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「悔悛の秘蹟」:聖ピオ十世会司祭 レネー神父様

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様のお説教 「悔悛の秘蹟」(日本語訳)をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2017年2月12日 七旬節の主日―大阪
「悔悛の秘蹟」
親愛なる兄弟の皆さん、

本日は七旬節の主日であり、復活祭を準備する悔い改めの時期の始まりです。ですから、私たちが続けている秘蹟についての一連の説教で、悔悛の秘蹟についてお話しするのに非常に適しています。この秘蹟はキリスト教徒の生活の中で最も重要な秘蹟の一つであり、罪を完全に克服し熱心な生活を送るのに大変有益です。

実際、秘蹟に関する教理全体が命の教理です。洗礼は新たな誕生であり、永遠の命への誕生です。堅振は、その命を強めるものです。ご聖体は永遠の命の食べ物です。私は「永遠の命」と言っていますが、その理由は、私たちが洗礼の時に受けたその命は、地上で生きている間にずっと続いて、ついには天国での永遠の命へと至るはずのものであるからです。天国は洗礼の時に受けた新たな命の種が、堅振によって成長し、ご聖体によって養われて、完全に花開くところです。「私の肉を食べ私の血を飲む者は、永遠の命を有し、終わりの日にその人々を私は復活させる」(ヨハネ6章54節)。

しかしながら、天国の聖人たちの状態と、ここ地上の私たちの状態には、重要で本質的な違いが一つあります。天国の聖人たちはその永遠の命を失うことはありませんが、地上の私たちは洗礼の時に受けたその命を不幸にして失うかもしれないことです。幸いなるかな、キリストの審判の座に至るまで、洗礼の時に受けた無垢の状態を保つ者は! しかし不幸なことに、洗礼による無垢の状態を保つことなく、大罪によって確実に霊的な死に陥り、霊的な命を失い、もはやキリストがそのうちに生き給うことのない(ガラツィア2章20節参照)多くの人々がいます。

しかし、洗礼ののち大罪に陥った人々に「やり直す機会」はないのでしょうか? あります。それが「悔悛の秘蹟」です。「そのときペトロが近づいて、『主よ、兄弟が私に対して罪を犯したら、何度赦さねばなりませんか。七度までですか』と尋ねた。イエズスは答えられた、『私は〈七度まで〉とは言わぬ。〈七度の七十倍まで〉と言う』」(マテオ18章21-22節)。このように、天主は赦しを一度ならず与えてくださいますが、へりくだって悔い改める心をもって天主に立ち返るたびに、天主はまた赦しを与えてくださるのは明らかです。「おお天主よ、あなたは悔い改め、へりくだる魂を軽んじられない」(詩篇50章19節)。

悔悛の秘蹟によって、洗礼ののちに犯した罪は、私たちの主イエズス・キリストがまことの天主にしてまことの人間であるが故に、主がお持ちの罪を赦す力によって赦されます。皆さんは、これを証明するために主が行われた奇蹟を覚えていらっしゃるでしょう。ある男が中風の病気で、彼の友人たちはその男を主のもとに連れて行こうとしましたが、群衆でいっぱいだったため主がおられた家に入ることができませんでした。そこで彼らは、その男を屋根の上に連れて行き、屋根を壊してその男を主とその場にいた人々の前に吊り下ろしました。この友人たちが屋根を壊していたとき、誰もが彼らを見ていて、互いにこう言い合ったのは明らかです。この人たちは大胆だ! 何ということをしているのか? その中風の男が主の前に吊り下ろされたとき、「イエズスは彼らの信仰を見て、中風の人に向かい、『子よ、信頼せよ。あなたの罪は赦された』と言われた。そのときある律法学士たちは心の中で、『この人は冒涜の言葉を吐いた』と思った。イエズスはその人たちの考えを見抜き、『なぜあなたたちは心の中でよからぬことを考えているのか。罪は赦されたと言うのと、起きて行けと言うのと、どちらがやさしいと思うか。人の子が地上で罪を赦す力を持っていることを知らせるために…』と言って、中風の人に向かい、『起きて、床をとって家に帰れ』と言われた。病人は起きて家へ帰った」(マテオ9章2-7節)。

私たちの主イエズス・キリストは、使徒たちにその同じ力をお与えになったとき、御自ら悔悛の秘蹟を制定されました。「あなたたちが罪を赦す人にはその罪が赦され、あなたたちが罪を赦さぬ人は赦されない」(ヨハネ20章23節)。主が使徒たちにその力をお与えになったのは、使徒たちが信者の利益のためにそれを使うためにであったのは明らかです。主はご復活の日にこの言葉を言われましたが、その理由は悔悛の秘蹟が誕生よりむしろ霊的な復活に似ているからです。洗礼ののち自分の罪によって死んだ人々は、悔悛の秘蹟によって霊魂の命に立ち戻ることができるのです。

悔悛の秘蹟を正しく理解するためには、大罪が霊魂に引き起こす害を思い起こすことが必要です。大罪は、霊魂を持つ存在である天使または人間が、被造物に愛着を持ちすぎることによって、自分の究極の目的を創造主よりもむしろ被造物に置くことによって、創造主よりも被造物を好むことによって、天主の創られていない無限の善よりも創られた善を愛することによって、自分を天主から切り離すことです。天主の無限で限りない善よりも限りある有限の善を好むのは、明らかに不合理です。この秩序から外れた意志はそれ自体罪の悪そのものであり、罪の汚れであり、霊魂の死です。なぜなら、それは霊魂を天主と結び付ける「完徳のかなめ」(コロサイ3章14節)である愛を取り去るからです。これはまた、「罪の汚れ」と呼ばれますが、その理由は、それが霊的な闇であり、天主の超越性という真理の光を拒否するからです。

そのような選択は天主の大きなお怒りを招き、霊的な本性を持つものすべてが最高に愛するにふさわしいお方である至高の存在に当然なされるべき敬意を、天主に対して捧げるのを拒否することです。そのようなお怒りを招くことをすれば、正義の秩序を回復させるために、一定の懲罰が要求されます。罪は償われなければなりません。ですから、一定の「ふさわしい懲罰」があり、その負い目は罪責とも呼ばれます。悪は勝つことができません。天主は悪に最終決定権をお渡しにはなりません。天主の善が最終決定権を持つのです。ですから、悪はそのような懲罰によって償われなければならないのです。

最後に、罪は私たちの本性に、私たちの本性の能力に、大いなる無秩序をもたらします。こうして私たちの本性は罪によって傷を負うのです。この傷を癒やすには薬と時間が必要です。台無しにするのは簡単で早いですが、癒やして再建するには時間がかかります。人類の歴史を見れば、人間の歴史の大きな悲劇は、罪による悲劇とその悲惨な結果であるのは明らかです。私たちを罪から救うために御独り子を送ってくださった天主なる御父に感謝します!

さて、人間は命を破壊することはできますが、命をつくり出すことはできません。人間は自分を霊的に殺すことはできますが、自分に霊的な命を取り戻すことはできません。罪びとの霊魂に働きかけ、罪びとの意志を変えて天主へと「回心させ」、罪びとを無秩序な道から命という正しい道へと向けさせる天主の御あわれみが必要です。霊魂の中での天主の働きは、悔悛の秘蹟に先立って起こります。その回心の恩寵に値する罪びとはいません。良き信者は罪びとたちが回心の恩寵を得られるよう祈ることができます。キリストの役務者は、悔悛と回心を説教し、勧告することができます。でも、天主が霊魂自体の中に恩寵をお与えになり、その心を変えられない限り、彼らの勧告は耳に入るだけで心には届きません。ですから、偉大な聖人たちが、その勧告を聞く人々がそのような恩寵を天主の御あわれみによって得ることができるよう、大変な苦行をするのを私たちは知っています。

霊魂がいったん天主の恩寵によってこのように触発されると、その霊魂は天主の法に反逆している状態である自分がいかに悪かったのかが分かり始めます。そして自分の罪の赦しを得るために、罪によって入ったすべての悪を正し、罪による傷を癒やすために、自分に何ができるかを探し求めます。そのような霊魂に与えられたもう一度やり直す機会こそ、まさに悔悛の秘蹟です。洗礼ののちに犯した過去の罪に対するまことのかつ深い痛悔と、それらの罪を司祭に適切に告白して司祭によって与えられた償いを実行することによって、その霊魂は自らの罪の赦しを得ることができ、癒やしの過程を始めることができるのです。

悔悛の秘蹟は一種の法廷であり、天主の御あわれみの法廷です。痛悔者は被告であって、犯罪、すなわち罪を犯した者です。司祭は裁判官であり、キリストの代理です。これは、主が使徒たちにその力をお与えになった御言葉それ自体から明らかです。この秘蹟の執行者は実際、罪を赦すか残すかのどちらかに裁かなければなりません。司祭が地上で赦せば、その罪は天国でも赦されます。司祭が地上で残せば、その罪は来世においても残ります。自分自身の裁判において良き裁判官である人は誰もいません。なぜなら、自分自身をひいきしてしまうという偏りがあるからです。ですから、王によって指名された裁判官に従わなければなりません。キリストは、使徒たちとその後継者たちを、ご自分の御名における裁判官として、すなわち罪を赦す(それは無分別であってはいけませんが)というあわれみ深い判決を出す担当である主の御あわれみの裁判官として指名なさいました。司祭は、痛悔者が適切な心の準備ができているよう確実を期さなければなりません。

このように、悔悛の秘蹟の執行者は司祭です。司祭の叙階式の最後の近くで、司教は新たに叙階された司祭に、私たちの主イエズス・キリストが使徒たちに言われたことを、ずっと言ってきました。「あなたたちが罪を赦す人にはその罪が赦され、あなたたちが罪を赦さぬ人は赦されない」(ヨハネ20章23節)。聖トマス・アクィナスは、キリストの神秘体に対するこの力は司祭がご聖体にましますキリストの物理的な御体に対して持っている力に由来する、と説明しています。司祭はご聖体をつくることができ、主の御体を実際に現存させ、パンとぶどう酒をキリストの御体と御血に変えることができます。しかし、司祭はまた、洗礼と悔悛の秘蹟を通じて信者を、ご聖体を受けるにふさわしく準備させるようにすることもできるのです。

さて、大変重要で気を付けていただきたいのは、悔悛の秘蹟の質料は、洗礼ののちに犯した罪それ自体ではなくその罪についての痛悔者の行いであることです。この痛悔者の行いは三つあります。三つが必要です。痛悔、告発(告白)、償いです。言い換えれば、司祭は、自分が犯した罪に対する心からのまことの痛悔をし、罪を適切に告発(告白)し、司祭が与える罪に対する償いをする痛悔者を赦します。痛悔者がこれらの行いをしないならば、特に自分の罪に対するまことの痛悔をしないならば、その秘蹟は正しい質料がないことによって無効であり、さらに悪い告白をしたことで汚聖の罪が加わることになるのです。

これらの三つの行い、痛悔、告発(告白)、償いは、洗礼ののち犯した罪に関するものです。洗礼の前に犯した罪に対しては、確かに痛悔しなければならず、天主のお怒りを招いたことへの悲しみから、それを償うのは良いことです。しかし、人が初めて天主のところに行くときには、天主が寛大にすべての罪とその罪に対するすべての罰を赦してくださるということを知っておくことが必要です。ですから、これら過去の罪を悲しむことは実際良いことであり、その悲しみは洗礼の前にその人がお怒りを招いた主への愛から来るのですが、受けた赦しに対する感謝の喜びを伴うのです。これらの罪に対してなされる痛悔は、その天主への愛と、主のいと尊き御血によって罪に対して支払いをなさったキリストとの一致への望みから来るもので、実際良いものですが、すでに完全に与えられている赦しをもう一度得ることは必要ありません。でも、それら過去の罪による傷を癒やすために貢献するのは良いことです。洗礼ののちすぐ死ぬならば、その人は真っすぐに天国へ行くことになります。

しかしながら、洗礼という最初の恩寵に感謝せず、大罪によってそれを失った場合、その人はまことの悔悛によって天主に立ち返ることができますが、それはもっと難しいものです。天主は御赦しを確かにもう一度くださいますが、その償いの一部は悔い改める罪びとが行なうようになさるのです。ですから、人が良い告解をしたのちに死んだ場合、その人は天国に行くでしょうが、真っすぐには行かず、煉獄で償いを果たさなければならないのです。天主がここ地上で告解ののちに私たちにお与えになる時間は、私たちが私たちの主イエズス・キリストの犠牲と一致して、過去の罪を償い、地上で償いを行うことによって煉獄を避けることを可能にするための時間なのです。悔悛の秘蹟は、私たちの償いによって、私たちが罪とその罪による罰の赦しを得て、罪による傷を癒やすことができるという大いなる効果をもたらす秘蹟です。

聖トマス・アクィナスは、悔悛は徳であり、正義の徳の一部であって、これによって私たちは、私たちが盗んでしまったものを返済し、過去の罪を償うのである、と説明しています。悔悛の徳は、まことの信仰の結果の一つであって、私たちに罪のみにくさや罪という悪のひどさ、罪が天主の無限の善をどれほど傷つけるのかを教えてくれます。悔悛の徳はまた、天主の審判に対する信仰の結果の一つです。私たちが信経でこう唱えるように。「われは…イエズス・キリスト…生ける人と死せる人とを裁かんために来り給う主を信じ奉る」。悔悛の徳はまた、罪の赦しを得るという希望の実です。なぜなら、その希望がなければ、悔悛は無益だからです。また、まことの徳であるためには、悔悛は愛によって教えられなければなりません。すなわち、過去の罪を悔やむのは、単にその罪が地獄行きにふさわしいからであるだけでなく、一番の理由はその罪が天主の善を傷つけるからなのです。

ミサののち、私は、この秘蹟の質料に似た痛悔者の三つの行いについて少し詳しく説明します。I今は、悔悛の秘蹟の勉強を続けましょう。この秘蹟の形相は、あわれみの判決であり罪びとを罪から赦す司祭の言葉から成っています。それは、「われ、聖父と聖子と聖霊との御名によりて汝の罪を赦す。アーメン」です。気を付けていただきたいのは、洗礼のとき小さな子どもが聖父と聖子と聖霊との御名によって洗礼を授けられるように、悔悛の秘蹟の効力も、いとも聖なる三位一体の御名を唱えることからもたらされるということです。いと高き天主は聖にしてすべての聖性の第一の原因です。「赦す」という言葉は罪から自由であることを意味していますが、「罪はいわば、霊魂をつなぎとめる鎖のようなものであり、悔悛の秘蹟はその鎖から霊魂を自由にする」(トレント公会議のカテキズム)のです。

旧約においては、アロンの位の司祭たちはその力を持っていませんでした。アロンの位の司祭たちはただ、ハンセン病患者がその体の病気から清められたと宣言することができるのみでしたが、彼らを体においても心においても実際に清める力はありませんでした。新約においては、メルキセデクの位の司祭たちは罪を赦す力、実際に霊魂を清める力を持っています。旧約においては、大きくて高価な犠牲が要求されましたが、新約においては、天主がお求めになるのは、悔い改める心とへりくだる霊魂による犠牲だけです。

教会の初期には、教会によって与えられた償いのわざはしばしば赦しの前に行われましたし、厳しい償いの行いが数カ月続くこともありました。しかし年月を経て、教会はこれら外的な償いの行いを減らし、その償いの行いを実際にするより前に、痛悔者が秘蹟による償いをただ受け入れるだけで赦しを与える慣習さえ導入しました。でも、私たちは自分を偽らず、多くの償いがまったく軽いのだから罪は軽いのだなどと思うべきではありません。いいえ、それどころか私たちは、赦しをこんなに簡単に与えてくださる私たちの主イエズス・キリストにもっと感謝し、この素晴らしい秘蹟をもっと頻繁に、もっと信心深く受け、また過去の罪を継続的に償うため、そして世の救いのために、一生を通じて私たちの苦しみをすべて捧げるべきです。

教会の初期には、裁判官の前でキリストを否定するといった背教のような公の罪に対しては、公の償いが要求されました。特に、大きな償いに値したのは三つの重い罪、すなわち背教、殺人、姦淫です。痛悔者が天主に立ち返るのを奨励するため、教会は個人的な償いと個人的で秘密の告白をより多く使うようになりました。聴罪司祭は「告解の秘密」によって完全にしばられており、司祭が自分の聴いた告解の内容を漏らすことは重い罪になるのです。告解の秘密を漏らすのを拒否したため殺されたネポムクの聖ヨハネという殉教者さえいます。

聖伝による悔悛の秘蹟の儀式では、痛悔者は自分の罪を告発するためにひざまずくという、へりくだりの態度を示します。告解の初めに、痛悔者は「コンフィテオール(告白の祈り)―全能の天主、終生童貞なる聖マリア…」を唱え、胸を打ちます。告解室に入る前にこの祈りを唱えることが勧められますが、痛悔者の列が長い場合は特にそうです。この祈りを唱えることは、痛悔者により大きなへりくだりと痛悔の気持ちを起こさせます。

痛悔者は信仰の精神によって、司祭のうちにまことのイエズス・キリストを見て、この秘蹟にあずかるべきです。実際、司祭はまことに「キリストの代理として」行うのであり、そのため司祭が「われ、聖父と聖子と聖霊との御名によりて汝を赦す」と唱えるとき、言葉を発するのは私たちの主イエズス・キリストご自身であり、罪を赦すのは主ご自身なのです。司祭がふさわしくない秘蹟執行者であったとしても、痛悔する痛悔者のためになるよう、司祭を通じて罪を赦すのは依然としてキリストご自身なのです。

悔悛の秘蹟の実は、第一に罪自体を赦し、霊魂の命を回復させ、罪の汚れを清め、霊魂に聖霊の愛を注ぐことです。この霊魂は今や他の何ものよりも天主を愛しており、こうしてその霊魂の痛悔は完全な痛悔へと変わるのです。

第二の実は、罪に対して当然あるべき永遠の罰を赦すことです。この罪びとはもはや地獄の火をこうむることはありません。罪に当然あるべき一時的な罰の大部分も赦しますが、明日説明するように、痛悔者が償いをしなければならない小さな部分は残されます。

悔悛の秘蹟の第三にして非常に重要な実は、霊魂を癒やすことです。罪は霊魂に無秩序を、霊魂に傷をもたらしますから、その傷を癒やす必要があり、薬が必要です。さて、これはこの秘蹟による特別な実であり、霊魂の治療薬となり、再び罪に陥るのを防いでくれます。ですから、頻繁に告解に行き、大罪に陥るのを待たずに、むしろ頻繁な告解を実践することを通じて小罪に対して戦うのは良いことです。そうすれば、罪に対する完全な勝利を得るでしょう。死を待ってから医者を呼ぶことが賢くないのは確かです! 同様に、大罪に陥るのを待ってから、告解の秘蹟という治療薬を飲むべきではありません。泥の中に落ちるのを待ってからシャワーを浴びる人は誰もいません! 泥の中に落ちない場合であっても、シャワーを浴びる前に何カ月も何カ月も待つ人は誰もいません! 同様に、頻繁に告解に行くべきであって、大罪に陥るのを待ってから告解に行くべきではありません。少なくとも毎月、例えば初金曜日と初土曜日に告解に行くことは良き実践です。もっと頻繁に告解に行くのは良いことです。頻繁な告解は、罪による傷を癒やすための、本当にもっと熱心になるための素晴らしい手段なのです。

告解の秘蹟を必要としなかったのは、私たちの祝された御母だけです。なぜなら、聖母だけが無原罪の汚れなきお方だったからです。しかし、洗礼ののち小罪を持った人なら誰であれ、告解に行くべきです。教会は、洗礼ののち大罪に陥ったすべての人にとって、告解の秘蹟は救いに必要であると教えています。もし時間に追われ聴罪司祭を見つけられないならば、その人には、できるだけ早く実際に告解に行こうという意志、すなわち少なくとも「望みの」秘蹟を含んだ完全な痛悔が必要です。これは、日本のキリシタンたちに二百年にわたって起こったことです。彼らは、司祭がいなかったにもかかわらず信仰を保ちました。でもこれは非常に例外的な状況で、日本の殉教者たちが他の信者たちのために取り成した非常に特別な恩寵の実なのです。

無原罪の聖母が、霊魂の美しさを回復させるこの秘蹟への大きな愛を、私たちに取り成してくださいますように! 私たちが熱意をもってこの悔悛の秘蹟を頻繁に受け、霊魂の深い癒やしを得るよう、聖母が私たちを助けてくださいますように。またこれから私たちが天主の恩寵にさらに忠実に生き、さらに注意深く罪を避け、まことの愛とまったくの反対である天主の御あわれみの乱用をすることのないよう、聖母が助けてくださいますように! アーメン。

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