アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様のお説教 「いとも聖なる三位一体」(日本語訳)をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
2017年6月11日 大阪 聖三位一体の主日の説教
親愛なる兄弟の皆さん、
皆さんはなぜ教会に来るのですか? それは皆さんが天主を探し求め、天主を見いだしたいと思っているからです。それについて詩篇作者はこう言います。「私は主に一つのことを頼み、それを求めている、生きている限りずっと主の家に住み、主の喜びを眺めることを」(詩篇26章4節)。「あなたについて私の心は、『私の顔はあなたを探し求める』と言った。主よ、私はみ顔を探し求める」(詩篇26章8節)。一言で言いましょう。私は天主を見たいのです!
しかし、誰が天主について適切に教えることができるでしょうか? 誰が天主とは何であるかということを完全に表現することができるでしょうか? 私たち人間の言葉はあまりに小さく、限りのあるものですから、それで天主を表現することはできません。賢者はこう言います。「主をほめるなら、でき得る限り主をたたえよ。主はすべての讃美を超えておられるのだから。主をたたえるとき、すべての力を尽くし、飽きるな。これで十分ということは決してないのだから」(集会書43章33-34節[訳注:節の番号はDouay Rheims聖書による])。皆さんが聖アウグスティヌスや聖トマス・アクィナスのような最も偉大な神学者や教会博士に尋ねるとしても、彼らはこう言うでしょう。われわれは天主のことを完全に表現することはできず、天主はわれわれが言い得るあらゆることよりもはるかに偉大である、と。皆さんが天国に行って、天国の聖人たちに尋ねようとするならば、聖人たちも次のように同じ答えをするでしょう。天主は私たちを超えるお方で、私たちには天主の偉大さを完全に表現することはできません、と。皆さんが天使たち、ケルビムやセラフィムに尋ねても、天使たちも天主の完璧さを完全に表現する自分たちの言葉を見いだすことはないでしょう。皆さんが、すべての天使の上におられる童貞聖マリアにお尋ねしても、聖母は指を口に当てて、こう言われるでしょう。天主の美しさ、卓越性、完璧さを表現する適切な言葉は、私にも見つけられません、と。
そして聖母はこう言われるでしょう。でも私の子にお聞きなさい、彼は御父のみ言葉なのですから、と。実際、天主とは何かということを適切に表現できるのはお一人しかいらっしゃらず、それが天主ご自身なのです。永遠において、天主なる御父は一つのみ言葉を発しておられ、そのみ言葉において、御父は、ご自分の本性全体と完璧さをまったく全面的に表現なさったため、この天主のみ言葉は完全な天主であるのです。なぜなら、御父とは何かを完全に表現できるのは御父に劣るものではありえないからです。皆さんが何かをよく知っているとき、皆さんはそれについて話すことができます。農民なら農作業のことを話すことができますし、大工なら木工のことを話すことができ、料理人なら料理について話すことができ、お針子なら刺繍について話すことができるといった具合です。天主は最高の知性であられます。天主はすべてのことをご存じであり、すべての被造物を超えてご自分のことを完璧にご存じですから、ご自分について話すことがおできになります。天主はご自分について、一つの完璧で永遠にして全能のみ言葉において話されます。「はじめにみ言葉があった。み言葉は天主とともにあった。み言葉は天主であった。み言葉ははじめに天主とともにあり、万物はみ言葉によって創られた。創られた物のうちに、一つとしてみ言葉によらずに創られたものはない。み言葉に生命があり、生命は人の光であった」(ヨハネ1章1-4節)。
「天主を見た人は誰もいない。御父のふところにまします御独り子の天主がこれを示された」(ヨハネ1章18節)。では、御子は御父について何を言われたのでしょうか? 聖ヨハネが私たちに教えてくれます。「私たちがキリストから聞いてあなたたちに告げる便りはこうである。天主は光であって、少しの闇もない」(ヨハネ第一1章5節)。天主は光です。太陽の光のような物質的な光ではなく、霊的な光であり、これはすなわち天主は最高の知性にして最高の真理であるということですが、知ろうとする主体と知られる客体の間に二元性[二つの別のものであること]はありません。天主の本質の単純さにおいて、天主は最高の知性かつ真理なのです。ですから、天主の御子は、天主の知恵のみ言葉として、知性によって御父から発出します。
さて、聖トマスは美しいことを言います。天主のみ言葉は冷たい、知性的な言葉ではなく、その反対に天主のみ言葉は「愛を呼吸するみ言葉」である、と。み言葉は御父とは何かということを表現します。ただ「天主は愛である」(ヨハネ第一4章16節)ですから、御子ご自身が愛のみ言葉、「愛を呼吸するみ言葉」なのです! これが、御父の愛の完璧な表現なのです。そして、御父は御子を愛され、御子は御父を愛され、この愛の燃え立つ両者共通の愛のかまどから、天主の愛の炎として聖霊が発出します! 聖霊は、愛によって御父と御子から発出します(聖ピオ十世の公教要理)。天主においては知と愛とは分かちえないことに注目してください。「愛のない者は天主を知らない。天主は愛だからである」(ヨハネ第一4章8節)。
その第一の書簡の中で、聖ヨハネは、私たちに聖三位一体の命について深い洞察を与えてくれる天主についての二つの定義をします。「天主は光である」(ヨハネ第一1章5節)と「天主は愛である」(ヨハネ第一4章16節)です。天主は光、すなわち最高の知性であって、天主の御子は知性によって御父から発出します。天主は愛、すなわち最高の愛であって、聖霊は愛によって御父と御子から発出します。これが全永遠の初めから天主の命なのです。
愛には二つの側面があります。愛は与え、かつ愛は一つにします。愛は与えます。実際「天主は御独り子を与え給うほどこの世を愛された。それは、彼を信じる人々がみな滅びることなく永遠の命を受けるためである」(ヨハネ3章16節)。愛は与えます。「ご自分の御子を惜しまずに私たちすべてのために渡されたお方が、御子とともに他のすべてをくださらないはずがあろうか」(ローマ8章32節)。愛は犠牲に至るまで与えます。「友人のために命を与える以上の大きな愛はない」(ヨハネ15章13節)。そして愛は一つにします。「聖なる父よ、あなたが与え給うた人々を、あなたの御名において守り、私たちが一つであるがごとく、彼らもそうなるようにお守りください。…父よ、あなたが私の中にましまし、私があなたの中にあるように、みなが一つになりますように。彼らも私たちにおいて一つになりますように。…私は彼らの中にあり、あなたは私の中においでになります。彼らが完全に一つになりますように。あなたが私を遣わし、私を愛されるように、彼らをも愛しておいでになることを、この世に知らせるためであります」(ヨハネ17章11、21、23節)。
さて、これら二つの愛の側面、私たちはそれらを、いとも聖なる三位一体の神秘のうちに最高のレベルで見るのです。愛は与えます、それゆえに「御父は御子を愛し、その手に万物を委ねられた」(ヨハネ3章35節)。御父は御子に非常に完全にお与えになったため、御子はこう言うことがおできになります。「父のものはすべて私のものである」(ヨハネ16章15節)。御父はご自分の天主の性質をすべて御子にお与えになったため、御父と御子は完璧に等しくあられるのです! 同様に、御父と御子はご自分たちの神性を聖霊に完全に伝達なさっているのです。こうして、天主のうちで愛が与えるため、三つの天主のペルソナがあるのです。また愛が一つにするため、天主の本質は一つであるのです。唯一の天主において三つのペルソナがあるのは、愛が与え、かつ一つにするからです。
ある日の公教要理の授業で、私は子どもたちにこう質問しました。天主がこの世をお創りになる前には、天主は何をなさっていたのでしょうか? 一人の小さな子が大変素晴らしい答えをしてくれました。「天主は私たちのことを考えておられたのです!」。そうです、その通りです。しかし、天主にはお考えになるべきずっと重要なことが他にあったのではないでしょうか? あらゆる被造物にもまして、天主はご自分のことを考えておられるのであり、その一つの完璧な永遠にして全能のみ言葉においてご自分のことを言われ、このみ言葉とともに、天主は永遠の愛の霊を呼吸なさるのです! でも、その最高の天主の命のうちに、天主は、広大な宇宙の小さな片隅にある小さな惑星にいる小さな取るに足らない被造物である私たちを愛する方法を見いだされたのです。聖ヨハネは驚嘆します。「考えよ、天主の子と称されるほど、御父から計りがたい愛を受けたことを。私たちは天主の子である」(ヨハネ第一3章1節)。
そして聖ヨハネは続けます。「私たちに対する天主の愛はここに現れた。すなわち、天主はその御独り子を世に遣わされた。それは私たちを御子によって生かすためである。私たちが天主を愛したのではなく、天主が先に私たちを愛し、御子を私たちの罪のあがないのために遣わされたこと、ここに愛がある。愛する者よ、天主がこれほどに愛されたのなら、私たちもまた互いに愛さねばならない。誰も天主を見た者はいないが、私たちが互いに愛するなら、天主は私たちの中に住まわれ、その愛も私たちの中に完成される。…私たちは御父が御子を救世主として送られたことを見て、これを証明するイエズスが天主の御子であると宣言する者には、天主がその中にとどまられ、彼は天主にとどまる。私たちは天主の愛を知り、それを信じた。天主は愛である。愛を持つ者は天主にとどまり、天主は彼にとどまられる」(ヨハネ第一4章9-16節)。
私たちは、どのようにして「御子によって生かされる」のでしょうか。皆さんが知っておく必要のある一つの重要な真理があります。それは聖なる三位一体は義人の霊魂に住み給うということです。聖パウロはこう言います。「あなたたちが天主の聖所であり、天主の霊はその中に住み給うことを知らないのか」(コリント前書3章16節)。しかし、聖霊は他の二つのペルソナと分かちえません。他の二つのペルソナも義人の中に住み給うのです。私たちの主イエズス・キリストご自身がこう言われます。「私の掟を保ちそれを守る者こそ私を愛する者である。私を愛する者は父にも愛され、私もその人を愛して自分を現す。…私を愛する者は私の言葉を守る。また父もその者を愛される。そして私たちはその人のところへ行ってそこに住む」(ヨハネ14章21、23節)。「私たち」とは、すなわち御父と御子、そして両者から分かちえない聖霊です!
この地上では、私たちはこの驚くべき現実を、信仰のベールを通して捉えます。「私たちは天主の愛を知り、それを信じた」(ヨハネ第一4章16節)のですが、私たちはまだそれを見ていません。しかしながら、私たちがそれをまだ見ていないということで、それが現実であることに変わりがある訳ではありません。私たち自身において最も重要な次元は霊的な次元ですが、私たちはそれを見ることができないのです! 私たちは、自然のレベルでは心によってそれを知りますが、信仰を通して超自然のレベルでそれを理解するのです。
私たちの霊魂にいとも聖なる三位一体が住み給うことを考えれば、私たちが「希望のない」(テサロニケ前書4章13節)人々のように振る舞うことはできません。私たちはもはやこの世の生活を生きることはできず、天主の子として、地上において天国の生活を生きなければなりません。聖ペトロは美しく言います。「それによって私たちに尊い偉大な約束が与えられた。それは、欲情が世の中に生んだ腐敗からあなたたちを救い上げ、天主の本性にあずからせるためであった」(ペトロ後書1章4節)。聖ペトロはどれほど素早く結論を引き出すことでしょうか。肉による腐敗から逃れよ、であり、これは現代世界において非常に明白になっています! 聖パウロが同じことを言います。「この約束を受けているのであるから、至愛の者よ、自分の肉体と精神のすべてのけがれを清め、天主を恐れつつ成聖の業を成し遂げよ」(コリント後書7章1節)。
私たちは、私たちの霊魂に来ておられる聖三位一体という賓客に注意を払うべきです。そのためには沈黙を必要とします。沈黙によって、霊魂は自分を天主へと高く上げて、自分を取り戻し、外的なことを忘れて、私たちの霊魂の奥まったところにおられる三つの天主のペルソナに注意を向けることがしやすくなります。主がこう言われたことを思い出してください。「祈るときは自分の部屋に入り、戸を閉め、隠れてまします父に祈れ。そうすれば、隠れたことを見られる父が報いを下される」(マテオ6章6節)。幼きイエズスの聖テレジアはまだ小さな少女だったとき、ベッドのかげで沈黙のうちに隠れて黙想していたものです。
聖三位一体の教義から、一つの非常に重要な結果が出てきます。聖三位一体を拒否する人は、本当に天主を知っているのではないということです。私たちの主イエズス・キリストは、非常に明確にこう言われます。「御子を信じる者には永遠の命があり、信じようとしない者は命を知らず、その人の上には天主の怒りがとどまる」(ヨハネ3章36節)。それゆえに私たちは、ユダヤ教徒、イスラム教徒、ヒンズー教徒、仏教徒、他のあらゆる異教徒ら、いとも聖なる三位一体を信じていないすべての人々を回心させる宣教者でなければならないのです。いとも聖なる三位一体は私たちが持つことのできる最も素晴らしい宝であり、それを与えたからといって失う訳ではありません。その反対です。私たちがそれを与えれば与えるほど、私たちはそれをもっと得るのです! 私たちには、友人たち、隣人たち、仲間たちにこの信仰を伝える義務があります。「このようにあなたたちも人の前で光を輝かせよ。そうすれば、人はそのよい行いを見て天にまします父をあがめるであろう」(マテオ5章16節)。
聖三位一体のいとも美しき聖所である童貞聖マリアが、私たちが聖三位一体への信仰を守り、その信仰を生き、それを他の多くの人々に伝えるのを助けてくださいますように。そうすることで、いつか私たちが、聖三位一体を顔と顔を合わせて永遠に見るその天の国に行くことができますように。アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様のお説教 「いとも聖なる三位一体」(日本語訳)をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
2017年6月11日 大阪 聖三位一体の主日の説教
親愛なる兄弟の皆さん、
皆さんはなぜ教会に来るのですか? それは皆さんが天主を探し求め、天主を見いだしたいと思っているからです。それについて詩篇作者はこう言います。「私は主に一つのことを頼み、それを求めている、生きている限りずっと主の家に住み、主の喜びを眺めることを」(詩篇26章4節)。「あなたについて私の心は、『私の顔はあなたを探し求める』と言った。主よ、私はみ顔を探し求める」(詩篇26章8節)。一言で言いましょう。私は天主を見たいのです!
しかし、誰が天主について適切に教えることができるでしょうか? 誰が天主とは何であるかということを完全に表現することができるでしょうか? 私たち人間の言葉はあまりに小さく、限りのあるものですから、それで天主を表現することはできません。賢者はこう言います。「主をほめるなら、でき得る限り主をたたえよ。主はすべての讃美を超えておられるのだから。主をたたえるとき、すべての力を尽くし、飽きるな。これで十分ということは決してないのだから」(集会書43章33-34節[訳注:節の番号はDouay Rheims聖書による])。皆さんが聖アウグスティヌスや聖トマス・アクィナスのような最も偉大な神学者や教会博士に尋ねるとしても、彼らはこう言うでしょう。われわれは天主のことを完全に表現することはできず、天主はわれわれが言い得るあらゆることよりもはるかに偉大である、と。皆さんが天国に行って、天国の聖人たちに尋ねようとするならば、聖人たちも次のように同じ答えをするでしょう。天主は私たちを超えるお方で、私たちには天主の偉大さを完全に表現することはできません、と。皆さんが天使たち、ケルビムやセラフィムに尋ねても、天使たちも天主の完璧さを完全に表現する自分たちの言葉を見いだすことはないでしょう。皆さんが、すべての天使の上におられる童貞聖マリアにお尋ねしても、聖母は指を口に当てて、こう言われるでしょう。天主の美しさ、卓越性、完璧さを表現する適切な言葉は、私にも見つけられません、と。
そして聖母はこう言われるでしょう。でも私の子にお聞きなさい、彼は御父のみ言葉なのですから、と。実際、天主とは何かということを適切に表現できるのはお一人しかいらっしゃらず、それが天主ご自身なのです。永遠において、天主なる御父は一つのみ言葉を発しておられ、そのみ言葉において、御父は、ご自分の本性全体と完璧さをまったく全面的に表現なさったため、この天主のみ言葉は完全な天主であるのです。なぜなら、御父とは何かを完全に表現できるのは御父に劣るものではありえないからです。皆さんが何かをよく知っているとき、皆さんはそれについて話すことができます。農民なら農作業のことを話すことができますし、大工なら木工のことを話すことができ、料理人なら料理について話すことができ、お針子なら刺繍について話すことができるといった具合です。天主は最高の知性であられます。天主はすべてのことをご存じであり、すべての被造物を超えてご自分のことを完璧にご存じですから、ご自分について話すことがおできになります。天主はご自分について、一つの完璧で永遠にして全能のみ言葉において話されます。「はじめにみ言葉があった。み言葉は天主とともにあった。み言葉は天主であった。み言葉ははじめに天主とともにあり、万物はみ言葉によって創られた。創られた物のうちに、一つとしてみ言葉によらずに創られたものはない。み言葉に生命があり、生命は人の光であった」(ヨハネ1章1-4節)。
「天主を見た人は誰もいない。御父のふところにまします御独り子の天主がこれを示された」(ヨハネ1章18節)。では、御子は御父について何を言われたのでしょうか? 聖ヨハネが私たちに教えてくれます。「私たちがキリストから聞いてあなたたちに告げる便りはこうである。天主は光であって、少しの闇もない」(ヨハネ第一1章5節)。天主は光です。太陽の光のような物質的な光ではなく、霊的な光であり、これはすなわち天主は最高の知性にして最高の真理であるということですが、知ろうとする主体と知られる客体の間に二元性[二つの別のものであること]はありません。天主の本質の単純さにおいて、天主は最高の知性かつ真理なのです。ですから、天主の御子は、天主の知恵のみ言葉として、知性によって御父から発出します。
さて、聖トマスは美しいことを言います。天主のみ言葉は冷たい、知性的な言葉ではなく、その反対に天主のみ言葉は「愛を呼吸するみ言葉」である、と。み言葉は御父とは何かということを表現します。ただ「天主は愛である」(ヨハネ第一4章16節)ですから、御子ご自身が愛のみ言葉、「愛を呼吸するみ言葉」なのです! これが、御父の愛の完璧な表現なのです。そして、御父は御子を愛され、御子は御父を愛され、この愛の燃え立つ両者共通の愛のかまどから、天主の愛の炎として聖霊が発出します! 聖霊は、愛によって御父と御子から発出します(聖ピオ十世の公教要理)。天主においては知と愛とは分かちえないことに注目してください。「愛のない者は天主を知らない。天主は愛だからである」(ヨハネ第一4章8節)。
その第一の書簡の中で、聖ヨハネは、私たちに聖三位一体の命について深い洞察を与えてくれる天主についての二つの定義をします。「天主は光である」(ヨハネ第一1章5節)と「天主は愛である」(ヨハネ第一4章16節)です。天主は光、すなわち最高の知性であって、天主の御子は知性によって御父から発出します。天主は愛、すなわち最高の愛であって、聖霊は愛によって御父と御子から発出します。これが全永遠の初めから天主の命なのです。
愛には二つの側面があります。愛は与え、かつ愛は一つにします。愛は与えます。実際「天主は御独り子を与え給うほどこの世を愛された。それは、彼を信じる人々がみな滅びることなく永遠の命を受けるためである」(ヨハネ3章16節)。愛は与えます。「ご自分の御子を惜しまずに私たちすべてのために渡されたお方が、御子とともに他のすべてをくださらないはずがあろうか」(ローマ8章32節)。愛は犠牲に至るまで与えます。「友人のために命を与える以上の大きな愛はない」(ヨハネ15章13節)。そして愛は一つにします。「聖なる父よ、あなたが与え給うた人々を、あなたの御名において守り、私たちが一つであるがごとく、彼らもそうなるようにお守りください。…父よ、あなたが私の中にましまし、私があなたの中にあるように、みなが一つになりますように。彼らも私たちにおいて一つになりますように。…私は彼らの中にあり、あなたは私の中においでになります。彼らが完全に一つになりますように。あなたが私を遣わし、私を愛されるように、彼らをも愛しておいでになることを、この世に知らせるためであります」(ヨハネ17章11、21、23節)。
さて、これら二つの愛の側面、私たちはそれらを、いとも聖なる三位一体の神秘のうちに最高のレベルで見るのです。愛は与えます、それゆえに「御父は御子を愛し、その手に万物を委ねられた」(ヨハネ3章35節)。御父は御子に非常に完全にお与えになったため、御子はこう言うことがおできになります。「父のものはすべて私のものである」(ヨハネ16章15節)。御父はご自分の天主の性質をすべて御子にお与えになったため、御父と御子は完璧に等しくあられるのです! 同様に、御父と御子はご自分たちの神性を聖霊に完全に伝達なさっているのです。こうして、天主のうちで愛が与えるため、三つの天主のペルソナがあるのです。また愛が一つにするため、天主の本質は一つであるのです。唯一の天主において三つのペルソナがあるのは、愛が与え、かつ一つにするからです。
ある日の公教要理の授業で、私は子どもたちにこう質問しました。天主がこの世をお創りになる前には、天主は何をなさっていたのでしょうか? 一人の小さな子が大変素晴らしい答えをしてくれました。「天主は私たちのことを考えておられたのです!」。そうです、その通りです。しかし、天主にはお考えになるべきずっと重要なことが他にあったのではないでしょうか? あらゆる被造物にもまして、天主はご自分のことを考えておられるのであり、その一つの完璧な永遠にして全能のみ言葉においてご自分のことを言われ、このみ言葉とともに、天主は永遠の愛の霊を呼吸なさるのです! でも、その最高の天主の命のうちに、天主は、広大な宇宙の小さな片隅にある小さな惑星にいる小さな取るに足らない被造物である私たちを愛する方法を見いだされたのです。聖ヨハネは驚嘆します。「考えよ、天主の子と称されるほど、御父から計りがたい愛を受けたことを。私たちは天主の子である」(ヨハネ第一3章1節)。
そして聖ヨハネは続けます。「私たちに対する天主の愛はここに現れた。すなわち、天主はその御独り子を世に遣わされた。それは私たちを御子によって生かすためである。私たちが天主を愛したのではなく、天主が先に私たちを愛し、御子を私たちの罪のあがないのために遣わされたこと、ここに愛がある。愛する者よ、天主がこれほどに愛されたのなら、私たちもまた互いに愛さねばならない。誰も天主を見た者はいないが、私たちが互いに愛するなら、天主は私たちの中に住まわれ、その愛も私たちの中に完成される。…私たちは御父が御子を救世主として送られたことを見て、これを証明するイエズスが天主の御子であると宣言する者には、天主がその中にとどまられ、彼は天主にとどまる。私たちは天主の愛を知り、それを信じた。天主は愛である。愛を持つ者は天主にとどまり、天主は彼にとどまられる」(ヨハネ第一4章9-16節)。
私たちは、どのようにして「御子によって生かされる」のでしょうか。皆さんが知っておく必要のある一つの重要な真理があります。それは聖なる三位一体は義人の霊魂に住み給うということです。聖パウロはこう言います。「あなたたちが天主の聖所であり、天主の霊はその中に住み給うことを知らないのか」(コリント前書3章16節)。しかし、聖霊は他の二つのペルソナと分かちえません。他の二つのペルソナも義人の中に住み給うのです。私たちの主イエズス・キリストご自身がこう言われます。「私の掟を保ちそれを守る者こそ私を愛する者である。私を愛する者は父にも愛され、私もその人を愛して自分を現す。…私を愛する者は私の言葉を守る。また父もその者を愛される。そして私たちはその人のところへ行ってそこに住む」(ヨハネ14章21、23節)。「私たち」とは、すなわち御父と御子、そして両者から分かちえない聖霊です!
この地上では、私たちはこの驚くべき現実を、信仰のベールを通して捉えます。「私たちは天主の愛を知り、それを信じた」(ヨハネ第一4章16節)のですが、私たちはまだそれを見ていません。しかしながら、私たちがそれをまだ見ていないということで、それが現実であることに変わりがある訳ではありません。私たち自身において最も重要な次元は霊的な次元ですが、私たちはそれを見ることができないのです! 私たちは、自然のレベルでは心によってそれを知りますが、信仰を通して超自然のレベルでそれを理解するのです。
私たちの霊魂にいとも聖なる三位一体が住み給うことを考えれば、私たちが「希望のない」(テサロニケ前書4章13節)人々のように振る舞うことはできません。私たちはもはやこの世の生活を生きることはできず、天主の子として、地上において天国の生活を生きなければなりません。聖ペトロは美しく言います。「それによって私たちに尊い偉大な約束が与えられた。それは、欲情が世の中に生んだ腐敗からあなたたちを救い上げ、天主の本性にあずからせるためであった」(ペトロ後書1章4節)。聖ペトロはどれほど素早く結論を引き出すことでしょうか。肉による腐敗から逃れよ、であり、これは現代世界において非常に明白になっています! 聖パウロが同じことを言います。「この約束を受けているのであるから、至愛の者よ、自分の肉体と精神のすべてのけがれを清め、天主を恐れつつ成聖の業を成し遂げよ」(コリント後書7章1節)。
私たちは、私たちの霊魂に来ておられる聖三位一体という賓客に注意を払うべきです。そのためには沈黙を必要とします。沈黙によって、霊魂は自分を天主へと高く上げて、自分を取り戻し、外的なことを忘れて、私たちの霊魂の奥まったところにおられる三つの天主のペルソナに注意を向けることがしやすくなります。主がこう言われたことを思い出してください。「祈るときは自分の部屋に入り、戸を閉め、隠れてまします父に祈れ。そうすれば、隠れたことを見られる父が報いを下される」(マテオ6章6節)。幼きイエズスの聖テレジアはまだ小さな少女だったとき、ベッドのかげで沈黙のうちに隠れて黙想していたものです。
聖三位一体の教義から、一つの非常に重要な結果が出てきます。聖三位一体を拒否する人は、本当に天主を知っているのではないということです。私たちの主イエズス・キリストは、非常に明確にこう言われます。「御子を信じる者には永遠の命があり、信じようとしない者は命を知らず、その人の上には天主の怒りがとどまる」(ヨハネ3章36節)。それゆえに私たちは、ユダヤ教徒、イスラム教徒、ヒンズー教徒、仏教徒、他のあらゆる異教徒ら、いとも聖なる三位一体を信じていないすべての人々を回心させる宣教者でなければならないのです。いとも聖なる三位一体は私たちが持つことのできる最も素晴らしい宝であり、それを与えたからといって失う訳ではありません。その反対です。私たちがそれを与えれば与えるほど、私たちはそれをもっと得るのです! 私たちには、友人たち、隣人たち、仲間たちにこの信仰を伝える義務があります。「このようにあなたたちも人の前で光を輝かせよ。そうすれば、人はそのよい行いを見て天にまします父をあがめるであろう」(マテオ5章16節)。
聖三位一体のいとも美しき聖所である童貞聖マリアが、私たちが聖三位一体への信仰を守り、その信仰を生き、それを他の多くの人々に伝えるのを助けてくださいますように。そうすることで、いつか私たちが、聖三位一体を顔と顔を合わせて永遠に見るその天の国に行くことができますように。アーメン。