2017年5月3日 秋田巡礼 シュテーリン神父様霊的講話4
「ファチマの聖母:牧童ジャシンタの生活:霊魂たちを救う」
同時通訳:小野田圭志神父
今朝はファチマの霊性を見て、そのファチマでの子供たちが一体何を、どのような生活をしていたのか、どのようにそれに対応していたのか、という事を黙想しました。
特にフランシスコは見る事だけに専念する事ができたので、神秘を深く見る事ができて、そして理解する事ができた、という事を黙想しました。
フランシスコは第3回目の天使のご出現の時にした、神秘的な聖体拝領の意味を説明しています。
その時天使はこう言います、「イエズス・キリストの御体と御血を受けなさい。この御体と御血は、忘恩の人々によって恐るべく冒涜されています。そして彼らの犯罪を償い、そしてお前の天主を慰めなさい」と言いました。
「お前の天主を慰めなさい」と言われた時に、フランシスコは一体天使は何の事を言っているのか分かりませんでした、よく理解していませんでした。
「天主を慰める。」一体何の事なのか。
それが分かったのは、マリア様が第1回目にお現れになった時に汚れなき御心を見せて、そして光を子供たちに輝かし出した時です。その時に子供たちは、自分たちが天主様の光の中に居るというのを見て、天主が非常に悲しんでおられる、というのを見ました。その時に、この天使の言葉の意味が分かったのです。
ところでジャシンタは、フランシスコと別の性格を持っていました。フランシスコは天主様の悲しみに非常に心を打たれて、天主様をお慰めしよう、しようと思っていました。ところでジャシンタは、地獄のビジョンに非常に心を打たれました。
シスタールチアは後に、ジャシンタについてこう言っています、「地獄のビジョンがこの子の心をあまりにも満たしていたので、もしも霊魂が地獄に落ちないようにそれを止める事ができるならば、どんなに大きな償いも犠牲も喜んで払う事ができた」と言っています。
ジャシンタに一番関心があったのは、「霊魂を救う」という事でした。ジャシンタはいつも、「私のかわいそうな霊魂たち」と、「私の」という言葉を付けて、あたかも自分の子供たちであるかのように考えていました。
ルチアがジャシンタについて話す時には、「いつもジャシンタは、霊魂を救う事、地獄の火から霊魂を救う事を話していた」と言っています。
ある時ルチアは聞きます、「おぉジャシンタ、一体何の事を考えているの?」
「私は、多くの人が地獄の方に落ちているのを考えているの。私たちの主をもうこれ以上冒瀆しないで、冒さないで、地獄の火に陥らないように、どうしたらしないようにやる事ができるかという事を考えているの。できるだけ多くの霊魂を救いたい。」
そこで、ところが霊魂が救われるか救われないかは、自分の祈りと犠牲にかかっているという事をよく理解していたので、できるだけ祈りと犠牲をしたいと思っていました。ではジャシンタにとって、一番恐るべき犠牲とか苦行というのは一体何だったのでしょうか?
7歳の小さなの女の子でした。一番ひどかったのが、「孤独」という事でした。7歳の女の子が、お父さんとお母さんの元から離れて、たった一人ぼっちで残されて、それが一番の苦しみでした。そして特に病院で、たった一人で手術を受けて、そしてお父さんとお母さんから離れて、兄弟から離れて、一人ぼっちでいた事が非常に苦しい事でした。
ジャシンタが一番苦しんでいたその時に言った言葉は、「あぁイエズス様、今、たくさんの霊魂を救って下さいね。何故なら、私本当に苦しんでいますから。」
では今からジャシンタの霊性を見てみましょう。このジャシンタの生き方を見ると、ファチマの大切なテーマの1つが見えてきます。
疑いもなく、「地獄のビジョンを見た」という事は、ジャシンタの人生にとって一番大切な時でした。
ところで近代主義は、マリア様と全く反対の事を言います、「あぁ、小さな子供に地獄の火の話などして、恐ろしがらせてはいけません。」
ところでマリア様は、その全く正反対に、この小さな子供たちに、「地獄に落ちて、どれほど恐るべき拷問を受けているのか」という事を、霊魂たちのその失われた霊魂たちの様子を、子供にまざまざと見せてしまうのです。
しかし小さなジャシンタは、「この地獄の火の大海原というのは、罪の結果でしか過ぎない」という事をよく理解しました。ジャシンタが、「その地獄の火の中に多くの人々が落ちている」という現実を見た時にその為した反応は、宣教の態度でした。「『罪』というのはどれほど恐ろしくて、どれほど悪であるか」という事を理解したのです。
しかしそれと同時に、「このような恐るべき罪人にさえも、天主様はチャンスを与えて、憐れみを与えている」という事も見ました。どのようなチャンスを与えたかというと、「このような罪人たちに汚れなき御心を与えて、その汚れなき御心というものすごい手段を通して、その地獄の火から救う、回心させる」というチャンスです。
フランシスコの生涯、或いはジャシンタの生涯、この兄弟姉妹の生涯は私たちに、「一体罪というのは、どれほど恐るべきものであるか」という、この罪の神秘を教える公教要理となっています。
フランシスコは、「天主にとって罪とは一体何であるか」という事を理解させました。
ところでジャシンタは、「罪というのが人間にとって一体何であるか」という事を理解しました。
フランシスコによれば、「罪は、天主を悲しませる。」
ジャシンタは、「罪は、そのように素晴らしく創られた人間の霊魂を破壊する」と理解しました。
罪というのはつまり、「天主を否定する事」であって、同時に「私たちを地獄の火に飛び込ませるもの」です。
「地獄というのは、永遠に続く罪の結果である」という事をジャシンタは理解しました。大罪を犯すという事は、永遠の美である天主を私たちから蹴り出してしまって、その代わりに醜さと汚ならしさを私たちが受け取るという事です。愛を受ける代わりに、憎しみを受けるという事です。大罪を犯す事によって私たちは、天主が下さる平和を蹴り出し、その代わりに苦しみを私たちの心に受ける事です。
ジャシンタは私たちに、決して忘れてはいけない事を思い出させます。「罪は私たちを地獄を引き寄せる。罪は多くの多くの霊魂たちを地獄に引きずり下ろした。罪だけが唯一の悪であって、何故ならば罪は私たちを永遠の破滅にもたらすから。」
この小さな可愛らしい7歳の女の子に、マリア様が理解させた事はこの真理でした。ジャシンタはこの地獄から、この罪の結果から、霊魂たちを救い出そうとする事を学びました。
ジャシンタはエネルギーでいっぱいのデリケートな女の子でした。女の子ですから、困っている人とか今辛い思いをしている人とかに対する、同情とかあわれみの心でいっぱいでした。ジャシンタが行く所にはどこにでも、周りの人に喜びや平和を与えていました。ジャシンタの周りではいつも喜びがありました。
マリア様がジャシンタにお現れになると、ジャシンタは、「永遠の喜びとは一体何か」という事をますますよく理解するようになりました。と同時に、「この永遠の喜びを失ってしまう事の恐ろしさ」についても理解させました。
イエズス様によれば、これこそが真の隣人愛です。「天主を愛する、全てに超えて愛する」という第1の掟の次は、「隣人を愛する」という事です。隣人を愛するとはどういう事でしょうか?
つまり、「隣人が幸せであるという事、隣人が永遠に不幸でないという事を望む事」です。
ところでジャシンタは、霊魂たちが永遠の破滅への道を歩んでいて、今からもうこのまま地獄の火に落ちようとしているのを見ます。そのように、今から地獄に落ちようとしている霊魂たちをストップさせて、「あぁ、あなたたちは全くどうかしている!永遠の幸せから離れて、永遠の苦しみに落ちようとしている!」と叫ぶ事でした。「もしも罪を犯し続けるならば、本当に永遠の悲しみの中に落ちてしまいますよ!」
7歳の子供であっても、マリア様から習った事は、「そのような小さな子供であっても、多くの霊魂たちを永遠の不幸から救う事ができる」という事です。
「祈り、犠牲をしなさい。何故ならば、多くの霊魂が地獄に落ちているから。何故かというと、誰も彼らの為に祈りをする人がいないから。」
「マリア様、私はそのような人たちが地獄に落ちないように、一生懸命お祈りして、一生懸命犠牲を捧げます。」このマリア様の言葉は、小さなジャシンタにとって大きなインスピレーションでした。
もしもジャシンタがそのような事を知らなかったら、その性格から、とても悪い女性になっていたかもしれません。とても魅力的で、とてもエネルギーでいっぱいで、とても美しい女の子でした。村中の人たちがこの女の子の後を追っかけていました。
ジャシンタはこのマリア様の言葉を聞いて、「あぁ、私にはやらなければならない事がある!多くの霊魂を救わなければならない!」とインスピレーションを受けました。
フランシスコは、「天主を慰め、罪によって傷付けられている天主を何とかしてお慰めする」という天主への愛に燃えました。
ジャシンタは、「霊魂が永遠の破滅に落ちてしまわないように、何とかして彼らを救いたい」という愛に燃えました。これは隣人愛であって、これが第2の最も偉大な掟の事です。
フランシスコは、「天主を慰める」という天主への愛に燃えて、聖人になりました。
ジャシンタは、「隣人を地獄の火から救う」という情熱に燃えて、最後の瞬間までその使命に生きました。
このジャシンタとフランシスコがやったこの2つの事は、私たち誰もがこの地上でなさなければならない事です。この地上で私たちが、「あぁ、素晴らしい方だな」と感嘆する人は誰でしょうか?人類の大恩人と私たちが言う事ができるような人々とは誰でしょうか?
私たちの寿命を20年延ばす事ができるような薬を、癒やす事ができた発明をする医学博士は、「人類の恩人だ」と言う事ができるでしょうか?しかし、たとえ私たちが100歳のところを120歳まで生きたとしても、その後死んでしまいます。
でもジャシンタが理解した事は、「私はもっと更にする事ができる。私は、永遠に地獄の火に燃えて苦しむような霊魂を、その代わりに永遠の無限の喜びと幸せへと導いてあげる事ができる」という事を理解したのです。「私はそれができる。何故なら、マリア様が『それはできる』と仰ったから。その為に何をすればよいかをマリア様は教えて下さった。祈りと犠牲をする。」
ジャシンタは小さな女の子でした。一体何ができるでしょうか。まだ10歳にもならないようなジャシンタは、すぐに病気になって、そしてその病気の為にお墓に行ってしまいます。
ジャシンタがその残った人生の間にやった事は、有名な射祷を何回も唱えて、自分の苦しみや悲しみを捧げた事でした。
ジャシンタが亡くなった時に、リスボンの枢機卿がやって来て言った事は、「この小さな女の子がやった事は、世界中の全ての宣教師が合わせて救った霊魂の数よりも、もっと多くの霊魂たちを地獄の火から救った」という事です。
フランシスコは、天主を愛し、天主を慰めるという「観想的な霊魂」だとしたら、ジャシンタの霊魂は「宣教師的な霊魂」でした。
リスボンの枢機卿が言うには、「ジャシンタは、いつもマリア様の近くにいたので、マリア様の現存に生きていた。」
ジャシンタはこの3人の牧童の中で一番小さな、一番可愛らしい女の子でした。しかしその背の小ささにもかかわらず、大きな心を持っていました。ジャシンタはこの世の事、戦争の事とか、共産主義の事とか、ロシアの事などを知りませんでした。知っていたのは、罪人に対して、罪人を地獄の火から救う、「私のかわいそうな罪人たち」の事でした。
大人のように、ジャシンタは苦しみを耐え忍ぶというそれほど強靱な肉体を持っていたわけでありません、小さな女の子でした。しかし、小さな女の子が苦しむ事ができる全ての苦しみを、ジャシンタは英雄的に捧げていました。ジャシンタは救われた霊魂を直接見たわけではありませんが、マリア様が「多くの霊魂を救わなければならない」と仰ったので、それを本当に、その使命に生きました。
ジャシンタの生涯は本当に特別な生涯でした。ジャシンタの生涯は祈りの生活でした。
ここにファチマのまた別のテーマがあります。ファチマは私たちに、「どうやって祈ったら良いか」という事を教えています。マリア様は、フランシスコとジャシンタというこの2人の兄弟姉妹に、「どうやって祈れば良いのか」という事を教えてくれました。
2つの種類の祈りがあります。「個人的な祈り」と「使徒的な祈り」です。
「個人的な祈り」というのは、祈りの基礎にあるもので、私たちの心を天主へと上げる事です。天主を礼拝し、讃美し、感謝する。そして罪の償いをし、必要な御恵みを求める、という事です。これが祈りの定義です。これがフランシスコの祈り方でした。フランシスコはいつも、天主を慰め、礼拝し、讃美していました。
第2の種類は、「使徒的な祈り」であって、私たちが犯した罪ではない、他の人々の罪を償い、その罪の赦しを乞い求める祈りです。
天使が或いはマリア様が、「天主を慰めなさい」と言った時に、そのような祈りは天主を愛する祈りです。
「罪人の回心の為に祈りなさい」と言われた通りに祈った時には、これは使徒的な祈りになります。
天主を信じ、礼拝し、そして愛し、慰めるというのは、第1の掟に対応する祈りです。
隣人の回心の為に、或いは罪の償いの為に、罪の赦しを求める祈りというのは、隣人愛の実践です。
現代の福音化の話をよく聞きます。ところがこれには危険があります。福音化といわれていることによれば、「私たちはどんな行動を起こすか、或いはどんな事業を起こすか」という事に強調が置かれます。
そうする事によって私たちは、活動主義に陥ってしまう危険があります。その議論をしたりとか、話しをしたりとか、或いは何かの活動をしたりとかする、という事に強調が置かれがちですけれども、これが一番大切な事ではありません。
「さぁ、全世界に行って、福音化をしなさい、宣教しなさい」と言った時に、私たちがよく聞くのは、「さぁ、では本を印刷して、チラシを印刷して、映画を作って」という何かそういう活動をして、「だからお金が必要だ」などという話をよく聞きます。
もちろん今朝も申し上げましたように、私たちは多くの人たちに知らせる為にチラシを持ったり、この皆さんに話しかけたり、説明したりする事は大切です。
でもその外的なそういうものだけでは、霊魂を1人も救う事ができないのです。何故かというと、1人の霊魂を回心させるというのは、チラシではなくて、天主の御恵みであって、全能の天主だけがする事ができるからです。
もしもご兄弟の方が、「隣人に善をしたい」と思うならば、この事をよく覚えて下さい。地獄に今落ちようとしている霊魂を天国の方に引き寄せて、天国への道を歩ませるという事は、人間的な手段ではできない事なのです。ファチマのマリア様が私たちに教えている事は、「人間の心の回心という事は、超自然の御恵みだけがする事ができるのであって、この超自然の御恵みを得るのは、祈りと犠牲によるのでしかない」という事です。
聖マキシミリアノ・コルベによれば、「外的な事業、活動というのは、霊魂の回心を準備はさせるけれども、回心そのものはさせない。回心をさせるのは、御恵みである。」
ジャシンタは、チラシを配ったり或いは記事を書いたり、そのような物質的な手段を使う事ができませんでした。しかし彼女は、多くの祈りと犠牲を通して、霊魂たちを地獄の道から天国へと立ち戻らせました。
では、ジャシンタはどうやってお祈りをしたでしょうか?7歳の子供の祈りとは一体何だったのか、どのようなものだったのでしょうか?
これは、ジャシンタがその時に学んだ祈りをただやっただけでした。
「天使の祈り」「多くの射祷」「ロザリオ」でした。
そのそれを死ぬまでずっとやっていたのです。でもジャシンタはとても病気がちで苦しんでいたので、自分で言うには、「もう苦しくてロザリオも全部唱える事ができない」と言ったほどでした。フランシスコも同じでした。病気だったので、もうロザリオさえも唱える事ができませんでした。
では一体、どんな祈りでこの子供たちが聖人になったのでしょうか?子供だったので長いお祈りもできなかったし、病気だったので長いお祈りもますますできませんでした。じゃあ一体どんなお祈りをしたのでしょうか?ルチアは言います、「この子供たちがやった祈りは、本当に短い、小さな、でも心から溢れる祈りだった。」
ジャシンタの一番好きだった射祷はこれです、「甘美なマリア様の御心よ、私の救いとなって下さい。」
ジャシンタはそれを何度も何度も心から繰り返して、時にはその一言だけを言っていました。
ジャシンタはとても苦しんで、病気で苦しんで、苦しんでいる時に、「お母さん、救って下さい。霊魂を救って下さい。私のかわいそうな霊魂たちを救って下さい。」
数年後、イエズス様はシスターコンソラータに現れて、同じ祈りを射祷の祈りを教えます。イエズス様によれば、「自分にとって一番好きな射祷はこれだ」と言います。
「イエズス、マリア、御身を愛し奉る。霊魂を救い給え。」何故かというと、この2つに、2つの愛の掟があるからです。
「イエズス、マリア、御身を愛し奉る。」これは天主に対する愛です。
「霊魂を救い給え。」隣人への愛です。
この今の非常に切羽詰まったこの時代において最高の手段、私たちが天主の御旨を果たし、天主といつも一致している事ができる、最高の手段を教えてくれました。
もう、皆さん私たちは朝太陽が昇ると、「コケコッコー!」といって、「そろそろ起きるか」というような盲目の時代ではありません。今私たちは飛行機に乗って、電車に乗って、或いはマスメディアがあって、というテクノロジーの時代に生きています。昔は大自然の中に生きて、動物や植物の成長を見て、何時間でも御聖櫃の前に留まってお祈りして黙想する事ができていましたけれども、現代ではインターネットとコンピューターの時代で、私たちはほんの数分もお祈りする事ができないほど、無能になってしまった時代です。
この現代の忙しい、せっかちな、せかせかしている、あくせくしているような時代に、それにもかかわらず、マリア様との深い一致と、天主との一致をする事ができるようなやり方を、祈りの仕方を私たちに教えてくれます。小さな射祷を何度も何度も1日の内に唱えている内に、ジャシンタとフランシスコは大聖人になりました。
もしも若い男の子と女の子がやって来て、「神父様、もう私はもう長いお祈りはできません」と言うとしたら、私は、「その通りだと思います。でもそれにもかかわらず、マリア様は仰っているので、ロザリオは毎日唱えなさい」と言います。でも私が「ロザリオ唱えなさい」と言うと、そのような若い青少年たちは恐れます、「えっ、でもロザリオをうまく唱えられません。」「ファチマの子供たちは、小さな射祷をたくさんたくさん唱えて聖人になりました。やってごらん」と私は言います。
皆さんは車を運転しなければなりませんし、或いは買い物に行かなければなりませんし、或いは仕事をしなければなりません。その時に長いお祈りをする事ができないかもしれません。でも小さな射祷ならば唱える事ができます。
皆さん、夕方になって夕の祈りを唱えなければならない時に、もう疲れ切って、「あぁ、」もう疲れて疲れて、もうお祈りをしようと思ったその瞬間、もう疲れてお祈りもできないという時がありませんか?皆さん、皆さんが病気の時にお祈りをする事がどれほど難しかったかを思い出して下さい。「あぁ、病気でもう頭がガンガンする、熱が出るし、頭がもう風船のように腫れ上がっているし、頭が空っぽになっているし、どうしてもロザリオを唱える事ができない。」
しかしどのような場合でも、どんな時でもできるお祈りがあります。どのような忙しい仕事をしていても、どれほど病気であったとしても、どんな何をやっても、心の中で私たちは、「イエズス様、愛しています。」「イエズス様、愛し奉る。」「イエズス様、」これは言う事ができます。或いは使徒聖トマスのように、「あぁ我が主、我が天主よ。」「我が主、我が天主よ」と
ファチマのマリア様は、そのような小さな射祷が、皆さんを聖人にする事ができると教えています。
皆さんの仕事の真っ最中でも、或いは買い物の真っ最中でも、街を歩いてる時でも、そのような小さな射祷は、天から光を皆さんの霊魂に呼び寄せます。悪魔は夜も寝ずに皆さんを誘惑しようと罪を犯させようと誘おうとしています。そのような時にも、小さな射祷を唱えるだけで、悪魔は退散するしかありません。
皆さん自問自答して下さい。皆さんがいつも一体何を考えているでしょうか?特に周りにいる人が、皆さんに対してちょっと嫌な顔をしたりとか、態度が悪かったりしたら、何を思いますか?どんな反応をしますか?よく怒ります。「あぁ、あいつこんな事を言った!」「あぁ、あんな態度を取った!」「あぁ、あいつこんな事を考えている!」と言って怒ります。「何だあいつは、あんな事をやっている!あんな悪い、本当にもうこの世の中から失せてしまえ!」などと思います。
もしも家庭の一員に対して、誰か何かに対して腹を立てたとしても、私たちにとってどんな利益があるでしょうか?怒るという事は、私たちの平和を、心の平和を失うという事です。心に暗黒をもたらすという事です。天主に対して罪を犯す。怒るという事によって、隣人にどんな善も行いません。
怒る代わりに、マリア様の提案を受けて下さい。誰かが皆さんを怒らせます。腹立たせます。皆さん思います、「でもマリア様の提案は、あぁ、このお祈りしなきゃ。イエズス、マリア、御身を愛し奉る。霊魂を救い給え。この霊魂を救い給え。」そして腹を立てる代わりに祈る事によって、天主を喜ばせ、私の霊魂にも平和があり、そしてこの霊魂に本当の善を与える事ができます。
この小さな祈りが、ジャシンタを聖人にしました。ジャシンタの短い人生において、自分自身よりも隣人の為により多くのお祈りをしていました。
「隣人の為に何か善をするという事は、2倍の善を私たち自身にするという事である」という黄金の規則を覚えて下さい。ジャシンタも、幼きイエズスの聖テレジアも、隣人の為に祈る事によって、多くの善を自分自身が受けました。
1951年に、ジャシンタの遺体をお墓からバジリカに移さなければならない時に、多くの枢機卿の方や多くの方の立会いの下でお墓が開かれましたけれども、そのジャシンタの体は腐敗せずに残っていました。
5月13日にこの2人の子供たちは列聖されます。
20時になりましたので、夜の祈りを一緒に唱えます、終課です。
「ファチマの聖母:牧童ジャシンタの生活:霊魂たちを救う」
同時通訳:小野田圭志神父
今朝はファチマの霊性を見て、そのファチマでの子供たちが一体何を、どのような生活をしていたのか、どのようにそれに対応していたのか、という事を黙想しました。
特にフランシスコは見る事だけに専念する事ができたので、神秘を深く見る事ができて、そして理解する事ができた、という事を黙想しました。
フランシスコは第3回目の天使のご出現の時にした、神秘的な聖体拝領の意味を説明しています。
その時天使はこう言います、「イエズス・キリストの御体と御血を受けなさい。この御体と御血は、忘恩の人々によって恐るべく冒涜されています。そして彼らの犯罪を償い、そしてお前の天主を慰めなさい」と言いました。
「お前の天主を慰めなさい」と言われた時に、フランシスコは一体天使は何の事を言っているのか分かりませんでした、よく理解していませんでした。
「天主を慰める。」一体何の事なのか。
それが分かったのは、マリア様が第1回目にお現れになった時に汚れなき御心を見せて、そして光を子供たちに輝かし出した時です。その時に子供たちは、自分たちが天主様の光の中に居るというのを見て、天主が非常に悲しんでおられる、というのを見ました。その時に、この天使の言葉の意味が分かったのです。
ところでジャシンタは、フランシスコと別の性格を持っていました。フランシスコは天主様の悲しみに非常に心を打たれて、天主様をお慰めしよう、しようと思っていました。ところでジャシンタは、地獄のビジョンに非常に心を打たれました。
シスタールチアは後に、ジャシンタについてこう言っています、「地獄のビジョンがこの子の心をあまりにも満たしていたので、もしも霊魂が地獄に落ちないようにそれを止める事ができるならば、どんなに大きな償いも犠牲も喜んで払う事ができた」と言っています。
ジャシンタに一番関心があったのは、「霊魂を救う」という事でした。ジャシンタはいつも、「私のかわいそうな霊魂たち」と、「私の」という言葉を付けて、あたかも自分の子供たちであるかのように考えていました。
ルチアがジャシンタについて話す時には、「いつもジャシンタは、霊魂を救う事、地獄の火から霊魂を救う事を話していた」と言っています。
ある時ルチアは聞きます、「おぉジャシンタ、一体何の事を考えているの?」
「私は、多くの人が地獄の方に落ちているのを考えているの。私たちの主をもうこれ以上冒瀆しないで、冒さないで、地獄の火に陥らないように、どうしたらしないようにやる事ができるかという事を考えているの。できるだけ多くの霊魂を救いたい。」
そこで、ところが霊魂が救われるか救われないかは、自分の祈りと犠牲にかかっているという事をよく理解していたので、できるだけ祈りと犠牲をしたいと思っていました。ではジャシンタにとって、一番恐るべき犠牲とか苦行というのは一体何だったのでしょうか?
7歳の小さなの女の子でした。一番ひどかったのが、「孤独」という事でした。7歳の女の子が、お父さんとお母さんの元から離れて、たった一人ぼっちで残されて、それが一番の苦しみでした。そして特に病院で、たった一人で手術を受けて、そしてお父さんとお母さんから離れて、兄弟から離れて、一人ぼっちでいた事が非常に苦しい事でした。
ジャシンタが一番苦しんでいたその時に言った言葉は、「あぁイエズス様、今、たくさんの霊魂を救って下さいね。何故なら、私本当に苦しんでいますから。」
では今からジャシンタの霊性を見てみましょう。このジャシンタの生き方を見ると、ファチマの大切なテーマの1つが見えてきます。
疑いもなく、「地獄のビジョンを見た」という事は、ジャシンタの人生にとって一番大切な時でした。
ところで近代主義は、マリア様と全く反対の事を言います、「あぁ、小さな子供に地獄の火の話などして、恐ろしがらせてはいけません。」
ところでマリア様は、その全く正反対に、この小さな子供たちに、「地獄に落ちて、どれほど恐るべき拷問を受けているのか」という事を、霊魂たちのその失われた霊魂たちの様子を、子供にまざまざと見せてしまうのです。
しかし小さなジャシンタは、「この地獄の火の大海原というのは、罪の結果でしか過ぎない」という事をよく理解しました。ジャシンタが、「その地獄の火の中に多くの人々が落ちている」という現実を見た時にその為した反応は、宣教の態度でした。「『罪』というのはどれほど恐ろしくて、どれほど悪であるか」という事を理解したのです。
しかしそれと同時に、「このような恐るべき罪人にさえも、天主様はチャンスを与えて、憐れみを与えている」という事も見ました。どのようなチャンスを与えたかというと、「このような罪人たちに汚れなき御心を与えて、その汚れなき御心というものすごい手段を通して、その地獄の火から救う、回心させる」というチャンスです。
フランシスコの生涯、或いはジャシンタの生涯、この兄弟姉妹の生涯は私たちに、「一体罪というのは、どれほど恐るべきものであるか」という、この罪の神秘を教える公教要理となっています。
フランシスコは、「天主にとって罪とは一体何であるか」という事を理解させました。
ところでジャシンタは、「罪というのが人間にとって一体何であるか」という事を理解しました。
フランシスコによれば、「罪は、天主を悲しませる。」
ジャシンタは、「罪は、そのように素晴らしく創られた人間の霊魂を破壊する」と理解しました。
罪というのはつまり、「天主を否定する事」であって、同時に「私たちを地獄の火に飛び込ませるもの」です。
「地獄というのは、永遠に続く罪の結果である」という事をジャシンタは理解しました。大罪を犯すという事は、永遠の美である天主を私たちから蹴り出してしまって、その代わりに醜さと汚ならしさを私たちが受け取るという事です。愛を受ける代わりに、憎しみを受けるという事です。大罪を犯す事によって私たちは、天主が下さる平和を蹴り出し、その代わりに苦しみを私たちの心に受ける事です。
ジャシンタは私たちに、決して忘れてはいけない事を思い出させます。「罪は私たちを地獄を引き寄せる。罪は多くの多くの霊魂たちを地獄に引きずり下ろした。罪だけが唯一の悪であって、何故ならば罪は私たちを永遠の破滅にもたらすから。」
この小さな可愛らしい7歳の女の子に、マリア様が理解させた事はこの真理でした。ジャシンタはこの地獄から、この罪の結果から、霊魂たちを救い出そうとする事を学びました。
ジャシンタはエネルギーでいっぱいのデリケートな女の子でした。女の子ですから、困っている人とか今辛い思いをしている人とかに対する、同情とかあわれみの心でいっぱいでした。ジャシンタが行く所にはどこにでも、周りの人に喜びや平和を与えていました。ジャシンタの周りではいつも喜びがありました。
マリア様がジャシンタにお現れになると、ジャシンタは、「永遠の喜びとは一体何か」という事をますますよく理解するようになりました。と同時に、「この永遠の喜びを失ってしまう事の恐ろしさ」についても理解させました。
イエズス様によれば、これこそが真の隣人愛です。「天主を愛する、全てに超えて愛する」という第1の掟の次は、「隣人を愛する」という事です。隣人を愛するとはどういう事でしょうか?
つまり、「隣人が幸せであるという事、隣人が永遠に不幸でないという事を望む事」です。
ところでジャシンタは、霊魂たちが永遠の破滅への道を歩んでいて、今からもうこのまま地獄の火に落ちようとしているのを見ます。そのように、今から地獄に落ちようとしている霊魂たちをストップさせて、「あぁ、あなたたちは全くどうかしている!永遠の幸せから離れて、永遠の苦しみに落ちようとしている!」と叫ぶ事でした。「もしも罪を犯し続けるならば、本当に永遠の悲しみの中に落ちてしまいますよ!」
7歳の子供であっても、マリア様から習った事は、「そのような小さな子供であっても、多くの霊魂たちを永遠の不幸から救う事ができる」という事です。
「祈り、犠牲をしなさい。何故ならば、多くの霊魂が地獄に落ちているから。何故かというと、誰も彼らの為に祈りをする人がいないから。」
「マリア様、私はそのような人たちが地獄に落ちないように、一生懸命お祈りして、一生懸命犠牲を捧げます。」このマリア様の言葉は、小さなジャシンタにとって大きなインスピレーションでした。
もしもジャシンタがそのような事を知らなかったら、その性格から、とても悪い女性になっていたかもしれません。とても魅力的で、とてもエネルギーでいっぱいで、とても美しい女の子でした。村中の人たちがこの女の子の後を追っかけていました。
ジャシンタはこのマリア様の言葉を聞いて、「あぁ、私にはやらなければならない事がある!多くの霊魂を救わなければならない!」とインスピレーションを受けました。
フランシスコは、「天主を慰め、罪によって傷付けられている天主を何とかしてお慰めする」という天主への愛に燃えました。
ジャシンタは、「霊魂が永遠の破滅に落ちてしまわないように、何とかして彼らを救いたい」という愛に燃えました。これは隣人愛であって、これが第2の最も偉大な掟の事です。
フランシスコは、「天主を慰める」という天主への愛に燃えて、聖人になりました。
ジャシンタは、「隣人を地獄の火から救う」という情熱に燃えて、最後の瞬間までその使命に生きました。
このジャシンタとフランシスコがやったこの2つの事は、私たち誰もがこの地上でなさなければならない事です。この地上で私たちが、「あぁ、素晴らしい方だな」と感嘆する人は誰でしょうか?人類の大恩人と私たちが言う事ができるような人々とは誰でしょうか?
私たちの寿命を20年延ばす事ができるような薬を、癒やす事ができた発明をする医学博士は、「人類の恩人だ」と言う事ができるでしょうか?しかし、たとえ私たちが100歳のところを120歳まで生きたとしても、その後死んでしまいます。
でもジャシンタが理解した事は、「私はもっと更にする事ができる。私は、永遠に地獄の火に燃えて苦しむような霊魂を、その代わりに永遠の無限の喜びと幸せへと導いてあげる事ができる」という事を理解したのです。「私はそれができる。何故なら、マリア様が『それはできる』と仰ったから。その為に何をすればよいかをマリア様は教えて下さった。祈りと犠牲をする。」
ジャシンタは小さな女の子でした。一体何ができるでしょうか。まだ10歳にもならないようなジャシンタは、すぐに病気になって、そしてその病気の為にお墓に行ってしまいます。
ジャシンタがその残った人生の間にやった事は、有名な射祷を何回も唱えて、自分の苦しみや悲しみを捧げた事でした。
ジャシンタが亡くなった時に、リスボンの枢機卿がやって来て言った事は、「この小さな女の子がやった事は、世界中の全ての宣教師が合わせて救った霊魂の数よりも、もっと多くの霊魂たちを地獄の火から救った」という事です。
フランシスコは、天主を愛し、天主を慰めるという「観想的な霊魂」だとしたら、ジャシンタの霊魂は「宣教師的な霊魂」でした。
リスボンの枢機卿が言うには、「ジャシンタは、いつもマリア様の近くにいたので、マリア様の現存に生きていた。」
ジャシンタはこの3人の牧童の中で一番小さな、一番可愛らしい女の子でした。しかしその背の小ささにもかかわらず、大きな心を持っていました。ジャシンタはこの世の事、戦争の事とか、共産主義の事とか、ロシアの事などを知りませんでした。知っていたのは、罪人に対して、罪人を地獄の火から救う、「私のかわいそうな罪人たち」の事でした。
大人のように、ジャシンタは苦しみを耐え忍ぶというそれほど強靱な肉体を持っていたわけでありません、小さな女の子でした。しかし、小さな女の子が苦しむ事ができる全ての苦しみを、ジャシンタは英雄的に捧げていました。ジャシンタは救われた霊魂を直接見たわけではありませんが、マリア様が「多くの霊魂を救わなければならない」と仰ったので、それを本当に、その使命に生きました。
ジャシンタの生涯は本当に特別な生涯でした。ジャシンタの生涯は祈りの生活でした。
ここにファチマのまた別のテーマがあります。ファチマは私たちに、「どうやって祈ったら良いか」という事を教えています。マリア様は、フランシスコとジャシンタというこの2人の兄弟姉妹に、「どうやって祈れば良いのか」という事を教えてくれました。
2つの種類の祈りがあります。「個人的な祈り」と「使徒的な祈り」です。
「個人的な祈り」というのは、祈りの基礎にあるもので、私たちの心を天主へと上げる事です。天主を礼拝し、讃美し、感謝する。そして罪の償いをし、必要な御恵みを求める、という事です。これが祈りの定義です。これがフランシスコの祈り方でした。フランシスコはいつも、天主を慰め、礼拝し、讃美していました。
第2の種類は、「使徒的な祈り」であって、私たちが犯した罪ではない、他の人々の罪を償い、その罪の赦しを乞い求める祈りです。
天使が或いはマリア様が、「天主を慰めなさい」と言った時に、そのような祈りは天主を愛する祈りです。
「罪人の回心の為に祈りなさい」と言われた通りに祈った時には、これは使徒的な祈りになります。
天主を信じ、礼拝し、そして愛し、慰めるというのは、第1の掟に対応する祈りです。
隣人の回心の為に、或いは罪の償いの為に、罪の赦しを求める祈りというのは、隣人愛の実践です。
現代の福音化の話をよく聞きます。ところがこれには危険があります。福音化といわれていることによれば、「私たちはどんな行動を起こすか、或いはどんな事業を起こすか」という事に強調が置かれます。
そうする事によって私たちは、活動主義に陥ってしまう危険があります。その議論をしたりとか、話しをしたりとか、或いは何かの活動をしたりとかする、という事に強調が置かれがちですけれども、これが一番大切な事ではありません。
「さぁ、全世界に行って、福音化をしなさい、宣教しなさい」と言った時に、私たちがよく聞くのは、「さぁ、では本を印刷して、チラシを印刷して、映画を作って」という何かそういう活動をして、「だからお金が必要だ」などという話をよく聞きます。
もちろん今朝も申し上げましたように、私たちは多くの人たちに知らせる為にチラシを持ったり、この皆さんに話しかけたり、説明したりする事は大切です。
でもその外的なそういうものだけでは、霊魂を1人も救う事ができないのです。何故かというと、1人の霊魂を回心させるというのは、チラシではなくて、天主の御恵みであって、全能の天主だけがする事ができるからです。
もしもご兄弟の方が、「隣人に善をしたい」と思うならば、この事をよく覚えて下さい。地獄に今落ちようとしている霊魂を天国の方に引き寄せて、天国への道を歩ませるという事は、人間的な手段ではできない事なのです。ファチマのマリア様が私たちに教えている事は、「人間の心の回心という事は、超自然の御恵みだけがする事ができるのであって、この超自然の御恵みを得るのは、祈りと犠牲によるのでしかない」という事です。
聖マキシミリアノ・コルベによれば、「外的な事業、活動というのは、霊魂の回心を準備はさせるけれども、回心そのものはさせない。回心をさせるのは、御恵みである。」
ジャシンタは、チラシを配ったり或いは記事を書いたり、そのような物質的な手段を使う事ができませんでした。しかし彼女は、多くの祈りと犠牲を通して、霊魂たちを地獄の道から天国へと立ち戻らせました。
では、ジャシンタはどうやってお祈りをしたでしょうか?7歳の子供の祈りとは一体何だったのか、どのようなものだったのでしょうか?
これは、ジャシンタがその時に学んだ祈りをただやっただけでした。
「天使の祈り」「多くの射祷」「ロザリオ」でした。
そのそれを死ぬまでずっとやっていたのです。でもジャシンタはとても病気がちで苦しんでいたので、自分で言うには、「もう苦しくてロザリオも全部唱える事ができない」と言ったほどでした。フランシスコも同じでした。病気だったので、もうロザリオさえも唱える事ができませんでした。
では一体、どんな祈りでこの子供たちが聖人になったのでしょうか?子供だったので長いお祈りもできなかったし、病気だったので長いお祈りもますますできませんでした。じゃあ一体どんなお祈りをしたのでしょうか?ルチアは言います、「この子供たちがやった祈りは、本当に短い、小さな、でも心から溢れる祈りだった。」
ジャシンタの一番好きだった射祷はこれです、「甘美なマリア様の御心よ、私の救いとなって下さい。」
ジャシンタはそれを何度も何度も心から繰り返して、時にはその一言だけを言っていました。
ジャシンタはとても苦しんで、病気で苦しんで、苦しんでいる時に、「お母さん、救って下さい。霊魂を救って下さい。私のかわいそうな霊魂たちを救って下さい。」
数年後、イエズス様はシスターコンソラータに現れて、同じ祈りを射祷の祈りを教えます。イエズス様によれば、「自分にとって一番好きな射祷はこれだ」と言います。
「イエズス、マリア、御身を愛し奉る。霊魂を救い給え。」何故かというと、この2つに、2つの愛の掟があるからです。
「イエズス、マリア、御身を愛し奉る。」これは天主に対する愛です。
「霊魂を救い給え。」隣人への愛です。
この今の非常に切羽詰まったこの時代において最高の手段、私たちが天主の御旨を果たし、天主といつも一致している事ができる、最高の手段を教えてくれました。
もう、皆さん私たちは朝太陽が昇ると、「コケコッコー!」といって、「そろそろ起きるか」というような盲目の時代ではありません。今私たちは飛行機に乗って、電車に乗って、或いはマスメディアがあって、というテクノロジーの時代に生きています。昔は大自然の中に生きて、動物や植物の成長を見て、何時間でも御聖櫃の前に留まってお祈りして黙想する事ができていましたけれども、現代ではインターネットとコンピューターの時代で、私たちはほんの数分もお祈りする事ができないほど、無能になってしまった時代です。
この現代の忙しい、せっかちな、せかせかしている、あくせくしているような時代に、それにもかかわらず、マリア様との深い一致と、天主との一致をする事ができるようなやり方を、祈りの仕方を私たちに教えてくれます。小さな射祷を何度も何度も1日の内に唱えている内に、ジャシンタとフランシスコは大聖人になりました。
もしも若い男の子と女の子がやって来て、「神父様、もう私はもう長いお祈りはできません」と言うとしたら、私は、「その通りだと思います。でもそれにもかかわらず、マリア様は仰っているので、ロザリオは毎日唱えなさい」と言います。でも私が「ロザリオ唱えなさい」と言うと、そのような若い青少年たちは恐れます、「えっ、でもロザリオをうまく唱えられません。」「ファチマの子供たちは、小さな射祷をたくさんたくさん唱えて聖人になりました。やってごらん」と私は言います。
皆さんは車を運転しなければなりませんし、或いは買い物に行かなければなりませんし、或いは仕事をしなければなりません。その時に長いお祈りをする事ができないかもしれません。でも小さな射祷ならば唱える事ができます。
皆さん、夕方になって夕の祈りを唱えなければならない時に、もう疲れ切って、「あぁ、」もう疲れて疲れて、もうお祈りをしようと思ったその瞬間、もう疲れてお祈りもできないという時がありませんか?皆さん、皆さんが病気の時にお祈りをする事がどれほど難しかったかを思い出して下さい。「あぁ、病気でもう頭がガンガンする、熱が出るし、頭がもう風船のように腫れ上がっているし、頭が空っぽになっているし、どうしてもロザリオを唱える事ができない。」
しかしどのような場合でも、どんな時でもできるお祈りがあります。どのような忙しい仕事をしていても、どれほど病気であったとしても、どんな何をやっても、心の中で私たちは、「イエズス様、愛しています。」「イエズス様、愛し奉る。」「イエズス様、」これは言う事ができます。或いは使徒聖トマスのように、「あぁ我が主、我が天主よ。」「我が主、我が天主よ」と
ファチマのマリア様は、そのような小さな射祷が、皆さんを聖人にする事ができると教えています。
皆さんの仕事の真っ最中でも、或いは買い物の真っ最中でも、街を歩いてる時でも、そのような小さな射祷は、天から光を皆さんの霊魂に呼び寄せます。悪魔は夜も寝ずに皆さんを誘惑しようと罪を犯させようと誘おうとしています。そのような時にも、小さな射祷を唱えるだけで、悪魔は退散するしかありません。
皆さん自問自答して下さい。皆さんがいつも一体何を考えているでしょうか?特に周りにいる人が、皆さんに対してちょっと嫌な顔をしたりとか、態度が悪かったりしたら、何を思いますか?どんな反応をしますか?よく怒ります。「あぁ、あいつこんな事を言った!」「あぁ、あんな態度を取った!」「あぁ、あいつこんな事を考えている!」と言って怒ります。「何だあいつは、あんな事をやっている!あんな悪い、本当にもうこの世の中から失せてしまえ!」などと思います。
もしも家庭の一員に対して、誰か何かに対して腹を立てたとしても、私たちにとってどんな利益があるでしょうか?怒るという事は、私たちの平和を、心の平和を失うという事です。心に暗黒をもたらすという事です。天主に対して罪を犯す。怒るという事によって、隣人にどんな善も行いません。
怒る代わりに、マリア様の提案を受けて下さい。誰かが皆さんを怒らせます。腹立たせます。皆さん思います、「でもマリア様の提案は、あぁ、このお祈りしなきゃ。イエズス、マリア、御身を愛し奉る。霊魂を救い給え。この霊魂を救い給え。」そして腹を立てる代わりに祈る事によって、天主を喜ばせ、私の霊魂にも平和があり、そしてこの霊魂に本当の善を与える事ができます。
この小さな祈りが、ジャシンタを聖人にしました。ジャシンタの短い人生において、自分自身よりも隣人の為により多くのお祈りをしていました。
「隣人の為に何か善をするという事は、2倍の善を私たち自身にするという事である」という黄金の規則を覚えて下さい。ジャシンタも、幼きイエズスの聖テレジアも、隣人の為に祈る事によって、多くの善を自分自身が受けました。
1951年に、ジャシンタの遺体をお墓からバジリカに移さなければならない時に、多くの枢機卿の方や多くの方の立会いの下でお墓が開かれましたけれども、そのジャシンタの体は腐敗せずに残っていました。
5月13日にこの2人の子供たちは列聖されます。
20時になりましたので、夜の祈りを一緒に唱えます、終課です。