アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様のお説教 「ご聖体の秘蹟について:その2)犠牲」(日本語訳)をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
2017年1月15日 御公現後の第2主日―大阪
「ご聖体の秘蹟について」:その2)犠牲
親愛なる兄弟の皆さん、
クリスマスに、私たちはご聖体の第一の面、私たちの主イエズス・キリストの現存について学びました。実際、聖なるカトリック教会は、パンとぶどう酒の外観、すなわちパンとぶどう酒の形、色、大きさ、味などのもとに、永遠の昔から父なる天主の御子であり、時間の中においてはマリアの御子である私たちの主イエズス・キリストの御体、御血、ご霊魂、ご神性そのものが現実にかつ実体的に存在すると信じかつ教えています。「み言葉は肉体となって、私たちのうちに住まわれた」(ヨハネ1章14節)。主はベトレヘムに住まわれ、エジプトへ行き、聖地に戻って死とご復活までそこにおられました。しかし、主はご昇天の日に天へ昇られましたが、私たちをお見捨てにはなりませんでした。主は隠されてはいるものの実際の現実として、御聖体の秘蹟の中にとどまっておられます。主は今でも「私たちのうちに住まわれ」ているのです。ここで「住まわれた」という言葉に使われているギリシャ語は、元々「主は私たちの間に天幕を張られた」という意味を持っています。このことは、紅海を渡ったあとの砂漠での四十年間、主の民の中に天主が現存されるしるしであった幕屋(ご聖櫃)のことを言っているのは確かです。天主の知恵は言われました。「私は人の子と交わるのを楽しみとした」(格言[箴言]8章31節)。
しかし、主が天から降りて来られた主な目的は何だったのでしょうか? 私たちを救うことです! これは実際、天使が聖ヨゼフに言ったことです。「あなたはその子をイエズスと名付けよ。なぜなら彼は罪から民を救う方だからである」(マテオ1章21節)。これが主の使命です。私たちを救うことです。これが、まさしく主の聖なる御名の意味です。「イエズス」は「ヤーウェは救う」という意味です。主は救い主なのです。では、主はどのようにして私たちをお救いになったのでしょうか? 十字架の上でご自分を完全な犠牲としてお捧げになることによってです! 犠牲は、天主のみに捧げる最高の礼拝の行いです。キリストは御父に完全な犠牲を、完全な礼拝と感謝を、私たちの罪の完全な償いをお捧げになられたため、それが、世の全ての罪が御父を怒らせた以上に御父をお喜ばせし、それによって正義の釣り合いを回復させ、すべて罪の償いをし、救いのすべての恩寵を取り成したのです。
この犠牲は外的には十字架の上で行われましたが、私たちの主イエズス・キリストはその生涯のまさに始まりから犠牲を捧げておられました。実際、詩篇39番から引用して、聖パウロは言います。「そのために、キリストは世に入るとき言われた、『あなたはいけにえも供え物も望まれず、ただ私のために体を準備された。あなたは燔祭と罪償のいけにえを喜ばれなかった。そこで私は、〈私について巻物に書き記されているとおり、天主よ、私はあなたのみ旨を行うために来る〉と言った』。先には『あなたはいけにえと供え物と燔祭と罪償のいけにえを望まず、また喜ばれなかった』―それも律法に従って捧げるものである―と言い、後には、『見よ、私はあなたのみ旨を行うために来る』と言われた。こうして後のものを立て、先のものを除かれた。このみ旨によって、ただ一度で永久に捧げられたイエズス・キリストのお体の捧げ物によって私たちは聖とされた」(ヘブライ10章5-10節)。さて、この一節、「イエズス・キリストのお体の捧げ物によって私たちは聖とされた」は非常に重要です。このことは十字架上で「ただ一度」起こりましたが、キリストが世に入られるやいなや「キリストが世に入るとき」すぐに「捧げられた」のです。
この一節の残りの部分が意味しているのは単に、完全な犠牲がもたらされてからは旧約の犠牲は無効となり、更には神殿の破壊ののちには完全に終了した、ということです。聖アウグスティノはさらに加えて言います。旧約の犠牲はこのまことの犠牲がもたらされたときに停止しただけでなく、「この最高にしてまことの犠牲に対して、偽りの犠牲はすべて場所を譲った」、すなわち、異邦人の犠牲さえもこのまことの犠牲の到来で停止したのだと。このことは聖アウグスティノの時代のローマ世界では真実でしたし、宣教師の活動によってキリストの犠牲が到来したところではどこでも真実となってきているのです。
私たちの主イエズス・キリストは、主の教会を礼拝のない状態にしてはおかれませんでした。むしろ主は、教会にご自分みずからの犠牲をお与えになり、この犠牲は教会の犠牲となりました。私たちの主イエズス・キリストは使徒たちにこう教えられました。「私の記念としてこれを行え」(コリント前書11章24節)。ですから教会は、主がなさったことをしているのであり、それは日ごとの「イエズス・キリストの御体の奉献」のためにパンとぶどう酒を主の御体と御血に変えることです。私たちの主イエズス・キリストは、私たちがまさに主の犠牲を捧げることができるように、ご自分をご聖体のうちに本当に現存させられます。これが、ご聖体の第二の面、犠牲です。
十字架の犠牲はまことに、人類の歴史全体の頂点です。これに先立って起こったことはすべてそのための準備でした。その準備は旧約の多くの象徴を通じてなされましたが、旧約の象徴は十字架の犠牲の前表となり、それが十字架の犠牲の前表であるというまさにその事実に価値がありました。聖ヨハネ・クリソストモス[金口ヨハネ]は、過ぎ越しの小羊の血が死の天使の通過からヘブライ人を守ったのはその血がキリストの御血の象徴だったからだ、と言っています。彼はこう結論します。(ご聖体にまします)キリストの本物の御血は、それを受ける信者たちを[旧約の小羊の血よりも]一層守ってくださる、と。同様に、十字架の犠牲に続くすべてのものが、十字架の犠牲から流れ出ます。すべての恩寵がいま十字架から流れ出て、天主をたたえ、霊魂たちを救うのです。
でも、一つの大きな違いがあります。十字架の犠牲の前には、象徴やしるし、前表がありました。しかし十字架の犠牲ののちには、十字架の犠牲はまことに「内包されて」おり、ミサにおいて現存します。これについて聖トマス・アクィナスがこう教えている通りです。「それは、…新しい律法の完成にふさわしい。なぜなら、旧約の犠牲は、ヘブライ書10章1節の『実に律法は実在の姿ではなく、将来の恵みの影である』という一節によれば、キリストのご受難というそのまことの犠牲を象徴においてのみ内包していただけであるからである。それゆえに、キリストによって制定された新しい律法の犠牲は何かもっと大いなるものであることが必要であり、つまり十字架に付けられたキリストご自身を、単にしるしや象徴においてだけでなく、真理そのものにおいて内包すべきだったのである」(神学大全第3部問75第1項)。このためトレント公会議は、ミサはまことに犠牲であるという信仰についての教義を次のように定義しました。「ミサにおいてまことのかつふさわしい犠牲が天主に捧げられないとか、これを捧げるのはわれわれにキリストを食べさせるためだけであると言う者は排斥される」(トレント公会議第22総会第1条)。
ミサにおいては、十字架上の犠牲と同じいけにえがあります。私たちの主イエズス・キリストの御体と御血です。ミサにおいては、十字架上の犠牲と同じ司祭がいます。新約の司祭の司祭職を通じてご自分をお捧げになる私たちの主イエズス・キリストです。イエズスが第一の司祭であり、彼が叙階の秘蹟の力によって、彼の司祭においてかつ彼の司祭を通じて働かれるのです。またミサにおいては、十字架上の犠牲と同じ捧げ物があります。キリストは十字架上の犠牲と同じように、ご自分を捧げ、ご自分の御体と御血を捧げ、ご自分の苦しみをすべて捧げ続けておられます。実際、十字架の犠牲は、私たちのためにキリストの御血が流されることによって成し遂げられました。この御血が流されること、御血が御体から分離することは、キリストの御体と御血を秘蹟として別々に聖別することによって表され、「現存化され」ます。御体と御血は十字架上で実際に分離されました。祭壇上では秘蹟として分離されるのです。キリストの犠牲は十字架上で血を流す方法によって捧げられましたが、祭壇上では「血を流さない」方法で捧げられます。
ミサの聖なる犠牲は、旧約において十二小預言者の最後の一人である預言者マラキアによって預言されました。それが次の言葉です。「日の昇るところから、日の没するところまで、私の名は異国の民の中で、偉大なものといわれている。あらゆる地で、いけにえが捧げられ、私の名に清い供え物が捧げられている。そうだ、私の名は、異国の民の中で、偉大なものといわれている、と、万軍の主は仰せられる」(マラキア1章11節)。この「いけにえ」と「清い供え物」、すなわち「あらゆる地で」捧げられる捧げ物は、プロテスタントの中ではどこにあるでしょうか? 彼らには犠牲がありません。それは異邦人の捧げ物であるはずがありません。それは明らかにミサの聖なる犠牲なのです。
ミサの聖なる犠牲はまことに「償いの犠牲」であり、すなわちあわれみと恩寵を内包し、罪に対して当然支払うべき償いを捧げ、それゆえに最も重要であり、特に私たちの罪深い世界にとっては最も重要です。聖なるトレント公会議は教義としてこう教えています。「ミサにおいて行われるこの天主的な犠牲の中に、十字架の祭壇上で血を流してご自身を天主に捧げられたその同じキリストが内包され、血を流さずに自分自身を捧げられる。従って、この聖なる公会議は次のことを教える。すなわち、この犠牲はまことになだめの捧げ物であり、われわれが真心と正しい信仰、畏怖と畏敬の念と痛悔と悔悛の心をもって天主に近づくならば、この犠牲によって、適切な時に慈悲を受け、恩恵を見いだすであろう。なぜなら、この捧げ物によってなだめられた主は、悔い改めの恩恵と賜物を与え、恐ろしい罪さえも赦されるからである。なぜなら、捧げ物は全く同一であり、 自分を十字架の上で捧げられたその同じキリストが、今司祭の役務を通して捧げられているからであり、ただ違うのは捧げ方だけであるからである」(トレント公会議第22総会第3章)。この偉大なる真理は、完全な教義的定義によって保証までされています。「ミサの犠牲はただ讃美と感謝の犠牲であるとか、あるいは十字架上で行われた犠牲の単なる記念であって、罪の償いの犠牲でないとか、あるいは拝領する者だけの利益になるものであって、生存者と死者のため、罪、罰、償いその他の必要のために捧げられるべきでないと言う者は排斥される」(トレント公会議第22総会第3条)
同じ聖なるトレント公会議は、聖伝のミサの典文についてはこう言っています。「聖なるものは敬虔に取り扱われることがふさわしいところ、すべての聖なるものの中でもこの犠牲は最も聖なるものである。そこでこの犠牲が、ふさわしい方法で尊敬をもって捧げられ受け取られるように、カトリック教会は何世紀も以前に[この公会議は四百五十年前にこう言っています]聖なる典文を制定した。この聖なる典文は、あらゆる誤謬から免れて全く清いものであって、そこには最も高い段階の聖性と信心に香ることのないもの、捧げる者の心を天主にまで高めないものをいささかたりとも含んでいない。なぜならこの典文は主自身の言葉、使徒たちの伝承、そして聖なる教皇たちによって敬虔に制定されたものから成り立っているからである」(トレント公会議第22総会第4章)。聖伝の典文の聖性は本当に真でありかつ重要なものですから、聖なるトレント公会議は、それを否定する者に対する排斥文を加えました。「ミサの典文は誤りを含んでいるので、それゆえに廃止されるべきであると言う者は排斥される」(トレント公会議第22総会第6条)。近代主義者は、公式に聖伝の典文を廃止してはいませんが、多くの方法で深刻な段階にまで典文を取り去ってしまいました。例えば、彼らは典文の十字架のしるしのうち九六%を廃止し、また他の典文を導入することで、このいとも聖なる典文を格下げにしてしまったのです。そのため多くの信者たちはこれを忘れてしまったのですが、聖伝のミサを見つけると、その典文を再発見して喜んでいるのです。
聖伝の典文はミサの中で最も聖なる部分であり、そのためすべての信者が、侍者も、副助祭や助祭であっても、ひざまずきますが、一方で聖伝の儀式の残りの部分もまた聖なるものですから、聖性において進歩するには有益なものです。トレント公会議は続けてこう言います。「人間性は、外的な助けなしに、天のことを黙想することは簡単にはできないものである。それゆえに、聖にして母なる教会はミサの儀式の一部を低い声で、一部をより高い声でとなえるように規定した。さらに同じく教会は種々の儀式、たとえば、使徒たちの規律および伝承から受け継いだ聖なる祝福、灯り、香、祭服、この種のその他の多くのものを利用してきた。これらはすべて、これら目に見える宗教と信心のしるしによって、この大いなる犠牲の偉大さを示し、またこの犠牲の内に隠れて内在するもっとも崇高なものの観想に信者の心を奮い立たせるためである」(トレント公会議第22総会第5章)。これらの聖なる儀式を攻撃する者に対しする排斥文さえあります。「カトリック教会がミサ聖祭の時に使う儀式、祭服、外的なしるしは、信心の助けになるどころか、不敬の念を起こさせるものである、と言う者は排斥される」(トレント公会議第22総会第7条)。トレント公会議はそのとき使用されていた聖伝の儀式についてこれを言っているということに注意しておくべきでしょう。この条文は新奇なものには適用されません。例えば、聖ピオ五世自身が、トレント公会議の終了後まもなく、直近まで行われてきた典礼の改革(ですからそれは彼の時代における新奇なものでした)を拒否し、古いローマ典礼の使用を西方教会全体に義務付けるとともに、また一方、東方の古い典礼を尊重し、また新奇のものなしに二百年以上にわたって継続して使われてきた西方の古い典礼さえ尊重したのです。
十六世紀のプロテスタントたちの誤謬を非難したとき、トレント公会議は二十世紀に近代主義者の行うことをあらかじめ非難していたように思えます。同公会議第22総会の最後の排斥文の例を上げてみましょう。「低い声で典文の一部と聖変化の言葉をとなえるローマ教会の儀式は非難されるべきであるとか、自国語だけでミサを捧げるべきであるとか、…と言う者は排斥される」。
トレント公会議のこれらのテキストは、私たちの聖なる宗教のまことの核心であるミサの聖なる犠牲に対して、大いなる尊敬の念を持つよう私たちを助けてくれます。旧約においては、一年に一度、大司祭がいけにえの血とともに至聖所に入ったのであり、それは彼にとって大変重要な瞬間であったに違いありません。新約においては、ミサにおいて毎日、司祭はいとも聖なる三位一体に完全ないけにえの血そのものを、旧約では単にしるしに過ぎなかったものの新約の祭壇上ではまことに現存するいけにえの血を捧げ、全教会のためにあわれみを乞うのです。その犠牲から、信者たちに豊かな恩寵が、信じぬ者の回心や放蕩息子たちの帰還のためにさえ恩寵がもたらされるのです。このことからお分かりの通り、悪魔はミサに我慢できません。ミサでは悪魔は繰り返し敗北されられるからです。そのため悪魔は、ミサを変質させるために、ミサをゆがめるために、ミサの実りを妨害するために、自分にできるすべてのことをしようとします。悪魔はミサを嫌悪しています。しかし、ルターの書いたものをいくつか読めば、ミサに対するこの悪魔の嫌悪のこだまを見いだします。これがトレント公会議の排斥文が強く主張するゆえんです。
ミサの聖なる犠牲には四つの目的があります。ミサの犠牲は、礼拝、感謝、なだめ、祈願の犠牲です。ミサの犠牲が礼拝の犠牲であるのは、私たちがいとも聖なる三位一体に最高の敬意を捧げ、天主の属性すべて、すなわち最高の段階にある天主の究極の完全さを認めるからです。ミサの犠牲において、私たちは被造物として創造主の御前にひれ伏し、「死ぬまで、十字架上に死ぬまで、自分を卑しくされた」(フィリッピ2章8節)と書かれているように御父に完全に服従された私たちの主イエズス・キリストと一致して、創造主に完全に服従します。ミサの犠牲が感謝の犠牲であるのは、私たちが天主に、私たちの持つ最も素晴らしい宝である私たちの主イエズス・キリストご自身をお捧げするからです。私たちの持つものはすべて天主から受けたものですから、私たちは天主から受けたものしか天主にお返しすることができません。しかし、私たちが天主から受けたもののうちで最も良いものは天主の御独り子、私たちの主イエズス・キリストです。「天主は御独り子を与え給うほどこの世を愛された」(ヨハネ3章16節)。ミサの犠牲において、私たちは御父に主をお返しし、また主とともに、主によって、主において私たち自身をお返しします。ミサの犠牲がなだめの犠牲であるのは、前に説明したように罪の償いの犠牲だからです。最後に、ミサの犠牲は祈願の犠牲、すなわちそれによって私たちがすべての恩寵を得る最高の祈りです。聖パウロは言います。「ご自分の御子を惜しまずに私たちすべてのために渡されたお方が、御子とともに他のすべてを下さらないはずがあろうか」(ローマ8章32節)。まことにミサの聖なる犠牲は最高の礼拝の行いであり、教会の最も素晴らしい宝なのです。
私たちの主はその時のために、十字架上で主が世を贖われるその時のために来られました。主の全生涯はそれに対して向けられています。ですから主は、カナの婚礼で聖母にこう言われました。「私の時はまだ来ていません」(ヨハネ2章4節)。主が犠牲を捧げられるとき、まず主がご聖体を制定なさった聖木曜日に、この時はやって来ました。「過ぎ越しの祭りの前に、イエズスはこの世から父のもとに移る時が来たのを知り、この世にいるご自分の人々を愛し、彼らに限りなく愛を示された」(ヨハネ13章1節)。ですからご聖体は、ご自分の人々、すなわち主の信者たち、私たち一人一人に対する、キリストのこの最高の愛の行いなのです。私たちはご聖体をいったいどれほど愛すべきでしょうか!
イエズスの全生涯が十字架の犠牲に向けられていただけでなく、主はまた御母の生涯と使徒たちの生涯も十字架の犠牲に向けられました。主が十二歳のとき、主はマリアとヨゼフの大きな苦しみの原因となりました。二人から離れて、エルザレムに残られたからです。大きな悲しみの三日間ののち、二人が主を見つけたとき、イエズスは二人にこう言われました。「私が父のことに従事すべきだと知らなかったのですか?」(ルカ2章49節)。この「父のこと」とは何だったのでしょうか? 理解するのは難しく、聖書自体がマリアとヨゼフは分からなかったと私たちに教えています。でもマリアは「これらの言葉をみな心におさめておいた」(ルカ2章51節)のであり、その言葉を黙想なさっていたのです。ですから、イエズスの時が来て、カルワリオに連れて行かれたとき、聖母はもはや主になぜかと尋ねられることはありませんでした。聖母はご存じだったのです。イエズスは御父のことに従事なさっていたのです、霊魂の救いに! そして聖母は主と共にこの行いに完全に没入され、霊魂の救いのために主と協力され、完全に新しいエバとなって、新しいアダムに対して「彼に似合った助け手」(創世記2章18節)として与えられたのでした。
さて、聖母は十字架の下でイエズスと一致しておられたように、聖母はミサの聖なる犠牲においてもご自分を捧げられる主と一致しておられます。マリアは私たちのミサの一つ一つに霊的に現存しておられ、使徒聖ヨハネと聖なる婦人たちを十字架の下に導かれたように、私たちをそこへと導かれます。聖母はどのようにしてミサにあずかるかの模範であり、イエズスと共に私たち自身を捧げる模範であり、「キリストとともに光栄を受けるために、その苦しみをともに受ける」(ローマ8章17節)寛大さの模範です。常に大きな信仰と信心をもってミサにあずかることができるよう、そして天主の内に生きるために罪に死ぬよう、私たちを助けてくださるよう聖母に願いましょう。そうすることで私たちが、「私たちの体を生きた清い天主に嘉せられる犠牲として、道理にかなった崇敬として捧げる」(ローマ12章1節)ことができますように。
聖母が私たちに、ミサに対する大きな愛を、私たちがミサの聖なる犠牲にあずかるときはいつでも大きな信心を、聖伝のミサへの大きな愛着を与えてくださり、私たちにこの犠牲の永遠の実り、私たちの霊魂の救いを取り成してくださいますように。アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様のお説教 「ご聖体の秘蹟について:その2)犠牲」(日本語訳)をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
2017年1月15日 御公現後の第2主日―大阪
「ご聖体の秘蹟について」:その2)犠牲
親愛なる兄弟の皆さん、
クリスマスに、私たちはご聖体の第一の面、私たちの主イエズス・キリストの現存について学びました。実際、聖なるカトリック教会は、パンとぶどう酒の外観、すなわちパンとぶどう酒の形、色、大きさ、味などのもとに、永遠の昔から父なる天主の御子であり、時間の中においてはマリアの御子である私たちの主イエズス・キリストの御体、御血、ご霊魂、ご神性そのものが現実にかつ実体的に存在すると信じかつ教えています。「み言葉は肉体となって、私たちのうちに住まわれた」(ヨハネ1章14節)。主はベトレヘムに住まわれ、エジプトへ行き、聖地に戻って死とご復活までそこにおられました。しかし、主はご昇天の日に天へ昇られましたが、私たちをお見捨てにはなりませんでした。主は隠されてはいるものの実際の現実として、御聖体の秘蹟の中にとどまっておられます。主は今でも「私たちのうちに住まわれ」ているのです。ここで「住まわれた」という言葉に使われているギリシャ語は、元々「主は私たちの間に天幕を張られた」という意味を持っています。このことは、紅海を渡ったあとの砂漠での四十年間、主の民の中に天主が現存されるしるしであった幕屋(ご聖櫃)のことを言っているのは確かです。天主の知恵は言われました。「私は人の子と交わるのを楽しみとした」(格言[箴言]8章31節)。
しかし、主が天から降りて来られた主な目的は何だったのでしょうか? 私たちを救うことです! これは実際、天使が聖ヨゼフに言ったことです。「あなたはその子をイエズスと名付けよ。なぜなら彼は罪から民を救う方だからである」(マテオ1章21節)。これが主の使命です。私たちを救うことです。これが、まさしく主の聖なる御名の意味です。「イエズス」は「ヤーウェは救う」という意味です。主は救い主なのです。では、主はどのようにして私たちをお救いになったのでしょうか? 十字架の上でご自分を完全な犠牲としてお捧げになることによってです! 犠牲は、天主のみに捧げる最高の礼拝の行いです。キリストは御父に完全な犠牲を、完全な礼拝と感謝を、私たちの罪の完全な償いをお捧げになられたため、それが、世の全ての罪が御父を怒らせた以上に御父をお喜ばせし、それによって正義の釣り合いを回復させ、すべて罪の償いをし、救いのすべての恩寵を取り成したのです。
この犠牲は外的には十字架の上で行われましたが、私たちの主イエズス・キリストはその生涯のまさに始まりから犠牲を捧げておられました。実際、詩篇39番から引用して、聖パウロは言います。「そのために、キリストは世に入るとき言われた、『あなたはいけにえも供え物も望まれず、ただ私のために体を準備された。あなたは燔祭と罪償のいけにえを喜ばれなかった。そこで私は、〈私について巻物に書き記されているとおり、天主よ、私はあなたのみ旨を行うために来る〉と言った』。先には『あなたはいけにえと供え物と燔祭と罪償のいけにえを望まず、また喜ばれなかった』―それも律法に従って捧げるものである―と言い、後には、『見よ、私はあなたのみ旨を行うために来る』と言われた。こうして後のものを立て、先のものを除かれた。このみ旨によって、ただ一度で永久に捧げられたイエズス・キリストのお体の捧げ物によって私たちは聖とされた」(ヘブライ10章5-10節)。さて、この一節、「イエズス・キリストのお体の捧げ物によって私たちは聖とされた」は非常に重要です。このことは十字架上で「ただ一度」起こりましたが、キリストが世に入られるやいなや「キリストが世に入るとき」すぐに「捧げられた」のです。
この一節の残りの部分が意味しているのは単に、完全な犠牲がもたらされてからは旧約の犠牲は無効となり、更には神殿の破壊ののちには完全に終了した、ということです。聖アウグスティノはさらに加えて言います。旧約の犠牲はこのまことの犠牲がもたらされたときに停止しただけでなく、「この最高にしてまことの犠牲に対して、偽りの犠牲はすべて場所を譲った」、すなわち、異邦人の犠牲さえもこのまことの犠牲の到来で停止したのだと。このことは聖アウグスティノの時代のローマ世界では真実でしたし、宣教師の活動によってキリストの犠牲が到来したところではどこでも真実となってきているのです。
私たちの主イエズス・キリストは、主の教会を礼拝のない状態にしてはおかれませんでした。むしろ主は、教会にご自分みずからの犠牲をお与えになり、この犠牲は教会の犠牲となりました。私たちの主イエズス・キリストは使徒たちにこう教えられました。「私の記念としてこれを行え」(コリント前書11章24節)。ですから教会は、主がなさったことをしているのであり、それは日ごとの「イエズス・キリストの御体の奉献」のためにパンとぶどう酒を主の御体と御血に変えることです。私たちの主イエズス・キリストは、私たちがまさに主の犠牲を捧げることができるように、ご自分をご聖体のうちに本当に現存させられます。これが、ご聖体の第二の面、犠牲です。
十字架の犠牲はまことに、人類の歴史全体の頂点です。これに先立って起こったことはすべてそのための準備でした。その準備は旧約の多くの象徴を通じてなされましたが、旧約の象徴は十字架の犠牲の前表となり、それが十字架の犠牲の前表であるというまさにその事実に価値がありました。聖ヨハネ・クリソストモス[金口ヨハネ]は、過ぎ越しの小羊の血が死の天使の通過からヘブライ人を守ったのはその血がキリストの御血の象徴だったからだ、と言っています。彼はこう結論します。(ご聖体にまします)キリストの本物の御血は、それを受ける信者たちを[旧約の小羊の血よりも]一層守ってくださる、と。同様に、十字架の犠牲に続くすべてのものが、十字架の犠牲から流れ出ます。すべての恩寵がいま十字架から流れ出て、天主をたたえ、霊魂たちを救うのです。
でも、一つの大きな違いがあります。十字架の犠牲の前には、象徴やしるし、前表がありました。しかし十字架の犠牲ののちには、十字架の犠牲はまことに「内包されて」おり、ミサにおいて現存します。これについて聖トマス・アクィナスがこう教えている通りです。「それは、…新しい律法の完成にふさわしい。なぜなら、旧約の犠牲は、ヘブライ書10章1節の『実に律法は実在の姿ではなく、将来の恵みの影である』という一節によれば、キリストのご受難というそのまことの犠牲を象徴においてのみ内包していただけであるからである。それゆえに、キリストによって制定された新しい律法の犠牲は何かもっと大いなるものであることが必要であり、つまり十字架に付けられたキリストご自身を、単にしるしや象徴においてだけでなく、真理そのものにおいて内包すべきだったのである」(神学大全第3部問75第1項)。このためトレント公会議は、ミサはまことに犠牲であるという信仰についての教義を次のように定義しました。「ミサにおいてまことのかつふさわしい犠牲が天主に捧げられないとか、これを捧げるのはわれわれにキリストを食べさせるためだけであると言う者は排斥される」(トレント公会議第22総会第1条)。
ミサにおいては、十字架上の犠牲と同じいけにえがあります。私たちの主イエズス・キリストの御体と御血です。ミサにおいては、十字架上の犠牲と同じ司祭がいます。新約の司祭の司祭職を通じてご自分をお捧げになる私たちの主イエズス・キリストです。イエズスが第一の司祭であり、彼が叙階の秘蹟の力によって、彼の司祭においてかつ彼の司祭を通じて働かれるのです。またミサにおいては、十字架上の犠牲と同じ捧げ物があります。キリストは十字架上の犠牲と同じように、ご自分を捧げ、ご自分の御体と御血を捧げ、ご自分の苦しみをすべて捧げ続けておられます。実際、十字架の犠牲は、私たちのためにキリストの御血が流されることによって成し遂げられました。この御血が流されること、御血が御体から分離することは、キリストの御体と御血を秘蹟として別々に聖別することによって表され、「現存化され」ます。御体と御血は十字架上で実際に分離されました。祭壇上では秘蹟として分離されるのです。キリストの犠牲は十字架上で血を流す方法によって捧げられましたが、祭壇上では「血を流さない」方法で捧げられます。
ミサの聖なる犠牲は、旧約において十二小預言者の最後の一人である預言者マラキアによって預言されました。それが次の言葉です。「日の昇るところから、日の没するところまで、私の名は異国の民の中で、偉大なものといわれている。あらゆる地で、いけにえが捧げられ、私の名に清い供え物が捧げられている。そうだ、私の名は、異国の民の中で、偉大なものといわれている、と、万軍の主は仰せられる」(マラキア1章11節)。この「いけにえ」と「清い供え物」、すなわち「あらゆる地で」捧げられる捧げ物は、プロテスタントの中ではどこにあるでしょうか? 彼らには犠牲がありません。それは異邦人の捧げ物であるはずがありません。それは明らかにミサの聖なる犠牲なのです。
ミサの聖なる犠牲はまことに「償いの犠牲」であり、すなわちあわれみと恩寵を内包し、罪に対して当然支払うべき償いを捧げ、それゆえに最も重要であり、特に私たちの罪深い世界にとっては最も重要です。聖なるトレント公会議は教義としてこう教えています。「ミサにおいて行われるこの天主的な犠牲の中に、十字架の祭壇上で血を流してご自身を天主に捧げられたその同じキリストが内包され、血を流さずに自分自身を捧げられる。従って、この聖なる公会議は次のことを教える。すなわち、この犠牲はまことになだめの捧げ物であり、われわれが真心と正しい信仰、畏怖と畏敬の念と痛悔と悔悛の心をもって天主に近づくならば、この犠牲によって、適切な時に慈悲を受け、恩恵を見いだすであろう。なぜなら、この捧げ物によってなだめられた主は、悔い改めの恩恵と賜物を与え、恐ろしい罪さえも赦されるからである。なぜなら、捧げ物は全く同一であり、 自分を十字架の上で捧げられたその同じキリストが、今司祭の役務を通して捧げられているからであり、ただ違うのは捧げ方だけであるからである」(トレント公会議第22総会第3章)。この偉大なる真理は、完全な教義的定義によって保証までされています。「ミサの犠牲はただ讃美と感謝の犠牲であるとか、あるいは十字架上で行われた犠牲の単なる記念であって、罪の償いの犠牲でないとか、あるいは拝領する者だけの利益になるものであって、生存者と死者のため、罪、罰、償いその他の必要のために捧げられるべきでないと言う者は排斥される」(トレント公会議第22総会第3条)
同じ聖なるトレント公会議は、聖伝のミサの典文についてはこう言っています。「聖なるものは敬虔に取り扱われることがふさわしいところ、すべての聖なるものの中でもこの犠牲は最も聖なるものである。そこでこの犠牲が、ふさわしい方法で尊敬をもって捧げられ受け取られるように、カトリック教会は何世紀も以前に[この公会議は四百五十年前にこう言っています]聖なる典文を制定した。この聖なる典文は、あらゆる誤謬から免れて全く清いものであって、そこには最も高い段階の聖性と信心に香ることのないもの、捧げる者の心を天主にまで高めないものをいささかたりとも含んでいない。なぜならこの典文は主自身の言葉、使徒たちの伝承、そして聖なる教皇たちによって敬虔に制定されたものから成り立っているからである」(トレント公会議第22総会第4章)。聖伝の典文の聖性は本当に真でありかつ重要なものですから、聖なるトレント公会議は、それを否定する者に対する排斥文を加えました。「ミサの典文は誤りを含んでいるので、それゆえに廃止されるべきであると言う者は排斥される」(トレント公会議第22総会第6条)。近代主義者は、公式に聖伝の典文を廃止してはいませんが、多くの方法で深刻な段階にまで典文を取り去ってしまいました。例えば、彼らは典文の十字架のしるしのうち九六%を廃止し、また他の典文を導入することで、このいとも聖なる典文を格下げにしてしまったのです。そのため多くの信者たちはこれを忘れてしまったのですが、聖伝のミサを見つけると、その典文を再発見して喜んでいるのです。
聖伝の典文はミサの中で最も聖なる部分であり、そのためすべての信者が、侍者も、副助祭や助祭であっても、ひざまずきますが、一方で聖伝の儀式の残りの部分もまた聖なるものですから、聖性において進歩するには有益なものです。トレント公会議は続けてこう言います。「人間性は、外的な助けなしに、天のことを黙想することは簡単にはできないものである。それゆえに、聖にして母なる教会はミサの儀式の一部を低い声で、一部をより高い声でとなえるように規定した。さらに同じく教会は種々の儀式、たとえば、使徒たちの規律および伝承から受け継いだ聖なる祝福、灯り、香、祭服、この種のその他の多くのものを利用してきた。これらはすべて、これら目に見える宗教と信心のしるしによって、この大いなる犠牲の偉大さを示し、またこの犠牲の内に隠れて内在するもっとも崇高なものの観想に信者の心を奮い立たせるためである」(トレント公会議第22総会第5章)。これらの聖なる儀式を攻撃する者に対しする排斥文さえあります。「カトリック教会がミサ聖祭の時に使う儀式、祭服、外的なしるしは、信心の助けになるどころか、不敬の念を起こさせるものである、と言う者は排斥される」(トレント公会議第22総会第7条)。トレント公会議はそのとき使用されていた聖伝の儀式についてこれを言っているということに注意しておくべきでしょう。この条文は新奇なものには適用されません。例えば、聖ピオ五世自身が、トレント公会議の終了後まもなく、直近まで行われてきた典礼の改革(ですからそれは彼の時代における新奇なものでした)を拒否し、古いローマ典礼の使用を西方教会全体に義務付けるとともに、また一方、東方の古い典礼を尊重し、また新奇のものなしに二百年以上にわたって継続して使われてきた西方の古い典礼さえ尊重したのです。
十六世紀のプロテスタントたちの誤謬を非難したとき、トレント公会議は二十世紀に近代主義者の行うことをあらかじめ非難していたように思えます。同公会議第22総会の最後の排斥文の例を上げてみましょう。「低い声で典文の一部と聖変化の言葉をとなえるローマ教会の儀式は非難されるべきであるとか、自国語だけでミサを捧げるべきであるとか、…と言う者は排斥される」。
トレント公会議のこれらのテキストは、私たちの聖なる宗教のまことの核心であるミサの聖なる犠牲に対して、大いなる尊敬の念を持つよう私たちを助けてくれます。旧約においては、一年に一度、大司祭がいけにえの血とともに至聖所に入ったのであり、それは彼にとって大変重要な瞬間であったに違いありません。新約においては、ミサにおいて毎日、司祭はいとも聖なる三位一体に完全ないけにえの血そのものを、旧約では単にしるしに過ぎなかったものの新約の祭壇上ではまことに現存するいけにえの血を捧げ、全教会のためにあわれみを乞うのです。その犠牲から、信者たちに豊かな恩寵が、信じぬ者の回心や放蕩息子たちの帰還のためにさえ恩寵がもたらされるのです。このことからお分かりの通り、悪魔はミサに我慢できません。ミサでは悪魔は繰り返し敗北されられるからです。そのため悪魔は、ミサを変質させるために、ミサをゆがめるために、ミサの実りを妨害するために、自分にできるすべてのことをしようとします。悪魔はミサを嫌悪しています。しかし、ルターの書いたものをいくつか読めば、ミサに対するこの悪魔の嫌悪のこだまを見いだします。これがトレント公会議の排斥文が強く主張するゆえんです。
ミサの聖なる犠牲には四つの目的があります。ミサの犠牲は、礼拝、感謝、なだめ、祈願の犠牲です。ミサの犠牲が礼拝の犠牲であるのは、私たちがいとも聖なる三位一体に最高の敬意を捧げ、天主の属性すべて、すなわち最高の段階にある天主の究極の完全さを認めるからです。ミサの犠牲において、私たちは被造物として創造主の御前にひれ伏し、「死ぬまで、十字架上に死ぬまで、自分を卑しくされた」(フィリッピ2章8節)と書かれているように御父に完全に服従された私たちの主イエズス・キリストと一致して、創造主に完全に服従します。ミサの犠牲が感謝の犠牲であるのは、私たちが天主に、私たちの持つ最も素晴らしい宝である私たちの主イエズス・キリストご自身をお捧げするからです。私たちの持つものはすべて天主から受けたものですから、私たちは天主から受けたものしか天主にお返しすることができません。しかし、私たちが天主から受けたもののうちで最も良いものは天主の御独り子、私たちの主イエズス・キリストです。「天主は御独り子を与え給うほどこの世を愛された」(ヨハネ3章16節)。ミサの犠牲において、私たちは御父に主をお返しし、また主とともに、主によって、主において私たち自身をお返しします。ミサの犠牲がなだめの犠牲であるのは、前に説明したように罪の償いの犠牲だからです。最後に、ミサの犠牲は祈願の犠牲、すなわちそれによって私たちがすべての恩寵を得る最高の祈りです。聖パウロは言います。「ご自分の御子を惜しまずに私たちすべてのために渡されたお方が、御子とともに他のすべてを下さらないはずがあろうか」(ローマ8章32節)。まことにミサの聖なる犠牲は最高の礼拝の行いであり、教会の最も素晴らしい宝なのです。
私たちの主はその時のために、十字架上で主が世を贖われるその時のために来られました。主の全生涯はそれに対して向けられています。ですから主は、カナの婚礼で聖母にこう言われました。「私の時はまだ来ていません」(ヨハネ2章4節)。主が犠牲を捧げられるとき、まず主がご聖体を制定なさった聖木曜日に、この時はやって来ました。「過ぎ越しの祭りの前に、イエズスはこの世から父のもとに移る時が来たのを知り、この世にいるご自分の人々を愛し、彼らに限りなく愛を示された」(ヨハネ13章1節)。ですからご聖体は、ご自分の人々、すなわち主の信者たち、私たち一人一人に対する、キリストのこの最高の愛の行いなのです。私たちはご聖体をいったいどれほど愛すべきでしょうか!
イエズスの全生涯が十字架の犠牲に向けられていただけでなく、主はまた御母の生涯と使徒たちの生涯も十字架の犠牲に向けられました。主が十二歳のとき、主はマリアとヨゼフの大きな苦しみの原因となりました。二人から離れて、エルザレムに残られたからです。大きな悲しみの三日間ののち、二人が主を見つけたとき、イエズスは二人にこう言われました。「私が父のことに従事すべきだと知らなかったのですか?」(ルカ2章49節)。この「父のこと」とは何だったのでしょうか? 理解するのは難しく、聖書自体がマリアとヨゼフは分からなかったと私たちに教えています。でもマリアは「これらの言葉をみな心におさめておいた」(ルカ2章51節)のであり、その言葉を黙想なさっていたのです。ですから、イエズスの時が来て、カルワリオに連れて行かれたとき、聖母はもはや主になぜかと尋ねられることはありませんでした。聖母はご存じだったのです。イエズスは御父のことに従事なさっていたのです、霊魂の救いに! そして聖母は主と共にこの行いに完全に没入され、霊魂の救いのために主と協力され、完全に新しいエバとなって、新しいアダムに対して「彼に似合った助け手」(創世記2章18節)として与えられたのでした。
さて、聖母は十字架の下でイエズスと一致しておられたように、聖母はミサの聖なる犠牲においてもご自分を捧げられる主と一致しておられます。マリアは私たちのミサの一つ一つに霊的に現存しておられ、使徒聖ヨハネと聖なる婦人たちを十字架の下に導かれたように、私たちをそこへと導かれます。聖母はどのようにしてミサにあずかるかの模範であり、イエズスと共に私たち自身を捧げる模範であり、「キリストとともに光栄を受けるために、その苦しみをともに受ける」(ローマ8章17節)寛大さの模範です。常に大きな信仰と信心をもってミサにあずかることができるよう、そして天主の内に生きるために罪に死ぬよう、私たちを助けてくださるよう聖母に願いましょう。そうすることで私たちが、「私たちの体を生きた清い天主に嘉せられる犠牲として、道理にかなった崇敬として捧げる」(ローマ12章1節)ことができますように。
聖母が私たちに、ミサに対する大きな愛を、私たちがミサの聖なる犠牲にあずかるときはいつでも大きな信心を、聖伝のミサへの大きな愛着を与えてくださり、私たちにこの犠牲の永遠の実り、私たちの霊魂の救いを取り成してくださいますように。アーメン。