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Channel: Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた
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ファチマ100周年の四旬節をどう過ごしたらよいか

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2017年2月18日(土)に大阪で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2017年2月18日(土)聖母の土曜日のミサ
小野田神父 説教
聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。

今日は2017年2月18日、聖母の土曜日のミサをしております。昨日ミサに来られた方はもうご存じですが、来たる3月1日は灰の水曜日です。四旬節が始まり、そして21歳から59歳までの健康なカトリック信者は、大小斎を守らなければなりません。14歳以上のカトリック信者は小斎を守る義務があります。カトリック教会で大小斎の義務があるのは、年にたったの2回となってしまいました、灰の水曜日と、聖金曜日です。どうぞ寛大な心でこの大小斎の義務をお捧げする事に致しましょう。

今日のこのミサの後に、前回の公教要理の続き、フェレイラ神父、転びバテレンの為に償い作戦をやりました。その償い作戦の続き、第2弾・第3弾を皆さんと黙想して、その後に一体どんな事が起こったのかをお話したいと思っています。


「むしろ、天主の御言葉を聞いてそれを守る人は幸い。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、遂に四旬節がもう少しでやって来ます。そこで聖母の汚れなき御心のお望みのままに、聖母の汚れなき御心の望むような四旬節を送る事ができるように、今日は私たちは何をしたら良いかを黙想する事に致しましょう。

私の思うには、「犠牲」とか「苦しみ」とかというものを、マリア様の見方によって、マリア様の汚れなき御心が考えるように考える事によって、この四旬節がより効果的に、より意味が深く、意義のある四旬節になると思っています。

そこでまず、見方が違うと同じものもどのように違って見えるか、という事を一般の例をまず取って、

次に、それを私たちのいけにえに、私たちの四旬節に当てはめて考えてみる事に致しましょう。

そして最後に、遷善の決心を立てる事に致しましょう。四旬節に向けて遷善の決心を立てましょう。

一般の事にまず目を向けてみます。この事はもう私がいちいち言い立てなくても皆さんよくご存じの事なので、これはあまりにも常識的な事なので私が別に言う必要もない事なのですけれども、言うのを許して下さい。

学生に何か、宿題を忘れた、或いは授業中の態度が悪い、という時に、「腕立て伏せを30回しろ」とか、或いは「腹筋を100回しろ」とか、或いは「ウサギ跳びをして運動場を一周回れ」などと言うと、学生は「えぇ~、なんだ~、え~」と言いますが、ところが、ボディービルディングをしたいという人に、「腕立て伏せをしろ」とか「腹筋をしろ」とか言って下さい。お金を払ってもジムに行って、一生懸命こうやって腕立て伏せを何回もやって、コーチが「あぁじゃあ、あと20回」「はい!分かりました!」と言ってやって、その後で自分の筋肉を見て毎日のように嬉しがっているではないでしょうか。

何故、何故こんな違いがあるかというと、このボディービルディングをしたいという人は、その将来、そのトレーニングの効果が一体何であるかを知っているからです。運動選手は金メダルの為に一生懸命になっています。

ピアニストはコンクールで1位になろうと思って、一生懸命ピアノを練習して、何時間でも何時間でも練習したいと思っています。

ビジネスマンに、「あの、ミサに来たらどうですか?」と言ったら、「あぁ、いやサイドビジネスがあるから、1時間でも時間が欲しいんですよ。お金が儲かるように今一生懸命やっているのです。」

受験生に、「さぁちょっとリラックスして、ちょっと息でも抜いて、ちょっとお茶でも飲んだら?」と言うと、「いや、そんな事はありません!」合格何とか一直線、何とか大一直線、ハチマキをして脇目も触れずに一生懸命勉強しています。自分のこの勉強が、今苦しい辛い勉強も、目的の為なら喜びに変わっています。この苦しい事と比べれば、自分が今得たいと思うそのゴールは目標は、この今の辛い事と思ったら何でもないからです。

日本もちょっと前までは「諦めません、勝つまでは」と一生懸命になっていました。どんなに犠牲を払っても、その勝利の為に目的の為に一生懸命になる。これが一般の人です。

そこでこれをこの事を、この同じようにマリア様も私たちの四旬節に対して、苦しみとか犠牲という事の意味を、マリア様の見方で見るように招いています。

私たちが、「苦しみ」とか「十字架」と言うと「辛い事」と言うと、「えぇ~、またか。」私がまだ聖ピオ十世会に入る前に、ある信者さんとお話しすると、ある年季の入ったこのおばさんが時々、「あぁ、四旬節になると何か辛い事が起こるのよね」と言って、「四旬節になるのは嫌だ、辛い事は嫌だ」というのをブーブー言っていたのを覚えています。もう何年も、もう長年の信仰の大先輩ですけれども、「あぁ、四旬節になると何か辛い事が何かあって、う~ん」と。

しかし一般の人は、「十字架、辛い事は避けるべきだ。無い方が良い。」「十字架、苦しみはあってはならない。もっとそういうものを無くす為に努力したい」と思っていますが、しかし、マリア様の見方はそれと反対です。

「私たちに天主様は十字架を、天主様の一番良いと思われる方法で、一番良いと思われるものを送って下さる。それを私たちは愛を込めて、罪の償いの為に捧げなさい。」

これがマリア様の見方です。イエズス・キリスト様もやはり同じでした。十字架で御自分の命を、私たちの罪の償いの為に捧げて下さいました。マリア様も、十字架のふもとでそれをなさいました。

聖パウロも、福音を告げる為に多くの苦しみを受けました。日本の過去の先輩の殉教者たちも、多くの苦しみを捧げました。一体何故だったのでしょうか?

それは無限の価値、永遠の命の為に、永遠の栄光の為に、それを受け取る為への道として、それを捧げたのでした。

公教会は私たちがそれをする事ができるように、日々の祈りと犠牲をトレーニングとして捧げる事ができるように、トレーニングをするように、と招いています。

私たちはもちろん毎日の、もちろん過去の大きな犠牲を捧げた、高山右近や、或いは26聖人、或いは188の福者、或いは205の福者の殉教者たちのように、壮絶な逆さ吊りを何日も耐え忍ぶとか、熱湯をかけられるとか、或いは硫黄をかけられる、或いは海の中に落とされる等という、火炙りをされる、火の点いた衣を着せられる、水攻めをさせられる、等という殉教を私たちはどうやって耐え忍ぶ事ができるか、その力があるのかどうか、本当に自信がありません。

しかし公教会は、私たちが主の為に、主の送られる十字架を私たちがよく担う事ができるように、日々の小さな犠牲と祈りをよく捧げる事ができるように、と特にこの四旬節に於いて、私たちがいつもその苦しみの価値を理解する事ができるように、もう一度目を覚ますように、と招いて下さっています。

特に今年はファチマの100周年ですから、マリア様の御心の観点に従って、この四旬節をお捧げ致しましょう。

マリア様は何と仰っているかというと、「多くの霊魂が地獄に落ちている。何故かというと、誰もこの霊魂の為に祈りと犠牲を捧げる者はないからだ。」「私たちの祈りと犠牲は救霊の為にあって、私たちの霊魂の救いのみならず、多くの霊魂の救いの為にある」とマリア様は言っています。

7月にはこう仰いました、「自分を罪人たちの為にいけにえとして捧げなさい。頻繁に、特に犠牲を捧げる時にこう言いなさい、『イエズスよ、これは御身を愛する為、罪人の回心の為、またマリアの汚れなき御心に対して犯される罪を償う為です。』このいけにえを捧げる時に頻繁にこう言いなさい、『これは御身を愛する為、罪人の回心の為、マリアの汚れなき御心に対して犯される罪を償う為です』と。そうすると多くの霊魂は、特別のお恵みを頂く事になるでしょう。」

見て下さい。フェレイラ神父が転んでしまった時に、多くのイエズス会の司祭たちは修道士たちは、その罪の償いの為に、自分の血を以てそれを償おうと思いました。数え切れないエリートたちが司祭たちが、自分の持っていた地位とか、管区長とか神学校校長とか、神学校教授、或いはそのような地位を捨てても、自分の持っていたその大きな修道院、それを捨てても、日本に行って自分の血を流して殉教したい、と思ったではないでしょうか。

多くの人たちが、例えばマカオでは40時間の聖体礼拝を何度も何度もやって、教会をますます綺麗にして、それを罪の償いの為に、イエズス様にますますの罪の償いを果たしたい、と思ってますます燃え立ったではないでしょうか。

それと同じように、もしも罪の、この世の多くの人々の回心の為に、マリア様は私たちの祈りと犠牲を求めておられます。公教会も四旬節において、その私たちの祈りと償いを求めています。

その時に私たちは、何も知らない学生のように「あぁ何だ、また罰が来た、あぁ何でこんな事、腹筋やるんだ、あぁ、」などと、「ちょっとサボっちゃえ、」「目を眩まして逃げよう」などと思ってはいけません。

「えぇ!?私たちは今、黄金の機会が与えられた!今こそ大きな金貨を、大きな富を積む機会が与えられた!普通ならばこのような商品を得るには、本当は高いお金を払わなければならないのだけれども、今日は公教会はバーゲンセールで、本当ならもっとのところを、ほんのちょっとでそれを受ける事ができる、特別の価値がある!」

本当なら私たちは知らなかった宝くじの当選番号が与えられて、「さぁこれが番号だ、買いなさい。さぁこれだこれだ。」

それを、「またお金を払わなければならない、あぁ、」そう言ってはいけません。今こそがチャンスであって、この当選番号の為に全財産をお金に替えて払ってもこれを得て、そしてその1等賞を、或いはそのものすごい功徳を積まなければなりません。今はその特別のチャンスが来ました。

マリア様はそれを私たちに手を差し伸べて、「さぁ、今こそが私たちの救霊と教会の救いの為のチャンスだ!」と、手を差し伸べています。ファチマ100周年の四旬節です。

イエズス様はこう言いました、ルチアにこう言うのです、ルチアはそれを書いています、「私は巨大な望みを持って、マリアの汚れなき御心に対する信心が広がる事を望んでいる。何故かというと、このマリアの汚れなき御心こそが、多くの霊魂をして私の方にイエズスの方に引き寄せる磁石だから。マリア様の汚れなき御心はちょうど、世界中の全ての光、私の光と私の愛が降り注いだ時のレンズで、焦点が絞られたその焦点だ。そのマリア様の御心の所に行けば、その焦点が合うので燃え立つ。光を全て受ける、愛を全て受ける。」

イエズス様は言います、「燃える焦点だ。そして私の憐れみの水が、生ける水がどくどくと湧き出るその泉である。マリア様の御心にこそ、イエズス様の愛と、光と、憐れみの全てが入っている。だからこの御心への信心が広がるように望んでいる」と仰いました。

ですから私たちは、このマリア様の汚れなき御心に行く事に致しましょう。汚れなき御心は、私たちが祈りと犠牲を捧げて、その汚れなき御心に対して犯される、或いはこの世の罪の償いを求めておられます。そうする事によって慰めを受ける事を求めておられます。これこそがマリア様の汚れなき御心の信心であって、これこそが四旬節の信心です。罪の償い、祈りと犠牲、救霊の為の祈りと犠牲。

ではこの2017年の、今年の四旬節こそがより良い意義のある、深い実りの多い四旬節となりますように、マリア様の汚れなき御心に心からお祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

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