アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
2017年5月3日 秋田巡礼にて シュテーリン神父様の提案するロザリオの黙想をご紹介いたします。
苦しみの玄義黙想(2017年5月3日 秋田巡礼にて シュテーリン神父様)
同時通訳:小野田圭志神父
『苦しみの玄義 第1玄義:この一連を捧げて、主がゲッセマニの園にて死するばかり憂い給いたるを黙想し、聖母の御取次ぎによりて、罪を痛悔する恵みを乞い願わん。』
「私の霊魂は、死なんばかり憂い悲しんでいる。起きて目覚めて、私と共に祈れ。」
ファチマのフランシスコは、天主が多くの罪によって、罪が犯されているのを見て非常に悲しむのを見ました。
ファチマではご出現の度に、マリア様は非常に悲しい面持ちでお現れになりました。何故かというと、マリア様の子供であるべき人たちが、マリア様の事を全く無視し、或いは忘れ去って、無関心で生活しているからです。
ここ秋田でも、マリア様は悲しみの涙を流されておられます。ちょうど十字架の上でイエズス様が御血を流されたように、マリア様の涙は私たちに対する愛を表しています。マリア様が涙を流されるのは、愛するそのしるしであると同時に、私たちによって軽蔑されているから涙を流します。私たちが罪を犯す度に、私たちはマリア様を侮辱し、そして涙を流させます。
イエズス様のゲッセマニの園での御苦難と、マリア様の御苦難とは似ています。マリア様の苦しみの時は今です。マリア様は私たちを、ご自分の子供たちである私たちを救おうと一生懸命に望んでいます。しかしマリア様の心を悲しませているのは、マリア様の愛の実りを私たちが無視しているからです。
御血を流されるイエズス様と共に、私たちは苦しむ事に致しましょう。そして涙を流されるマリア様と共に、私たちも苦しみを共に致しましょう。私たちの罪、マリア様を悲しませている私たちの全ての罪に対して、悔俊の恵みを求めましょう。
『苦しみの玄義 第2玄義:この一連を捧げて、 主が鞭打たれ給いたるを黙想し、聖母の御取次ぎによりて、罪を償う恵みを乞い願わん。』
私たちの主イエズス・キリストは、罪の為にその贖いの値を払います。マリア様の御体はイエズス様のように鞭打たれる事はありませんでした。しかしイエズス様が御肉体で苦しまれた全ての事を、マリア様はその汚れなき御心で感じ取っていました。
イエズス様が受けた1つ1つの、1回1回の鞭打たれは、マリア様にとっては2倍の2回の鞭打ちとなって感じられました。何故かというと、イエズス様を侮辱するという事は、それと同時にマリア様をも侮辱する事であるからです。イエズス様が苦しまれるのを見る母の心は、2倍の苦しみを受けるからです。
このマリア様のお苦しみの表現は「涙」です。イエズス様が受けた100回以上の鞭打ちは、マリア様の100回以上の涙に値します。
マリア様の御眼差しもイエズス様の御眼差しも、私たちの心に向けられています。マリア様とイエズス様は私たちをご覧になる時に、恥ずかしい事に、私たちの一体何を見い出される事でしょうか?御二人は、御二人をお慰めする誰かを、力付ける誰かを探しているのですけれども、それを見つける事ができません。何故かというと、私たちは自分の事と自分の不潔な事だけに気を取られているからです。
ですからマリア様の受ける霊的な鞭打ち、イエズス様の鞭打ちは、私たちの霊魂の回心の為に許されています。
ですからマリア様は手を、両手を広く広げておられます。マリア様は私たちにこう語りかけます、「さぁ、我が子イエズス・キリストの御体がこれほど鞭打たれて、傷付けられているのをご覧になりますか。お前たちの為に私の御心も、これほど傷付いているのをご覧になれますか。おぉ我が子たちよ、御子イエズス・キリストの御体がこれほど無残に打ち砕かれて、私の御心もこんなに傷付いているのに、あなたは何をしますか。私たちから逃げ去らないで下さい。私の足元にいらっしゃい。あなたたちをイエズスの元に導いてあげましょう。もしも痛悔するならば、イエズスと私とで、あなたの罪の償いを全て致しましょう。」
『苦しみの玄義 第3玄義:この一連を捧げて、主が茨の冠を被せられ給いたるを黙想し、聖母の御取次ぎによりて、侮辱を恐れざる恵みを乞い願わん。』
ファチマでは、マリア様は私たちにご自分の汚れなき御心をお見せになります。
でもマリア様がお見せになって下さった御心は、今までの絵に描かれた御心とは少し違っています。よくある絵によれば、マリア様の汚れなき御心にはバラの花の王冠が被せられています。
しかしファチマでは、マリア様の御心は茨の冠で被せられていました。マリア様の御心はその茨がズブリと、何のそれを遮る物もなく、深く刺し貫かされていました。つまりマリア様の汚れなき御心は、いつも絶え間なく、茨で貫かさせられつつあるという事です。イエズス様の聖心も、御自分の聖心を茨の冠で貫かされたものとして御見せになりました。
ですからイエズス様の御受難と、マリア様の御苦しみとは全く2つで1つで、全く同じ苦しみを受けたのです。
普通目から涙が出ます。しかし象徴的に神秘的に、マリア様の御涙はファチマでは御心から流されました。秋田でマリア様は、霊魂を救うのがどれほど大変だったのかという事を、どれほどマリア様にとって多くの値を払わなければならなかったのかという事を教えています。何故かというと、1回、それで1回きりの苦しみで終わったのではなく、世の終わりまでそれがずっと苦しみが続いているからです。たとえイエズス様の御頭に茨を刺し貫かさなくても、マリア様の御心にはいつも茨が刺さっています。
イエズス様の聖心はかつてこう言われました、「特に御心を苦しませている茨は、私たちの無関心と、そして冒瀆である」と。
ではマリア様に私たちはお尋ね致しましょう、「おぉマリア様、一体マリア様の一番悲しめる、苦しめている茨とは一体何ですか?一体何が最も悲しい涙を流させますか?」
あぁ、その答えは恐ろしいものです。マリア様は、「天主を知らない人たちが犯した罪だ」とは仰いません。マリア様が言う最も辛い涙の原因は、「私たち自身の無関心と、私たち自身の怠慢。」
マリア様は私たちを愛する子供として選んで下さいました。この世の他の人々に比べる事のできないほどの多くのたくさんのお恵みを私たちに与えました。マリア様は私たちに真理を教えてくれました。マリア様は母としての心を大きく開いて、私たちに全てを下さいました。
そのような母親に私たちは何をしたでしょうか?私たちは自分自身の事を称賛していました。そしてマリア様の事を祈ったとしても、心はマリア様から遠く離れていました。お祈りをした直後、私たちの生活はあたかもマリア様が存在していなかったかのように立ち振る舞っていました。無関心。誘惑に襲われると、あっという間にマリア様から離れてしまいます。
私たちはこの事をはっきりと確信しなければなりません。マリア様を最も悲しませているその涙の原因は、「私たちの罪」である。
マリア様は私たちを拒否しません。マリア様はこんな事は言いません、つまり、「私はあなたにこれほどまでしたにもかかわらず、あなたはこんなに悪い態度を取るのですね」とは言いません。マリア様は何も仰らずに、ただ涙を流されるだけです。
「御母よ、御身の涙が私の心を動かすようにして下さい。私の心を変えて、回心させて下さい。」
『苦しみの玄義 第4玄義:この一連を捧げて、 主が十字架を担い給いたるを黙想し、聖母の御取次ぎによりて、苦難を甘んじ受くる恵みを乞い願わん。』
ファチマにおいても、ここ秋田においても、マリア様は「悲しみの御母」として現れました。何故かというと、マリア様は御子と共におられるからです。御子イエズスの十字架の苦しみは、その神秘体の御受難、苦しみにおいて続けられています。
イエズス様の神秘体の御苦難は受難は、聖なる教会があたかも破壊されてしまうかのような苦しみの事です。
聖金曜日に、イエズス様は十字架の上で死去されました。その時に全ては終わってしまったかのように思われました。たった1人だけ信仰を守り続けた人がいました。もしも他の人々が信仰を保ち続ける事ができたとしたら、このマリア様のおかげでした。
教会の十字架の道行きにおいても同じです。近代主義のそういう拷問を受けて教会は苦しんでいますが、それを見て、マリア様がいなかったら私たちは、それを教会を打ち捨ててしまっていた事でしょう。もしもマリア様の御助けがなかったら、私たちは近代主義と一緒になって、教会の破壊に手を貸していた事に違いありません。そしてもしもマリア様の御助けがなかったら、教会の破壊の為に招かれている、朝から晩まで罪へと招かれている私たちは、どうやってこれに抵抗する事ができたでしょうか?
苦しむ教会を、マリア様は決して離れて打ち捨ててしまった事はありません。ですからマリア様のおかげで、私たちも堅忍する事ができます。従って、私たちはますますマリア様に忠実でなければなりません。何故なら、マリア様に私たちは全ての恵みを受けたからです。私たちは終わりまで耐え忍ぶ恵みを求めなければなりません。何故なら聖金曜日は、教会にとっての聖金曜日はまだ終わっていないからです。
もしもマリア様がいらっしゃらなかったら、私たちに一体何が起こったでしょうか?
そこでまず、イエズス様の十字架のもとにいつも留まり、マリア様のマントにいつもしっかりと付いている御恵みを乞い求めましょう。もしも誘惑、或いは試練、苦しみが私たちに襲いかかるなら、すぐにマリア様に子供のように走り寄り、助けを求めなければなりません。
「おぉマリア様、御身こそ私たちの最後の希望、最後の拠り所です。マリア様、決して御身から離れるのを許さないで下さい。」
『苦しみの玄義 第5玄義:この一連を捧げて、 主が十字架に釘付けにせられて死し給いたるを黙想し、聖母の御取次ぎによりて、救霊の恵みを乞い願わん。』
マリア様をご覧下さい。マリア様は十字架の足下に佇んでおられます。天使も、そして聖人たちも、マリア様がどれほどお苦しみになっているか、という事を完全に理解し尽くす事はできませんでした。
マリア様はこの瞬間に、新しい召命を受けました。召し出しを受けました。それはイエズス様の方に行くという召し出しです。イエズス様から召し出しを受けました。その受けた召し出しというのは、「私たちの母となる」という召し出しです。
マリア様の汚れなき御心に於いて、イエズス様と共に勝ち取った全ての功徳によって、私たちの母となりました。十字架にかけられたイエズス様が母の元に与えられた時、これは十字架の道行きの第13留ですけれども、イエズス様をマリア様は引き取ります。そして受け取ったイエズス様を、全て御父に、私たちの救いの為にお捧げになります。
マリア様はそうやってお捧げした後に墓に葬り、その後に十字架の下にまた戻り、十字架の下に立ってご覧になり、そして私たちの方に返り向きます。
それが秋田のマリア様です。マリア様の後ろには十字架が立っています。マリア様はイエズス様から全てを受けました。そしてイエズス様と共に、多くの恐ろしい苦しみを苦しまれました。
イエズス様から全ての功徳と御恵みと聖寵を受けた後に、私たちの方にくるりと向いておられます。そしてマリア様は、イエズス様が仰った十字架の言葉を、私たちにも仰います、
「子よ、ご覧なさい。私はあなたたちの母です。あなたたちは私の子供たちです。」
「我が子はイエズスは、普通ならばできない事を、する事ができない事を私に依頼しました。私は、我が子イエズスを死に打ちやったあなたたちを、我が子のように我が子として愛さなければなりません。さぁ、いらっしゃい。私の涙と悲しみの実りを受けなさい。いらっしゃい。『自分はあまりにも多くの罪を犯した醜い罪人だ』などと言わないで下さい。絶望する理由はありません。あなたたちはいつも絶える事なく、私の胸に茨を突き刺していました。しかしあなたたちを拒否しません。私はいつもあなたたちの事で涙を流さなければなりません。私の涙が流されれば流されるほど、あなたたちの回心を更に求めます。あなたたちが御子イエズスを十字架に釘付けにすればするほど、私は更にもっとあなたたちの為に許しを乞い求めます。」
「さぁ、いらっしゃい。私の憐れみを受けなさい。私から、お前たちが私の本当の子供であって、私があなたの本当の母であるという事を学びなさい。」
「あなたたちの心を変えるのを私に許して下さい。あなたたちに光を与えるのを許して下さい。私だけが、あなたたちを助ける事ができます。私だけが、御子イエズスをますます愛する事ができるようにする事ができます。私だけが、罪を忌み憎ませる事ができます。」
「あなたたちの悲しみの母であらしめて下さい。」
愛する兄弟姉妹の皆様、
2017年5月3日 秋田巡礼にて シュテーリン神父様の提案するロザリオの黙想をご紹介いたします。
苦しみの玄義黙想(2017年5月3日 秋田巡礼にて シュテーリン神父様)
同時通訳:小野田圭志神父
『苦しみの玄義 第1玄義:この一連を捧げて、主がゲッセマニの園にて死するばかり憂い給いたるを黙想し、聖母の御取次ぎによりて、罪を痛悔する恵みを乞い願わん。』
「私の霊魂は、死なんばかり憂い悲しんでいる。起きて目覚めて、私と共に祈れ。」
ファチマのフランシスコは、天主が多くの罪によって、罪が犯されているのを見て非常に悲しむのを見ました。
ファチマではご出現の度に、マリア様は非常に悲しい面持ちでお現れになりました。何故かというと、マリア様の子供であるべき人たちが、マリア様の事を全く無視し、或いは忘れ去って、無関心で生活しているからです。
ここ秋田でも、マリア様は悲しみの涙を流されておられます。ちょうど十字架の上でイエズス様が御血を流されたように、マリア様の涙は私たちに対する愛を表しています。マリア様が涙を流されるのは、愛するそのしるしであると同時に、私たちによって軽蔑されているから涙を流します。私たちが罪を犯す度に、私たちはマリア様を侮辱し、そして涙を流させます。
イエズス様のゲッセマニの園での御苦難と、マリア様の御苦難とは似ています。マリア様の苦しみの時は今です。マリア様は私たちを、ご自分の子供たちである私たちを救おうと一生懸命に望んでいます。しかしマリア様の心を悲しませているのは、マリア様の愛の実りを私たちが無視しているからです。
御血を流されるイエズス様と共に、私たちは苦しむ事に致しましょう。そして涙を流されるマリア様と共に、私たちも苦しみを共に致しましょう。私たちの罪、マリア様を悲しませている私たちの全ての罪に対して、悔俊の恵みを求めましょう。
『苦しみの玄義 第2玄義:この一連を捧げて、 主が鞭打たれ給いたるを黙想し、聖母の御取次ぎによりて、罪を償う恵みを乞い願わん。』
私たちの主イエズス・キリストは、罪の為にその贖いの値を払います。マリア様の御体はイエズス様のように鞭打たれる事はありませんでした。しかしイエズス様が御肉体で苦しまれた全ての事を、マリア様はその汚れなき御心で感じ取っていました。
イエズス様が受けた1つ1つの、1回1回の鞭打たれは、マリア様にとっては2倍の2回の鞭打ちとなって感じられました。何故かというと、イエズス様を侮辱するという事は、それと同時にマリア様をも侮辱する事であるからです。イエズス様が苦しまれるのを見る母の心は、2倍の苦しみを受けるからです。
このマリア様のお苦しみの表現は「涙」です。イエズス様が受けた100回以上の鞭打ちは、マリア様の100回以上の涙に値します。
マリア様の御眼差しもイエズス様の御眼差しも、私たちの心に向けられています。マリア様とイエズス様は私たちをご覧になる時に、恥ずかしい事に、私たちの一体何を見い出される事でしょうか?御二人は、御二人をお慰めする誰かを、力付ける誰かを探しているのですけれども、それを見つける事ができません。何故かというと、私たちは自分の事と自分の不潔な事だけに気を取られているからです。
ですからマリア様の受ける霊的な鞭打ち、イエズス様の鞭打ちは、私たちの霊魂の回心の為に許されています。
ですからマリア様は手を、両手を広く広げておられます。マリア様は私たちにこう語りかけます、「さぁ、我が子イエズス・キリストの御体がこれほど鞭打たれて、傷付けられているのをご覧になりますか。お前たちの為に私の御心も、これほど傷付いているのをご覧になれますか。おぉ我が子たちよ、御子イエズス・キリストの御体がこれほど無残に打ち砕かれて、私の御心もこんなに傷付いているのに、あなたは何をしますか。私たちから逃げ去らないで下さい。私の足元にいらっしゃい。あなたたちをイエズスの元に導いてあげましょう。もしも痛悔するならば、イエズスと私とで、あなたの罪の償いを全て致しましょう。」
『苦しみの玄義 第3玄義:この一連を捧げて、主が茨の冠を被せられ給いたるを黙想し、聖母の御取次ぎによりて、侮辱を恐れざる恵みを乞い願わん。』
ファチマでは、マリア様は私たちにご自分の汚れなき御心をお見せになります。
でもマリア様がお見せになって下さった御心は、今までの絵に描かれた御心とは少し違っています。よくある絵によれば、マリア様の汚れなき御心にはバラの花の王冠が被せられています。
しかしファチマでは、マリア様の御心は茨の冠で被せられていました。マリア様の御心はその茨がズブリと、何のそれを遮る物もなく、深く刺し貫かされていました。つまりマリア様の汚れなき御心は、いつも絶え間なく、茨で貫かさせられつつあるという事です。イエズス様の聖心も、御自分の聖心を茨の冠で貫かされたものとして御見せになりました。
ですからイエズス様の御受難と、マリア様の御苦しみとは全く2つで1つで、全く同じ苦しみを受けたのです。
普通目から涙が出ます。しかし象徴的に神秘的に、マリア様の御涙はファチマでは御心から流されました。秋田でマリア様は、霊魂を救うのがどれほど大変だったのかという事を、どれほどマリア様にとって多くの値を払わなければならなかったのかという事を教えています。何故かというと、1回、それで1回きりの苦しみで終わったのではなく、世の終わりまでそれがずっと苦しみが続いているからです。たとえイエズス様の御頭に茨を刺し貫かさなくても、マリア様の御心にはいつも茨が刺さっています。
イエズス様の聖心はかつてこう言われました、「特に御心を苦しませている茨は、私たちの無関心と、そして冒瀆である」と。
ではマリア様に私たちはお尋ね致しましょう、「おぉマリア様、一体マリア様の一番悲しめる、苦しめている茨とは一体何ですか?一体何が最も悲しい涙を流させますか?」
あぁ、その答えは恐ろしいものです。マリア様は、「天主を知らない人たちが犯した罪だ」とは仰いません。マリア様が言う最も辛い涙の原因は、「私たち自身の無関心と、私たち自身の怠慢。」
マリア様は私たちを愛する子供として選んで下さいました。この世の他の人々に比べる事のできないほどの多くのたくさんのお恵みを私たちに与えました。マリア様は私たちに真理を教えてくれました。マリア様は母としての心を大きく開いて、私たちに全てを下さいました。
そのような母親に私たちは何をしたでしょうか?私たちは自分自身の事を称賛していました。そしてマリア様の事を祈ったとしても、心はマリア様から遠く離れていました。お祈りをした直後、私たちの生活はあたかもマリア様が存在していなかったかのように立ち振る舞っていました。無関心。誘惑に襲われると、あっという間にマリア様から離れてしまいます。
私たちはこの事をはっきりと確信しなければなりません。マリア様を最も悲しませているその涙の原因は、「私たちの罪」である。
マリア様は私たちを拒否しません。マリア様はこんな事は言いません、つまり、「私はあなたにこれほどまでしたにもかかわらず、あなたはこんなに悪い態度を取るのですね」とは言いません。マリア様は何も仰らずに、ただ涙を流されるだけです。
「御母よ、御身の涙が私の心を動かすようにして下さい。私の心を変えて、回心させて下さい。」
『苦しみの玄義 第4玄義:この一連を捧げて、 主が十字架を担い給いたるを黙想し、聖母の御取次ぎによりて、苦難を甘んじ受くる恵みを乞い願わん。』
ファチマにおいても、ここ秋田においても、マリア様は「悲しみの御母」として現れました。何故かというと、マリア様は御子と共におられるからです。御子イエズスの十字架の苦しみは、その神秘体の御受難、苦しみにおいて続けられています。
イエズス様の神秘体の御苦難は受難は、聖なる教会があたかも破壊されてしまうかのような苦しみの事です。
聖金曜日に、イエズス様は十字架の上で死去されました。その時に全ては終わってしまったかのように思われました。たった1人だけ信仰を守り続けた人がいました。もしも他の人々が信仰を保ち続ける事ができたとしたら、このマリア様のおかげでした。
教会の十字架の道行きにおいても同じです。近代主義のそういう拷問を受けて教会は苦しんでいますが、それを見て、マリア様がいなかったら私たちは、それを教会を打ち捨ててしまっていた事でしょう。もしもマリア様の御助けがなかったら、私たちは近代主義と一緒になって、教会の破壊に手を貸していた事に違いありません。そしてもしもマリア様の御助けがなかったら、教会の破壊の為に招かれている、朝から晩まで罪へと招かれている私たちは、どうやってこれに抵抗する事ができたでしょうか?
苦しむ教会を、マリア様は決して離れて打ち捨ててしまった事はありません。ですからマリア様のおかげで、私たちも堅忍する事ができます。従って、私たちはますますマリア様に忠実でなければなりません。何故なら、マリア様に私たちは全ての恵みを受けたからです。私たちは終わりまで耐え忍ぶ恵みを求めなければなりません。何故なら聖金曜日は、教会にとっての聖金曜日はまだ終わっていないからです。
もしもマリア様がいらっしゃらなかったら、私たちに一体何が起こったでしょうか?
そこでまず、イエズス様の十字架のもとにいつも留まり、マリア様のマントにいつもしっかりと付いている御恵みを乞い求めましょう。もしも誘惑、或いは試練、苦しみが私たちに襲いかかるなら、すぐにマリア様に子供のように走り寄り、助けを求めなければなりません。
「おぉマリア様、御身こそ私たちの最後の希望、最後の拠り所です。マリア様、決して御身から離れるのを許さないで下さい。」
『苦しみの玄義 第5玄義:この一連を捧げて、 主が十字架に釘付けにせられて死し給いたるを黙想し、聖母の御取次ぎによりて、救霊の恵みを乞い願わん。』
マリア様をご覧下さい。マリア様は十字架の足下に佇んでおられます。天使も、そして聖人たちも、マリア様がどれほどお苦しみになっているか、という事を完全に理解し尽くす事はできませんでした。
マリア様はこの瞬間に、新しい召命を受けました。召し出しを受けました。それはイエズス様の方に行くという召し出しです。イエズス様から召し出しを受けました。その受けた召し出しというのは、「私たちの母となる」という召し出しです。
マリア様の汚れなき御心に於いて、イエズス様と共に勝ち取った全ての功徳によって、私たちの母となりました。十字架にかけられたイエズス様が母の元に与えられた時、これは十字架の道行きの第13留ですけれども、イエズス様をマリア様は引き取ります。そして受け取ったイエズス様を、全て御父に、私たちの救いの為にお捧げになります。
マリア様はそうやってお捧げした後に墓に葬り、その後に十字架の下にまた戻り、十字架の下に立ってご覧になり、そして私たちの方に返り向きます。
それが秋田のマリア様です。マリア様の後ろには十字架が立っています。マリア様はイエズス様から全てを受けました。そしてイエズス様と共に、多くの恐ろしい苦しみを苦しまれました。
イエズス様から全ての功徳と御恵みと聖寵を受けた後に、私たちの方にくるりと向いておられます。そしてマリア様は、イエズス様が仰った十字架の言葉を、私たちにも仰います、
「子よ、ご覧なさい。私はあなたたちの母です。あなたたちは私の子供たちです。」
「我が子はイエズスは、普通ならばできない事を、する事ができない事を私に依頼しました。私は、我が子イエズスを死に打ちやったあなたたちを、我が子のように我が子として愛さなければなりません。さぁ、いらっしゃい。私の涙と悲しみの実りを受けなさい。いらっしゃい。『自分はあまりにも多くの罪を犯した醜い罪人だ』などと言わないで下さい。絶望する理由はありません。あなたたちはいつも絶える事なく、私の胸に茨を突き刺していました。しかしあなたたちを拒否しません。私はいつもあなたたちの事で涙を流さなければなりません。私の涙が流されれば流されるほど、あなたたちの回心を更に求めます。あなたたちが御子イエズスを十字架に釘付けにすればするほど、私は更にもっとあなたたちの為に許しを乞い求めます。」
「さぁ、いらっしゃい。私の憐れみを受けなさい。私から、お前たちが私の本当の子供であって、私があなたの本当の母であるという事を学びなさい。」
「あなたたちの心を変えるのを私に許して下さい。あなたたちに光を与えるのを許して下さい。私だけが、あなたたちを助ける事ができます。私だけが、御子イエズスをますます愛する事ができるようにする事ができます。私だけが、罪を忌み憎ませる事ができます。」
「あなたたちの悲しみの母であらしめて下さい。」