アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
2017年1月6日(初金)に大阪で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
2017年1月6日 初金曜日 主の御公現のミサ
小野田神父 説教
聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2017年1月6日、主の御公現という大祝日を祝っています。今日は2017年の初めての金曜日で、初金曜日でもあります。今日はこの御ミサの後に、いつものようにミサの後のお祈りを皆で一緒に致しましょう。でも今年はファチマの年なので、このミサの聖体拝領後の祈りの直後に、そして教皇様の為のお祈りの直前に、ファチマの天使が教えてくれたお祈りを皆さんと一緒に唱えたいと思っています。
今日はまだ御公現節ですので、ミサの後の感謝の祈りが終わりましたら、イエズス様の礼拝をしたいと思っています。クリスマスの夜にやったように、小さなイエズス様の御足に或いは御手に接吻をなさって下さい。
今日は初金曜日ですから、聖時間も行いたいと思っています。もしもできる方は聖時間のお祈りもなさって下さい。
Ecce advenit dominator dominus
「見よ、主であり支配者である方がやって来た。」
聖父と聖子と聖霊との御名よりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、今日は主の御公現です。主の御公現というのは、東の国の3人の博士が星を見て、その星に導かれて、来たるべき生まれた救い主、ユダヤの王、そして真の天主、王の王である方の為に、黄金とそして乳香と没薬を贈り物としてはるばるやって来て、そして生まれた幼子イエズス・キリスト様にお捧げした、という歴史的な事実をお祝いする事に基づいています。
今日はちょうどこのまぐさ桶の所に、新しく3人の王様の御像が置かれました。クリスマスの夜にはマリア様とヨゼフ様、そして真夜中にイエズス様が置かれましたけれども、今日1月6日は3人の王様が付け加えられます。そして馬小屋のこのまぐさ桶は2月2日まで、クリスマスから40日の間こうやって飾られます。
今日はでは、一体御公現というのはどんな意味を私たちが持っているのか?
クリスマスと御公現は、どう似ていてどう違うのか?という事を黙想する事を提案したいと思っています。
そしてどう似ていてどう違っているのか、というのを見た後に、遷善の決心を立てる事に致しましょう。
クリスマスの時にいらして下さった方は覚えていると思いますけれども、クリスマスはまず2つの特徴がありました。
それは「光の祝日」で、光からの光、真の天主からの真の天主、この世の光であるイエズス・キリスト様が、この真っ暗闇のこの世の中を照らす為にやって来られた。ですから昔から教会では、こうイルミネーションで飾って、光を飾るというのが伝統でした。
もう1つのクリスマスの特徴というのは、「プレゼント」だという事でした。どんなプレゼントかというと、それはこの世を創った創造主、天主様が、三位一体が、私たちに最高のプレゼントをした、クリスマスのプレゼントをした、という事でした。そのプレゼントの中身は何かというと、実は私たちに、天主の御子イエズス・キリスト様を全て下さった、イエズス様は私たちのものとなった、“PUER natus est nobis,”「天主の御子が私たちの為にお生まれになった」という特別のプレゼントを記念する事でした。
ところで御公現はどうなのでしょうか?御公現も実はそれと同じなのです。御公現も「光の祝日」であって、そして同時に「プレゼントの日」なのです。でもプレゼントはプレゼントでも、今度は「人間の方からイエズス様に贈る」プレゼントの日なのです。
何故そういう事が言えるのかというと、今日のミサで書かれている内容の事をよく読むとその事が分かります。例えば書簡書というところには、「エルサレムよ、輝け」とあります。これも「エルサレムが光で満たされる」という意味です。
クリスマスの時には、ベトレヘムに光が照らされました。でも今日の御公現では、エルサレムが輝いています。ちょうどクリスマスの時にはベトレヘムで太陽が昇って、マリア様と聖ヨゼフ様とそして選ばれた羊飼いたちだけに、「救い主が現われた」という事が告げ知らされた。羊飼いたちが、選ばれた羊飼いたちが天に、天使たちの大群、光り輝く天使たちの大群を見て、その歌声を聞いて、そしてベトレヘムに駆けつけて、そしてお生まれになった救い主を拝んだ。ですからクリスマスはいわば、カトリックの家庭の、家族の祝日でした。
ところがその昇る太陽がますます現れて、今度は全世界に、異邦人に、東の国の博士たちも呼んで、ユダヤ人とは関係ない東の国の異邦人たちも招いて、救い主を礼拝するように公に御自分を現した、というので、「エルサレムよ、輝き出せよ」という公的な特徴を持っています。まさにカトリックの、「全世界を、この救い主が今日輝き出す。ユダヤ人のみならず異邦人たちにも輝き出す」という光の日なのです。
もう1つのプレゼントというのは、これは異邦人たちが3人の博士たちが、幼子イエズス様になしたという事が、その行為によって表されています。ただこの世の救い主から、この世の創造主から救い主を与えられた、人間は特別の御恵みを受けた、のみならず、今度は人間もそれに対して、それに応えようとするのです。それがこの3人の博士が出した、この「黄金」と、「乳香」と、「没薬」なのです。
「黄金」というのは、これは実は王様に昔から与える贈り物なのです。王様に捧げる物で、これはこの生まれた方がメシアが、まさに「王様である」という事をこの3人がよく知っていたという事を表しています。
「乳香」というのは、これは特に香を焚いてその香が天に上がるので、お祈りのシンボルでもあり、これは天主様に、この世の創造主に捧げる贈り物なのです。ですからこの3人はこの生まれた救い主が、この小さな子供が、「真の天主である」という事を知っていたのです。
もう1つ驚く事は、この博士はこの生まれた子供に「没薬」を、つまり埋葬の為の準備の物を与えたのです。これは「死」とか、「苦しむ」事の準備の為に与えられました。
この3人の博士たちは良く、この生まれた、ベトレヘムでお生まれになって、そして礼拝しに来た方が一体どのような方であるか、と知っていたのです。「真の天主」であり、「真の王」であり、そして「私たちの為に苦しみを受けて亡くなられる救い主である」という事を知っていました。そしてそれに相応しい贈り物を与えました。
ですから今日、この歴史的な出来事を福音書で読んだ後に、「その博士たちがやった事と同じような事を私たちもするように」と言って、本当ならいつも福音の時には立って聞いているのですけれども、福音書に敬意を表して立ったまま聞くのですけれども、その博士たちがやったように、その福音の場所でも、「その3人は贈り物を与えて、そして平伏して礼拝した」という時に、私たちも跪いて同じように、この生まれた赤ちゃんを、イエズス・キリスト様を礼拝しました。
これはどういう事かというと、「実はこれと同じような事を、この歴史上起こったのと同じような事を今、私たちはしているんだよ」という事を教えようとしているのです。でもどのようにしているかというと、確かに目に見える形では違うのですけれども、しかし「実際は同じ事が起こっている」という事を教えようとしています。
それは集祷文を読むとよく分かります。集祷文というのは最初のお祈りですけれども、「3人の博士たちは星によって導かれたけれども、私たちは信仰という薄い光によって導かれて来ました。そして3人この博士たちがこの砂漠を越えて、色んな困難を越えて、ヘロデの罠を越えてやって来たように、私たちもこの世の人生を通り抜けて、そして悪魔の罠も通り抜けて、礼拝に来ました。それはイエズス様、御身の近くに来る為です。イエズス様を真の救い主、王として、天主様として礼拝する為にやって来ました。信仰に導かれてやって来ました。そして私たちはこの信仰に導かれて御身を礼拝します。」
この3人の博士たちがおそらく贈り物を渡した後に、マリア様から或いはヨゼフ様から、「幼子を、あぁ、どうぞ抱かせて下さい」と言って受け取ったかもしれません。「あぁ、これこそ救い主だ。あぁ、本当にここまでやって来てよかった」というように、「私たちもこの幼子を御聖体拝領で受けて、そして私たちの心からの愛と、お祈りと、犠牲を捧げて、礼拝を捧げて、イエズス様をお受けしなさい」という教会の教えがここに含まれています。
非常に意味が深いのは、特にこの2番目のお祈りなのです。2番目のお祈りは「密誦」と言われていますが、「昔は博士たちは黄金と乳香と没薬を捧げた。しかし私たちが今捧げるのはもっとそれよりも素晴らしいものだ。私たちは私たちがもう既に受けたイエズス・キリスト様のその純粋な、黄金のような純粋な天主様に対する愛を捧げるし、そしてイエズス・キリスト様が御父に捧げた純粋な祈りであるそのいけにえを、ミサのいけにえを捧げるし、そしてちょうどイエズス様が御墓で葬られた時に没薬を受けたように、私たちの霊魂にいらして下さる、そのちょうど私たちの霊魂がお墓であるかのように、私たちの中にやって来て下さる、屠られて私たちの中にやって来て下さる、聖体拝領で私たちの中にやって来て下さる、その3つの事は全てイエズス様である。その事が私たちの霊魂の中に起こっている」という事を祈っています。
では私たちはこの今日、この御公現の中で、光の祝日であって、贈り物の祝日、人間から天主様に対する贈り物の日だ、という事が分かると、ではどのような遷善の決心を立てれば良いでしょうか?
私たちも3人の博士に倣って、イエズス様に贈り物をお捧げ致しましょう。
私たちはあまり自慢する事ができません。何故かというと、本当なら3人の博士のように一生懸命純粋の黄金と、純粋の乳香と、純粋の没薬を捧げたいのですけれども、私たちは天主様に対する愛というよりは、被造物の愛によって汚れていますし、お祈りというのも乳香のようにサッと天に上れば良いのですけれども、むしろ雑念とその他の考えであまり天に上るわけではないし、そして犠牲といっても、没薬をきれいに、純粋な没薬として純粋に犠牲を捧げる事ができると良いのですけれども、なかなか犠牲も「嫌だ」「嫌だ」と言って、捧げる事ができません。
ですから私たちはイエズス様を、イエズス様御自身を、イエズス様御自身の祈りと、犠牲を、また愛を、私たちの代わりに御父にお捧げ致しましょう。イエズス様の御体、御血、御霊魂、御神性を、この世の罪の償いの為、また私たちの捧げるものとしてお捧げ致しましょう。
また儚いながらも、汚れたものではありますけれども、天使の誘いに倣って私たちも、信仰と、礼拝と、希望と、愛を、イエズス様の為にお捧げ致しましょう。そしてイエズス様を愛さない人々、信じない人々、礼拝しない人々、希望しない人々に代わって、その赦しをお願いする事に致しましょう。
Ecce advenit dominator dominus
「見よ、支配者であり主はやって来られた。」
聖父と聖子と聖霊との御名よりて、アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、
2017年1月6日(初金)に大阪で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
2017年1月6日 初金曜日 主の御公現のミサ
小野田神父 説教
聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2017年1月6日、主の御公現という大祝日を祝っています。今日は2017年の初めての金曜日で、初金曜日でもあります。今日はこの御ミサの後に、いつものようにミサの後のお祈りを皆で一緒に致しましょう。でも今年はファチマの年なので、このミサの聖体拝領後の祈りの直後に、そして教皇様の為のお祈りの直前に、ファチマの天使が教えてくれたお祈りを皆さんと一緒に唱えたいと思っています。
今日はまだ御公現節ですので、ミサの後の感謝の祈りが終わりましたら、イエズス様の礼拝をしたいと思っています。クリスマスの夜にやったように、小さなイエズス様の御足に或いは御手に接吻をなさって下さい。
今日は初金曜日ですから、聖時間も行いたいと思っています。もしもできる方は聖時間のお祈りもなさって下さい。
Ecce advenit dominator dominus
「見よ、主であり支配者である方がやって来た。」
聖父と聖子と聖霊との御名よりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、今日は主の御公現です。主の御公現というのは、東の国の3人の博士が星を見て、その星に導かれて、来たるべき生まれた救い主、ユダヤの王、そして真の天主、王の王である方の為に、黄金とそして乳香と没薬を贈り物としてはるばるやって来て、そして生まれた幼子イエズス・キリスト様にお捧げした、という歴史的な事実をお祝いする事に基づいています。
今日はちょうどこのまぐさ桶の所に、新しく3人の王様の御像が置かれました。クリスマスの夜にはマリア様とヨゼフ様、そして真夜中にイエズス様が置かれましたけれども、今日1月6日は3人の王様が付け加えられます。そして馬小屋のこのまぐさ桶は2月2日まで、クリスマスから40日の間こうやって飾られます。
今日はでは、一体御公現というのはどんな意味を私たちが持っているのか?
クリスマスと御公現は、どう似ていてどう違うのか?という事を黙想する事を提案したいと思っています。
そしてどう似ていてどう違っているのか、というのを見た後に、遷善の決心を立てる事に致しましょう。
クリスマスの時にいらして下さった方は覚えていると思いますけれども、クリスマスはまず2つの特徴がありました。
それは「光の祝日」で、光からの光、真の天主からの真の天主、この世の光であるイエズス・キリスト様が、この真っ暗闇のこの世の中を照らす為にやって来られた。ですから昔から教会では、こうイルミネーションで飾って、光を飾るというのが伝統でした。
もう1つのクリスマスの特徴というのは、「プレゼント」だという事でした。どんなプレゼントかというと、それはこの世を創った創造主、天主様が、三位一体が、私たちに最高のプレゼントをした、クリスマスのプレゼントをした、という事でした。そのプレゼントの中身は何かというと、実は私たちに、天主の御子イエズス・キリスト様を全て下さった、イエズス様は私たちのものとなった、“PUER natus est nobis,”「天主の御子が私たちの為にお生まれになった」という特別のプレゼントを記念する事でした。
ところで御公現はどうなのでしょうか?御公現も実はそれと同じなのです。御公現も「光の祝日」であって、そして同時に「プレゼントの日」なのです。でもプレゼントはプレゼントでも、今度は「人間の方からイエズス様に贈る」プレゼントの日なのです。
何故そういう事が言えるのかというと、今日のミサで書かれている内容の事をよく読むとその事が分かります。例えば書簡書というところには、「エルサレムよ、輝け」とあります。これも「エルサレムが光で満たされる」という意味です。
クリスマスの時には、ベトレヘムに光が照らされました。でも今日の御公現では、エルサレムが輝いています。ちょうどクリスマスの時にはベトレヘムで太陽が昇って、マリア様と聖ヨゼフ様とそして選ばれた羊飼いたちだけに、「救い主が現われた」という事が告げ知らされた。羊飼いたちが、選ばれた羊飼いたちが天に、天使たちの大群、光り輝く天使たちの大群を見て、その歌声を聞いて、そしてベトレヘムに駆けつけて、そしてお生まれになった救い主を拝んだ。ですからクリスマスはいわば、カトリックの家庭の、家族の祝日でした。
ところがその昇る太陽がますます現れて、今度は全世界に、異邦人に、東の国の博士たちも呼んで、ユダヤ人とは関係ない東の国の異邦人たちも招いて、救い主を礼拝するように公に御自分を現した、というので、「エルサレムよ、輝き出せよ」という公的な特徴を持っています。まさにカトリックの、「全世界を、この救い主が今日輝き出す。ユダヤ人のみならず異邦人たちにも輝き出す」という光の日なのです。
もう1つのプレゼントというのは、これは異邦人たちが3人の博士たちが、幼子イエズス様になしたという事が、その行為によって表されています。ただこの世の救い主から、この世の創造主から救い主を与えられた、人間は特別の御恵みを受けた、のみならず、今度は人間もそれに対して、それに応えようとするのです。それがこの3人の博士が出した、この「黄金」と、「乳香」と、「没薬」なのです。
「黄金」というのは、これは実は王様に昔から与える贈り物なのです。王様に捧げる物で、これはこの生まれた方がメシアが、まさに「王様である」という事をこの3人がよく知っていたという事を表しています。
「乳香」というのは、これは特に香を焚いてその香が天に上がるので、お祈りのシンボルでもあり、これは天主様に、この世の創造主に捧げる贈り物なのです。ですからこの3人はこの生まれた救い主が、この小さな子供が、「真の天主である」という事を知っていたのです。
もう1つ驚く事は、この博士はこの生まれた子供に「没薬」を、つまり埋葬の為の準備の物を与えたのです。これは「死」とか、「苦しむ」事の準備の為に与えられました。
この3人の博士たちは良く、この生まれた、ベトレヘムでお生まれになって、そして礼拝しに来た方が一体どのような方であるか、と知っていたのです。「真の天主」であり、「真の王」であり、そして「私たちの為に苦しみを受けて亡くなられる救い主である」という事を知っていました。そしてそれに相応しい贈り物を与えました。
ですから今日、この歴史的な出来事を福音書で読んだ後に、「その博士たちがやった事と同じような事を私たちもするように」と言って、本当ならいつも福音の時には立って聞いているのですけれども、福音書に敬意を表して立ったまま聞くのですけれども、その博士たちがやったように、その福音の場所でも、「その3人は贈り物を与えて、そして平伏して礼拝した」という時に、私たちも跪いて同じように、この生まれた赤ちゃんを、イエズス・キリスト様を礼拝しました。
これはどういう事かというと、「実はこれと同じような事を、この歴史上起こったのと同じような事を今、私たちはしているんだよ」という事を教えようとしているのです。でもどのようにしているかというと、確かに目に見える形では違うのですけれども、しかし「実際は同じ事が起こっている」という事を教えようとしています。
それは集祷文を読むとよく分かります。集祷文というのは最初のお祈りですけれども、「3人の博士たちは星によって導かれたけれども、私たちは信仰という薄い光によって導かれて来ました。そして3人この博士たちがこの砂漠を越えて、色んな困難を越えて、ヘロデの罠を越えてやって来たように、私たちもこの世の人生を通り抜けて、そして悪魔の罠も通り抜けて、礼拝に来ました。それはイエズス様、御身の近くに来る為です。イエズス様を真の救い主、王として、天主様として礼拝する為にやって来ました。信仰に導かれてやって来ました。そして私たちはこの信仰に導かれて御身を礼拝します。」
この3人の博士たちがおそらく贈り物を渡した後に、マリア様から或いはヨゼフ様から、「幼子を、あぁ、どうぞ抱かせて下さい」と言って受け取ったかもしれません。「あぁ、これこそ救い主だ。あぁ、本当にここまでやって来てよかった」というように、「私たちもこの幼子を御聖体拝領で受けて、そして私たちの心からの愛と、お祈りと、犠牲を捧げて、礼拝を捧げて、イエズス様をお受けしなさい」という教会の教えがここに含まれています。
非常に意味が深いのは、特にこの2番目のお祈りなのです。2番目のお祈りは「密誦」と言われていますが、「昔は博士たちは黄金と乳香と没薬を捧げた。しかし私たちが今捧げるのはもっとそれよりも素晴らしいものだ。私たちは私たちがもう既に受けたイエズス・キリスト様のその純粋な、黄金のような純粋な天主様に対する愛を捧げるし、そしてイエズス・キリスト様が御父に捧げた純粋な祈りであるそのいけにえを、ミサのいけにえを捧げるし、そしてちょうどイエズス様が御墓で葬られた時に没薬を受けたように、私たちの霊魂にいらして下さる、そのちょうど私たちの霊魂がお墓であるかのように、私たちの中にやって来て下さる、屠られて私たちの中にやって来て下さる、聖体拝領で私たちの中にやって来て下さる、その3つの事は全てイエズス様である。その事が私たちの霊魂の中に起こっている」という事を祈っています。
では私たちはこの今日、この御公現の中で、光の祝日であって、贈り物の祝日、人間から天主様に対する贈り物の日だ、という事が分かると、ではどのような遷善の決心を立てれば良いでしょうか?
私たちも3人の博士に倣って、イエズス様に贈り物をお捧げ致しましょう。
私たちはあまり自慢する事ができません。何故かというと、本当なら3人の博士のように一生懸命純粋の黄金と、純粋の乳香と、純粋の没薬を捧げたいのですけれども、私たちは天主様に対する愛というよりは、被造物の愛によって汚れていますし、お祈りというのも乳香のようにサッと天に上れば良いのですけれども、むしろ雑念とその他の考えであまり天に上るわけではないし、そして犠牲といっても、没薬をきれいに、純粋な没薬として純粋に犠牲を捧げる事ができると良いのですけれども、なかなか犠牲も「嫌だ」「嫌だ」と言って、捧げる事ができません。
ですから私たちはイエズス様を、イエズス様御自身を、イエズス様御自身の祈りと、犠牲を、また愛を、私たちの代わりに御父にお捧げ致しましょう。イエズス様の御体、御血、御霊魂、御神性を、この世の罪の償いの為、また私たちの捧げるものとしてお捧げ致しましょう。
また儚いながらも、汚れたものではありますけれども、天使の誘いに倣って私たちも、信仰と、礼拝と、希望と、愛を、イエズス様の為にお捧げ致しましょう。そしてイエズス様を愛さない人々、信じない人々、礼拝しない人々、希望しない人々に代わって、その赦しをお願いする事に致しましょう。
Ecce advenit dominator dominus
「見よ、支配者であり主はやって来られた。」
聖父と聖子と聖霊との御名よりて、アーメン。