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Channel: Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた
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聖ヴィタリス、太祖ヨゼフに共通していること。それが指し示すこととは?

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2017年3月17日(金)に大阪で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2017年3月17日(金) 四旬節の平日のミサ
小野田神父 説教
聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。

今日は2017年3月17日、四旬節の第2主日の後の金曜日のミサをしています。

今日のこのミサの後にはいつものように、ミサの後の祈りと終課を唱えるように致しましょう。そして終課の前に、今日は唱える事ができなかった聖ヨゼフの連祷も一度唱える事に致しましょう。

「無原罪の聖母の騎士」の雑誌が英語で出来ていますので、どうぞお持ち下さい。是非お友達にも読むように勧めて下さい。シュテーリン神父様のファチマの本が第2巻目も出ましたので、皆さんどうぞお読み下さい。



「彼らは主を捕らえようと探していたけれども、しかし群衆を恐れていた。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日は四旬節の第2主日の後の金曜日で、ますます四旬節の中に深く入って行く事に致しましょう。教会は今日、イエズス様の御受難を黙想するように、その御受難の予告の中に私たちを連れて行こうとします。しかしその予告は、たとえこの御受難はベールで隠されていたとしても、この天主様の御摂理によってそれが許され、そしてそのイエズス様の御受難はつまり私たちの救いの為である、という事を表そうとしています。この為に教会は、この典礼と或いは目に見える全てのものを使って、私たちにイエズス様の御受難の予告と、その実はそれが私たちの救いの為だ、御摂理によるものだ、という事を教えようとしています。そこで今日はその事を黙想する事に致しましょう。

第1の点は、一体何故、どのようにして、教会は私たちにイエズス様の予告を、御受難の予告を知らせているのか?

第2に、その予告が私たちの救いの為である、という事をどのようにして教えようとしているのか?天主の御摂理がどのようにして働くという事を教えているのか?

第3に、私たちは四旬節の遷善の決心を、立てた決心を固める事に致しましょう。


第1の点は、教会は一体どうやって私たちにイエズス様の予告を、受難の予告をしようとしているのでしょうか?

それは3つの点で分かります。1つは今日の指定巡礼教会聖ヴィタリス、そして今日の太祖ヨゼフの話、そしてイエズス様の例え、この3つが「イエズス様の受難」という事で繋がっているからです。

聖ヴィタリスという人は、実は非常に初期のカトリック信者で、子供に双子の兄弟の聖ジェルバジオと聖ブロタジオ、これは諸聖人の連祷の中にも載る聖人ですけれども、そのお父さんなのです。お父さんは敬虔な信者で、殉教者の遺体を密かにそれを探して埋葬して、殉教者に対する尊敬の念を払っていた人でした。ところがそれがローマ当局の怒りに触れ、結局聖ヴィタリスも殉教しなければなりませんでした。どうやって殉教したかというと、聖ヴィタリスの住んでいたのはミラノに近いラヴェンナというイタリアの北部なのですけれども、そこの穴に突き落とされて、そしてそのあとに石を投げさせられて、そして埋められてしまいました。

今日教会は霊的に私たちを、この聖ヴィタリスの指定巡礼教会に連れて行きます。この聖ヴィタリスの指定巡礼教会には、その祭壇にはイエズス様の十字架の御受難の絵が描かれているのですけれども、その両脇には聖ヴィタリスがどうやって殉教したのか、その聖ヴィタリスの生涯とその殉教の絵が描かれています。それでその内の1つが、穴に落とされて殉教した、そしてこの殉教によってこの血がキリスト教の種となって、また信仰の糧となった、という絵が描かれているのです。

私たちも今日は霊的にこの聖ヴィタリスの教会に入る事によって、このミサの中でその絵を見せようとしています。

1つは祭壇の前の私たちの十字架像。十字架像の上には、霊的に指定巡礼教会の聖ヴィタリスが穴に落とされたというその事。書簡側には、今読んだ、太祖ヨゼフの絵。つまりヨゼフが兄弟たちの嫉妬によって、「何だこいつ、お父さんから特別に愛を受けて、何か偉そうな事を言っている、夢を見たと言っているし、こんなやつ亡き者にしてやれ」と言うと、「あぁ、殺してはまずい、血を流させてはまずい。穴に落としてはどうだ」と言って、水の無い井戸に落とされる。ちょうど聖ヴィタリスが、「キリスト教徒だ」と言う事によって殉教したのと同じ、「穴に落とされた」という同じ運命をします。

それと同じようにイエズス様も、今日福音側の絵では私たちに、イエズス様の命を亡き者にしよう、ユダヤ人たちがそれを狙っている、何故かというと、「自分が聖父から送られた聖子である」という事を例えで話したからです。そしてユダヤ人たちはその事を理解したからです。

イエズス様は実は聖父から送られた跡継ぎであって、預言者たちが聖父によってヤーウェによって送られたけれども、ユダヤ人たちは皆この預言者たちを殺してしまった。ユダヤ人に送られた最後の手段としての聖子は、「あぁ、この子なら私の子供としてこの子の言う事を聞くだろう」と言ったけれども、却って「殺してしまおう」と思った、そして殺してしまった、という事が「自分たちの事を言っているのだ」とよく分かったのです。そしてその事を「亡き者にしよう」としたのです。

ちょうど聖ヴィタリスがやられたように、ヨゼフがされたように、嫉妬によって亡き者にされようとされた、されつつあるという事を福音側ではそれを私たちに示しています。

では第2点は、一体教会は私たちに、霊的にこのミサの中に入って、霊的に4つの絵を見せて、イエズス様の御受難、殉教者聖ヴィタリス、太祖聖ヨゼフ、そしてイエズス様の御受難の予告を見させて、一体これがどうして救いの役立つのか、という事を教えようとしています。何故かというと、これらは1つのものであるからです。

何故かというと、聖ヴィタリスの生涯と殉教と、聖ヨゼフの生涯が似ていると同じように、実は太祖ヨゼフは、この穴に捨てられたが為に、実はお金で売られてエジプトの商人に売られて、そしてその為にその売られたが為にこそ、エジプトの宰相となる事ができて、そしてエジプトの国を救うのみならず、エジプトの国に食料を求めて来た自分のお父さん家族たちさえも救う事ができたのです。

実は悪意で亡き者にしようとしたその事が、実は救いのもとになった、全て天主の御摂理のもとに働いていて、御摂理のもとでそれは救いのもととなった、という事がイエズス様の御受難にも全く当てはまる、という事を教えようとしているからです。

たとえ悪意によってイエズス様が御受難を受けようとも、そしてイエズス様が全く罪がないにもかかわらず死刑を受けようとも、御受難を受けようとも、それは全て天主の計画の下にあった、それは私たちの救いの元であった、という事です。

では最後に、私たちはどのような遷善の決心を立てたら良いでしょうか?

1つは、私たちの主は、その苦しみを喜んで受けられるという事です。逃げる事もできたし、それを避ける事もできたけれども、私たちの救いの為に、天主聖父から与えられるその御摂理のままの苦難を全て受けた、私たちの救いの為に受けた、という事です。たとえイエズス様が私たちの為に、私たちを憐れんで赦して下さる、罪を赦して下さる、私たちを抱擁して下さる、私たちの為に近づいて、「さぁ、罪の赦しを与えよう」として下さる、しかしその裏にはこれほどの苦しみが、苦しみを受けるほどの愛があったのだ、という事を私たちがよく知らなければなりません。

それと同時に、イエズス様がその愛を以て、どんな苦しみでも私たちの為に甘受して、私たちに近寄って下さり、私たちを赦そうとして下さる、だからと言って私たちは、「だから何でもして良いのだ」ではなくて、そのイエズス様の愛の大きさが大きければ大きいほど、私たちはますますイエズス様に愛を以て感謝しなければなりません。

もう1つは、私たちはイエズス様の十字架の、イエズス様の苦難を増やす元とたびたびなっていたのではないか、という事です。私たちはイエズス様の苦しみをより少なくさせるというよりは、却ってイエズス様の聖心に反対するような事を、イエズス様の御望みではないような事を、或いはイエズス様に反するような事を、イエズス様を苦しませるような事を敢えて、或いはしばしばやっていたのではないか、イエズス様を殺そうと企んでいたのではないか、私たちの心から取り外して「穴に突き落してしまえ。イエズス・キリストが無ければいい、亡き者にしよう」と計っていたのではないか、罪を犯す事をしていたのではないか、という事です。

私たちはともすると、非常に弱く、非常に矛盾に満ちた、「こうでありたい」と思いながらも、弱い私たちです。イエズス様の御憐れみと、マリア様の御助けによって、私たちがイエズス様をもうこれ以上悲しませる事がないように、私たちがイエズス様の死を望む事がないように、むしろイエズス様を慰める方に回る事ができますように、このミサを捧げていきましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

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