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Channel: Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた
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高山右近の精神に倣う

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2017年2月3日(初金)に大阪で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2017年2月3日(初金)至聖なるイエズスの聖心の随意ミサ
小野田神父 説教
聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。

今日は2017年2月3日、2月の初金曜のイエズス様の聖心の随意ミサを行っております。今日のこのミサの後に感謝のお祈りの後には、いつものように初金ですから御聖体礼拝、聖時間を設ける事に致しましょう。もしも聖時間をイエズス様と過ごす事ができる方はいらして、イエズス様の傍で時間を過ごして下さい。イエズス様に対して犯される罪を償う為にも、聖心に対しての侮辱を償う為にも、どうぞ聖時間を致しましょう、日本の為にお祈り致しましょう。


「私は柔和で謙遜であるから私に倣え。そうすればお前たちの霊魂には平和が見い出すだろう。」

聖父と聖子と聖霊の御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日初金曜日のミサでいつものようにアレルヤ誦では、「自分の十字架をとって私に従え。そして私は柔和謙遜である者だから私に倣え。そうすれば平和を見出すだろう」というイエズス様の言葉を歌いましたから、私は皆さんにそれを黙想する事を提案します。

何故かというと、このイエズス様の「十字架をとって担って、私のくびきを担って、そして私に倣え」と言った日本を代表する立派な男がいるからです。是非その方の生涯を少し垣間見て、イエズス様のくびきをとってそれに従う、という事の模範を黙想する事に致しましょう。

何故この人を黙想するかというと、実はユスト高山右近のことでが、1615年2月3日と4日の間に、マニラに追放されてマニラで霊魂を天に返しました。あと数日で、今年の2月7日には大阪城ホールで列福式が行われる予定です。

そこで、この日本を代表する福者ユスト高山右近がどのようにイエズス様のくびきをとって、そして霊魂に平和を見出したか、という事を黙想するのはとても時期に合っている、と思います。

特にこの大阪ではそのような人を生み出したという事で、そのような方をもっともっと生み出す事ができるように、この御聖堂を通して生み出す事ができるようにお祈りする事が黙想する事がふさわしいと思ったからです。

時は1534年8月15日、パリのモンマルトルで聖イグナチオとその同志聖フランシスコ・ザヴェリオらは誓願を立てて、イエズス会を発足させます。その15年後には、モンマルトルの誓いから15年目に、ちょうど1549年8月15日は、聖フランシスコ・ザヴェリオがイエズス様の御言葉、永遠の命を与える信仰をこの私たちの日本にもたらしました。

聖フランシスコ・ザヴェリオが直接洗礼を授けた日本人には色々な人がいますけれども、その中で一番有名なのがザヴェリオが山口で洗礼を授けた修道士、めくらの盲人の修道士イルマン・ロレンソでした。

そのロレンソは確かに目は見えなかったのですけれども、非常に有能な方で、頭脳が優秀で、そしてイエズス・キリストの教えを一生懸命、精力的に皆に説いて、多くの人々がロレンソの言葉とその姿を見て、キリストの信仰を受けていました。

さて聖フランシスコ・ザヴェリオは、「どうしてもイエズス様の教えを京の都で伝えたい」と思っていました。ところで、その京都で都でイエズス様のキリストの教えを、新しい宗教を教えるという事には、その当時の最高の、宗教界の最高の権威であった比叡山の延暦寺の許可が必要でした。しかし比叡山の延暦寺はやすやすと商売敵に許可を与える訳はありませんでした。しかし当時将軍が許可を与えたので、キリスト教をあからさまに迫害する訳にはいきませんでした。

そこでもう少しい賢いやり方をしようとして、「バテレンの宗義と教えと、そして仏教の教えを宗論させて論争させて、そしてこのキリスト教の教えを論破しよう」という計画を立てました。「そして論破した後に、キリスト教を禁止すればよい。」

そこでその中で一番、その当時京都を支配していた松永久秀が計画して、仏教に敬虔で熱心でその宗門に非常に秀でている武士たちを3人集めて、彼らに責任を任せて論争をさせようという事になりました。その松永が選んだのは、結城忠正、また清原枝賢、そして高山飛騨守、この3人でありました。特に高山飛騨守は、「もうそのようなものはつまらない!このようなものはさっさと切り捨ててしまえば良いのだ!」と言って非常に堅い、非常に乱暴な禁止の仕方をしようとさえも提案していました。

そうこうしているうちに、一信徒であった老人のディエゴという洗礼名の男が、ある訴訟の関係で松永久秀の元にやって来ました。そしてその訴訟について、キリシタンという事で結城忠正が尋問します。するとそのディエゴは、まだキリシタンになったばかりらしいし、そしてまた老人でただの平信徒にもかかわらず、答える事は立派な事を答えているのです。

例えば、「そんなキリシタンなどの事は禁止してしまうぞ!」と脅すと、「いや、デウス様が許可をしない限り、この世には何も起こりません」などと答えて、1つ1つの事を論理的に正しく答えているので、「あぁ、こんなにただのこのような俗人でさえもこのような知識を持っているという事は、この教えはただものではない」と思うようになりました。

考えてもみて下さい。当時キリシタンは理性を使って合理的に、真理とか、善とか、美を求めるように日本人に教えようとしていました。西洋ではもちろん占星術とか錬金術とか魔術とか占いとかに対して反対して、「私たちは理性を使って、真理を求めなければならない」と教えていたように、日本ではその当時には陰陽、陰説とか或いは占いとか色々な迷信や俗説などが色々あったところを、キリシタンの教えは理性を使って論理的に、「これはこうだから、こうだ」と説明するものでありました。

またその当時は、人々は互いに切り合ったり火を点け合ったり、強い者が勝ちであって下克上の時代でありました。「自分さえ良ければ、他の人はどうなっても良いのだ。」例えば応仁記の中には、「天下破れれば破れよ。世間は滅びれば滅びよ。人はともあれ、我が身さえ富貴ならば」と言って、「この世がどのようであろうと、俺一人さえ良ければ構うもんか」というのが一般の考えでした。
【天下ハ破レバ破レヨ、世間ハ滅ババ滅バヨ、人ハトモアレ我身サヘ富貴ナラバ他ヨリ一段瑩羹様ニ振舞ント成行ケリ】

戦乱であればあるほど、農業も廃れ食べ物も無い、飢餓に苦しむ、貧困と犯罪と、そして貧しい人たちを奴隷に売ってしまうような、「子供も売ってしまえ。食べ物が無いから売ってしまえ」などという事が日常茶飯事の、地獄絵巻きの日本でした。

その中を一般の、何でもないような老人でさえも、道理を勧めて教えているこのキリスト教。もちろんその背後には、イエズス会の神父様たちは西洋医学とか、或いは数学とか物理学、音楽、絵画、芸術、航海術、暦、地理、教育活動に一生懸命で、コレヒヨ(大学)のようなものや、神学校を造ったり、そして当時はヨーロッパでも最高の水準のものを日本でも教えていました。ラテン語でも授業をしていましたし、出版活動もしていました。福祉活動もしていました。そのようなもの受けていたこの平信徒のディエゴがすらすらと答える事ができたのには、驚くにあたりませんでした。

しかし武士たちにとっては非常な驚きでした、「何でこのような者が答える事ができるのか!」そこで是非、結城忠正はこのディエゴに、「是非、お前たちのパードレと話をしたい。お前がこんな事を知っているのなら、パードレたちはもっと知っているだろう。もっとその事を詳しく知りたい」という事で、パードレと会う事ができるように送り返したのです。

その手紙を受けてパードレたちの元に戻ると、人々は心配しました。その時にヴィエラ神父様が堺に居たのですけれども、神父様は「行く!」と言うのですけれども、「あぁパードレ、危ない!これは罠かもしれない。あなたが行ったら捕まって殺されてしまう。或いは何か、何か企みがあるかもしれません。あの人たちは仏教の、ゴリゴリの仏教徒だ。何が起こるか分からないから、さぁそれだけはやめて欲しい!」という事で、そこで出てきたのがロレンソでした。

盲人のロレンソ、聖フランシスコ・ザヴェリオからその手ずから洗礼を受けたロレンソがやって来て、そしてこの一緒にディエゴ老人と行くのです。そして奈良で結城と清原とそして話をするのですけれども、武士たちは話を聞くに従って、「これはおもしろい、あぁそうか、」これを質問すると、パッと答えが出てきて、「おぉ、そうか、」「うん、」「そうか、」「うん、」結局、奈良でこの2人は洗礼を受ける事になりました。

そして京都に帰って来ると、「あぁさぁこの論破して、ロレンソとかキリシタンを逮捕してやって来たのか」と思うと、「何か受洗をして来て、キリシタンになって帰って来た」といって京都の人たちはびっくりしました、「一体何なのだ!」

その時に高山飛騨守は高槻にいてその場にいなかったのですけれども、京都に行くという口実で奈良に行って、そして奈良でやはり受洗をしました。受洗名はダリオでした。その後に家族一同、妻も子供も洗礼を受けさせます。それが1564年6月の事で、長男のユスト高山も11歳で洗礼を受けました。

ユスト高山はその後、宗教教育というものを直接受けたという痕跡はあまりよく分からないのですけが、お父さんのそのダリオは非常に熱心なキリシタンになって、教会を自分の領地に建てて、全て大きな所の一番良い所に、新しい釘さえも材木も全て新しい物を使って、使い回しの物がないように、「天主様にデウス様に与える物は、全て最高の物のを使わなければならない」と模範を示していました。

しかも当時、戦争で両親を失った孤児たちや或いは貧しい人たちは、大体はそのままは捨て去られてしまうのが普通でしたけれども、キリシタンになってこのキリシタン大名のダリオ高山は、非常に彼らの為に憐れみの業や、奉仕や、或いは福祉を行い、領民たちは非常にその行動に感動して、多くがキリシタンなっていきました。

そうこうするうちに、私たちのユスト高山は21歳で1574年に高槻の城主となります。高山右近はその言葉と行いによって多くの模範を見せて、多くその領民たちは高山右近の事がもう尊敬と愛情でいっぱいになりました。このような領主は他にはありません。戦争で荒れ狂うその日本の戦乱の下克上の時代にあって、この高山右近のいたその高槻の領内だけは安心と平和と安全がありました。そして憐れみがあって、助け合いと奉仕の精神と、高山右近自身がカテキズムを教えたり、教えを説いたり、それを実践したりして模範を見せていました。そこで続々洗礼を受ける人がいました。1577年の1年だけで、2400名が受洗したと記録に残っています。

高山右近の人生の中で1つこんな事件がありました。それは自分は確かに高槻の大名ですけれども、その自分の上に荒木村重という偉い大名がいて、その上に織田信長がいました。ですから言ってみれば荒木には、織田信長の命令を受けて、そしてその忠義を尽くさなければならない義務がありました。

そして高山右近は荒木に忠実を尽くさなければならない義務がありましたが、それは領地を受けているからです。ところでその荒木村重は甘い誘惑を受けて、織田信長に反旗を翻そうと、そしてその地位を奪おうという反乱を起こそうとしました。高山右近はそれに対して「それは正義に反している。私たちは忠実に仕えなければならない」という事で自分の上司を諫めます、「それはやってはいけない。」

そしてその諫めて、「しかし私は、これはあなたに反対しているからではなくて、私はあなたを信じています」という事を証明する為に、自分の妹を人質にやって、「私の言葉は本当です。もしもそれが嘘だと思ったら、この妹をどうぞ好きにして下さい」というふうにしました。それでも、「でも上が誰であれ、反乱をしてはいけない」と留めたのです。

そしてその後に色々会議があったのですけれども、「高山右近は織田信長に反乱するのは反対だ」という事を知られていて、会議には呼ばれませんでした。しかしその会議の間では悪知恵を言う人がたくさんいて、そして「やはり反乱しよう、織田信長を攻めよう」という決議がありました。

そこでもう一度、「織田信長に反乱してはいけない。それは正義に反する」という事でそれを説得します。今度は自分の息子を人質にします。何故かというと、「あぁ、高山右近は織田信長から何か指図を受けているのじゃないか。だから、」という色々な悪口とか讒言があったので、「そうではない。自分の心は自分の上司である荒木に忠実である」という事を示す為に、息子さえも人質に与えます。

そしてそのまま反乱はしないかと見えるのですけれども、結局反乱をするように心は変わってしまいます。

そうこうするうちに、今度は大変な事が起こってしまいました。織田信長がそのような事を知って、高槻に攻めようとしてきたからです。何故かというと、高槻は一番の主要な要塞で、高山右近のような武将が守ればこそ、高山右近がどちらに行くかに従がって、この勝ち負けが決まってしまうからです。もしも織田の方に付けば織田が勝つし、織田の方に付かなければ織田は負けてしまう。そこで圧力をかけます、「もしも反乱するような事があったら、バテレンたちのパードレたちを皆、皆殺しにする。そしてキリスト教も皆殺しにする」と脅すのです。そして高槻の前に十字架を付けて、「ここにキリシタンたちを付ける。パードレたちを付ける」と脅すのです。

織田信長は実は、比叡山の延暦寺も火を点けて全部破壊してしまいましたので、もしかしたらこれは口先だけの事ではないかもしれません。政治の事であれば何をしでかすか分からない。高山右近は迷いました。「もしも織田の方に付けば、自分の息子と妹は殺される。しかし付かなければパードレたちは殺される。どっちを取るべきか。」

それだけではありませんでした。今度は、織田の方に付こうとするとパードレたちを守ろうとすると、今度は自分の高槻の侍たちが反乱を起こしました、「私たちには武士の名誉がある!私たちの上司である直接の上司である荒木に付かなければならない!そして名誉を守らなければならない!この屈辱を受ける事ができない!」などと言う人が出てきて、そしてダリオ高山さえも、右近のお父さんさえも自分の味方にするのです。お父さんにとってもダリオ高山にとっても、自分の娘と自分の孫がこのままむざむざ殺されてしまうのはとても耐え難かったのだと思います。

高山右近は、「どうするべきか。もしも織田の方に付くと、これは正義だけれども、しかし親子の愛情に反してしまうではないか。父も亡くなり、父もそうだ、妹もそうだ、息子もそうだ、殺されてしまう。かといって織田の方に付かなければ、パードレたちはキリスト教徒たちは破壊されてしまう。どうしたら良いのだろうか。また、織田の方に反乱する事は正義に反する。」

非常に苦しみました。神父様に、オルガンティノ神父に言うと、「これは非常に難しい問題だ。正義によれば織田の方に付くのは当然だから、しかし非常に苦しい問題だ。よく祈って判断するように。」

祈って、祈って、祈った高山右近は、その時にこう決断します、「自分は高槻の城主だけれども、この城主の権をお父さんにもう返す。私は修道士になる、出家する。そしてもうこのまま身を天主様に捧げて、もう武士はもうやめる。」
そして武器を全て捨てて、下着のままで織田信長の方に行きました。

織田信長がそのような高山右近を受け入れるか受け入れないかは全く分りませんでした。「しかし自分は、もう天主様に捧げられたものとして修道士として、織田信長の前に行く。」そして全てはイエズス様の御摂理のままに、身を投げ出したのでした。「イエズス様の御跡に従おう」と。「御摂理に任せよう」と。

すると、このような考えられなかった意表を突くような高山右近の動きによって、全ては丸く収まり、そしてお父さんも、妹も、子供の命も助かり、高山右近は織田のものとして反乱は失敗に終わり、全てはうまく丸く収まったのでした。これも、高山右近の「イエズス様の教えを尊重しよう。そしてその為なら自分はいかなるものになっても構わない」という精神の結果でした。

高山右近はまた、自分の高槻の領内に教会を建てて、実はその当時常駐の司祭はいなかったのですけれども巡回司祭だけだったのですけれども、高山右近の模範と犠牲と、そしてその献身と、良い勧めとその行いによって、領内の多くの人々がほとんどがキリシタンになっていきました。

愛する兄弟の皆さん、願わくはそのような高山右近のような精神が私たちにも伝えられますように、私たちもイエズス様の御教えの為に、それを御教えを言葉と行いで実践しますように、このイエズス様の御教えが、高山右近のように御教えを多くの人に伝える事ができますように、自分の務めを忠実に良心的に果たす事ができますように、イエズス様の聖心とマリア様の御心を通して、私たちもますます高山右近のようになる事ができますように、そして日本の多くから高山右近のような立派な聖人たちがたくさん出ますように、お祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊とに御名によりて、アーメン。

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