2016年5月7日 秋田巡礼 聖母の汚れなき御心の随意ミサ
小野田神父 説教
“Ecce mater tua.”
「汝の母を見よ。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
親愛なる神父様、そして巡礼者の皆さん、今日イエズス様は十字架の上で私たちに向かって、「汝の母を見よ。ここにお前の母がいる。ここに憐れみの母がいる。ここに聖なる喜びの母がいる。希望の母がいる」と言うのを聞きました。
このミサの中のテキストを見ると、みなマリア様の事を「良き母」と言っています。ですから今日は私たちは、この母に目を注ぐ為に、この巡礼を続ける為にも、もう一度どこからどこへと目を向けなければならないかを黙想する事を提案します。
1つはどこから目を、第2にはどこに目を向けなければならないか。
では第1の点は、どこから私たちは目を背かなければならないか。これは私の今回の巡礼のこの時にまた考えた事です。
「この世のいくら楽しみや悲しみ、それらが私たちを誘惑し、或いは悲しめ苦しめたとしても、あっという間に終わってしまう儚いものだ」という事です。ちょうどそれは永遠の目から見れば、長崎或いは広島に原爆が落ちて、あっという間に無くなってしまった、その瞬間に無くなってしまっているかのようです。「永遠から見れば、この私たちの生きているこの生涯というのは、私たちの人類の全歴史というのも、あっという間にパッと光が輝いたものが無くなってしまうような、儚いものだ」という事です。
私の大学の先生に哲学の先生でしたが、アリストテレスの専門家がいて、とても頭が良くて、私はその先生の講義を聞くのが非常に楽しみで好きでした。この先生は広島の出身で、夏、大学生のお休みの時に、東大の法学部の学生で、広島に出身の広島に帰ると、その日ある時、家で勉強していると、目の前がアッと全て紫になった。一瞬にです。その直後に、家の前が何も無くなっていたというのを見て、「一体何が何か分からなかった」と言います。
後に、「実は原爆が落ちた」という事を聞いて、そういうものすごい兵器が出来た、それでそれによって一瞬のうちに無くなってしまった、街が、今までの街が無くなってしまったのを見て、「あぁ、人生というのはこうだ」と悟ったそうです。その後に、「この世というのはあっという間に終わる」という事を、私が思うにはマリア様から息吹を受けて、そしてカトリック信者になりました。そして哲学の勉強をしたいと思ったそうです。
私たちはこのような、この世のあっという間に終わってしまう儚い空しいものから目を逸らして、もっと永遠の、もっと本物のものに目を向けなければなりません。
第2のポイントは、では一体どなたに、です。イエズス様の永遠の宣言の通り、マリア様の方に目を向けなければなりません。憐れみのマリア様に。イエズス様がその方に全ての御恵みを、憐れみの御恵みを与えたそのマリア様に行かなければなりません。私たちの御母に、憐れみの母に行かなければなりません。ちょうど今日の入祭誦でこう言っています、「私たちは憐れみの、恵みの玉座に近付こう。それは、私たちが時に応じた憐れみを受ける為だ」と。まさにイエズス様の言葉のエコーです、こだまです。
マリア様に委ねることについて2つ、私の体験を言うのを許して下さい。
1つは今年の、フォルティン神父様と私でマニラに学校があります。その学校で、ある時父兄がやって来ました、「ちょっと文句がある」と。ところでそこの丁度その詳しい状況を聞こうと思って、私はそこにいた女の先生、幼稚園の先生に、その時はどうだったのか聞きました。
実はこの先生はこの父兄の子供の担当ではなかったのですけれども、その先生は子供からも父兄からもとても人気があるのです。文句を言いに来た父兄も、この先生の言うことはもっともだ、その通りだ、と納得していました。
学校には色んな先生がいます。例えばもう何年も教育の経験があって、そして立派な資格も持っている、でもあまり人気のない先生もいます。この私が質問した先生は、高校卒業して、すぐに聖ピオ十世会のシスターになりたいと思って志願して行ったのですが、結局は健康上の理由でシスターにはなれませんでした。そこで聖ピオ十世会のマニラの学校で教えたのですけれども、特に勉強したというわけではないのです。
父兄が帰った後で、私はその先生に、どうやって子供たちと接しているのですか、と尋ねてみました。彼女の話すには、「あぁ、私はよく知らないのだけれども、でもいつも子供に話す時には、マリア様にお願いするのです、『マリア様、私を助けて下さい。この子を助けて下さい。マリア様が仰って下さい、マリア様がいつもやって下さい』」と。
すると子供が、どんなに聞かない子供でも、はい、はい、はいと聞いて、先生の言う事をよく聞いて、とても良くなるとのことです。子供はこの先生の事が大好きで、父兄も大好きですが、先生は「自分はいつも、マリア様のようにやっているだけだ」と私に言うのです。いつもマリア様と一緒に、マリア様に祈りつつ行動する人は、例え有名な大学を出ていなかったとしても、それ以上の素晴らしい仕事をするということです。
今日この秋田に来る時に、実はアメリカから来る予定の人がいました。でも私たちはその人が来ないという事を知りませんでした。彼のために長崎から秋田まで行く飛行機の切符ももう買ってあって、もうそれは全て先払いしてあり、もうキャンセルはできませんでした。また今回はたくさんの方がフィリピンから来て下さって、外国から来て下さって、それで実はその締め切りにある方々は間に合わなかったので、数名の私たちの巡礼者の方々は一緒に、日本の方々は一緒にこう飛行機に来る事ができなくて、別々にならければならなかったのです。
ところが、私たちはその事を頼みもお願いもしなかったのですけれども、マリア様は長崎に、突然、夜中に暴風雨を現わしました。警報が鳴ったので夜中に私たちは叩き起こされましたけれども、しかしそのおかげで、本当ならキャンセルできなかったものがキャンセルできるようになり、お金が戻って来ました。そして本当なら一緒に行く事がバラバラになる予定が、一緒に秋田に行く事ができました。
「マリア様は本当に私たちの心を、私たちの為、私たちの事を計らって下さる母だなぁ」という事を実感しました。マリア様は私たちが最も必要としていた事をよくご存知で、計らって下さったのです。台風さえも起こして、飛行機を混乱させてまでも、私たちの為に計らって下さいました。
では皆さん、今日どのような決心を立てたら良いでしょうか?
この世の儚いものではなくて、マリア様の方を見つめて、いつもマリア様と共に行動する、そしてマリア様の恵みの憐れみの玉座にいつも近寄っている、その全て、その元に、そしてマリア様が、「こうしなさい、こうやりなさい。私はあなたの母ですから。あなたの母ですよ」というのよく聞いて、マリア様の良き道具となるという事です。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
小野田神父 説教
“Ecce mater tua.”
「汝の母を見よ。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
親愛なる神父様、そして巡礼者の皆さん、今日イエズス様は十字架の上で私たちに向かって、「汝の母を見よ。ここにお前の母がいる。ここに憐れみの母がいる。ここに聖なる喜びの母がいる。希望の母がいる」と言うのを聞きました。
このミサの中のテキストを見ると、みなマリア様の事を「良き母」と言っています。ですから今日は私たちは、この母に目を注ぐ為に、この巡礼を続ける為にも、もう一度どこからどこへと目を向けなければならないかを黙想する事を提案します。
1つはどこから目を、第2にはどこに目を向けなければならないか。
では第1の点は、どこから私たちは目を背かなければならないか。これは私の今回の巡礼のこの時にまた考えた事です。
「この世のいくら楽しみや悲しみ、それらが私たちを誘惑し、或いは悲しめ苦しめたとしても、あっという間に終わってしまう儚いものだ」という事です。ちょうどそれは永遠の目から見れば、長崎或いは広島に原爆が落ちて、あっという間に無くなってしまった、その瞬間に無くなってしまっているかのようです。「永遠から見れば、この私たちの生きているこの生涯というのは、私たちの人類の全歴史というのも、あっという間にパッと光が輝いたものが無くなってしまうような、儚いものだ」という事です。
私の大学の先生に哲学の先生でしたが、アリストテレスの専門家がいて、とても頭が良くて、私はその先生の講義を聞くのが非常に楽しみで好きでした。この先生は広島の出身で、夏、大学生のお休みの時に、東大の法学部の学生で、広島に出身の広島に帰ると、その日ある時、家で勉強していると、目の前がアッと全て紫になった。一瞬にです。その直後に、家の前が何も無くなっていたというのを見て、「一体何が何か分からなかった」と言います。
後に、「実は原爆が落ちた」という事を聞いて、そういうものすごい兵器が出来た、それでそれによって一瞬のうちに無くなってしまった、街が、今までの街が無くなってしまったのを見て、「あぁ、人生というのはこうだ」と悟ったそうです。その後に、「この世というのはあっという間に終わる」という事を、私が思うにはマリア様から息吹を受けて、そしてカトリック信者になりました。そして哲学の勉強をしたいと思ったそうです。
私たちはこのような、この世のあっという間に終わってしまう儚い空しいものから目を逸らして、もっと永遠の、もっと本物のものに目を向けなければなりません。
第2のポイントは、では一体どなたに、です。イエズス様の永遠の宣言の通り、マリア様の方に目を向けなければなりません。憐れみのマリア様に。イエズス様がその方に全ての御恵みを、憐れみの御恵みを与えたそのマリア様に行かなければなりません。私たちの御母に、憐れみの母に行かなければなりません。ちょうど今日の入祭誦でこう言っています、「私たちは憐れみの、恵みの玉座に近付こう。それは、私たちが時に応じた憐れみを受ける為だ」と。まさにイエズス様の言葉のエコーです、こだまです。
マリア様に委ねることについて2つ、私の体験を言うのを許して下さい。
1つは今年の、フォルティン神父様と私でマニラに学校があります。その学校で、ある時父兄がやって来ました、「ちょっと文句がある」と。ところでそこの丁度その詳しい状況を聞こうと思って、私はそこにいた女の先生、幼稚園の先生に、その時はどうだったのか聞きました。
実はこの先生はこの父兄の子供の担当ではなかったのですけれども、その先生は子供からも父兄からもとても人気があるのです。文句を言いに来た父兄も、この先生の言うことはもっともだ、その通りだ、と納得していました。
学校には色んな先生がいます。例えばもう何年も教育の経験があって、そして立派な資格も持っている、でもあまり人気のない先生もいます。この私が質問した先生は、高校卒業して、すぐに聖ピオ十世会のシスターになりたいと思って志願して行ったのですが、結局は健康上の理由でシスターにはなれませんでした。そこで聖ピオ十世会のマニラの学校で教えたのですけれども、特に勉強したというわけではないのです。
父兄が帰った後で、私はその先生に、どうやって子供たちと接しているのですか、と尋ねてみました。彼女の話すには、「あぁ、私はよく知らないのだけれども、でもいつも子供に話す時には、マリア様にお願いするのです、『マリア様、私を助けて下さい。この子を助けて下さい。マリア様が仰って下さい、マリア様がいつもやって下さい』」と。
すると子供が、どんなに聞かない子供でも、はい、はい、はいと聞いて、先生の言う事をよく聞いて、とても良くなるとのことです。子供はこの先生の事が大好きで、父兄も大好きですが、先生は「自分はいつも、マリア様のようにやっているだけだ」と私に言うのです。いつもマリア様と一緒に、マリア様に祈りつつ行動する人は、例え有名な大学を出ていなかったとしても、それ以上の素晴らしい仕事をするということです。
今日この秋田に来る時に、実はアメリカから来る予定の人がいました。でも私たちはその人が来ないという事を知りませんでした。彼のために長崎から秋田まで行く飛行機の切符ももう買ってあって、もうそれは全て先払いしてあり、もうキャンセルはできませんでした。また今回はたくさんの方がフィリピンから来て下さって、外国から来て下さって、それで実はその締め切りにある方々は間に合わなかったので、数名の私たちの巡礼者の方々は一緒に、日本の方々は一緒にこう飛行機に来る事ができなくて、別々にならければならなかったのです。
ところが、私たちはその事を頼みもお願いもしなかったのですけれども、マリア様は長崎に、突然、夜中に暴風雨を現わしました。警報が鳴ったので夜中に私たちは叩き起こされましたけれども、しかしそのおかげで、本当ならキャンセルできなかったものがキャンセルできるようになり、お金が戻って来ました。そして本当なら一緒に行く事がバラバラになる予定が、一緒に秋田に行く事ができました。
「マリア様は本当に私たちの心を、私たちの為、私たちの事を計らって下さる母だなぁ」という事を実感しました。マリア様は私たちが最も必要としていた事をよくご存知で、計らって下さったのです。台風さえも起こして、飛行機を混乱させてまでも、私たちの為に計らって下さいました。
では皆さん、今日どのような決心を立てたら良いでしょうか?
この世の儚いものではなくて、マリア様の方を見つめて、いつもマリア様と共に行動する、そしてマリア様の恵みの憐れみの玉座にいつも近寄っている、その全て、その元に、そしてマリア様が、「こうしなさい、こうやりなさい。私はあなたの母ですから。あなたの母ですよ」というのよく聞いて、マリア様の良き道具となるという事です。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。