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Channel: Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた
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イエズス・キリストが死なれた日は

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

イエズス・キリストの死なれた日付はいつだったのでしょうか。

4つの福音書が口をそろえているのは、イエズスが死なれたのが金曜日(安息日の前日、すなわち安息日のために用意する「用意日」)だったということです。

マテオ 「日が落ちたころ、アリマタヤの金持ちでヨゼフという人が来た。この人もイエズスの弟子だったので、ピラトのもとに行って、イエズスの屍をさげ渡してくださいと願った。ピラトはそれを渡すように命じた。屍をうけとったヨゼフは、それを清い覆布でつつみ、岩に掘った自分の新しい墓におさめ、墓の入り口に大きな岩をおいて帰って行った。そこでは、マグダラのマリアと他のマリアが、墓のほうにむいて座っていた。
そのあくる日、すなわち用意日の翌日、司祭長たちとファリザイ人たちとはピラトの所に行って、「主よ、私たちは思い出したのですが、あの惑わし者は、生きていた時に、"私は三日後によみがえる"といっていました。ですから、三日間墓を見張るように命令してください。かれの弟子たちが来て、屍をぬすみ出し、"死からよみがえった"と人々にいいふらすおそれがありますから。そんなことをいえば、このうそは、前のうそよりもひどいものです」といった。ピラトは、「あなたたちに番兵をやる。好きなように守りにいけ」といった。そこでかれらは、石に封印をし、番兵をつけて墓を守り固めた。」

マルコ 「夕ぐれになった。用意日、すなわち安息日の前日であった。おもだった議員の一人で、天主の国をまちのぞんでいたアリマタヤのヨゼフが、なんのはばかりもなくピラトのもとに行き、イエズスのしかばねを乞うた。もう死んだのかとおどろいたピラトは、百夫長をよんで、もう死んだのかとたずね、百夫長からたしかめた上で、しかばねをヨゼフに下げ渡した。ヨゼフは、亜麻布を買い、イエズスを十字架からおろし、亜麻布でつつみ、岩にほった墓におさめた。そしてその墓の入口に、石をころばしておいた。マグダラのマリアと、ヨゼットの母マリアとが、その納めたところをよく見ておいた。」

ルカ 「さて、議員で、善良な、正しいヨゼフという人がいたが、・・・かれはあの議決と仕業とに賛成していなかった・・・この人はユダヤ人の町、アリマタヤの人で、天主の国をまっていた。かれは、ピラトをおとずれて、イエズスのおん体の引取り方をたのんだ。そして、イエズスのおん体を十字架からおろして覆布に包み、まだだれも葬ったことのない、岩にほった墓におさめた。その日は用意日で、安息日があけはじめていた。ガリラヤからイエズスといっしょにきた婦人たちもついて来て、その墓と、おん体がおさめられたありさまとを見て、帰ってから、香料と香油を準備した。それから掟にしたがって、安息日を休んだ。」

ヨハネ 「このことばをきいたピラトは、イエズスを外につれていき、敷石、ヘブライ語でガッバタといわれるところで、裁判の席についた。それはすぎこしの用意日で、十二時頃のことであった。ピラトが、ユダヤ人に、「これが、あなたたちの王だ」というと、彼らは、「殺せ、殺せ!十字架につけよ!」と叫んだ。ピラトが、「私が、あなたたちの王を十字架につけるのか?」というと、司祭長たちは、「私たちの王はチェザルのほかにはありません」と答えた。そこで、ピラトは、イエズスを十字架につけるために、かれらにひきわたした。」

ヨハネ 「イエズスは酢をうけて、「すべてはなしとげられた」といい、おん頭を垂れて息を引きとられた。その日は用意日だったので、安息日に体を十字架の上に残しておかないように(この安息日は、大祭日であったから)ユダヤ人たちは、ピラトに、彼らのすねを折って取りのぞくようにと願ったので、兵隊たちが来て、まず一人、そして、ともに十字架につけられたもう一人の脛を折った。」

ヨハネ 「彼らはイエズスのおん体をとりおろし、ユダヤ人の葬りの習慣どおり、香料とともに、そのおん体を布で巻いた。イエズスが十字架につけられたあたりに園があり、その園に、まだだれもいれない新しい墓があった。その日は、ユダヤ人の用意日でもあり、この墓が近かったので、そこにイエズスを納めた。」

イエズス・キリストが最後の晩餐をしたのは十字架にかけられる前の晩ですから、木曜日の晩です。

ところで、共観福音によると、イエズス・キリストはご自分の亡くなる前、木曜日の晩に「過ぎ越しの食事」を弟子達と取ったと分かります。

マテオ 「たねなしパンの祭の最初の日に、弟子たちがイエズスに近づき、「すぎこしの食事をするために、どこに準備したらよろしいですか?」というと、イエズスは、「町に行って、某という人をたずね、"私の時は近づいた。私は弟子たちといっしょに、あなたの家ですぎこしをすると先生がおっしゃいました"といえ」とお命じになった。弟子たちはイエズスのことばどおりにしてすぎこしの準備をした。」

マルコ 「たねなしパンの祭の最初の日・・・それはすぎこしの小羊をほふる日であるが、弟子たちがイエズスに、「どこに行って、あなたのすぎこしの食事の準備をしましょうか?」といった。イエズスは、二人の弟子をおくり、「町に行くと、水瓶をもっている人にであうから、その人について行き、その人がはいった家の主人に、"先生が弟子たちといっしょにすぎこしを食べる部屋はどこかとおたずねでした"といえ。そうすると、その人は、席をととのえ、すでに用意された二階の広間を見せてくれるから、そこに準備せよ」とおおせられた。弟子たちが出かけて町に行くと、おっしゃったとおりになったので、そこにすぎこしの準備をした。」

ルカ 「すぎこしをそなえるたねなしパンの日が来た。イエズスは、ペトロとヨハネとをつかわすにあたり、「私たちの食事のために、すぎこしの準備をしにいけ」とおおせられた。かれらが「どこに準備すればよろしいでしょうか?」ときいたので、イエズスは、「市中にはいると、水瓶をもっている人にであうから、あなたたちは、その人がはいる家についていき、家の主人に、"先生が弟子たちといっしょにすぎこしの食事をする部屋はどこか、とおおせられていました"といえ。すると、主人は、席をととのえた二階の大広間を見せてくれるから、そこに準備せよ」とおおせられた。かれらがいってみると、イエズスのいわれたとおりだったので、すぎこしの準備をした。」

もしもこのイエズス・キリストが弟子達と食べたユダヤの過ぎ越しの食事が律法によるものだとすると、ニーサンの14日(木曜日)の夕方になされ、ニーサンの15日(金曜日)にイエズス・キリストが十字架で亡くなったことになります。エルサレム入城はニーサンの10日(主日)になされたことになります。

何故なら「過ぎ越し祭」は、ニーサンの14日の夕方に行われ、その直後から7日間「種なしパンの祭り」が続いた(ニーサンの月15日から21日)からです。(ニーサンの14日から21日までを、「過ぎ越し祭」とも「種なしパンの祭」とも言われていました。)

しかし、もしもこのイエズス・キリスト最後の晩餐が律法に従ってニーサンの14日(木曜日)の夕方になされ、ニーサンの15日(金曜日)にイエズス・キリストが十字架で亡くなったとすると、何故多くのユダヤ人たちがこの日(ニーサン15日)に安息を守っていなかったのかが問題になります。シレネのシモンは労働に行くところでしたし、アリマテアのヨゼフは没薬を購入することも出来たからです。


ヨハネの福音によると、イエズスが最後の晩餐をした翌日、言い換えると、イエズスが十字架に天主の子羊として十字架に付けられて死なれたその日、ユダヤ人たちはまだ過ぎ越しの食事をまだしていなかったとあります。

ヨハネ 「人々は、イエズスを、カヤファのもとから総督官邸にひいて行った。夜明けだった。ユダヤ人たちは、すぎこしの小羊を食べるについて、汚れをうけないようにと、総督官邸にはいらなかった。」

何故、イエズス・キリストの過ぎ越しの食事の日付と、ユダヤ人たちの過ぎ越しの食事の日付が一日ずれていたのでしょうか?

もしも、ユダヤ人たちが過ぎ越しの食事をニーサンの14日の夕方にしていたとすると、イエズスが十字架で亡くなったのがニーサンの14日(金曜日)だということになります。ユダヤ人たちがすぎこしの子羊を屠ろうとする時、天主の子羊が十字架の上で屠られていたことになります。その時、日はまだ高かったのですが、にわかに夕方のように暗くなりました。

もしもそうだとすると、木曜日の最後の晩餐の食事は律法による食事ではなかったことになります。

また前晩の木曜日の食事の時についてヨハネは「すぎこし祭の前」と言います。

ヨハネ 「すぎこし祭の前に、イエズスは、この世から父のもとにうつる時が来たのを知り、この世にいるご自分の人々を愛し、かれらに限りなく愛をお示しになった。食事の間に、悪魔は、早くも、イスカリオトのシモンの子ユダの心に、イエズスをわたそうという考えをいれた。父が自分の手に万物をゆだね、自分は天主から出て天主に帰ることを知っておられたイエズスは、食卓から立ちあがって、上衣をぬぎ、手拭いをとって腰にまとい、それからたらいに水を入れ、弟子たちの足を洗い、まとった手拭いでこれをふきはじめられた。」

ということは、もしもユダヤ人たちの過ぎ越し祭がニーサンの14日(金)だったなら、最後の晩餐は、ニーサンの13日に行われたことになります。

イエズス・キリストが亡くなった年、私たちの今は詳しく正確に知ることが出来ない理由で、ある者はニーサンの13日に、ある者はニーサンの14日に過ぎ越しの食事を行ったと考えられます。

その理由としては、現代の天文学による厳密な月の満ち欠けではなく、肉眼の観察による暦を使っていたため、です。

例えば、イエズス・キリストの時代に、サドカイ派とファリサイ派とは、五旬祭と過ぎ越し祭との日付について論争していました。

例えば、当時、司祭の家系でサドカイ派で極めて影響力のあったボエトゥス家の一派は、五旬祭は必ず日曜日に祝うべきであると主張していました。さらに過ぎ越しと五旬祭との間の50日は、過ぎ越しの八日後の初穂奉献の祭りから数え始めることを主張していました。

旧約の律法によれば「過ぎ越し祭」の間(つまりニーサンの14日から21日までの間)、初穂を捧げなければなりませんでしたが、その捧げる日は「安息日の翌日」altero die sabbati だったからです。サドカイ派は、初穂奉献の祭りは過ぎ越しの後の日曜日に行われることを支持しました。

ところが、これと対立して、ファリザイ派は五旬祭は週の何曜日でもかまわないと主張。そこで初穂奉献の祭りは、過ぎ越しの直後、つまりニーサン16日に行われることを主張していました。ファリザイ派によると、初穂奉献祭の日の「安息日の翌日」altero die sabbati とは、「過ぎ越しの翌日」のことだと主張していたからです。

ところで、サドカイ派は、ニーサンの15日が金曜日に当たると、暦を一日ずらしてこの金曜日をニーサン14日として子羊を屠り過ぎ越しの食事をとり、ニーサン15日が安息日(土曜日)、その翌日(ニーサン16日)に初穂記念祭を行っていました。これは満月がいつであるかを計るために肉眼による測定を行っていたためにおこる揺らぎでした。

しかしファリザイ派はこのようなずらしを受け入れず、何曜日であろうとも過ぎ越しを行っていました。一般大衆はファリザイ派の指導の下にありましたが、上流社会は司祭階級とより結びつきが強く、サドカイ派の影響を強く受けていました。また人々は、自分の都合に合わせてどちらの流儀に従っても良いと考えられていました。

そこで、イエズス・キリストが磔になった聖金曜日は、本来なら「ニーサン15日」でした。サドカイ派は、習慣に従ってこれを一日ずらして、初穂奉献祭「ニーサン16日」が日曜日になるようにしたけれど、ファリザイ派はずらさなかった、と。そこで、聖金曜日は、一部の人々にはニーサン14日であり、一部の人々にとってニーサン15日であったとなる、と言うことです。

そこでヨハネの福音はサドカイ派の暦に沿っており、共観福音はファリザイ派の暦に従っていると思われます。

すると、ファリザイ派と一般民衆は、聖木曜日に律法の子羊の食事を取り、イエズス・キリストも最後の晩餐を行ったことになります。この聖木曜日はニーサン14日になります。翌日の聖金曜日はニーサン15日(過ぎ越し)となるはずですが、イエズス・キリストを排斥した衆議所の大部分はサドカイ派に属し、彼らにとっては聖木曜日は「ニーサン13日」でした。そこで、彼らは聖金曜日に子羊を屠り、土曜日をニーサン15日(過ぎ越し)と考えていたことになります。そこでイエズス・キリストが亡くなった聖金曜日に、多くの人々が律法による安息を守っていなかったか、が説明が付きます。何故なら、ファリザイ人にとっては過ぎ越し(ニーサン15日)でしたが、一般の人々は様々な理由でサドカイ派の暦に従っていたからです。

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