アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様のお説教 「聖なる叙階の秘蹟について」(日本語訳)をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
2017年5月14日 大阪 御復活後第四主日の説教
聖なる叙階の秘蹟について
親愛なる兄弟の皆さん、
私たちは本日、主が「私は私を遣わされたお方のもとに行く」(ヨハネ16章5節)と言われたのを聞きました。聖福音の中で何回も、主はご自分について父から遣わされた者と言っておられます。また主はこう言われました。「父が私を送られたように、私もあなたたちを送る」(ヨハネ20章21節)。私たちの主イエズス・キリストは、主が御父から受けられたのと同じ任務、すなわち霊魂を救うという任務に使徒たちを送られました。「彼は罪から民を救う」(マテオ1章21節)。この理由で、主は使徒たちを司祭に、また司教にまで叙階なさいました。主は彼らにすぐに司祭職の充満をお与えになり、主の贖いの実を多くの人にもたらすように彼らを送られました。私たちが続けている秘蹟の勉強ですが、本日は聖なる叙階の秘蹟です。
聖トマス・アクィナスは、最初の五つの秘蹟は教会の中の各個人に必要なものだったが、最後の二つの秘蹟(聖なる叙階と婚姻)は教会の共通善のために必要である、と説明しています。一緒になって一つの社会となる民の集まりにおいては、この社会が良き秩序のもとにあるのを可能にするために権威が必要です。それゆえに、聖パウロはエフェゾに集まった小アジアの司教たちにこう言いました。「あなたたちは自分と群れ全体に気をつけなさい。聖霊は天主が御血をもって贖われた教会を牧するために、あなたたちを教会の司教と定められたのです」(使徒行録20章28節)。そして一人一人の司教の上 に、主は「兄弟たちを固める」(ルカ22章32節)特別な力を持つペトロとその後継者たちを置かれました。そのため、教会においては、教皇、司教、彼らの協働者である司祭、彼らの助け手である助祭や他の聖なる階級に、主によって与えられた天主付与の権威があるのです。
この権威の目的は何でしょうか? 聖パウロはこう言います。「大司祭はすべて人間の中から選ばれ、天主に関することについて人間のために叙階されている。それは罪を贖う供え物といけにえを捧げるためである」(ヘブライ5章1節)。まさに第一戒は天主の礼拝について取り扱っています。教会は本質的に、祈る教会です。それゆえに、司祭の第一の役割は礼拝であるというのは当然です。「すべての大司祭は供え物といけにえを捧げるために立てられている」(ヘブライ8章3節)。さて、新約における完全な礼拝は、私たちの主イエズス・キリストが十字架上で御父にお捧げになった完全ないけにえを捧げることにあります。この十字架上のいけにえを毎日更新するのが、ご受難の前日に私たちの主イエズス・キリストが制定されたミサの聖なるいけにえです。
それゆえに教会は、私たちの主イエズス・キリストがご聖体の秘蹟を制定された直後に、司祭職の秘蹟を制定され、主がいま行われたことを行う力を使徒たちにお与えになった、と教えています。トレント公会議はこう定義しました。「『私の記念としてこれを行え』という言葉によって、キリストは使徒たちを司祭としたのではなかったとか、使徒たちと他の司祭たちが、自分の体と血を捧げるように定めたのでもないと言う者は排斥される」(デンツィンガー1752)。使徒たちにご自分が行われたことを行うという任務をお与えになることで、主は彼らにそれを行う力を、すなわちパンを主の御体に、ぶどう酒を主の御血に変えて、それらを主が捧げられたように捧げる力を彼らにお与えになることが必要だったのです。
このように、司祭は何よりも第一に、いけにえの人、私たちの主イエズス・キリストの驚異的ないけにえの役職者なのです。このいけにえが最高の礼拝行為であり、これによって人類は天主に礼拝、感謝、償い、祈りの義務を果たすのです。司祭は「天主の人」(ティモテオ前書6章11節)、ご聖体の人であって、パンとぶどう酒をキリストの御体と御血に変え、生ける人と死せる人のためにそれを捧げ、信者たちにそれを配るという力を持っているのです。「私たちをキリストの役職者、また天主の奥義の管理者だと考えよ」(コリント前書4章1節)。そこから、司祭のすべての力および義務が流れ出してくるのです。
これから流れ出る第一の義務は、司祭は祈りの人でなければならない、ということです。司祭は自分のためだけでなく、民全体のために、全教会のためにも祈らなければならず、良き信者たちの聖化のためだけでなく、放蕩息子の帰還のため、すべての罪びとと未信者の回心のためにも祈らなければなりません。深い祈りの生活によって養われていない使徒職ならば、しばしば空しいものになってしまうでしょう。聖パウロが言うように、そのような司祭は「鳴る青銅と響き渡るどら」(コリント前書13章1節)となってしまうでしょう。それゆえに、教会は司祭に対して、毎日「聖務日課(Divine Office)」すなわち聖務日課書(breviary)を唱えるよう要求しています。聖務日課の本質部分は、一週間にわたって配分された百五十の詩篇で構成され、全詩篇が毎週唱えられるようになっています。この中心となる祈りに、教会は何世紀にもわたって、大部分が聖書から取られた賛歌、祈り、読誦、いろいろな詩句を加えてきました。これらの祈りや賛歌の中には、教会の最も初期から伝えられてきたものや、のちに聖人たちや聖なる教皇たちによって作られたものもあります。聖務日課を祈るのは、司祭にとって重大な義務です。一日の「小時課(small hours)」のうちの一つさえも省略することは、司祭にとって重大な罪です。司祭は毎日ミサを捧げるよう義務付けられてはいませんが、毎日聖務日課を唱えるよう義務付けられているのです。
聖ピオ十世が、聖務日課の百五十の詩篇を規則的に毎週唱えることを復興したのを知っておくのは有益です。聖ピオ十世以前は、理論的には百五十の詩篇があったものの、典礼法規の問題から実際にはほとんど使われていませんでした。多くの聖人の祝日には、「聖人の固有文」の詩篇の方がよく使われていたのであり、通常の週日の詩篇はそのためしばしば事実上省略されていました。そのため、聖ピオ十世は、一週間に百五十の詩篇を再配分し、ほとんどの聖人の祝日にも週日の詩篇を唱えることを義務としました。
その反対に、第二バチカン公会議は毎週百五十の詩篇を唱えるという素晴らしい原則を台無しにしてしまいました。一時課を廃止し、他の三つの小時課から二つを省略できるようにしました。朝課の詩篇の数を九から三に減らし、こうして百五十の詩篇を毎週唱えることを不可能にしたのです。今や、詩篇は一カ月に一度唱えられるだけであり、詩篇の中のいくつかの詩句はまったく唱えられません。ある司教は、「彼らは聖霊を非難した」!と言いました。省略されたこれらの詩句はすべて、罪に対する霊的な戦い、悪魔とこの世に対する霊的な戦いのことに触れているものです。それらの詩句は力強いものであり、そういう訳で近代主義者たちがそれらの詩句を好まないのです。しかし、その結果、現代の司祭たちは霊的に弱くなっており、本来戦うべき霊的な戦いを戦っていないのです。彼らはその司祭職によって、天主の軍隊の「大尉(キャプテン)」として立てられているのです。キャプテンが弱くなっているのなら、全軍隊が弱くなっており、こうして私たちは多くの戦線離脱者を見るのです。
ミサの典型は、司祭が助祭と副助祭、そして侍祭の助けを受ける荘厳ミサです。教会は実際、その始まりから、七つの段階、すなわち下級聖職と上級聖職を経て司祭になることを確立していました。四つの下級聖職があり、それらは守門、読師、祓魔師、侍祭です。三つの上級聖職があり、それらは副助祭、助祭、司祭です。最後の二つは聖書ではっきりと述べられていますが、残りは最も初期の教会に見られます。このように、七つの聖職位階(seven hierarchical orders)を構成することから、この秘蹟は「聖なる叙階の秘蹟(the Sacrament of Holy Orders)」と呼ばれてきました。教皇パウロ六世がすべての下級聖職と副助祭職を廃止したことが正しくなかったのは確かです。一人の教皇が、千七百年以上のカトリックの聖伝を廃止することなどできません! さらに、トレント公会議自身が、排斥文を使ってこう定義しました。「カトリック教会には司祭職以外に、司祭職への段階とも言える上位または下位の聖職階級はない、と言う者は排斥される」(デンツィンガー1772)。このように、下級聖職の存在それ自体が信仰の教義であるのは明らかです。それでは、一人の教皇がいかにしてそれを廃止することができるでしょうか?[できるはずがありません。]聖ピオ十世会のような聖伝の修道会においては、受けたものに忠実であるために、七つの聖職位階を守っています。実際、聖パウロはこう言いました。「私たちをキリストの役職者、また天主の奥義の管理者だと考えよ。管理者に要求されるのは忠実である」(コリント前書4章1-2節)。
司祭職へと向かうこれらの段階は「位階(hierarchy)」、すなわち教会における司祭の権威の系統を構成します。この司祭の権威の系統―位階―は、天主の制定によるものです。これについてトレント公会議はこう定義しました。「カトリック教会には天主の計画によって制定された司教、司祭および役職者から成り立つ聖職位階はない、と言う者は排斥される」(デンツィンガー1776)。司教たちはその頭に教皇を持っており、役職者たちは助祭や下級聖職から成っています。これが、カトリック教会の本質的な構造です。私たちの主イエズス・キリスト以来そうであったのであり、世の終わりまでそうであり続けるでしょう。この構造においては、権威は上からやって来るのであり、下からは来るのではありません。教会においては、司祭の位階、司祭の命令系統があります。このことは、司祭に従うのは信者の義務であるということを暗示しています。聖パウロは、これを明確に教えています。「指導者の言いつけを聞き、それに服従せよ。彼らは責任を問われる人として、あなたたちの霊魂を見張っているからである。彼らに不平を言わず、喜びをもって義務を果たさせよ。そうしなければ、あなたたちには何の利益もない」(ヘブライ13章17節)。
司祭はいけにえの人、ミサの聖なるいけにえを捧げる人であるため、十字架につけられた私たちの主イエズス・キリストに一致しなければならず、そのために、使徒たち自身の時代から、司祭は三つの福音的勧告の実践、特に貞潔の実践を要求されるという「使徒的基準」に従わなければなりませんでした。使徒たちの時代から、上位聖職の聖職者は、完全な禁欲が要求されていたのです。ですから、聖パウロはティモテオにこう言っています。「自分を清く守れ」(ティモテオ前書5章22節)。
初期の教会では、結婚している人が選ばれて司祭や司教になることがありました。そうすると彼らは完全な禁欲を受け入れるよう義務付けられました。ですから、聖ヒラリオがポワティエの司教に選ばれたとき、数年間結婚生活を送っていて女の赤ちゃんがいましたが、その後は完全な禁欲生活を受け入れて、そのあと妻は修道院に入りました。その小さな女の子が十三歳ぐらいに成長したとき、聖ヒラリオはアリウス派の皇帝によって流刑に処されていましたが、彼は娘に美しい内容の手紙を何通か送って、母親の(そして父親の)良き模範に倣い、キリストに童貞を奉献することによって完徳の生活を選ぶよう勧めました。独身の聖職者の方が前に結婚していた聖職者よりもこの完全な禁欲の義務に忠実であることが経験から分かったため、また聖アウグスティノの模範に従って、西方の教会は独身の候補者のみ(例外的に妻を亡くした人々)を叙階することを選んでおり、それゆえに独身の聖職者という制度を発展させました。この本質的な義務は完全な禁欲という義務であり、独身制がそれを確実にする最も良い方法であるということを思い起こさなければなりません。こんにち、完全な禁欲を要求されない「終身助祭」が叙階されていますが、これは悪いことです。これは使徒的基準に反し、教会の全聖伝に反します。教会はつまずきを与える聖職者たちの悪しき模範のために大変苦しんでいます。しかし、教会はまた、忠実な司祭たちの良き模範によって大きく徳を高められています。
ご聖体に責任を持つ司祭はまた、信者がそれを受けるための準備をさせる力も持っています。ですから、司祭は洗礼、悔悛、終油の秘蹟を授ける力を持っています。司祭は洗礼の秘蹟の通常の役職者ですが、緊急の必要に迫られた場合には、誰でも洗礼の特別な役職者になることができます。しかし、悔悛と終油の秘蹟では、役職者は司祭だけです。これらの秘蹟によって、司祭は、信者が聖なるものの中の聖なるもの、ご聖体のうちにまことに現存し給う私たちの主イエズス・キリストを受ける準備ができるよう、信者の霊魂を罪から清めるのです。
しかし、信者にご聖体を与える前に、司祭は教えによって信者に準備をさせなければなりません。ですから司祭は、教会で教える権威、説教する権威を持っているのです。そのため、司祭は教理の人、もちろん健全な教理の人でなければなりません! 健全な教理は信仰の遺産への忠実さを要求します。「ああ、ティモテオよ、あなたに委ねられたもの(「遺産」)を守れ、むなしい世間話と、偽学問の論争を避けよ」(ティモテオ前書6章20節)。司祭は聖パウロの模範に従わなければなりません。「私が第一にあなたたちに伝えたことは私自身受けたことである」(コリント前書15章3節)。
教え、説教するこのような権威を自分から持つことは誰にもできませんから、その人は選ばれ、派遣されなければなりません。聖パウロは実際、こう言います。「彼らはまだ聞かなかった者をどうして信じられよう。宣教する者がなければどうして聞けよう。遣わされなかったらどうして宣教できよう」(ローマ10章14-15節)。ですから、自分で自分を任命しているとするプロテスタントの牧師は、そのことによって聖パウロに排除されています! 主ご自身が使徒たちにこう言われました。「あなたたちが私を選んだのではなく、私があなたたちを選んだ。私があなたたちを立てたのは、あなたたちが行って実を結び、その実を残すためである」(ヨハネ15章16節)。マチアが[使徒に]選ばれたときでさえ、ペトロと使徒たちの権威のもとにそれが行われました。民が自分でそれを決めることはありませんでした! このように、教会においては、司祭たちは司教によって選ばれ、司教たちは通常、教皇によって選ばれるのです。彼らは決して自分で自分を選びはしません。
叙階の秘蹟の役職者は、新約における大司祭に似た司教です。司教は教区においてキリストの代理であり、他の司祭を叙階し、かつ堅振を授けるという特別な力を持っています。この秘蹟の質料は、司教による按手です。私たちはすでに旧約において、モーゼがヨシュアに按手して自分の権威を彼に伝え、彼を後継者にするのを見ます(民数記27章23節)。新約においては、私たちは、新しく選ばれた助祭たちに使徒たちが按手しているのを見ます(使徒行録6章6節)。また聖パウロとバルナバは、使徒(司教)として叙階されたとき、按手を受けています(使徒行録13章3節)。聖パウロはティモテオを次の言葉で励ましています。「預言によって、また司祭たちの按手によってあなたの受けている特別な恵みをないがしろにするな」(ティモテオ前書4章14節)。また彼はもう一度、ティモテオへの後の書簡で彼をこう励ましています。「私の按手によってあなたの受けた天主の恵みを再び燃え上がらせるようにと勧める」(ティモテオ後書1章6節)。そして最後に、聖パウロはティモテオにこう警告しました。「軽率に人に按手するな。他人の罪にあずかるな」(ティモテオ前書5章22節)。実際、司教が司祭にふさわしくない候補者を叙階するとしたら、司教は彼らが引き起こすであろうスキャンダルの責任をとらなければならないことでしょう。この按手は非常に荘厳です。司教は最初に按手し(これが秘蹟の質料に欠かせない部分です)、その後、両手を広げたままにしています。その間、その場にいるすべての司祭が司祭の叙階をうける候補者たちに按手し、司教と同じく両手を広げます。その後、司教は聖別の序誦を歌いますが、その序誦の中に、秘蹟の形相を構成する言葉があるのです。
叙階式はまた、「生ける人と死せる人のためにミサのいけにえを捧げる」力や、罪を赦す力を授けるといった、他の多くの重要な要素をも含んでいます。事実、これらの力は按手の瞬間に与えられるのですが、教会は、これらの儀式を追加することによって秘蹟の豊かさを明白に表しているのです。これらの儀式は素晴らしい教えであって、叙階の候補者と出席する信者の両方の信心を養うのです。
洗礼や堅振と同じように、叙階の秘蹟は霊魂に印章、すなわち永遠に残る消すことのできないしるしを授与します。このしるしは、天国で忠実な役職者としての誉れとなるか、地獄で忠実でない役職者としての大きな恥となるかのどちらかです。この印章は、司祭が秘蹟、特にご聖体の秘蹟[ミサ]を有効に執行するために必要とされるものです。実際、教会は司祭に聖性が必要であることを大変強く主張していますが、教会はまた、ふさわしくない司祭がいたとしても、少なくともその司祭が教会の典礼を正しく行う限り、その司祭の行う秘蹟は有効であり続けると教えています。これは信者の善のためであって、信者が天主の恩寵を受けるという保証を持てるようにするためです。もし信者が知ることのできない司祭の内的なふさわしさに依存しないと、信者がこの保証を持てないとしたら、教会と多くの人々の霊的生活が大変不安定なものになってしまうことでしょう。しかし、司祭が教会の典礼を変更し、新しい教理を説教し始めるとき、司祭は信者にひどい害を与えることができます。そうすると羊たちはしばしば、もはや善き牧者の声を聞き分けられなくなります。羊たちは混乱に陥り、散り散りになります。これは、一九六〇年代後半の初めから一九七〇年代の初めにかけて、新典礼導入とともに起きてきたことです。
それゆえに、司祭のために祈ることが信者には大いに必要です。信者は祈りによって、自分たちにふさわしい司祭を持つでしょう。司祭は信者のために祈るよう聖務によって義務付けられており、司祭は一人で多くの人々のために祈るのです。信者は司祭のために祈るよう愛徳によって義務付けられており、信者は多くで一人のために祈るのです! 私たちは皆、聖職者の聖化のために祈る必要があり、聖職者の聖化のために特に聖母に祈る必要があります。聖母が司祭たちのために、信仰と道徳における純粋さという恩寵、および天主の栄光と霊魂の救いへの熱意を取り成してくださるように。
多くの聖なる召命のために祈ることも大いに必要です。実際、聖ビンセンチオ・ア・パウロは、悪しき司祭を改善するよりも新しい良き司祭をつくる方が簡単である、と言いました。第二バチカン公会議の後、大変深刻な召命の危機が続いてきていますが、それはとりわけ典礼の変更の結果でした。司祭がもはやいけにえの人でなかったとしたら、司祭はその目的そのものを失ってしまい、別の目的を探し求めましたが、そのような目的では司祭は生涯いけにえを捧げ続けることができなかったのです。それゆえに、多くの司祭が脱落してしまったのです。社会活動家になるために司祭になる必要はありませんでした。社会活動家になるには禁欲は必要ありませんでした。それゆえに、多くの人は司祭職の義務を耐えられないものと感じました。ミサの聖なるいけにえという中心を失ったからです。そのため、召命の数が大きく減っているのです。その反対に、教会の聖伝への忠実があるところでは、召命の復興があります。しかし、そのためには、良きかつ聖なる司祭を求める熱心な祈りをたくさん必要とするのです。
聖トマス・アクィナスは、司教は完徳を要求される義務に荘厳に奉献されているがゆえに「完徳の状態」にある、と言っています。もっと低いレベルでは、このことは司祭にも当てはまります。それゆえに、司祭は完徳へと向かうよう厳しく義務付けられており、それは修道士が誓願によって完徳へ向かうよう義務付けられている以上にそうなのです。司祭はふさわしい方法でその役職を果たすことができるよう、皆さんの祈りによる助けを必要としています。私たちは、聖パウロが自分のために祈ってくれるよう信者たちに願っているのを見ます。「だから兄弟たちよ、主イエズス・キリストによって、また聖霊の愛によって、私のために天主に祈って助けてくれるよう願う」(ローマ15章30節)。
ですから親愛なる信者の皆さん、どうか私と聖ピオ十世会のすべての司祭たちのために祈ってください。私たちが「天主の奥義の忠実な管理者」として、天主に対する義務、そして皆さんの聖化のために皆さんに対する義務に忠実でありますように。特に、大司祭[なるキリスト]の御母にしてすべての司祭の母である童貞聖マリアに対して、私たちのために、私たちが必要とするすべての恩寵を取り成してくださるよう祈ってください。そうすることで、私たちが皆さんとともに天国へ行くことができますように。アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様のお説教 「聖なる叙階の秘蹟について」(日本語訳)をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
2017年5月14日 大阪 御復活後第四主日の説教
聖なる叙階の秘蹟について
親愛なる兄弟の皆さん、
私たちは本日、主が「私は私を遣わされたお方のもとに行く」(ヨハネ16章5節)と言われたのを聞きました。聖福音の中で何回も、主はご自分について父から遣わされた者と言っておられます。また主はこう言われました。「父が私を送られたように、私もあなたたちを送る」(ヨハネ20章21節)。私たちの主イエズス・キリストは、主が御父から受けられたのと同じ任務、すなわち霊魂を救うという任務に使徒たちを送られました。「彼は罪から民を救う」(マテオ1章21節)。この理由で、主は使徒たちを司祭に、また司教にまで叙階なさいました。主は彼らにすぐに司祭職の充満をお与えになり、主の贖いの実を多くの人にもたらすように彼らを送られました。私たちが続けている秘蹟の勉強ですが、本日は聖なる叙階の秘蹟です。
聖トマス・アクィナスは、最初の五つの秘蹟は教会の中の各個人に必要なものだったが、最後の二つの秘蹟(聖なる叙階と婚姻)は教会の共通善のために必要である、と説明しています。一緒になって一つの社会となる民の集まりにおいては、この社会が良き秩序のもとにあるのを可能にするために権威が必要です。それゆえに、聖パウロはエフェゾに集まった小アジアの司教たちにこう言いました。「あなたたちは自分と群れ全体に気をつけなさい。聖霊は天主が御血をもって贖われた教会を牧するために、あなたたちを教会の司教と定められたのです」(使徒行録20章28節)。そして一人一人の司教の上 に、主は「兄弟たちを固める」(ルカ22章32節)特別な力を持つペトロとその後継者たちを置かれました。そのため、教会においては、教皇、司教、彼らの協働者である司祭、彼らの助け手である助祭や他の聖なる階級に、主によって与えられた天主付与の権威があるのです。
この権威の目的は何でしょうか? 聖パウロはこう言います。「大司祭はすべて人間の中から選ばれ、天主に関することについて人間のために叙階されている。それは罪を贖う供え物といけにえを捧げるためである」(ヘブライ5章1節)。まさに第一戒は天主の礼拝について取り扱っています。教会は本質的に、祈る教会です。それゆえに、司祭の第一の役割は礼拝であるというのは当然です。「すべての大司祭は供え物といけにえを捧げるために立てられている」(ヘブライ8章3節)。さて、新約における完全な礼拝は、私たちの主イエズス・キリストが十字架上で御父にお捧げになった完全ないけにえを捧げることにあります。この十字架上のいけにえを毎日更新するのが、ご受難の前日に私たちの主イエズス・キリストが制定されたミサの聖なるいけにえです。
それゆえに教会は、私たちの主イエズス・キリストがご聖体の秘蹟を制定された直後に、司祭職の秘蹟を制定され、主がいま行われたことを行う力を使徒たちにお与えになった、と教えています。トレント公会議はこう定義しました。「『私の記念としてこれを行え』という言葉によって、キリストは使徒たちを司祭としたのではなかったとか、使徒たちと他の司祭たちが、自分の体と血を捧げるように定めたのでもないと言う者は排斥される」(デンツィンガー1752)。使徒たちにご自分が行われたことを行うという任務をお与えになることで、主は彼らにそれを行う力を、すなわちパンを主の御体に、ぶどう酒を主の御血に変えて、それらを主が捧げられたように捧げる力を彼らにお与えになることが必要だったのです。
このように、司祭は何よりも第一に、いけにえの人、私たちの主イエズス・キリストの驚異的ないけにえの役職者なのです。このいけにえが最高の礼拝行為であり、これによって人類は天主に礼拝、感謝、償い、祈りの義務を果たすのです。司祭は「天主の人」(ティモテオ前書6章11節)、ご聖体の人であって、パンとぶどう酒をキリストの御体と御血に変え、生ける人と死せる人のためにそれを捧げ、信者たちにそれを配るという力を持っているのです。「私たちをキリストの役職者、また天主の奥義の管理者だと考えよ」(コリント前書4章1節)。そこから、司祭のすべての力および義務が流れ出してくるのです。
これから流れ出る第一の義務は、司祭は祈りの人でなければならない、ということです。司祭は自分のためだけでなく、民全体のために、全教会のためにも祈らなければならず、良き信者たちの聖化のためだけでなく、放蕩息子の帰還のため、すべての罪びとと未信者の回心のためにも祈らなければなりません。深い祈りの生活によって養われていない使徒職ならば、しばしば空しいものになってしまうでしょう。聖パウロが言うように、そのような司祭は「鳴る青銅と響き渡るどら」(コリント前書13章1節)となってしまうでしょう。それゆえに、教会は司祭に対して、毎日「聖務日課(Divine Office)」すなわち聖務日課書(breviary)を唱えるよう要求しています。聖務日課の本質部分は、一週間にわたって配分された百五十の詩篇で構成され、全詩篇が毎週唱えられるようになっています。この中心となる祈りに、教会は何世紀にもわたって、大部分が聖書から取られた賛歌、祈り、読誦、いろいろな詩句を加えてきました。これらの祈りや賛歌の中には、教会の最も初期から伝えられてきたものや、のちに聖人たちや聖なる教皇たちによって作られたものもあります。聖務日課を祈るのは、司祭にとって重大な義務です。一日の「小時課(small hours)」のうちの一つさえも省略することは、司祭にとって重大な罪です。司祭は毎日ミサを捧げるよう義務付けられてはいませんが、毎日聖務日課を唱えるよう義務付けられているのです。
聖ピオ十世が、聖務日課の百五十の詩篇を規則的に毎週唱えることを復興したのを知っておくのは有益です。聖ピオ十世以前は、理論的には百五十の詩篇があったものの、典礼法規の問題から実際にはほとんど使われていませんでした。多くの聖人の祝日には、「聖人の固有文」の詩篇の方がよく使われていたのであり、通常の週日の詩篇はそのためしばしば事実上省略されていました。そのため、聖ピオ十世は、一週間に百五十の詩篇を再配分し、ほとんどの聖人の祝日にも週日の詩篇を唱えることを義務としました。
その反対に、第二バチカン公会議は毎週百五十の詩篇を唱えるという素晴らしい原則を台無しにしてしまいました。一時課を廃止し、他の三つの小時課から二つを省略できるようにしました。朝課の詩篇の数を九から三に減らし、こうして百五十の詩篇を毎週唱えることを不可能にしたのです。今や、詩篇は一カ月に一度唱えられるだけであり、詩篇の中のいくつかの詩句はまったく唱えられません。ある司教は、「彼らは聖霊を非難した」!と言いました。省略されたこれらの詩句はすべて、罪に対する霊的な戦い、悪魔とこの世に対する霊的な戦いのことに触れているものです。それらの詩句は力強いものであり、そういう訳で近代主義者たちがそれらの詩句を好まないのです。しかし、その結果、現代の司祭たちは霊的に弱くなっており、本来戦うべき霊的な戦いを戦っていないのです。彼らはその司祭職によって、天主の軍隊の「大尉(キャプテン)」として立てられているのです。キャプテンが弱くなっているのなら、全軍隊が弱くなっており、こうして私たちは多くの戦線離脱者を見るのです。
ミサの典型は、司祭が助祭と副助祭、そして侍祭の助けを受ける荘厳ミサです。教会は実際、その始まりから、七つの段階、すなわち下級聖職と上級聖職を経て司祭になることを確立していました。四つの下級聖職があり、それらは守門、読師、祓魔師、侍祭です。三つの上級聖職があり、それらは副助祭、助祭、司祭です。最後の二つは聖書ではっきりと述べられていますが、残りは最も初期の教会に見られます。このように、七つの聖職位階(seven hierarchical orders)を構成することから、この秘蹟は「聖なる叙階の秘蹟(the Sacrament of Holy Orders)」と呼ばれてきました。教皇パウロ六世がすべての下級聖職と副助祭職を廃止したことが正しくなかったのは確かです。一人の教皇が、千七百年以上のカトリックの聖伝を廃止することなどできません! さらに、トレント公会議自身が、排斥文を使ってこう定義しました。「カトリック教会には司祭職以外に、司祭職への段階とも言える上位または下位の聖職階級はない、と言う者は排斥される」(デンツィンガー1772)。このように、下級聖職の存在それ自体が信仰の教義であるのは明らかです。それでは、一人の教皇がいかにしてそれを廃止することができるでしょうか?[できるはずがありません。]聖ピオ十世会のような聖伝の修道会においては、受けたものに忠実であるために、七つの聖職位階を守っています。実際、聖パウロはこう言いました。「私たちをキリストの役職者、また天主の奥義の管理者だと考えよ。管理者に要求されるのは忠実である」(コリント前書4章1-2節)。
司祭職へと向かうこれらの段階は「位階(hierarchy)」、すなわち教会における司祭の権威の系統を構成します。この司祭の権威の系統―位階―は、天主の制定によるものです。これについてトレント公会議はこう定義しました。「カトリック教会には天主の計画によって制定された司教、司祭および役職者から成り立つ聖職位階はない、と言う者は排斥される」(デンツィンガー1776)。司教たちはその頭に教皇を持っており、役職者たちは助祭や下級聖職から成っています。これが、カトリック教会の本質的な構造です。私たちの主イエズス・キリスト以来そうであったのであり、世の終わりまでそうであり続けるでしょう。この構造においては、権威は上からやって来るのであり、下からは来るのではありません。教会においては、司祭の位階、司祭の命令系統があります。このことは、司祭に従うのは信者の義務であるということを暗示しています。聖パウロは、これを明確に教えています。「指導者の言いつけを聞き、それに服従せよ。彼らは責任を問われる人として、あなたたちの霊魂を見張っているからである。彼らに不平を言わず、喜びをもって義務を果たさせよ。そうしなければ、あなたたちには何の利益もない」(ヘブライ13章17節)。
司祭はいけにえの人、ミサの聖なるいけにえを捧げる人であるため、十字架につけられた私たちの主イエズス・キリストに一致しなければならず、そのために、使徒たち自身の時代から、司祭は三つの福音的勧告の実践、特に貞潔の実践を要求されるという「使徒的基準」に従わなければなりませんでした。使徒たちの時代から、上位聖職の聖職者は、完全な禁欲が要求されていたのです。ですから、聖パウロはティモテオにこう言っています。「自分を清く守れ」(ティモテオ前書5章22節)。
初期の教会では、結婚している人が選ばれて司祭や司教になることがありました。そうすると彼らは完全な禁欲を受け入れるよう義務付けられました。ですから、聖ヒラリオがポワティエの司教に選ばれたとき、数年間結婚生活を送っていて女の赤ちゃんがいましたが、その後は完全な禁欲生活を受け入れて、そのあと妻は修道院に入りました。その小さな女の子が十三歳ぐらいに成長したとき、聖ヒラリオはアリウス派の皇帝によって流刑に処されていましたが、彼は娘に美しい内容の手紙を何通か送って、母親の(そして父親の)良き模範に倣い、キリストに童貞を奉献することによって完徳の生活を選ぶよう勧めました。独身の聖職者の方が前に結婚していた聖職者よりもこの完全な禁欲の義務に忠実であることが経験から分かったため、また聖アウグスティノの模範に従って、西方の教会は独身の候補者のみ(例外的に妻を亡くした人々)を叙階することを選んでおり、それゆえに独身の聖職者という制度を発展させました。この本質的な義務は完全な禁欲という義務であり、独身制がそれを確実にする最も良い方法であるということを思い起こさなければなりません。こんにち、完全な禁欲を要求されない「終身助祭」が叙階されていますが、これは悪いことです。これは使徒的基準に反し、教会の全聖伝に反します。教会はつまずきを与える聖職者たちの悪しき模範のために大変苦しんでいます。しかし、教会はまた、忠実な司祭たちの良き模範によって大きく徳を高められています。
ご聖体に責任を持つ司祭はまた、信者がそれを受けるための準備をさせる力も持っています。ですから、司祭は洗礼、悔悛、終油の秘蹟を授ける力を持っています。司祭は洗礼の秘蹟の通常の役職者ですが、緊急の必要に迫られた場合には、誰でも洗礼の特別な役職者になることができます。しかし、悔悛と終油の秘蹟では、役職者は司祭だけです。これらの秘蹟によって、司祭は、信者が聖なるものの中の聖なるもの、ご聖体のうちにまことに現存し給う私たちの主イエズス・キリストを受ける準備ができるよう、信者の霊魂を罪から清めるのです。
しかし、信者にご聖体を与える前に、司祭は教えによって信者に準備をさせなければなりません。ですから司祭は、教会で教える権威、説教する権威を持っているのです。そのため、司祭は教理の人、もちろん健全な教理の人でなければなりません! 健全な教理は信仰の遺産への忠実さを要求します。「ああ、ティモテオよ、あなたに委ねられたもの(「遺産」)を守れ、むなしい世間話と、偽学問の論争を避けよ」(ティモテオ前書6章20節)。司祭は聖パウロの模範に従わなければなりません。「私が第一にあなたたちに伝えたことは私自身受けたことである」(コリント前書15章3節)。
教え、説教するこのような権威を自分から持つことは誰にもできませんから、その人は選ばれ、派遣されなければなりません。聖パウロは実際、こう言います。「彼らはまだ聞かなかった者をどうして信じられよう。宣教する者がなければどうして聞けよう。遣わされなかったらどうして宣教できよう」(ローマ10章14-15節)。ですから、自分で自分を任命しているとするプロテスタントの牧師は、そのことによって聖パウロに排除されています! 主ご自身が使徒たちにこう言われました。「あなたたちが私を選んだのではなく、私があなたたちを選んだ。私があなたたちを立てたのは、あなたたちが行って実を結び、その実を残すためである」(ヨハネ15章16節)。マチアが[使徒に]選ばれたときでさえ、ペトロと使徒たちの権威のもとにそれが行われました。民が自分でそれを決めることはありませんでした! このように、教会においては、司祭たちは司教によって選ばれ、司教たちは通常、教皇によって選ばれるのです。彼らは決して自分で自分を選びはしません。
叙階の秘蹟の役職者は、新約における大司祭に似た司教です。司教は教区においてキリストの代理であり、他の司祭を叙階し、かつ堅振を授けるという特別な力を持っています。この秘蹟の質料は、司教による按手です。私たちはすでに旧約において、モーゼがヨシュアに按手して自分の権威を彼に伝え、彼を後継者にするのを見ます(民数記27章23節)。新約においては、私たちは、新しく選ばれた助祭たちに使徒たちが按手しているのを見ます(使徒行録6章6節)。また聖パウロとバルナバは、使徒(司教)として叙階されたとき、按手を受けています(使徒行録13章3節)。聖パウロはティモテオを次の言葉で励ましています。「預言によって、また司祭たちの按手によってあなたの受けている特別な恵みをないがしろにするな」(ティモテオ前書4章14節)。また彼はもう一度、ティモテオへの後の書簡で彼をこう励ましています。「私の按手によってあなたの受けた天主の恵みを再び燃え上がらせるようにと勧める」(ティモテオ後書1章6節)。そして最後に、聖パウロはティモテオにこう警告しました。「軽率に人に按手するな。他人の罪にあずかるな」(ティモテオ前書5章22節)。実際、司教が司祭にふさわしくない候補者を叙階するとしたら、司教は彼らが引き起こすであろうスキャンダルの責任をとらなければならないことでしょう。この按手は非常に荘厳です。司教は最初に按手し(これが秘蹟の質料に欠かせない部分です)、その後、両手を広げたままにしています。その間、その場にいるすべての司祭が司祭の叙階をうける候補者たちに按手し、司教と同じく両手を広げます。その後、司教は聖別の序誦を歌いますが、その序誦の中に、秘蹟の形相を構成する言葉があるのです。
叙階式はまた、「生ける人と死せる人のためにミサのいけにえを捧げる」力や、罪を赦す力を授けるといった、他の多くの重要な要素をも含んでいます。事実、これらの力は按手の瞬間に与えられるのですが、教会は、これらの儀式を追加することによって秘蹟の豊かさを明白に表しているのです。これらの儀式は素晴らしい教えであって、叙階の候補者と出席する信者の両方の信心を養うのです。
洗礼や堅振と同じように、叙階の秘蹟は霊魂に印章、すなわち永遠に残る消すことのできないしるしを授与します。このしるしは、天国で忠実な役職者としての誉れとなるか、地獄で忠実でない役職者としての大きな恥となるかのどちらかです。この印章は、司祭が秘蹟、特にご聖体の秘蹟[ミサ]を有効に執行するために必要とされるものです。実際、教会は司祭に聖性が必要であることを大変強く主張していますが、教会はまた、ふさわしくない司祭がいたとしても、少なくともその司祭が教会の典礼を正しく行う限り、その司祭の行う秘蹟は有効であり続けると教えています。これは信者の善のためであって、信者が天主の恩寵を受けるという保証を持てるようにするためです。もし信者が知ることのできない司祭の内的なふさわしさに依存しないと、信者がこの保証を持てないとしたら、教会と多くの人々の霊的生活が大変不安定なものになってしまうことでしょう。しかし、司祭が教会の典礼を変更し、新しい教理を説教し始めるとき、司祭は信者にひどい害を与えることができます。そうすると羊たちはしばしば、もはや善き牧者の声を聞き分けられなくなります。羊たちは混乱に陥り、散り散りになります。これは、一九六〇年代後半の初めから一九七〇年代の初めにかけて、新典礼導入とともに起きてきたことです。
それゆえに、司祭のために祈ることが信者には大いに必要です。信者は祈りによって、自分たちにふさわしい司祭を持つでしょう。司祭は信者のために祈るよう聖務によって義務付けられており、司祭は一人で多くの人々のために祈るのです。信者は司祭のために祈るよう愛徳によって義務付けられており、信者は多くで一人のために祈るのです! 私たちは皆、聖職者の聖化のために祈る必要があり、聖職者の聖化のために特に聖母に祈る必要があります。聖母が司祭たちのために、信仰と道徳における純粋さという恩寵、および天主の栄光と霊魂の救いへの熱意を取り成してくださるように。
多くの聖なる召命のために祈ることも大いに必要です。実際、聖ビンセンチオ・ア・パウロは、悪しき司祭を改善するよりも新しい良き司祭をつくる方が簡単である、と言いました。第二バチカン公会議の後、大変深刻な召命の危機が続いてきていますが、それはとりわけ典礼の変更の結果でした。司祭がもはやいけにえの人でなかったとしたら、司祭はその目的そのものを失ってしまい、別の目的を探し求めましたが、そのような目的では司祭は生涯いけにえを捧げ続けることができなかったのです。それゆえに、多くの司祭が脱落してしまったのです。社会活動家になるために司祭になる必要はありませんでした。社会活動家になるには禁欲は必要ありませんでした。それゆえに、多くの人は司祭職の義務を耐えられないものと感じました。ミサの聖なるいけにえという中心を失ったからです。そのため、召命の数が大きく減っているのです。その反対に、教会の聖伝への忠実があるところでは、召命の復興があります。しかし、そのためには、良きかつ聖なる司祭を求める熱心な祈りをたくさん必要とするのです。
聖トマス・アクィナスは、司教は完徳を要求される義務に荘厳に奉献されているがゆえに「完徳の状態」にある、と言っています。もっと低いレベルでは、このことは司祭にも当てはまります。それゆえに、司祭は完徳へと向かうよう厳しく義務付けられており、それは修道士が誓願によって完徳へ向かうよう義務付けられている以上にそうなのです。司祭はふさわしい方法でその役職を果たすことができるよう、皆さんの祈りによる助けを必要としています。私たちは、聖パウロが自分のために祈ってくれるよう信者たちに願っているのを見ます。「だから兄弟たちよ、主イエズス・キリストによって、また聖霊の愛によって、私のために天主に祈って助けてくれるよう願う」(ローマ15章30節)。
ですから親愛なる信者の皆さん、どうか私と聖ピオ十世会のすべての司祭たちのために祈ってください。私たちが「天主の奥義の忠実な管理者」として、天主に対する義務、そして皆さんの聖化のために皆さんに対する義務に忠実でありますように。特に、大司祭[なるキリスト]の御母にしてすべての司祭の母である童貞聖マリアに対して、私たちのために、私たちが必要とするすべての恩寵を取り成してくださるよう祈ってください。そうすることで、私たちが皆さんとともに天国へ行くことができますように。アーメン。