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ファチマ2017へ向けて(XV)パート1 子供たち―ファチマの生ける注釈

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パート1  子供たち―ファチマの生ける注釈

聖母が三人の子供たちにご出現になったあとの三人の生き方は、私たちのために天から与えられた間接的な教えであり、とても実践的な教えなのです。その生き方は、天が地上に現れるとき、地上のものは天の光によって変容されるということを教えてくれます。聖母が人間に御出現になるとき、その人は聖母の光と御恵みを委ねられたうつわとなります。その人はうつわとして、聖母がこの世に御恵みと御あわれみを注ぎ続けられるための道具となります。私たちは、フアン・ディエゴなくしてグアダルーペを十分に理解することはできませんし、聖ベルナデッタなくしてルルドを十分に理解することはできないのです。

その幻視者たちによる目撃証言が重要であるだけでなく、彼らの言葉、とりわけその生き方もまた重要です。彼らは、聖母が地上に来られたことを鏡のように映し出しているのです!

聖母と聖母のメッセージについてのこれらの生ける証拠は、私たちにとって非常に重要です。というのは、私たちは聖母御自身を見ることができませんが、幻視者たちを、聖母を映し出しているものとして見ることができるからです。子供たちがファチマの聖母の頼みを完全に適用して実現させたのですから、私たちは、ファチマの霊性および聖母の汚れなき御心の最も深遠な目的を真に理解する鍵として、聖母のメッセージについての彼らの模範および理解を使うことができるのです。

私たちは、聖母がご自分の特権を受けた子供として、非常に異なっていて対照的でさえある性格の者たちをどのようにして選ばれたのかを見ることができます。聖母はご自分のメッセージのいろいろな側面を明らかにするために、異なる役割で子供たちをお使いになったのです。ヤシンタは非常に活発な少女で、竜巻のようなエネルギーを持っている子であり、三人の子供たちの中で最も元気がよく、他の二人の心を捉えて引っ張っていくことができた子でした。フランシスコはそれと反対で、非常に穏やかで、孤独と内省を好む粘液質の性格だったといえます。ルチアは誠実な証人が持つ特質のすべて、つまり完全な慎重さ、優れた記憶力、細部についての感覚、特に正直さという深い感覚を兼ね備えていました。


第1章 「天主をお慰めすること」―福者フランシスコ

聖母がファチマに御出現になったとき、フランシスコは聖母を見ることはできましたが、聖母が話されるのを聞くことはできなかったということはとても重要です。一つ一つの御出現の後に、ルチアとヤシンタは、聖母が話されたことをフランシスコに教えなければなりませんでした。このようにして聖母は、フランシスコを異なる種類の証人となさったのです。孤独の内に観想する習慣があったため、フランシスコは自分が見たものについて非常に深い方法で考えることができ、他の二人の子供たちが聞いた会話によって気を散らされることがありませんでした。彼は、御出現それ自体の観想に完全に集中することができました。ですから、これはまさに天主の御摂理の目的でした。この天主の御計画のおかげで、フランシスコには幻視そのものを最も深く理解することのできる能力がありました。

御出現の間、彼は何に最も深く印象付けられたでしょうか?

「僕は天使に会うのが好きでした、でも聖母にお会いする方がもっと好きです。僕がとりわけ好きだったのは、僕たちの心臓をつらぬいた、聖母から来る光で主を見ることでした。僕は、ものすごく天主様を愛しています! けれど、天主様はあまりにも多くの罪が犯されているのでとても悲しんでおられます! 僕たちは、もう二度と決して罪を犯してはいけません」。

「・・・天主様とは何でしょうか? 僕たちは決して言葉では表現できません。そうです、天主様は決して表現することができない本当の何かです! けれども、天主様がとても悲しんでおられるとは、何と残念なことでしょう! 僕が天主様をお慰めすることさえできれば!」。

「天主をお慰めする」というテーマが彼の短い人生の中で非常に大きな部分を占めているので、そのことが何か彼の霊性全体、考え・言葉・行動の中心となったようでした。

「フランシスコ、どちらが好きなの? 天主様をお慰めすることか、これ以上霊魂が地獄に落ちないように罪人を回心させることか?」―「僕は天主様をお慰めする方です。気がつかなかった? 先月聖母が、人々はもうこれ以上主に背いてはいけません、すでに主はあまりにも背かれているのですから、と話されたとき、聖母がどれほど悲しんでおられたかを。僕は主をお慰めしたい、そしてそのあとで、もうこれ以上主に背かないように罪人を回心させるんだ!」。

フランシスコは自分がどのように天主をお慰めすると考えていたのでしょうか?

ルチアは書いています。「彼はほとんど話しませんでしたし、祈ったり犠牲をお捧げしたりするときはいつも、ヤシンタと私からさえ離れて隠れるのを好みました。本当によく、私たちは壁やブラックベリーの茂みの後ろに隠れている彼を驚かせました。彼はそのようなところへ巧妙に抜け出して、跪いて祈っていたりしましたし、また『非常にたくさんの罪のせいで悲しまれている主のことを考える』とよく言っていました」。

「私が彼に『フランシスコ、なぜ私に一緒に祈って頂戴と頼まないの? ヤシンタにも?』と尋ねると-『僕は自分で祈る方が好きなんだ、そうすればすごく悲しまれている主のことを考え、主をお慰めすることができるんだ』と話しました」。

しかし、祈りは一つの面にしか過ぎません。私たちの苦しみにおいて天主をお慰めしようとするならば、私たちはもっと多くのことをもすることができます。

時々、フランシスコは言ったものです。「聖母は、僕たちがたくさん苦しむでしょうと話されたけれど、僕はかまわない。聖母が望まれるすべてを僕は苦しむつもりだよ。僕が望むのは天国へ行くことなんだ」。

そしてルチアは言いました。「ある日、家族の中でも外でも迫害が起こりはじめたことで、どんなに自分が不幸せかについて私が伝えたとき、フランシスコはこんな言葉で私を元気づけようとしてくれたの。『気にするな! 聖母は言われなかったかい、主と聖母の汚れなき御心に対して犯されるすべての罪のために、僕たちはたくさん苦しみ、たくさん償いをしなければならないってことを。お二方は、たいへんお悲しみなんだよ! この犠牲でお二方をお慰めすることができるのなら、僕たちはどれほど幸せだろうか』」。

フランシスコは、ルチアとヤシンタに話したそのことを自分で経験しました。特に死ぬまで続いた彼の長きにわたる病気の間に。

「私は、時々彼に尋ねました。『たいそう苦しいの? フランシスコ?』―『かなりね、でも全然気にしなくていいよ! 僕は主をお慰めするために苦しんでいるんだし、そのあとすぐに天国に行くんだから!』」。

彼は「永遠に天主をお慰めする」ことができる場所としてしか、天国を想像することができませんでした。

「僕が天国に行くまで、もう長くないんだ。そこに行ったら、僕はものすごく主と聖母をお慰めするつもりだよ」。

そして、彼の最後の言葉はこうでした。「うん、僕は祈るね。でも気を付けていてね、君が僕の代わりにヤシンタにそのことを祈ってくれるように頼んでね、僕は主にお会いしたら忘れるんじゃないかと心配だから。主にお会いしたとき、僕は他のどんなことよりも主をお慰めしたいんだ」。

フランシスコが1919年4月4日に死んだとき、彼の両親は宣言しました。「フランシスコはほほ笑みながら亡くなりました!」。


解説

1. 天主―私たちの唯一にして全てである御方

ファチマのメッセージのまさに中心が天主御自身、すなわち天主の栄光と、被造物が当然捧げるべき天主への礼拝であるということは、天使と聖母の御出現から既にはっきりとしています。今日の世界は、天主の無限の尊厳と圧倒するような御稜威についての感覚を完全に失ってしまっています。実際は、天主の御前では、すべての被造物は「無」であって、無限に広がる大海原の中の一滴のしずくのようなものですらありません。世界の歴史は、その創造の初めから時の終わりまで存在しますが、天主の永遠の前では、何百万年に対する一秒にも満たないものです。諸聖人は、私たちが天主の御前では塵のようなものであり、それゆえに諸聖人は出来うる限り謙遜にする、ということを私たちが知るように教えています。これがまさしく、御出現の間のフランシスコの最も驚くべき神秘的な体験でした。「天主様とは何でしょうか? 僕たちは決して言葉では表現できません。そうです、天主様は決して表現することができない本当の何かです!」。

フランシスコは天主の圧倒的な御稜威に非常に心を奪われていたため、死んだあと「天主にお会いしに」行くときに、ルチアと人々の頼みを忘れてしまうのではないかと怖れていました。私たちは、まことの霊的生活および天主御自身とのまことの関係に必要である同じようなお恵みを聖母にお願いしなければなりません。それは、聖なる御ミサの栄光誦で私たちが歌うように― propter magnam gloriam tuam [御身の大いなる栄光のために]―、また天主の御稜威の御前で聖なるおののきで震える天使たち(御ミサの序誦)のように、天主の大いなる栄光への讃美で満ちていることです。すべての被造物がまったくの無であること、また人間が自分のちっぽけな個性や取るに足らない歴史で思いあがって人間と人間の関心事を世界の中心とみなす時にそれがどれほどばかげたことかを、天主の無限の大きさが私たちに教えています。天主のこの無限の御稜威は、黙想すべき信仰の真理であるだけでなく、聖パウロの言うように「満ち満ちる天主によって満たされる」ために、天主の偉大さにあずかるようにとの招きでもあるのです。フランシスコが知っていたのは、自分の人生に与えられたこの目的だけでした。かつて彼が将来何になるのと聞かれたときに、いつも繰り返して答えていました。「僕は何にもなりたくない! 僕は死んで天国にいきたい!」と。でも、彼にとって、天国とはまず第一に「天主にお会いすること」であって、天主を永遠に愛することでした。小さなフランシスコは、その保護聖人である偉大なる聖フランシスコのモットーを文字通りに実現したのです、「Deus meus et omnia-わが天主、わがすべてよ!」と。


2. 唯一のまことの悪―罪

天主を無限の御稜威および終わりなき愛として見ることによって、フランシスコは罪の真の様相を理解しました。ファチマは、罪が本当は何であり、また罪の結果が何であるかを私たちに教えてくれる聖母のカテキズム(教理問答)なのです。罪とは、まず第一に、天主の善良さ、御あわれみ、愛という天主の本質そのものに対してなし得る最悪の侮辱であり、否定です。もし可能であるならば、罪は天主の王たる尊厳を破壊してしまうことでしょう。罪は、創造主に対してなされる被造物の最も恐ろしい過失であり忘恩です。私たちが恩人からとても貴重な贈り物を受け取るのなら、私たちが無関心であるとか恩知らずであるとかということは想像すらできません。しかし、貴重な贈り物のお返しに、私たちが恩人を侮辱したり、恩人の顔につばを吐いたり、恩人を私たちの家から追い出したり、恩人を殺そうとさえすると想像することは、いっそうありえないことです。しかし、これが、罪を犯すときにまさに私たちがしていることなのです。天主はいつも私たちに、私たちの存在、私たちが持っているものすべてを与えてくださっており、私たちはそのような途方もない愛に対してしばしば無関心であるだけでなく、天主の御顔に向かってつばを吐き、天主の所有物である私たちの霊魂から天主を追い出しているのです。フランシスコは、人間がこの無限の愛をどれほど嫌っているか理解した時に、最も大きな恐怖を抱かずにはいられませんでした。そこで彼は叫んだのです。「僕たちは、もう二度と決して罪を犯してはいけない」。


3. 「天主の御悲しみ」

罪に対する天主の反応はどんなものでしょうか? 憤り? 世界の破壊? それがまさに当然のことでしょう。しかし、それとは逆に、私たちは愛と御あわれみという計り知れない神秘の前にいるのです! 主の中の主である全能の天主は永遠の幸福のうちに生きておられ、その御前では、宇宙全体が無であるにもかかわらず、天主の被造物に対する理解を超えた愛は、私たちの忘恩によってもたらされる悲しみの痛みを感じておられる心優しい父の愛のようです。この父は、兄弟愛や配偶者に対する愛以上の大きな愛を表す行いとして、御独り子にして愛する御子を死に渡されることまでされるのであり、そしてこの御子は、私たちのためにその聖心から御血のすべてのしずくを流されるのです。彼の愛は甘美なる友としての愛であり、永遠に私たちの霊魂に留まりたいと願う保護者かつ慰め主としての愛なのです。聖パウロが「天主の聖霊を悲しませぬ」よう私たちに勧告しているのは、私たちの反抗が天主の御悲しみを引き起こしているからなのです。

偉大なる神秘家たちは、天主の神秘の最も深い面の一つ、「天主は愛である」と言うことが意味する、まさに本質を私たちに教えます。イエズスの至聖なる聖心の最も内的な深みに入るためには、私たちの罪、私たちの心のかたくなさ、私たちの恥ずべき傲慢のせいで引き起こされる天主の御悲しみと御苦しみについて黙想しなければなりません。既に旧約聖書で天主は預言者エレミアを通してこう話されました。「おまえたちがこれを聞かないなら、私の魂はひそかに、そのおごりを見て嘆く。(私は泣き崩れ、)目は涙に溶ける。主の家畜の群れは、他国に流されるのだから」(エレミア13章17節)。

この悲嘆し軽蔑された永遠の愛のための償いは、世の終わりまで戦闘の教会にその動機を与える原因です。なぜなら、その時まで、不正なるこのような神秘、すなわち永遠の王をその玉座からひきずり下ろそうとし、つくられた全秩序の原理でありかつ最終目的としての天主を拒否しようとする悪魔の努力が、日々増加し続けるからです。無限の御悲しみの悲劇は、―「私の魂は死なんばかりに悲しむ」―とされた主の地上での33年間の生涯だけでなく、御復活と天国への凱旋の御昇天のあとでさえ、罪人が「自らふたたび天主の子を侮り、十字架に釘づけ」(ヘブライ6章6節)ていることなのです。世の終わりまで、十字架につけられた主はキリスト教信仰の象徴であり、とりわけ御聖体に現存される主においてそうなのです。カトリックの祭壇における主の十字架上の犠牲の更新と継続は、教会における最も崇高で最も尊い行いです。そして、イエズスが見捨てられたことと、その悲しみに満ちた御母について敬虔に黙想することが、キリスト教の霊的生活のまさに中心なのです。


4.天主への完全な愛―天主をお慰めすること

[必要な唯一のこと]は、第一にそして何物をも超えて天主の御国と天主の正義を求めることにあるのだということを、世の人々に思い出させてくださいます。天主の正義とはどういう意味でしょうか? それは、天主に捧げられるべきもの―すべての誉れと栄光―を、天主にお捧げすることです。天主の御稜威が人間の罪深い傲慢によって侮辱されるとき、正義とは、天主の深く悲しまれる御稜威に対してなされる完全なる償い、つまり告解、贖い、そして秩序と真理を回復するあらゆる行いです。

それでは、主のお苦しみと残酷な御受難を目前にした時、私たち惨めな罪人がすべき最も完全な答えは何でしょうか? 天主の第一にして最も重大な戒によって、天主が私たちにお求めになる愛の完全な行いとはいったいどんなことでしょうか? 主ご自身がその答えを与えてくださいます。「私は同情を探した、しかし無駄であった。私は誰か私を慰めてくれる者を探した、しかし誰も見いださなかった」。天主の至聖なる聖心への信心は、償いと贖いの行いであり、主をお慰めするということがまさにその目的です。愛する者の心は、主にこう言うのです。「もし御身が霊魂たちの扉を叩いた時に誰もその扉を御身に開けなかったとしたら、もし御身が創造主であり万物を支配される御者であるにもかかわらず、社会や組織、家庭、さらには御身ご自身のものである教会からさえも投げ出されるなら、もし御身が一人心寂しくさげすまれるなら、そのとき私は、私の心を大きく開き、御身にお慰めと避難所を提供し、貧しいものの心温まる歓迎をし、そこで御身が頭を横たえて家を見いだせるようにして差し上げたいのです。彼らが御身を拒絶すればするほど、私はもっと御身を受け入れて差し上げたいのです。彼らが御身を忘れれば忘れるほど、私はもっと御身を思い出して差し上げたいのです。彼らが御身を拒めば拒むほど、私はもっと御身を歓迎したいのです。彼らが御身を避けようとすればするほど、私はもっと御身の方へ向かって行きたいのです。彼らが御身の愛を嫌えば嫌うほど、私はもっと御身をあがめたいのです。彼らが御身の魂を悲しみと涙で満たせば満たすほど、私はもっと御身をお慰めしたいのです!」と。

あわれな罪人からの愛のうちで、このお慰めの行いほど完全な形の愛はありません! お慰めは、超自然の治療薬、すなわち罪によって侮辱されている天主への愛によって、恐るべき罪の結果に対処します。それは本物の愛の行いです。もし私が友人を侮辱したことを後悔したなら、私が愛に立ち戻るためには、まるで友人を傷つけはしなかったかのように「あなたを愛している」と言うだけで済むほど簡単ではあり得ません。侮辱を償うための愛の最初の行いは、友人に悲しみを負わせたことを嘆くことでなければなりません。そしてこの嘆きが友情をとり戻したいとの燃えるような望みを暗示し、損なってしまった愛情に慰めを与えるのです。

聖母は、人の外的な行いが重要である一方で、心の中の望みがもっと重要であることを私たちがよく理解できるように、ファチマで小さな子供たちをお選びになりました。小さなフランシスコは、英雄的な宣教師や観想的修道士として人生を生きることはできませんでした。聖ベロニカが責め苦を受けておられた主に濡れた布を差し出すことしかできなかったように、彼は素朴な祈りと犠牲を捧げることしかできませんでした。外的には、これらのことはささいなものですが、内的には、ベロニカを聖人にさせ、御受難のキリストの聖なる御顔を亜麻布に写しただけでなく、さらに大事なことには彼女の霊魂そのもののうちに御顔を写したという功徳を彼女に与えた愛による最高の振る舞いなのです。私たちのうちで一体誰が、非常に多くの霊魂が道に迷っているのをご覧になって悲しんでおられる主と聖母をお慰めするために、小さな子供の素朴な行いを真似ることも出来ないというのでしょうか?

フランシスコは観想的な修道者ではありませんでしたが、彼の人生とその模範は、天主の栄光のためだけに生きたいと願うすべての観想的な霊魂たちにとって深く素朴な手本でした。さらに、世が天主に対して当然の敬意と栄光を否むがゆえに、償いをする必要があります。観想的な生活は愛の生活であり、愛の第一の行いは愛する者とともにいること、愛する者を見つめていつも愛する者の現存において生きることです。愛の第二の行いは、侮辱の行動とは反対方向の行動によってその侮辱を償うこと、すなわち慰めの行動です。

主をお慰めするというこの信心は、いつ完成するのでしょうか? 決して完成することはありません。フランシスコは、示唆に富んだことを話しました。「そこ(天国)に行ったら、僕はものすごく主と聖母をお慰めするつもりだよ」。実際には、天国においては天主が私たちの無限の慰め、私たちの不滅の光、永続する平安となってくださるのであり、それと同時に、天主の全能と言語に絶する御あわれみが、私たちに、天主をお慰めして永遠に特別の喜びを天主にお捧げするのをお許しになるのです。たとえ罪による悲しみが永遠には残らないとしても、被造物の側からの慰めの愛の本質は、その意味を保つのです。それは、自分の父親と母親へ喜びを捧げたいと願い、ほほ笑みと燃え上がる愛の炎で彼らを慰めるという感謝に満ちた子供の心です。

終りに

フランシスコの人生と死における模範を通して、聖母は私たちに最も重大な戒を思い出させ、私たちに、心を挙げて再び天主を愛するためにこの罪深い時代に適した手段を与えてくださいます。天主をお慰めするという信心は、宗教的無関心と超自然的真理への憎しみが広がっている私たちの時代において、数えきれないほど多数のカトリック信者のうちに、天主への燃える愛の火をともすことができるのです。お慰めを捧げることができるということは、私たちあわれな罪人にとって大きな励みであって、自分たちのみじめさにもかかわらず私たちが本当にもっともっと天主をお愛しすることができ、そして私たちの愛が空虚な言葉ではなく主体的なものでありうるということなのです。

無原罪の聖母は、フランシスコを通して私たちに最も深い祈りの方法を、すなわち聖母ご自身の祈りの方法を教えておられるのではないでしょうか? 実際、十字架の下で聖母が限りなく主とともに受難されたとき、聖母の祈りは御子をお慰めすることに向けられていました。ですから、私たちもまた聖母と共に十字架の下に立つという素朴な行いによって、専らキリストをお慰めするためだけに、一人キリストと共にいる時間を少しでも作らなければなりません。現代人はもはや、自分をお造りになった天主のための時間がなく、それゆえに天主に非常に無関心なためキリストと共に1時間を費やすことさえ我慢できませんが、私たちは少なくとも、愛を持って主とともにいて受難し、主をお慰めする少しばかりの時間を持つことによって、主に対する私たちの愛を示すべきです。でも、そんな努力の結果はどんなものでしょうか? そのこともまた、小さなフランシスコの模範によって証明されています。ほんのわずかな短い時間で、彼の天主への愛は最も高度な完徳へと達し、数か月後にはもう、彼は天国で永遠に無原罪の聖母を見ることを許されたのですから。

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