリエルから、「あなたは身ごもって子供を産むでしょう」と言った時に、「はい、私は主の婢女です。仰せの如く私になりますように」と天使の言葉を信じました、信仰の言葉を述べました。その時にイエズス様をマリア様は受ける事ができました。それと同じように私たちも、信仰の言葉で、「はい、私たちは主のしもべである。私たちは主から創られた被造物である。私は主から創られて主のもとに行かなければならない。」
イエズス様を私たちが受ける事ができるように、マリア様にお祈り致しましょう。きっとマリア様はイエズス様がお生まれになる為に、ご自分のお家であったナザレトの家できれいな準備をしていたに違いありません。お掃除をして、お生まれになる子供が、救い主が良く生まれるように準備をしたに違いありませんが、しかしローマ皇帝の命によって旅立たなければなりませんでした。それさえもマリア様は主の御旨として素直に従って、主に信頼しつつ、主をお生みになりました。
主は私たちの霊魂の中にも、巡礼者として、今日どこに泊まったら良いか分からない者としてお生まれになりますから、「是非私たちの心に来て下さい」と申し上げましょう。良いクリスマスの夜を迎える事ができますように、マリア様にお祈りしつつ、このミサを御捧げ致しましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、
2016年12月24日(土)に大阪で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
2016年12月24日(土)平日の主の御降誕の前日のミサ
小野田神父 説教
聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2016年12月24日、主の御降誕の前日のミサをしております。今日はこのミサの前に2人の方が洗礼を受けて、イエズス様の兄弟、天主の子供となりました。どうぞこの2人の方が天国に真っ直ぐ、清く聖なる生活を送りますようにお祈り下さい。
今日はここで夜中の0時からミサがあります。深夜のクリスマスのミサがあって、その前に21時から朝課も、グレゴリオ聖歌の聖務日課の朝課もあります。いらして下さい。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、今日はクリスマスイブで、日本のキリスト教ではない方も、「今日はクリスマスの聖夜だ、聖なる夜だ」と祝われています。
どこもかしこも、街も家も、クリスマスセールやクリスマスの飾りで、メリークリスマスと言われ、皆イルミネーションが飾られて、光で輝いて、皆クリスマスを、キリスト教を知らないような方でもクリスマスを祝っています。
しかし残念な事に、そのクリスマスが「一体どんな意味か?」と聞いてみると、「え?クリスマスというのはこのプレゼントをする日じゃないの?」とか、「クリスマスというのは一体、ケーキを食べる日なのか?」とあまりよく知らないので、でもクリスマスというのは元々は英語では“Christ mas”「キリストのミサ」をする日で、このクリスマスの日には確かにプレゼントの日ですけれども、実は天主様が私たちに特別の「キリスト」というプレゼントして下さったという日なのです。
そこで是非、このクリスマスとは一体何なのか?クリスマスの一体核心とは何なのか?
一体どんなプレゼントがあったのか?何故このようなプレゼントがあったのか?
それでそのプレゼントを私たちが受けたのですけれども、私たちはじゃあ一体そのプレゼントをどうして受けたら良いのか?という事を一緒に黙想したいと思っています。
実は「クリスマス」というのは、天主様が私たちに、天主の御子、永遠の御言葉、聖父と聖子と聖霊の三位一体の御子、天主三位一体の第2のペルソナである永遠の御言葉、この全世界を宇宙を創った方が、人間となって、私たちに与えられた、その日なのです。
でもこの事をよく理解する為に、私たちが一体何故そこまでそうなったのか、という事を知らなければなりません。
どうなったかというと、永遠の昔から永遠の未来に至るまで、全く変わる事のない、永遠に無限に幸せな天主が、この世を創られる天主が存在しています。ところで天主は愛でありました。「自分の持っている良いものを他に伝えたい」という愛でした。そこで永遠の昔から時に於いて、永遠というのは時によって計る事ができないのです。しかし「時」というものを創って、そして時の始めに於いて、「自分の永遠の幸せを分かち合う事ができる、被造物を創ろう」と思いました。
その必要がなかったのですけれども、そのようなどうしてもしなければならないという事もなかったのですけれども、でも愛のあまり、あまりにも善であるので良い御方であるので、「自分の持っているものを、永遠の命と喜びを他の者にも与えたい。そのような喜びを持つものを創って、彼らに与えよう」と思われました。そうして創られたのが、天使たちと私たち人類でした。
天主は私たちを「無」から創造しました。無から創造したというのは、無という材料を使って何かを造ったというのではなくて、そうではありません。全く材料も何も無い、「無い」ところから、「有る」ものを創ったのです、存在するものを創りました。人間にはそういう事ができません。人間は必ず材料が必要です。どんな何かアイデアも必要です。しかし三位一体は、全くの無から私たちを有らしめました。そして今でも有らしめて下さっています。
そうやって私たちを有らしめるのみならず、私たち特に人間、天使たちを、天主の子供として、天主の命に与る事ができるように、三位一体と同じ愛のまどいの中に、その天主様の命を生きる事ができるように、幸せとなる事ができるように考えて下さいました。
考えてもみて下さい。皆さんこの街を歩いていたら、どこかのみすぼらしい、この汚いボロボロの服を着たどこかの男の子がいて、お金もないので空き缶を持っていて、こう「お金を欲しい」と、「食べるパンもない」と、病気で何か苦しそうだ、という子供がいたら、「あぁ、そうか、」この子供に、「じゃあ自分の持っている家をあげよう。さぁ、自分の家に来なさい、自分の子供としてあげよう。そしてこの自分の持っている物はみんなお前にあげよう」ともしも言ったとしたら、これはものすごい愛の業で、寛大な業だと言わざるを得ません。
でも天主様がなさった事はそれよりも更にすごい事でした。まったく無に等しい私たちを創って、それを天主の子供として、天主の「無限の幸せを与えよう」と思ったからです。
太陽の温かさ、或いは大自然の美しさ、金・銀・宝石・ダイヤモンド、或いは星々の偉大さ、太陽と銀河の偉大さ、この地球の大海原のその大自然の力、雪、嵐、それも私たちもその大自然の力を見ると、「すごいなぁ」と思いますけれども、アルプスの高い山々、深い海。でも天主のその持てる宝、天主の力と比べたら何のちっぽけなものにすぎません。
「私たちが天主の子供となる」というのは、それよりも更にすごい事でした。無限の命と、永遠の命と、永遠の幸せを、天主のようになる、という事でしたから。この地上を全て所有したよりも、そんなのはちょうどトイレで流す紙が与えられて、パシャット流されたら、それよりもまだつまらないものだった。それほどのものが与えられました。
でも残念な事に、そうやって与えられて全てのものが準備されたにもかかわらず、私たちの先祖アダムとエヴァは、「NO!」と言ったのです。何故かというと、蛇がやって来て悪魔がやって来て、「あぁ、主の言う事は信じなくて良い、それは嘘だ。俺の言う事を信じろ。そうしたらあなた方は俺の言う事による事によって神々のようになる。そうしたら幸せになる。信じてはいけない」と言ったのです。
考えて下さい。せっかく、「さあ、お前にこれをやるぞ」と言ったこの子供がやって来て、「あ、いいか、でもね、1つだけこうしてはいけないよ。こうするとこの本当に危ないから」と言った、その「いけないよ」とたった1つだけの事さえも、「いや、信じない!これは俺の物だ!俺の思い通りにやる!」この恩も義理も忘れて、この助けてやったその恩人を全く無にした、その恩返しもせずに、それに反抗したとしたら、「お前はもう出て行け。もう知らない」と言われるに決まっています。
実際、アダムとエヴァも天主に逆らって、天主の「してはいけない。それをするとお前は死んでしまうぞ」と言ったその通りの事を、その「いけない」と言った事を、そそのかされて、信ぜずに、逆らってしまいました。
しかし天主の、私たちの創造主が私たちになさった事は、私たちのやるような事ではありませんでした。確かに罰として、「お前はここから出なければならない」と楽園から追放されましたが、「しかし、必ず救世主を送る。その罪の償いをする者が来る。お前たちをもう一度引き戻してあげる」と約束して下さったのです。
人類は4000年間、その救い主を待たなければなりませんでした。そしてその4000年間その救い主を待つ間に、どれほど人類は主の力なくては、助けなくては全く惨めで、混乱していて、暗闇で置かれて、もうどうしようもない所までいってしまいました。世の中は乱れに乱れて、人は人とも思わず、残酷で、裏切りで、ひどい世界になっていきました。
そういう中で、天主は私たちを救おうと思って、その義務は無かったのですけれども、憐れみによって、私たちを愛するがあまり、どうしても私たちに永遠の命を与えようと思って、私たちをもう一度天の、天主の子供として受け入れようと思って、永遠の命の幸せを与える為だけに、私たちが天主となる事ができるように、天主様は人となられたのでした。
私たちが服を着る事ができるように、御自分は貧しく、裸のように、赤ちゃんとなってお生まれになりました。私たちが王の服を着る事ができるように、自分は乞食の様子で生まれてきました。この天地の創造主で、王の王であり、全ての支配者であって、王様として生まれて、プリンスとして生まれて来て、大宮殿で生まれて来て、家臣らが「ハハーッ!」と平伏したとしても何らおかしくない天主の御子が、私たちの為に貧しいまぐさ桶で、私たちの為に、私たちのものとなる為にお生まれになりました。
何故かというと、私たちがその幼きイエズス様を受け入れる事ができるように、誰でも恐れずに近寄る事ができるように、可愛い赤ちゃんとなってお生まれになったのでした。私たちが主を愛する事ができるように、近寄る事ができるように、ただその為だけにお生まれになりました。私たちに全てを与える事ができる、その為だけに、クリスマスの夜に天主が人となってお生まれになりました。
これよりも偉大な天からの贈り物はありません。ここにこそ天主様の愛が現われます。私たちはここに於いて、天主がどれほど私たちを愛して、憐れんでいるかを知り、私たちは天主の愛を信じたのです。
この大きな憐れみと、その大きなプレゼントの前に私たちはどうしたら良いでしょうか?
今日は2人の方が、この憐れみを受けて、そのイエズス様のもとに駆け寄り、イエズス様からの御望みの通りに、洗礼の水を受けました。そしてもうすぐイエズス様の御望みの通りに、イエズス様の御体を御聖体で受けます。
悪魔は「主の言葉を受けなくて良い」と言います。やってはいけないと言った「あの木の実から取って食べろ。そうしたら美味しいし、面白おかしくする事ができる。」
しかし、お生まれになったイエズス様はそれと反対の事を言います、「いや、主の道を信じるように。そして謙遜であるように。主に従うように。掟を愛を以て守るように。信じるように。主を信頼するように。決して私たちを捨ててはおかない、その主の憐れみに信頼するように。そしてその別の木からその果実を受けるように。」と教えて下さいます。
イエズス様がキリスト様が今日夜お生まれになる、キリスト様が私たちに、「さあ、ここの木から食べなさい」というその木は、十字架の木です。そして自分がその十字架の上に付けられて、イエズス・キリストの御体を、「その木の実として受けなさい。この木から流れる恵みの水を受けなさい、洗礼の水を受けなさい」と招いて下さっています。
では私たちはどうしたら良いでしょうか?
マリア様のように致しましょう。マリア様も天使ガブリエルから、「あなたは身ごもって子供を産むでしょう」と言った時に、「はい、私は主の婢女です。仰せの如く私になりますように」と天使の言葉を信じました、信仰の言葉を述べました。その時にイエズス様をマリア様は受ける事ができました。それと同じように私たちも、信仰の言葉で、「はい、私たちは主のしもべである。私たちは主から創られた被造物である。私は主から創られて主のもとに行かなければならない。」
イエズス様を私たちが受ける事ができるように、マリア様にお祈り致しましょう。きっとマリア様はイエズス様がお生まれになる為に、ご自分のお家であったナザレトの家できれいな準備をしていたに違いありません。お掃除をして、お生まれになる子供が、救い主が良く生まれるように準備をしたに違いありませんが、しかしローマ皇帝の命によって旅立たなければなりませんでした。それさえもマリア様は主の御旨として素直に従って、主に信頼しつつ、主をお生みになりました。
主は私たちの霊魂の中にも、巡礼者として、今日どこに泊まったら良いか分からない者としてお生まれになりますから、「是非私たちの心に来て下さい」と申し上げましょう。良いクリスマスの夜を迎える事ができますように、マリア様にお祈りしつつ、このミサを御捧げ致しましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。