アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
2016年12月25日(主)に東京で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
2016年12月25日(主日)主の御降誕 日中のミサ
小野田神父 説教
聖なる日本の殉教者巡回教会にようこそ。
今日は2016年12月25日、私たちの天主イエズス・キリスト様の御降誕の日中のミサをしております。皆様に御降誕のお慶びを申し上げます。
今日は御ミサの後、聖体拝領の感謝の祈り、ミサの後の祈りをした後に、私たちの習慣とローマの習慣に従って、幼きイエズス様を皆様にお持ちしますので、どうぞその御足に御手に接吻をなさって下さい。
今日はクリスマスであって同時に主日であるので、皆さんともしできれば簡単なクリスマスパーティーのような軽食会をして、14時30分から晩課を一緒に、クリスマスの晩課を一緒に唱えたいと思っております。楽譜も準備されていますので是非いらして下さい。天使たちが今日この夜、天使たちの大群がその生まれた救い主の為に歌ったように、私たちもクリスマスの軽食会の時にクリスマスキャロルなどを歌いたいと思っています。
「全ての民は、地の果てまで主の救いを見るだろう。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、今日はカトリック教会にとって特別の日です、喜びの日であります。
教会は司祭に、「3回ミサをする事ができる」としています。そこで「真夜中のミサ」「暁のミサ」そして今日今やっている「日中のミサ」です。
何故この3つのミサがあるのか、「その3つのミサは、イエズス様の3つの御誕生の神秘を表している」と言われますが、その御誕生の神秘とは何なのか、一番大切な御誕生は何なのか、
で、特に真夜中のミサと暁のミサとこの日中のミサの構造はどう違っているのか比較しながら、一体どんな発展が見られるのか、
そしてではその一番大切な誕生の為に、私たちは何をしなければならないのか、遷善の決心を立てる事に致しましょう。
3つの誕生というのは、三重の誕生というのは、イエズス様が永遠の昔から御父の懐からお生まれになった、永遠の今日に於いてお生まれになっている、というその誕生の事です。まだこの地上に光が創られていなく、天主が「光あれ!」と言ったその前、太陽も月も創られていない前、いわば被造物が全く無であった全く存在していない、天主だけがおられるその永遠において、神秘のうちに、天主御子が御父から永遠の今日お生まれになっているその御誕生です。
天主の御子というのは、今日聖パウロの書簡書によれば、御父のその実体の輝きであって、天使たちがこの聖なる夜、クリスマスの夜に天上を燦然と輝かして、羊飼いたちがあっという間に驚く、その美しさに驚くその光も、或いは私たちがこの人工の光でこのイルミネーションを、クリスマスのイルミネーションを街中に輝かして「あぁ、きれいだなぁ」と思うそのような光も、イエズス様のその燦然とした輝きの前には全く影のようです。
イエズス様の第1の永遠の夜に於ける誕生をまず祝います。第1のミサでは入祭誦に、「父はこう言った、『私は今日お前を生んだ』と。」永遠の御父が永遠の御子を今日、永遠の今日に於いて生み続けている、三位一体の神秘が語られています。
それと同時に夜中のミサでは、「マリア様が御子を、肉に於いて生んだ」という事が語られます。
第2の誕生は、まさにイエズス様が時に於いて私たちの為にお生まれになった、12月、今から2016年前の12月25日の夜に、ベトレヘムで真夜中に、静かなその夜中の夜中に於いて、沈黙に於いて、イエズス様は私たちの救いの為に、贖いの為にお生まれになった、その神秘です。
「天主御父の事は、御子だけが知っている」とイエズス様は言いました。その天主御父の神秘を私たちに教える為にお生まれになりました。天主御父へと行く道を示す為にお生まれになりました。イエズス様は言われました、「私は道であり、真理であり、命である。私を通らずに誰も父のもとへ行く事はできない。」またイエズス様は言いました、「永遠の命とはすなわち、天主、唯一の天主なるあなたと、あなたが送られ給うたイエズス・キリストを知る事にあります」と。天主御父とイエズス・キリストが知らされる為に、お生まれになりました。
では第3の誕生とは何でしょうか?
この第3の誕生こそが核心であり、第1の誕生も第2の誕生もそこに集中しています。それは、イエズス様が実は今日、皆さんの霊魂に於いてお生まれになりたい、と熱烈な愛を以て思っている事です。天主は、天主の愛は見る事ができません、しかしその証拠があります。御父はその御子をこの世に与えるほど私たちを愛されました。目に見えない天主の愛が、幼きイエズス・キリストに於いて目に見えるものとなりました。
もしも私たちが誰かを愛するとしたら、一番愛されやすい形を取るではないでしょうか。天主様の考えた事は、私たちから更に愛される事ができるように、私たちと全く同じ人間の姿で生まれる事を、しかも幼いか弱い赤子として生まれる事を、王宮で生まれる事もできましたけれども、王の王として生まれる事もできましたけれども、私たちが恐れて近寄らないかもしれないから、貧しいまぐさ桶で、動物の間で生まれる事を御望みになった。
何故ならば、私たちの心も動物の小屋のように、天主を迎えるにあまりにも相応しくないものではないからではないでしょうか。そのような私たちでさえもイエズス様を受け入れる事ができるように、恐れなく心配する事なく受ける事ができるように計らってくれたのではないでしょうか。
もちろんマリア様はイエズス様がお生まれになるという事で、そのきれいな場所を準備していたに違いありません。しかしローマ皇帝の勅令によって、人口調査の勅令が出たのですぐに従いました。ホテルもなければ、新幹線もなし、GPSもない、遠い道のりを行かなければなりませんでした。予約もできなかったし、Eメールを送る事もできませんでした。しかし従順に行きました。「あぁ、せっかく私が準備したのに、ちょっと待っていたら子供は生まれるのに、救い主は生まれるのに。」マリア様は御摂理に任せて従いました。
その結果、王の王、天の御父の輝き、天使たちがいつも「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」と言う万軍の君主であるイエズス・キリストが救い主が、動物の間でしか、寒い凍える所でしか生まれる所がありませんでした。何故かというと、それは私たちの霊魂にでも生まれたい、どのような所でも生まれたい、と思うあまりの愛の為でした。
使徒信経によると、「聖霊によりて、童貞マリアより生まれ」とあります。聖トマス・アクィナスは、「なぜ聖霊によるのかというと、確かに御子、天主三位一体の御子が人間となって生まれるのは、これは三位一体、聖父と聖子と聖霊の全ての業だけれども、特に御子が人となったのは燃えるような愛の業だったから、人類に対するまさに正気を失ったかのような愛の業だったから、聖霊によりて愛によって宿った、と私たちは使徒信経で言う」と言います。
私たちの主は、三位一体の第2のペルソナは、永遠の天主の御言葉は、最初に天主と共に在り、全てがそれによって創られた御言葉は、私たちを愛するがあまり、私たちと同じ姿を取ろう、と私たちの間でお生まれになりました。
今日イエズス様は、私たちの霊魂にお生まれになりたいと燃えておられます。その愛の火で燃えておられます。
今日の日中のミサを見ると、この私たちの内に生まれる、このお生まれになりたいというこの赤子は、単なる救い主ではないと分かります。永遠の王である、平和の王である、その肩には主権がかかっている。そして集祷文に於いては、「私たちの罪のくびきを取り払って、あなたの主権によって開放して下さい」とあります。「全ての民は、地の果てまであなたの救いを見た」とあります。この救いは全てに全世界に渡らなければならない主権です。聖体拝領の時に私たちはイエズス様を受けて、「確かに地の果てまで、私たちはこの遠い日本も日の本に於いてまでも、主の救いを見た。主は私たちと共におられる」と歌わなければなりません。
それほどまで全世界の霊魂に隅々までお生まれになりたい、という燃えるような願いがこの3つのミサで表れています。最初は真夜中にマリア様の元で生まれた永遠の御父の懐で生まれるイエズス様。そしてそのイエズス様はマリア様に御自分を表しますが、暁のミサでは羊飼いたちに姿を現します、日中で太陽が昇った時には全世界に於いて王として、全ての人の心に生まれたいと思っています。
しかし今日の福音を見て下さい、全てはこの御言葉によって創られたにもかかわらず、主は私たちを愛するが為に、自分を与える為に、宝物を持って私たちのもとに来られたにもかかわらず、こんなにか弱い姿で来たにもかかわらず、人々は、「嫌だ。」「あっち行け。」「来るな。」「出て行け」と主を闇の方に亡き者にしようと、受け入れようとしません。イエズス様の御悲しみはどれほどでしょうか。
イエズス様を信じる代わりに、どれほど多くの方がその愛を、その慈しみを、その天主の燃えるような憐れみを信じようとしないのでしょうか。イエズス様この幼子を礼拝しようとする代わりに、もはやそうではなくて、無関心や、冒瀆や、瀆聖でそれに返答する人がどれほど多いでしょうか。イエズス様に希望する代わりに、「いや、」イエズス様の無い、イエズス様ではない自分の力に、自分のやり方に希望するという人がどれほど多いでしょうか。「世界は自分の周りを中心に回っているのだ。」イエズス様をお愛し申し上げるというよりは、自分の事だけでいっぱい、自分を愛するだけでいっぱいという人がどれほど多いでしょうか。
私たちはでは今日、どのような決心を取らなけばならないでしょうか?
今日は、私たちの為にお生まれになった全知全能の永遠の御父、この天地の創造主、真の天主よりの真の天主、光よりの光、天主よりの天主、人となった永遠の御父の輝き、永遠の知恵、天主の御言葉、イエズス・キリストを心から礼拝致しましょう。
主を信じ、そして礼拝し、希望し、愛する事に致しましょう。イエズス・キリストをどうぞ御聖体拝領によって受けて下さい。私たちの霊魂に生まれる事をどれほど望んでおられるか、この希望を満たして差し上げて下さい。そして私たちが聖体拝領をしたら、イエズス様を信じない人々に代わって、礼拝しない人々に代わって、希望しない人々に代わって、愛さない人々に代わって、信仰と、礼拝と、希望と、愛を捧げて下さい。
三位一体を深く心から礼拝して、イエズス様の御体、御血、御霊魂、御神性をお捧げ下さい。イエズス様の至聖なる聖心の無限の功徳によって、多くの罪人たちが、多くの人々が、特に日本にいる方々が、イエズス様のこの愛を知る事ができますように、イエズス様がますます愛されますように、そして多くの霊魂が天国に導かれますように、その為にお生まれなったイエズス様の望みが叶いますように、お祈り致しましょう。
イエズス様が来られたのはマリア様を通してでした。ですからマリア様を通して、マリア様にお願いして、私たちの霊魂にも生まれて下さるようにお祈り致しましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、
2016年12月25日(主)に東京で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
2016年12月25日(主日)主の御降誕 日中のミサ
小野田神父 説教
聖なる日本の殉教者巡回教会にようこそ。
今日は2016年12月25日、私たちの天主イエズス・キリスト様の御降誕の日中のミサをしております。皆様に御降誕のお慶びを申し上げます。
今日は御ミサの後、聖体拝領の感謝の祈り、ミサの後の祈りをした後に、私たちの習慣とローマの習慣に従って、幼きイエズス様を皆様にお持ちしますので、どうぞその御足に御手に接吻をなさって下さい。
今日はクリスマスであって同時に主日であるので、皆さんともしできれば簡単なクリスマスパーティーのような軽食会をして、14時30分から晩課を一緒に、クリスマスの晩課を一緒に唱えたいと思っております。楽譜も準備されていますので是非いらして下さい。天使たちが今日この夜、天使たちの大群がその生まれた救い主の為に歌ったように、私たちもクリスマスの軽食会の時にクリスマスキャロルなどを歌いたいと思っています。
「全ての民は、地の果てまで主の救いを見るだろう。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、今日はカトリック教会にとって特別の日です、喜びの日であります。
教会は司祭に、「3回ミサをする事ができる」としています。そこで「真夜中のミサ」「暁のミサ」そして今日今やっている「日中のミサ」です。
何故この3つのミサがあるのか、「その3つのミサは、イエズス様の3つの御誕生の神秘を表している」と言われますが、その御誕生の神秘とは何なのか、一番大切な御誕生は何なのか、
で、特に真夜中のミサと暁のミサとこの日中のミサの構造はどう違っているのか比較しながら、一体どんな発展が見られるのか、
そしてではその一番大切な誕生の為に、私たちは何をしなければならないのか、遷善の決心を立てる事に致しましょう。
3つの誕生というのは、三重の誕生というのは、イエズス様が永遠の昔から御父の懐からお生まれになった、永遠の今日に於いてお生まれになっている、というその誕生の事です。まだこの地上に光が創られていなく、天主が「光あれ!」と言ったその前、太陽も月も創られていない前、いわば被造物が全く無であった全く存在していない、天主だけがおられるその永遠において、神秘のうちに、天主御子が御父から永遠の今日お生まれになっているその御誕生です。
天主の御子というのは、今日聖パウロの書簡書によれば、御父のその実体の輝きであって、天使たちがこの聖なる夜、クリスマスの夜に天上を燦然と輝かして、羊飼いたちがあっという間に驚く、その美しさに驚くその光も、或いは私たちがこの人工の光でこのイルミネーションを、クリスマスのイルミネーションを街中に輝かして「あぁ、きれいだなぁ」と思うそのような光も、イエズス様のその燦然とした輝きの前には全く影のようです。
イエズス様の第1の永遠の夜に於ける誕生をまず祝います。第1のミサでは入祭誦に、「父はこう言った、『私は今日お前を生んだ』と。」永遠の御父が永遠の御子を今日、永遠の今日に於いて生み続けている、三位一体の神秘が語られています。
それと同時に夜中のミサでは、「マリア様が御子を、肉に於いて生んだ」という事が語られます。
第2の誕生は、まさにイエズス様が時に於いて私たちの為にお生まれになった、12月、今から2016年前の12月25日の夜に、ベトレヘムで真夜中に、静かなその夜中の夜中に於いて、沈黙に於いて、イエズス様は私たちの救いの為に、贖いの為にお生まれになった、その神秘です。
「天主御父の事は、御子だけが知っている」とイエズス様は言いました。その天主御父の神秘を私たちに教える為にお生まれになりました。天主御父へと行く道を示す為にお生まれになりました。イエズス様は言われました、「私は道であり、真理であり、命である。私を通らずに誰も父のもとへ行く事はできない。」またイエズス様は言いました、「永遠の命とはすなわち、天主、唯一の天主なるあなたと、あなたが送られ給うたイエズス・キリストを知る事にあります」と。天主御父とイエズス・キリストが知らされる為に、お生まれになりました。
では第3の誕生とは何でしょうか?
この第3の誕生こそが核心であり、第1の誕生も第2の誕生もそこに集中しています。それは、イエズス様が実は今日、皆さんの霊魂に於いてお生まれになりたい、と熱烈な愛を以て思っている事です。天主は、天主の愛は見る事ができません、しかしその証拠があります。御父はその御子をこの世に与えるほど私たちを愛されました。目に見えない天主の愛が、幼きイエズス・キリストに於いて目に見えるものとなりました。
もしも私たちが誰かを愛するとしたら、一番愛されやすい形を取るではないでしょうか。天主様の考えた事は、私たちから更に愛される事ができるように、私たちと全く同じ人間の姿で生まれる事を、しかも幼いか弱い赤子として生まれる事を、王宮で生まれる事もできましたけれども、王の王として生まれる事もできましたけれども、私たちが恐れて近寄らないかもしれないから、貧しいまぐさ桶で、動物の間で生まれる事を御望みになった。
何故ならば、私たちの心も動物の小屋のように、天主を迎えるにあまりにも相応しくないものではないからではないでしょうか。そのような私たちでさえもイエズス様を受け入れる事ができるように、恐れなく心配する事なく受ける事ができるように計らってくれたのではないでしょうか。
もちろんマリア様はイエズス様がお生まれになるという事で、そのきれいな場所を準備していたに違いありません。しかしローマ皇帝の勅令によって、人口調査の勅令が出たのですぐに従いました。ホテルもなければ、新幹線もなし、GPSもない、遠い道のりを行かなければなりませんでした。予約もできなかったし、Eメールを送る事もできませんでした。しかし従順に行きました。「あぁ、せっかく私が準備したのに、ちょっと待っていたら子供は生まれるのに、救い主は生まれるのに。」マリア様は御摂理に任せて従いました。
その結果、王の王、天の御父の輝き、天使たちがいつも「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」と言う万軍の君主であるイエズス・キリストが救い主が、動物の間でしか、寒い凍える所でしか生まれる所がありませんでした。何故かというと、それは私たちの霊魂にでも生まれたい、どのような所でも生まれたい、と思うあまりの愛の為でした。
使徒信経によると、「聖霊によりて、童貞マリアより生まれ」とあります。聖トマス・アクィナスは、「なぜ聖霊によるのかというと、確かに御子、天主三位一体の御子が人間となって生まれるのは、これは三位一体、聖父と聖子と聖霊の全ての業だけれども、特に御子が人となったのは燃えるような愛の業だったから、人類に対するまさに正気を失ったかのような愛の業だったから、聖霊によりて愛によって宿った、と私たちは使徒信経で言う」と言います。
私たちの主は、三位一体の第2のペルソナは、永遠の天主の御言葉は、最初に天主と共に在り、全てがそれによって創られた御言葉は、私たちを愛するがあまり、私たちと同じ姿を取ろう、と私たちの間でお生まれになりました。
今日イエズス様は、私たちの霊魂にお生まれになりたいと燃えておられます。その愛の火で燃えておられます。
今日の日中のミサを見ると、この私たちの内に生まれる、このお生まれになりたいというこの赤子は、単なる救い主ではないと分かります。永遠の王である、平和の王である、その肩には主権がかかっている。そして集祷文に於いては、「私たちの罪のくびきを取り払って、あなたの主権によって開放して下さい」とあります。「全ての民は、地の果てまであなたの救いを見た」とあります。この救いは全てに全世界に渡らなければならない主権です。聖体拝領の時に私たちはイエズス様を受けて、「確かに地の果てまで、私たちはこの遠い日本も日の本に於いてまでも、主の救いを見た。主は私たちと共におられる」と歌わなければなりません。
それほどまで全世界の霊魂に隅々までお生まれになりたい、という燃えるような願いがこの3つのミサで表れています。最初は真夜中にマリア様の元で生まれた永遠の御父の懐で生まれるイエズス様。そしてそのイエズス様はマリア様に御自分を表しますが、暁のミサでは羊飼いたちに姿を現します、日中で太陽が昇った時には全世界に於いて王として、全ての人の心に生まれたいと思っています。
しかし今日の福音を見て下さい、全てはこの御言葉によって創られたにもかかわらず、主は私たちを愛するが為に、自分を与える為に、宝物を持って私たちのもとに来られたにもかかわらず、こんなにか弱い姿で来たにもかかわらず、人々は、「嫌だ。」「あっち行け。」「来るな。」「出て行け」と主を闇の方に亡き者にしようと、受け入れようとしません。イエズス様の御悲しみはどれほどでしょうか。
イエズス様を信じる代わりに、どれほど多くの方がその愛を、その慈しみを、その天主の燃えるような憐れみを信じようとしないのでしょうか。イエズス様この幼子を礼拝しようとする代わりに、もはやそうではなくて、無関心や、冒瀆や、瀆聖でそれに返答する人がどれほど多いでしょうか。イエズス様に希望する代わりに、「いや、」イエズス様の無い、イエズス様ではない自分の力に、自分のやり方に希望するという人がどれほど多いでしょうか。「世界は自分の周りを中心に回っているのだ。」イエズス様をお愛し申し上げるというよりは、自分の事だけでいっぱい、自分を愛するだけでいっぱいという人がどれほど多いでしょうか。
私たちはでは今日、どのような決心を取らなけばならないでしょうか?
今日は、私たちの為にお生まれになった全知全能の永遠の御父、この天地の創造主、真の天主よりの真の天主、光よりの光、天主よりの天主、人となった永遠の御父の輝き、永遠の知恵、天主の御言葉、イエズス・キリストを心から礼拝致しましょう。
主を信じ、そして礼拝し、希望し、愛する事に致しましょう。イエズス・キリストをどうぞ御聖体拝領によって受けて下さい。私たちの霊魂に生まれる事をどれほど望んでおられるか、この希望を満たして差し上げて下さい。そして私たちが聖体拝領をしたら、イエズス様を信じない人々に代わって、礼拝しない人々に代わって、希望しない人々に代わって、愛さない人々に代わって、信仰と、礼拝と、希望と、愛を捧げて下さい。
三位一体を深く心から礼拝して、イエズス様の御体、御血、御霊魂、御神性をお捧げ下さい。イエズス様の至聖なる聖心の無限の功徳によって、多くの罪人たちが、多くの人々が、特に日本にいる方々が、イエズス様のこの愛を知る事ができますように、イエズス様がますます愛されますように、そして多くの霊魂が天国に導かれますように、その為にお生まれなったイエズス様の望みが叶いますように、お祈り致しましょう。
イエズス様が来られたのはマリア様を通してでした。ですからマリア様を通して、マリア様にお願いして、私たちの霊魂にも生まれて下さるようにお祈り致しましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。